2005/7/13

訃報 松平永芳氏(靖国神社元宮司)  ニュース

*靖国神社元宮司の松平永芳氏死去。
A級戦犯合祀をした関係者の方ですが、後にこういう騒ぎになるとは思っておられたのでしょうか?
ご冥福をお祈りいたします。

(ニュース)
<訃報>松平永芳さん 90歳 死去=靖国神社第6代宮司
 靖国神社の宮司を務めた福井市立郷土歴史博物館長、松平永芳(まつだいら・ながよし)さんが10日、死去した。90歳だった。葬儀は13日午前11時、東京都大田区南雪谷2の1の7の公益社雪谷会館。自宅は目黒区中目黒5の7の28。喪主は妻充子(みつこ)さん。
 78年7月に靖国神社の第6代宮司に就任。同年10月、東条英機元首相らA級戦犯14人の合祀(ごうし)手続きが取られた際、主導的な役割を果たした。宮司は92年3月まで務めた。幕末の福井藩主、松平慶永(春嶽)の孫で、同博物館によるとここ数年体調を崩し、埼玉県内の病院で療養中だった。
(毎日新聞) - 7月12日13時5分更新

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2005/7/12

『ヴェラ・ドレイク』  映画

『ヴェラ・ドレイク』
これは素晴らしい。
僕はおすぎとは趣味が合わないのか、おすぎのほめる映画が自分的にはいまいちだったり(たとえば『戦場のピアニスト』『ミリオンダラー・ベイビー』)、おすぎがまるでダメという映画に感動したり(たとえば『サマリア』『ライフ・アクアティック』)することがあるのですが、今回はおすぎとともに(?)大絶賛。この映画に対してはどれだけの賛辞を重ねても足りない気がするぐらいです。

『秘密と嘘』のさらに先へ、マイク・リー監督の手法がこのような達成を見せるとは驚きました。
たしかに、人がそこにいるということ。それだけで画面を見ていて、何度も目頭が熱くならずにはいられなくなりました。
特に1950年、戦後、まもなくの時代設定であるためか、人物に戦争の影が深く落としていることに気がつかされます。僕はその時代を知りませんが、たしかにこういう時代があって、人間はこうだったのかもしれないと、当時のおばさん、夫婦、家族はこうだったのかもしれないと思わされました。
マイク・リー監督独自の、シナリオを各役者に、その役者が演じる人物に関するシーンのものしか、渡さない(物語の全体を知らせないでおく)という手法が、そのような当時の人物を再現するというキャラクターの作り込みと結び付いているところにこの作品の深みがあると思います。
特にマイク・リー監督作品というのは、どんなにドロドロしていても、家族の崩壊ではなく、家族の絆を描くところに見ていて希望が持てるものがあると思います。最近のドラマは家族の崩壊を描くものばかりが目につくので(現実の事件もそうですが)、あくまで絆のほうを描こうとするマイク・リー監督はある意味で反動的なのかもしれないとは思うのですが(もしかしたらそうした反動性が今回、1950年代を描くということに向かわせたのかもしれない)、でもその反動性も魅力です。
イメルダ・スタウントンが演じるヒロインのヴェラのキャラクターはもちろんですが、フィル・デイヴィスが演じるヴェラの夫のキャラクターも印象に残ります。自分はこんな風にパートナーの人間に対することが出来るだろうか?と思ってしまいました。

「どれだけの賛辞を重ねても足りない気がする」と書いたけど、ちょっとほめ過ぎでしょうか?

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2005/7/12

チャン・ドンゴン、チェ・ジウ結婚デマ騒動  ニュース

*なんでチャン・ドンゴン、チェ・ジウ結婚のデマが広がったのかと思ったが、キム・スンウ、キム・ナムジュ結婚式でのチャン・ドンゴン、チェ・ジウの行動、結婚式を予約したホテル名が出るなど、具体的な背景が流れたので信憑性があったということなのだろうか?


