2012/8/7

原爆の日 各紙、読み比べ   原爆・原発問題

*各紙、読み比べをしてみましょう。
 世の中にはいろいろな考え方があることが分かって、とても参考になります。

(以下、産経、毎日、東京より)
原爆の日 広島・長崎を利用するな
産経新聞 大阪特派員・鹿間孝一

「原爆」と「原発」を同一視すべきではない。

広島、長崎の慰霊の日を反原発運動に利用するな。

言いたいことはこれだけだ。あとは付け足しである。

被爆50年など節目の取材を重ねて、5度目の「8月6日」になる。いつもまだ薄暗い午前5時すぎに、広島市の中心部にある平和記念公園へ向かう。園内に幾つもある慰霊碑や供養塔に、もう手を合わせる人がいる。ここで夜明かしする人もいる。年々、車椅子のお年寄りが多くなっている。

やがて昭和20年のあの日もそうだったという青空が広がり、蝉(せみ)の鳴き声が大きくなる。8月6日には不思議と雨の記憶がない。

年は蝉しぐれをかき消すように原爆ドーム前での集会のスピーカーの音声が響いた。「野田は帰れ!」「再稼働やめろ!」…。

平和記念式典に参列した野田佳彦首相の耳にも届いたであろう。毎週金曜夜に首相官邸前から聞こえる「大きな音」だ。
集会のそばにいたのでわからないが、耳慣れておそらく表情ひとつ変えなかったのではないか。

この国では言論、集会の自由が保障されているから、あれこれ言わないが、原爆投下時刻の黙祷(もくとう)の最中にまで叫び続けるのは、犠牲者に対して無礼だとだけ言っておく。

◆余計な置き土産だ

広島に原発を持ち込んだのは菅直人前首相である。記者会見で唐突に「脱原発依存」を宣言し、昨年の平和記念式典のあいさつでは「原発に依存しない社会をめざす」と語った。
参列した歴代首相が原発に触れたのは初めてだった。

政権浮揚を狙ったのだろうが、1カ月後に退陣を余儀なくされる。「原発には詳しいんだ」と自慢していた菅氏はその後、福島第1原発事故の各調査委員会で、表現の差こそあれ事態を混乱、悪化させた張本人と名指しされている。

それにしても、余計な置き土産をしてくれたものだ。今やヒロシマ、ナガサキとフクシマは片仮名で並記され、反(脱)原発運動のシンボルになっている。この流れは加速しつつある。

だから、当たり前のことだが、あえて強調せずにはいられない。核兵器と平和利用の原発はまったく異なると。

◆原爆と原発は違う

連鎖的な核分裂反応の発見は当初、新しい重要なエネルギー源になるかもしれないという期待を持って迎えられた。
しかし、科学者たちは、人類が手にしたことのない強力な爆弾になることに気づく。時はナチス・ドイツが台頭してきた時期で、ナチスに先を越されては、と危機感を抱いたアインシュタインは、ルーズベルト米大統領にマンハッタン計画のきっかけになる手紙を送る。

米国は「戦争の早期終結のため」「本土決戦による日本人の犠牲を防いだ」と言い繕うが、広島、長崎への原爆投下は新型兵器の実験的意味しかなく、許されざる行為である。アインシュタインは晩年、ルーズベルトへの書簡を悔いたという。

だが、いずれ、どこかの国が核兵器を開発したに違いない。超大国の核開発競争が世界を破滅の縁に立たせた冷戦の時代を経て、今も北朝鮮やイランが核保有国となるべく躍起になっている。広島、長崎の惨禍が教訓にならなかったのは悲しい。

