2012/4/7

カネミ油症 母から子へ 中内孝一さん(高知新聞)  公害・薬害・環境・医療問題

*高知新聞に中内孝一君の記事が出ました。

(ニュース)
カネミ油症 母から子へ  患者の中内孝一さん(高知市)  
度重なる病気、いじめ
… 「それでも『生』は素晴らしい」
2012.04.06 高知新聞朝刊 地域特集

 高知市北竹島町の中内孝一さん(41)は、猛毒のダイオキシンを摂取した母から生まれた。国内最大規模の食品公害事件と称された「カネミ油症」。1960年代末、健康に良いと言われたこの食油を口にした妊婦たちからは、先天的な病気を抱える赤ちゃんが相次いで生まれた。国による被害認定はなく、救済制度もない。激しいいじめ、社会参加への高い壁。そのはざまで孝一さんは生きてきた。「人生を諦めたくない」と生きてきた。(芝野祐輔)
 4月1日の夕暮れどき。孝一さんは、高知龍馬空港に近い南国市の海岸沿いに立っていた。太平洋に向かいカメラを構える。雲間に機影が見えると、シャッターを押す。また押す。狙い澄ましたような撮影だった。着陸を見届けると、「ふぅ」と短い息を吐いた。
 治療のため、幼いころから県外の病院へ通った。
 「刷り込みというんでしょうか。だから飛行機が大好きで。巨大な金属の塊が空を飛ぶ。力強さが弱っちい僕に勇気をくれたし、いつか、どこか知らない世界へ連れて行ってくれそうな気がして」
 中学2年の時、月刊誌に掲載されていた航空機写真に感化され、家のカメラで写真撮影を始めた。そしてのめり込んだ。お気に入りの航空機を撮影しようと、北海道へも沖縄へも。2006年には全国的な写真コンテストで2位になったこともある。
 「いつか、航空機の撮影で生活できるようになりたい」。それが孝一さんの夢だ。
 ただ、最近は数分の撮影姿勢がつらくなってきた。左手と左足がしびれるからだ。
 「……僕は油症が原因だと考えているんです」
  □………□
 孝一さんの母、郁子さん(71)の体にダイオキシンが入ったのは、1968年春だったという。知人から「カネミ油」をもらい、1・8リットルを3カ月で使い切った。症状はすぐに現れた。
 目が激しく痛み、頭髪がぼろぼろ抜け落ちる。顔や体は吹き出物に覆われ、手足は紫色に変色して激しく痛んだ。郁子さんは同年10月に油症患者として認定された。
 3年後の71年2月、長男の孝一さんが生まれた。先天的な口唇口蓋裂(こうしんこうがいれつ)だった。上唇から鼻孔にかけてが三つに裂け、喉の奥も裂けていたという。すぐ気管支炎にもなった。生後4カ月で口唇口蓋裂を手術し、小学校入学までに同じ手術を3度も受けた。
 「小学3年の時には右耳の奥に腫瘍が見つかりました。中学の時に3度目の耳の手術を受けましたが、脳を圧迫するほど肥大して、失敗すれば命が危ないと聞かされました」
 手術と入院の連続。内気になり、いじめにも遭った。「ちび、のろま、鼻ペちゃ…。悪口は言われ放題。一番強烈なのは『死ね』という言葉でした」。ジャングルジムから突き落とされたこともある。
 当時を振り返る口調はゆっくりだった。感情を押し殺すように語り、目はうるんでいるようにも映った。
 「なぜこんな目に遭うんだという悲しみ。怒りと恨みは…親に。なんでこんなふうに産んだんだ、と」
 その思いを母にぶつけたことはない。つらそうに体を横たえる姿。まぶたから「油」を絞り出す姿。母も苦しんでいることは、小さな子どもにも十分に分かったからだ。
 中学に進むといじめは激しさを増し、孝一さんは県立江の口養護学校へ転校。高等部卒業後は市内の専門学校で3年間、福祉や児童教育を学んだ。
 疲れやすく、肺炎になりやすい。体調管理は極めて難しい。
 「卒業後、本当は障害者施設や幼稚園で働きたかった。でもこの体では就職できなくて。県内企業の担当者からも『無理ですね』と」
 専門学校を卒業した93年春。父の弘治さん(69)は勤務先の会社を辞めて、測量機器などを販売する小さな有限会社をつくった。
 孝一さんは「働き口のない僕を雇うためだった」と思っている。社員は孝一さん一人だけだ。
 カネミ油症になった婚約中の郁子さんを守り、周囲の反対を押し切って結婚を選んだ弘治さん。結婚式の時、「人もうらやむ家庭をつくる」と宣言した父らしい決断だった。
  □………□
 2005年夏。父の会社は倒産し、孝一さんは社会に投げ出された。仕事は見つからない。自分がいかに両親に守られていたか。それを痛感した。
 08年4月からは断続的に、高知市役所で臨時職員として働く。現在は障がい福祉課で事務員として、郵便物の整理や電話応対などを担当している。
 孝一さんは今、どんなことを考えているのだろうか。
 「周囲に支えてくれる人がいる。その気持ちに応えたい。僕のように病気を抱えていると生きづらい。社会は甘えを許してくれない。それでも生きることは素晴らしい」
 カネミ油症の被害者は、事実を隠す人が少なくない。そんな中、母、郁子さんは運動の先頭に立ち、救済制度の創設や患者の未認定問題の解決を幾度も訴え、ひるむことがなかった。
 しかし―。
 郁子さんは今も頻繁に全身が激しい痛みに襲われる。夜、何かの拍子に、死にたい、と思うことがある。
 数年前、車の行き交う自宅近くの道路へふらふら歩み出ようとしたことがある。たまたまそこに孝一さんが出くわし、「おかぁ、何しゆう!」と強く腕をつかんで止めた。母を強い調子で叱った。
 「命は重いんで! ひっとつしかないがで!」
 孝一さんは油症患者の救済を目指す運動を続けていく、という。自分と同じような未認定の「2世」が、日本のあちこちにいるからだ。
 「人には生まれてきた意味がある。僕は油症患者として生まれてきた。これから何ができるのか。カメラマンの夢はしばらくお預けかもしれません」
  《ズーム》
  ◆カネミ油症
 1968年に発生した大規模な食品公害。カネミ倉庫(北九州市)が製造した「米ぬか油」にダイオキシン類のポリ塩化ジベンゾフラン(PCDF)が混入して、皮膚疾患や手足のしびれ、内臓疾患など人によってさまざま症状を引き起こした。福岡県と長崎県を中心に約1万4千人、本県では309人が被害を訴えた。
 九州大学を主とする研究班の診断に基づき、都道府県が認定した患者は1951人、うち本県は26人(昨年末現在)。認定を受けても、医療費の実費負担分をカネミ倉庫に請求できるだけで、公的な救済制度は今もない。国は研究班に研究費補助などを行うのみで、患者認定には直接関与していない。2007年、九大と福岡県の共同研究によって、認定患者の子どものへその緒から高濃度のPCDFが検出され、油を直接摂取していない胎児への影響も確認された。
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