(ニュース)
芸能人たち‘ネカシズム恐怖’
チャン・ドンゴン、チェ・ジウ結婚説ハプニング…結局事実無根’
Xファイル等原因・出処不明スキャンダル拡散に‘受難’
“インターネットが恐ろしい” インターネットを通じる芸能人人権侵害が新しい様相を見せている。2年前トングムオブヌン死亡説に苦しんでからうわさの流布者をつかみ出して謝りを受けたビョン・ジョンスの事例は旧時代の風俗図になった。‘Xファイル社でも’, ‘ネカシズム’ などこれからは原因・出処不明のうわさが自家発展を繰り返してオンラインで大量生産、 大量流通、 大量消費される ‘芸能人受難時代’に入った。
一番最近の犠牲者はチャン・ドンゴンとチェ・ジウだ。去る 6月末からインターネットを通じて膾炙され始めた ‘チャン・ドンゴン、 チェ・ジウ結婚説’は一部来た・オフライン媒体の報道につながったし、 とうとう去る 9日にはチャン・ドンゴンの所属社であるスターエムエンターテイメントがホームページを通じて “結婚説がルーマーの水準を越して私生活を侵害している状況”と言いながら “結婚説は全然実は無根”と公式立場を明らかにする具合までのぼった。
二人の結婚説は去る 5月末キム・スンウ、キム・ナムジュカップルの結婚式でチャン・ドンゴンが司会を見て、 チェ・ジウがブーケを受けながら始まった。引き続き 6月末一インターネットサイトで ‘二人が付き合っている’と言う情報提供が上って来たし、 おこる “チェ・ジウがすぐ記者会見を持つこと”、 “S、 W ホテルにもう (結婚式) 予約になった”と言うなど ‘具体的な情況’が付け加えられて ‘既定事実化’になるのにまでのぼった。このうわさはチャン・ドンゴンと英文イニシャルが同じモギフェックサ J社長と、 また他の男トップスター Jにまでつながったこと。‘結婚式場’に挙論された S、 W 二つのホテルは真否を確認しようとするファンと記者たちのお問い合わせで電話網にブルイナッゴ ‘結婚説’は各芸能関連インターネットサイトを荒らしたことはもちろん一ポータルサイトの ‘知識検索’にまで質問と返事が上がる出たらめな状況が起った。
二人の当事者と側近、 ホテルなどに対するヘラルド経済の取材結果や二人が表明した立場(入場)そのまま結婚説は ‘事実無根’であることが明かされたが、 今度ハプニングはインターネットの恐るべきな威力をもう一度見せてくれた事例になった。インターネットを通じて被害を受けた芸能人たちはサイバー捜査隊や法的手段を動員して積極対処しているが、 大部分の場合うわさの発源地や流布者を尋ねることができない位 ‘偽り情報’ 流通の羊と速度は統制の範囲を脱した。今年起った Xファイル事件や特定芸能人に対する ‘ネカシズム’(‘インターネット’と ‘マッカーシズム’の造語) 旋風、サイバー空間を通じるスキャンダルの拡大再生産はインターネットが芸能人たちには ‘不可抗力の敵’になる可能性があることを今更悟らせた。

“ブーケが結婚説火種”
日言論も詳細報道も
チャン・ドンゴンとチェ・ジウの結婚説が日本新聞にも紹介された。
スポニチは 11日 “韓国の人気女俳優チェ・ジウと俳優チャン・ドンゴンの結婚説が浮び上がって韓国で騷動に発展している”と報道した。
新聞は結婚説騷動が韓国の一インターネットポータルサイトと朝鮮日報オンライン版等によって去る 7日頃からインターネットに登場したし 10日まで 2000余件の超える文が上って来ていると詳しく報道した。
スポニチはチェ・ジウが去る 5月に開かれたキム・スンウとキム・ナムジュの結婚式でブーケを受けたことが結婚説の火種をくべたと指摘した。韓国では結婚式日がつかまっているとか将来を約束した恋人のいる女性がいただくことが慣例であり、 ブーケを受けてからも 6ヶ月内に結婚することができなければ一生独身で暮らさなければならないという俗説があると報道してチェ・ジウがそのままブーケを受けたわけはないことを指摘した。
スポニチは両側が皆 “完全に事実無根”だと否認しているが、二人皆韓流ブームの核心になるビックスターだから完全に不正でも騷動が簡単におさまらないと見通した。

(注・韓国の新聞のニュースを直訳したものようです。)
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2005/7/11