一方で、核分裂のエネルギーを制御しながら利用する原子力発電が開発されたのは、ある意味、健全な科学の進歩といえる。

原発が危険を内在していることは否定しない。事故が起きれば甚大にして長期的な被害、影響をもたらすことは、福島を見ればわかる。

◆核兵器廃絶こそ願い

それでも原発を放棄すべきではないと考える。安定的なエネルギー源として今、原発に代わるものはない。

だから野田首相に求めるのは、「再稼働やめろ」や「原発いらない」ではなく、「安全な原発を作れ」である。
現状でリスクは大きくとも、人間の英知でいずれ克服できると信じる。

が、こうした声は、反(脱)原発集会やデモの叫びに、少数派に追いやられている。将来のエネルギー構成に関する意見聴取会も「原発0%」が多数を占めている。

電力会社の社員という理由で、原発を支持する意見は排除された。そして、恣意(しい)的にヒロシマ・ナガサキ・フクシマが利用される。

広島市の松井一実市長は平和宣言に3人の被爆体験を盛り込んで「私たちは、そのつらさ、悲しさ、苦しみとともに、その切なる願いを世界に伝えたいのです」と述べた。被爆の地が訴えるのは核兵器廃絶に尽きる。

しかし、67年がたって被爆体験を伝える人は少なくなった。遺族も高齢化している。「慰霊の日」の変質を危惧する。

だからこそもう一度、声を大にする。原爆と原発を一緒にするな。


記者の目:「黒い雨」被害者切り捨て=加藤小夜
(毎日新聞 2012年08月07日)

 ◇国は核被害の実相を見よ

 米軍による広島への原爆投下から67年の今夏、「被爆者」と認められるはずの「黒い雨」被害者は切り捨てられた。厚生労働省の有識者検討会は7月、あまたある証言を無視して黒い雨の援護対象区域拡大を否定し、政府もそれを追認した。爆心地から幾重も山を越えた集落を訪ね歩き、原爆の影を背負って生きる人々の話に耳を傾けながら、私は何度、広島の方角の空を見上げただろう。核被害の実相に向き合わない政府に「被爆国」を名乗ってほしくない。

 「うそを言うとるんじゃない。事実はあるんじゃから」。1945年8月6日、広島の爆心地から約15キロ西の祖父母宅近くで、女性(76)は黒い雨を浴びた。神社で遊んでいると「痛いぐらい」の大雨が降り、その後、毎朝のように目やにが止まらなくなり、爪はぼろぼろに。30代半ばで甲状腺の病気を患い入院、白内障の手術も3回受けた。

 山あいの集落で聞いた住民たちの情景説明は生々しかった。爆風で飛んできた商店の伝票。シャツや帽子についた雨の黒いシミ。雨にぬれた乳飲み子の頭を拭いて着替えさせたこと。女性の祖父は、しば刈りの作業中に雨に遭った。鎌が滑って切れた手から血が流れた。祖父は「普通の雨じゃない。油のようだった」と話したという。証言は細部まで具体的で偽りは感じなかった。取材した後、女性から「記事にしてほしくない」と切り出された。30年近く前、幼くして白血病で命を落とした孫のことが頭に引っかかっているからだった。孫の入院先から「原爆に遭うてない?」と長女が電話をしてきた時「遭うてないよ」と答えた。孫の病気は自分が黒い雨に遭ったせいなのか。親族からそう思われるのではと考えると気持ちが今も揺らぐ。匿名を条件に話を聞きながら原爆が心身に刻んだ傷の深さを思った。

◇ 科学的な立証を求める理不尽さ

 国の被爆者援護の歴史は被爆から12年後の原爆医療法施行に始まり、地域の拡大や手当の創設・拡充が順次実施された。黒い雨を巡っては1976年、広島の爆心地付近から北西に長さ19キロ、幅11キロの楕円(だえん)状の地域が援護対象区域に指定された。区域内にいた人は無料で健康診断が受けられ、特定の病気が見つかれば被爆者健康手帳が交付される。しかし、厚相(当時)の私的諮問機関「原爆被爆者対策基本問題懇談会」は80年の意見書で、新たな被爆地域の指定には「科学的・合理的な根拠がある場合に限る」とした。この後、地域の拡大は一度もない。時間の経過に加え、そもそも被害者側に科学的立証を求めるのは無理がある。

 広島市などは08年、被爆者の高齢化を受けて「最後の機会」と位置づけた大規模なアンケートを実施した。その結果から援護対象区域の6倍の広さで黒い雨が降ったと主張し、10年、区域拡大を政府に要望した。これを受け同年末から厚労省の有識者検討会が始まった。全9回の会合をほぼ毎回取材したが、審議は「結論ありき」としか思えなかった。ある委員は、放射線の影響を認めることは「疫学的な誤診」と発言し、「学術的に厳密な判断を求めないと、とんでもない病気をつくってしまう」とまで言った。私には認めない理屈をあえて付けようとしているとしか見えなかった。「現地を訪れて体験者の声を聞いてほしい」という地元の訴えも黙殺された。

◇背を向けたまま被爆国名乗るな

 援護対象区域拡大を訴えてきた「広島県『黒い雨』原爆被害者の会連絡協議会」は今夏、54人分の証言集「黒い雨 内部被曝(ひばく)の告発」を刊行した。がんなど病気の苦しみとともに「死ぬのを待ちよるのか」など国への憤りがつづられている。証言を寄せた森園カズ子さん(74)=広島市安佐北区=は甲状腺の病気を長年患い、だるさとも闘う。「私らみたいなのは置き去りですよね……」。私は返す言葉がなかった。

 被爆者健康手帳の所持者は今年3月末現在、全国で21万830人いるが、手帳を取れない「被爆者」の存在を忘れてはならない。援護区域の外側で黒い雨に遭った人だけではない。焦土で家族や知人を捜したり、郊外で負傷者の救護活動に携わった人も、放射線を浴びた。その事実を証明できないなどの理由で、申請を却下された人は多い。

 隠された「被爆者」の存在に触れると今も残る原爆被害が身に迫り、被害を救おうとしない「被爆国」に悲しさを感じる。福島第1原発事故後も、国は核被害の原点である被爆地の現実に背を向けたままだ。「切り捨て」の歴史に終止符を打つためにも、私は真実を語る「被爆者」の側から告発を続けたい。(広島支局)


原爆忌に考える ヒロシマに耳澄まし

 原爆忌。未来への希望をうたう平和宣言に、ことしも「脱原発」の言葉はないようです。もっとヒロシマを語ってほしい。私たちは耳を澄ましています。

 3・11。言葉は瞬時に凍り付き、閉ざされた記憶が一気に溶けだしました。過去、現在、そして未来が重なり合ったとき、そこに何が見えたのでしょう。

 広島市安佐南区、広島共立病院名誉院長の丸屋博さん(87)は、御庄博実(みしょうひろみ)の筆名を持つ詩人です。岡山医大を結核で休学中に詩作を始め、「原爆詩集」で知られる峠三吉とサークル誌を編んだこともありました。

◆黒い津波はすさまじく

 六十七年前のあの日、丸屋さんは、旧制広島高校から進んだばかりの医大を空襲で焼かれ、ふるさとの山口県岩国市に帰省中でした。陸軍燃料廠(しょう)で働く妹に、広島が壊滅したと聞かされ、旧友や幼なじみの安否を気遣い、丸屋さんが旧国鉄山陽線に飛び乗ったのは、原爆投下の二日後でした。

 広島までは電車で入れず、一つ手前の己斐駅(今の西広島駅)で降ろされました。建物はすっかりなぎ払われて、遠く瀬戸内海に浮かぶ似島が見渡せました。

 熱で曲がった路面電車の線路を伝い、異臭の中を一日歩き回っても、友人、知人を見つけることはかないませんでした。

 夕暮れて、駅へ戻ると、足もとからか細いうめき声が聞こえてきます。あおむけに横たわる半裸の若い男性の胸のあたりに、小さな穴が開いていました。血の混じったあぶくと一緒にハエが一匹、そこを出入りしているのが見えました。その時に目にしたすべてのものが、廃虚と化した東北のまちに重なりました。残留放射能の見えない渦をかき分けて、親しい人を捜し歩いた長い一日の記憶が、です。