『埋もれ木』  映画

『埋もれ木』
ホラー映画でよくホラーとしての枠から逸脱していて、その逸脱したところが妙に味わいがあって面白い作品がある。しかし、それはあくまでも基本的なストーリーはホラーとして成立しているからこそ、逸脱しているところが面白く思えるのだと思う。
小栗康平監督のこの『埋もれ木』という作品に根本的に乗れないのは、村に眠る精霊に関するエピソードをはじめ、ホラーとしての要素がちりばめられているのに、小栗監督は通俗的なホラーとか、人を恐がらせることに全く興味がないのか、ただただ不思議な要素がちりばめられるばかりでホラーにはならないからなのだ。ストーリーの中心になる幹がなく、「妙な味わい」の部分ばかりがちりばめられている印象なのだ。興味を持てるシーンはあるのだけど、結果としてとりとめのない印象の作品になってしまっているように思う。
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2005/7/11

新しい国立追悼施設をつくる案には反対する(続き)  時事問題

前の投稿で、「新しい国立の平和祈念の追悼施設をつくるという案には反対します。」「なぜかというと、なんのためにつくるのかが不明瞭だからです。」と書いたのですが、もしかしたらこの書き方では、「靖国神社をなくし、新しい国立追悼施設をつくるのでなければなんのために新しい国立追悼施設をつくるのかが不明瞭である」→「すなわち、kusukusuは靖国神社を廃止するべきだと言いたい」という風に受け取られるかもしれないことに気付きました。それは僕の意図するものではないので、念のために補足します。
むしろ、僕は新しい国立追悼施設をつくることが靖国神社廃止につながらないかを危惧する者です。現在の日本政府のひとつの案として出ている新しい国立追悼施設をつくる構想は、靖国神社と両立させるものとしてつくるものであり、靖国神社廃止の考えはないものとは思いますが、日本側は両立させるものという意図でも、新しい国立追悼施設をつくったなら中国、韓国側はそうしたものが出来たならば靖国神社は廃止するべきだと要求してくる可能性があるかと思います。このことを僕は危惧するわけで、靖国神社があるのになぜ別に新しい国立追悼施設をつくる必要性があるのかがよく分からないまま、そうした施設をつくるのはどうだろうかということを言いたいわけです。

僕が考えた限りでは、やはり靖国神社がA級戦犯を分祀するのが日本の対応としてはいいように思えます。
しかし、日本政府が靖国神社に要請してA級戦犯を分祀させるのは政教分離に反するとも考えられるので、靖国神社自身が主体的にA級戦犯を分祀するという形がいいかと思います。靖国神社の教義では本来、分祀は出来ないようですので、特例としてそれを行なうのなら、やはり靖国神社自身が主体的に特例を認める形でないとおかしいような気もします。
また、日本政府が靖国神社に要請してA級戦犯を分祀させる、もしくは、首相が靖国神社参拝をやめる、というのは、中国政府の要請に日本政府側が折れたという形になることはたしかです。そのことをさけるためにも、靖国神社自身がA級戦犯を分祀することがもし可能ならばそれがいい形の解決策のように思えるのですが。

なお、靖国神社がA級戦犯を分祀するというのは、「東京裁判を否定する」と考える人を否定するものではないと思います。あくまで、「東京裁判を否定する」という考えに賛同する人も、賛同しない人もともに心理的なとまどいを感じずに靖国神社に参拝できるようにする、ということを意図して分祀を行なうのがいいのではないかと考えます。
A級戦犯を分祀して、靖国神社本体とは別にA級戦犯を祀った碑などを建立して、そこを訪れたい人が訪れるのは自由とするのがいいのではないかと思います。また、資料館などで東京裁判の内容を検証する展示を行なうのも自由かと思います。展示を見直す必要はないものと僕は考えます。

また、靖国神社がA級戦犯を分祀したり、もしくは、首相が靖国神社参拝をやめたりしたら、中国側の要求を飲んだことになり、すると次々と出て来る中国側の要求を飲まされることになるのではないかということを危惧する方もいますが、僕は、靖国神社がA級戦犯を分祀するなり、首相が靖国神社参拝をやめるなりしても中国側が別の要求をしてくるとは思いますが、それに対しては日本が戦争責任をすでに果たしているということを明快に主張として打ち出し、飲まないようにするべきかと考えます。
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2005/7/9

新しい国立追悼施設をつくる案には反対する  時事問題

僕はもし可能ならば靖国神社からA級戦犯を分祀してほしいと考える者ですが、新しい国立の平和祈念の追悼施設をつくるという案には反対します。
なぜかというと、なんのためにつくるのかが不明瞭だからです。政府は靖国神社に替わるものとしてそうした施設をつくり、端的にいって、靖国神社のほうは無くしてしまう考えなのでしょうか? 
そうではないようです。
現在の政府案では新しい国立の追悼施設をつくっても靖国神社を無くす考えはないようです。新しい国立の追悼施設と靖国神社は両立して存在するようになるようです。しかし、それなら一層、一体、なんのためにそうした新しい国立の追悼施設をつくる必要があり、その新しい国立の追悼施設と靖国神社の関係がどういうものになるのかがよく分かりません。
政府が構想している新しい国立の追悼施設というのは、祈念碑的なもののようです。とすると、そこには霊は祀られていないわけなのでしょうか? それとも、概念としては先の戦争で死んだ全ての人を祀り祈念するところなのでしょうか? とするならば、当然、A級戦犯も含まれているわけでしょうか? A級戦犯も含まれている施設ならば、靖国神社とどのような違いがある施設なのかがよく分からないし、新たにそうしたものをつくる意味があまりないように思います。

それに今、そうした新しい追悼施設をつくるのは、中国や韓国から、靖国神社をなくし、新しい国立追悼施設に替えるものと受け取られる危険性があります。政府が検討しているのはそうしたことではなく、新しい追悼施設と靖国神社を両立させようということのようですが、ここらへんは中国や韓国からさらなる誤解を招き、事態をより混乱させる危険性があるかと思います。そうした誤解を招かないためにも、一体、なんのために新しい追悼施設をつくるのかを明瞭にしておかないといけないかと思います。

僕が靖国神社がA級戦犯を合祀したことに疑問を感じているのは、その合祀が「東京裁判を否定する」という特定の考え方をもとに行われたものだからです。もちろん、東京裁判にはいろいろ疑問な点もあるし、検証し、「東京裁判を否定する」と考える人がいてもいっこうに構わないとは思います。しかし、靖国神社がA級戦犯を合祀したことによって、「東京裁判を否定する」という考えに賛同しない人は参拝することに心理的な違和感を感じるようになってしまいました。僕のおじさんにも靖国神社に祀られている方がおりますが、A級戦犯が祀られて以降、靖国神社参拝をやめてしまった親戚の方がいます。もちろん、それはその方が勝手にやめたのであり、靖国神社に参拝するのもしないのも個々人の自由ではあります。でも、A級戦犯を合祀したことによって、「東京裁判を否定する」という考えに賛同するか否かの踏み絵(あまりうまい言い方ではないかもしれませんが)のような場になってしまい、考えに賛同する人は参拝するが、賛同しない人は参拝しないという風になってしまっている点に疑問を感じます。
なお、僕個人は、東京裁判の具体的内容には疑問な点もあるし、検証するべきものかとは思いますが、基本的な東京裁判を行なった意義を認めたいという考えを持っています。しかし、それはあくまで僕個人の考えであり、東京裁判を否定するという考えの人がいてもいっこうに構わないと思っています。(ただし、首相が参拝することは日本政府の見解と受け取られてしまうので控えたほうがいいとは思いますが。)僕個人の考えを他人に押し付けるつもりはありません。ですから、僕がA級戦犯を分祀してほしいと考えるのは、あくまで「東京裁判を否定する」という考えに賛同するか否かの踏み絵のような場になっている性格をなくしてほしいということであり、「東京裁判を否定する」という考えに賛同する人もしない人もともに参拝できるような場になってほしいと考えるからです。決して、「東京裁判を否定する」という考えの人を否定する意図ではありません。

とはいえ、A級戦犯分祀は靖国神社の教義では出来ないらしいのですが。
この点で疑問なのですが、『中央公論』8月号の座談会で松本健一氏が次のように述べています。

>柳田國男も指摘しているように、日本の神道には集団を祀るという発想は、明治以前にはない。国家神道の産物だ。

僕は不勉強でよく分からないのですが、松本氏の言うことが事実だとすると、いったん祀った霊は分祀できないというのは、他の神道にはない、靖国神社独自の概念なのでしょうか?
もし、そうなら、靖国神社自身が認めるならば、特例として分祀するということは出来ないものなのでしょうか? 僕の知識不足で見当違いのことを述べていたら、ごめんなさい。 

しかし、政府が靖国神社に分祀をしろと無理にさせるのは、政教分離に反するとも考えられるので、靖国神社自身が主体的に判断してA級戦犯を分祀するということを望むわけですが。