 黒い潮の土煙のすさまじさに/広島の記憶が重なった/僕はテレビの画面で凍った(黒い津波)

 愛用のパソコンに向かって言葉を絞り出すまでに、数日間の葛藤がありました。

 内科医の丸屋さんは、被爆者の健康を見守り続けてきた人です。放射線の遺伝的影響に関する論文も書きました。そして、自らも被爆者として、次々に発症するがんと闘い続けています。

 「原爆も原発も同じこと。人間には制御できないもの。子どもたちの未来を奪うもの」だと痛感しています。

◆歩かされた長い道

 丸屋さんはことし六月、石川逸子さんと共著の詩文集「哀悼と怒り」(西田書店)を上梓(じょうし)しました。

 何に対する怒りでしょうか。丸屋さんにも分かりません。

 無慈悲な自然、暴走する科学、事故を起こした電力会社や機能不全の官僚機構、無責任な政府だけではないでしょう。目先の豊かさを追い求め、哀(かな)しい過ちを繰り返す、人間そのものへの怒りなのかもしれません。

 この道も何年か歩いてきた/いや 歩かされてきた 道/行く先には果てしなく広がる/プルサーマルという沃野(よくや)があるという/夢のエネルギー政策という呪文(青い光、詩集「原郷」より)

 原爆忌の式典で広島市長が読み上げる「平和宣言」は、昨年も格調高い名文でした。ところが、原発事故にはもう一歩、踏み込むことができません。

 つい先月まで、ことしは「脱原発」に触れると言いながら、やっぱり「安全なエネルギー政策の方針を一刻も早く確立するよう政府に求める」程度にとどめることになりそうです。平和宣言だからでしょうか。でも平和とは、戦争がないということだけではないはずです。

 広島平和記念資料館には、原発や原発事故に関する展示がありません。ボランティアガイドを務める橘光生さん(71)は「ここに答えはありません」と考えます。

 橘さんは「唯一の被爆国日本に五十基もの原発があることは、海外の目には奇異に映るでしょう」と来館者に語っています。

 しかし結局、悲しみも怒りも感動も、人それぞれのものだから。誰かに教えられるものではなく、見て、聞いて、感じて、考えて、自分で見いだすものだから。

◆核の怖さを知るまちに

 ならばなおさら、核の怖さを知り尽くしたヒロシマの言葉と声を、もっとたくさん聞かせてほしい。ヒロシマの怒りやナガサキの祈りにもっと近づきたい。フクシマにも届けたい。

 8・6。平和宣言に耳を澄まして、今はまだ言葉にならない何かを感じ、何かを始められるよう、ヒロシマに心を傾けます。
(東京新聞 2012年8月6日)


(以下は参考まで、読売の昨年の社説)
エネルギー政策 展望なき「脱原発」と決別を

◆再稼働で電力不足の解消急げ◆

 電力をはじめとしたエネルギーの安定供給は、豊かな国民生活の維持に不可欠である。
 ところが、福島第一原子力発電所の事故に伴い定期検査で停止した原発の運転再開にメドが立たず、電力不足が長期化している。
 野田首相は、電力を「経済の血液」と位置づけ、安全が確認された原発を再稼働する方針を示している。唐突に「脱原発依存」を掲げた菅前首相とは一線を画す、現実的な対応は評価できる。
 首相は将来も原発を活用し続けるかどうか、考えを明らかにしていない。この際、前首相の安易な「脱原発」に決別すべきだ。