なお、敗戦国の戦争責任ということでは、僕は日本はすでに済んでいるものと考えます。決して、中国や韓国に新たな賠償を払うなどの責任はないものと考えます。戦争犯罪人の処罰、領土の返却も済んでいるものと考えます。だから、小泉首相が靖国神社参拝をやめることには賛成しますが、かと言って中国や韓国が言うような「日本は戦争責任を果たしていない」という主張を認めるつもりではありません。その意味では、首相が靖国神社参拝をやめた場合は、「日本政府は東京裁判を認める立場なので靖国神社参拝はやめた。ただし、戦争責任はすでに果たしているものと考えている」といったことをはっきりと表明し、もし中国や韓国が新たな要求をしてくるつもりならば、そのことは受け入れないように未然に予防線を張っておくべきかとは思います。
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2005/7/9

靖国問題解決、第三の道  時事問題

『中央公論』8月号に「靖国問題解決の第三の道」という山崎拓インタビューが載っていたので読んだのだが、結局、A級戦犯分祀案、新しい国立追悼施設をつくる案ではない、「第三の道」が何かははっきり述べられず。詐欺みたいなタイトルのインタビューだな。
ただし、ヒントとして、インドネシアのユドヨノ大統領が次のように言った言葉が紹介されています。ここに「第三の道」のヒントが示されているらしいのですが。

>「自分は東ティモールに行ってきたばかりだ。東ティモールは独立する前はインドネシア領だった。独立時に戦争があった。結果として国連の庇護の下に独立した。その因縁の地に行ってきた。
 墓地が二つあった。一つはそこで戦死したインドネシアの兵士の墓。もう一つは東ティモール側の義勇兵の墓。両方参拝した。インドネシアの兵士が埋葬されているところも、東ティモール人が埋葬されているところにも両方とも行った。」

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2005/7/8

蓮實重彦氏の『ライフ・アクアティック』評  映画

*大好きな映画なので、天下の蓮實先生がほめていると嬉しいですね。

(以下、転載)
ウェス・アンダーソンは21世紀にふさわしい真のフィクションを初めて人類に提示する
――ウェス・アンダーソン『ライフ・アクアティック』

蓮實重彦

『ライフ・アクアティック』(2004)のウェス・アンダーソン監督にとって、この地球が地球儀さながらの球体である必要などさらさらなさそうに見える。キャメラを向ければところどころに島は点在しているし、陸地も拡がっているのだが、それが大西洋に浮かんでいるのか、ユーラシア大陸の一部なのかといったことは、はなから問題にならない。あたかも世界地図などこれまで一度も見たことなどなかったかのように、彼はほんの小さな海域を地球に見立て、見る者をいきなり海底へと誘う。

海洋学者でドキュメンタリー映画作家でもあるスティーヴ・ズィスー(ビル・マーレイ)にとって、温帯だの熱帯だのといった南北による風土の違いなどないに等しい。文明の対立などというフィクションをあざ笑うかのように、東西に位置するあまたの文化圏も小気味よく無視される。その妻(アンジェリカ・ヒューストン)の飼い猫が毒蛇に喰い殺されたりする土地がいったいどんな緯度経度に位置しているかなど、問うだけ野暮というものだ。夜の砂浜に打ち上げられた無数の発光クラゲを撮影中のスタッフの前にいきなり姿を見せる妊娠中のジェーン(ケイト・ブランシェット)が、ジャーナリストとしてどんな経路でその場にたどりついたのかも、あえて詮索せずにおこう。

ズィスーがスタッフとともに乗り込むベラフォンテ号は、赤道だの子午線だのは意に介さずに航行し、警戒すべきはどうやら非警戒水域というものだけらしい。ときおり画面に示されるもっともらしい地図や海図にしても、そこには見慣れぬ名前が記されているばかりで、コロンブスのアメリカ大陸発見以前のものであっても一向におかしくないほど、地球の現状からは遠い。登場人物のほとんどは英語を話すアメリカ人だが、彼らが合衆国の首都をワシントンDCだと知っているかどうかさえ、大いに疑わしい。

実際、ウェス・アンダーソンのこの期待の新作にあっては、地理的な方位と距離感はあからさまに無視され、海があり、陸地があれば、それだけで映画として充分に成立するというかのように事態は推移する。歴史的な時間の抽象化をかりにポストモダンと呼ぶとするなら、『ライフ・アクアティック』の画面が軽々とやってのける歴史的な空間の爽快なまでの無視を、いったい何と呼べばよいのだろうか。 その答えもすぐには見いだせぬまま、人は、アメリカ合衆国が――恐らくは、それと意識することもないまま――発信してしまった反=アメリカ的な傑作誕生の予感に胸を躍らせる。「帝国」などといっている場合ではない。『ライフ・アクアティック』は、ことさら声も荒らげることなく、そうつぶやいているのかもしれない。事実、いったんベラフォンテ号に乗り込んでしまえば、「帝国」の版図など誰にも思い描けはしないだろう。

確かに、冒頭の国際映画祭でのプレミア上映のあと、司会者はイタリア語をしゃべるし、観客の女性はフランス語で質問する。だが、それは舞台の抽象性をきわだてこそすれ、ヨーロッパ的な地域性は皆無である。非警戒水域に出没する間の抜けた海賊はどうやらタガログ語を話しているらしいのだが、ベラフォンテ号がいつの間にかフィリッピン近海に迷い込んだ気配もいっさいない。いきなり登場するズィスーの息子かもしれないネッド(オーエン・ウィルソン)はケンタッキー航空の副操縦士を自称するし、銀行から派遣される監視役はチューリッヒから来たことになっているが、そうした土地の名のことごとくは、『ロード・オブ・ザ・リング』三部作のそれ以上に具体性からは遠い。

黒人の事故防止係セウ・ジョルジがポルトガル語で歌うデヴィッド・ボウイの曲のように、すべてはありうべき世界からすれすれのところで離陸し、微妙に行き違ったかたちでフィクションという名の新たな現実におさまる。『ライフ・アクアティック』は間違ってもファンタジーなどではなく、見る者を惹きつけるのは、この新たな現実としてのフィクションにほかならない。それがファンタジーでないことは、見かけは何の変哲もないベラフォンテ号の内部が、『タイタニック』の豪華客船のそれより遥かに精巧に造形され、その構造が誰の目にも見通せるように撮影されていることからも明らかである。それをCGの助けなどいっさい借りず、クレーン撮影を律儀に援用しながら手作り感覚で視覚化してみせるあたりにも、映画作家ウェス・アンダーソンのあなどりがたい野心がうかがわれる。

ところで、落ち目といわれるドキュメンタリー映画作家スティーヴ・ズィスーが新たにチームまで組み、金策に奔走しながらも新作の撮影を始めたのは、年来の潜水仲間だったエステヴァンを食いちぎったという未知の生物をキャメラにおさめる意図があるからだ。海底でその場に立ち会っていたはずのズィスーもその怪物をしかとは認識しえず、一面まだら模様におおわれた巨大なサメのようなものとしか口にすることができない。スタッフは、それをとりあえず「ジャガー・シャーク」と呼び、海賊にも脅えずに航海を続ける。

サメの周航海域に近づいたとはいえ、その雲をつかむような野心のために、ビル・マーレイ、オーウェン・ウィルソン、アンジェリカ・ヒューストン、ケイト・ブランシェット、ウィレム・デフォー、ジェフ・ゴールドブラムといった錚々たる顔ぶれが、いつ水圧で潰れても不思議でない古びた潜水艇に乗り込むシーンに、見る者は鈍い感動をおさえきれない。緯度も経度も心得ないズィスーが操縦桿を握る潜水艇は、無事、「ジャガー・シャーク」に遭遇できるのだろうか。それについては口をとざすしかないが、ウェス・アンダーソンとともに、ハリウッドが21世紀にふさわしい真のフィクションを人類に提示しえたことだけは、熱い賞賛の言葉とともにいいそえておく。

初出:『Invitation』2005年4月号(26号)
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2005/7/8

議論、止まらず・・  

下記にコメントを書き出したら、止まらなくなってしまった。
ろぐ様、ぴろん様、有難うございました。

http://adoruk626.seesaa.net/article/4762459.html#comment

http://piron326.seesaa.net/article/4893194.html#comment
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2005/7/7