 ◆節電だけでは足りない◆

 東京電力と東北電力の管内で実施してきた15%の電力制限は、今週中にすべて解除される。
 企業や家庭の節電努力で夏の電力危機をひとまず乗り切ったが、先行きは綱渡りだ。
 全国54基の原発で動いているのは11基だ。再稼働できないと運転中の原発は年末には6基に減る。来春にはゼロになり、震災前の全発電量の3割が失われる。
 そうなれば、電力不足の割合は来年夏に全国平均で9%、原発依存の高い関西電力管内では19%にも達する。今年より厳しい電力制限の実施が不可避だろう。
 原発がなくなっても、節電さえすれば生活や産業に大きな影響はない、と考えるのは間違いだ。
 不足分を火力発電で補うために必要な燃料費は3兆円を超え、料金に転嫁すると家庭で約2割、産業では4割近く値上がりするとの試算もある。震災と超円高に苦しむ産業界には大打撃となろう。
 菅政権が再稼働の条件に導入したストレステスト(耐性検査)を着実に実施し、原発の運転再開を実現することが欠かせない。
 電力各社が行ったテスト結果を評価する原子力安全・保安院と、それを確認する原子力安全委員会の責任は重い。
 運転再開への最大の難関は、地元自治体の理解を得ることだ。原発の安全について国が責任を持ち、首相自ら説得にあたるなど、誠意ある対応が求められる。
 野田首相は就任記者会見で、原発新設を「現実的に困難」とし、寿命がきた原子炉は廃炉にすると述べた。これについて鉢呂経済産業相は、報道各社のインタビューで、将来は基本的に「原発ゼロ」になるとの見通しを示した。

 ◆「新設断念」は早過ぎる◆

 代替電源を確保する展望があるわけではないのに、原発新設の可能性を全否定するかのような見解を示すのは早すぎる。
 首相は脱原発を示唆する一方、新興国などに原発の輸出を続け、原子力技術を蓄積する必要性を強調している。だが、原発の建設をやめた国から、原発を輸入する国があるとは思えない。
 政府は現行の「エネルギー基本計画」を見直し、将来の原発依存度を引き下げる方向だ。首相は、原発が減る分の電力を、太陽光など自然エネルギーと節電でまかなう考えを示している。
 国内自給できる自然エネルギーの拡大は望ましいが、水力を除けば全発電量の1%に過ぎない。現状では発電コストも高い。過大に期待するのは禁物である。
 原子力と火力を含むエネルギーのベストな組み合わせについて、現状を踏まえた論議が重要だ。
 日本が脱原発に向かうとすれば、原子力技術の衰退は避けられない。蓄積した高い技術と原発事故の教訓を、より安全な原子炉の開発などに活用していくことこそ、日本の責務と言えよう。

 ◆原子力技術の衰退防げ◆

 高性能で安全な原発を今後も新設していく、という選択肢を排除すべきではない。
 中国やインドなど新興国は原発の大幅な増設を計画している。日本が原発を輸出し、安全操業の技術も供与することは、原発事故のリスク低減に役立つはずだ。
 日本は原子力の平和利用を通じて核拡散防止条約(NPT)体制の強化に努め、核兵器の材料になり得るプルトニウムの利用が認められている。こうした現状が、外交的には、潜在的な核抑止力として機能していることも事実だ。
 首相は感情的な「脱原発」ムードに流されず、原子力をめぐる世界情勢を冷静に分析して、エネルギー政策を推進すべきだ。
(2011年9月7日 読売新聞)


*この読売の社説、
「日本は原子力の平和利用を通じて核拡散防止条約(NPT)体制の強化に努め、核兵器の材料になり得るプルトニウムの利用が認められている。こうした現状が、外交的には、潜在的な核抑止力として機能していることも事実だ。」
っていうところは、さりげなく凄いことを言っているのではないかと思うのですが、
「原爆と原発を一緒にするな。」
と主張する産経新聞の記者さんからすると、こういう読売の方の、平和利用が「潜在的な核抑止力として機能している」という考え方も、アウトってことにはならないんでしょうかね・・。
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