従軍慰安婦問題について思うこと  時事問題

かなり頓珍漢なことを言っていると言われそうなのですが、以前から従軍慰安婦問題について個人的に考えていることを書きます。
朝鮮人の従軍慰安婦について、商行為であったか、否かが議論されています。これについては、証言や史料が食い違うところがあるようです。
僕は思うのですが、従軍慰安婦が商行為であったのなら問題はないことなのでしょうか?
たしかに今でも売春は行われています。でも売春といっても、本人が意志で行う場合と、親などが子供を人身売買して売春をさせられるというのとでは、そもそも話が違うのではないでしょうか。
仮に朝鮮人の従軍慰安婦が商行為で売春を行ったのだとしても、その商行為というのには、親がお金を受け取っていて子供を売り飛ばした(子供本人は親がお金を受け取っていたことを知らなかった)というケースがあるのではないかと思います。この場合、商行為であったとしても、本人の意志によってではなく売春をさせられていたことは事実であるわけで、やはり問題があることなのではないでしょうか?
もちろん、当時は朝鮮人だけでなく、日本人も貧しい家の娘が人身売買させられているような時代であり、日本人の従軍慰安婦にも、本人の意志ではなく親などに売り飛ばされた人が多かったのかもしれません。
こうしたことは問題にしなくていいことなのでしょうか?
どうも従軍慰安婦問題というと、朝鮮人の慰安婦の話ばかりが問題視され、日本人で本人の意志ではなく従軍慰安婦にさせられた人達についてはあまり問題にされることがないようです。
本来は、日本人、朝鮮人の区別なく、本人の意志ではなく軍隊の従軍慰安婦にさせられた人達のことを問題にするべきなのではないかと僕は思います。商行為であったか、否かということだけではなく、本人の意志であったか、否かということを問題にするべきではないかと思うのです。
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2005/7/6

フィルムノワールについて(整理)  映画

他の掲示板で「フィルムノワール」の話になり、まとめたものです。

フィルムノワ−ルについては、『フィルムノワールの光と影』(エスクァイア マガジン ジャパン)という本に詳しいです。
そこから要約すると、
フランス語で「闇の映画」「暗黒映画」という意味で、フランスの映画雑誌『レクラン・フランセ』1946年8月号でニーノ・フランクが使用したのが最初と言われます。
フランクがフィルムノワールとしてあげたのは
『マルタの鷹』(ジョン・ヒューストン、1941)、『欲望の果て』(エドワード・ドリミンク、44年)、『ローラ殺人事件』(オットー・プレミンガー、44年)、『飾窓の女』(フリッツ・ラング、44年)の4本。
この時期、フランスで連続的に公開されたアメリカ映画で、いずれも探偵、刑事の男をたぶらかす悪女が登場する犯罪ものです。
その後、1955年に、フランスでレーモン・ボルド、エティエンヌ・ショームトンの共著『アメリカのフィルムノワ−ル展望』が刊行されます。
ここではフランクの挙げた作品に加え、『拳銃貸します』(フランク・タルト、42年)、『深夜の告白』(ビリー・ワイルダー、44年)、『殺人者』(ロバート・シオドマク、46年)、『ギルダ』(チャールズ・ヴィダー、46年)、『三つ数えろ』(ハワード・ホークス、46年)、『湖中の女』(ロバート・モンゴメリー、47年)などを挙げました。
これらの作品の共通項は以下のものだそうです。
*悪夢的で、異様で、エロティックで、アンビヴァレントで、残忍な性質を持つ。
*犯罪(恐喝、告発、窃盗、麻薬取り引き)があり、登場人物の死で終わる。

さらに『アメリカのフィルムノワ−ル展望』では、フィルムノワールは、「クライム・ドキュメンタリー」と呼ばれるアメリカ製犯罪映画とは別物であるとされました。この本でクライム・ドキュメンタリーとして挙げられたのは、
『Gメン対間諜』(ヘンリー・ハサウェイ、45年)、『影なき殺人』(イーリア・カーザン、47年)、『出獄』(ヘンリー・ハサウェイ、48年)、『裸の町』(ジュールズ・ダッシン、48年)、『ニューヨーク港』(ラズロ・ベネデク、49年)、『暗黒の恐怖』(イーリア・カーザン、50年)。
クライム・ドキュメンタリーとフィルムノワ−ルの違いは以下のものと分析されています。
*殺人を外側(警察官)の視点から描くのがクライム・ドキュメンタリーであり、内側(犯罪者)の視点から描くのがフィルムノワ−ルである。
*道徳的決定論の有無。クライム・ドキュメンタリーの主人公(捜査官)たちは神を信じ、正義が行われるのを見届けるために仕事をするが、フィルムノワ−ルにあっては主人公が警官であっても彼らは腐敗しており、そのため法社会と暗黒街の中間にいる私立探偵がしばしば主人公となり、さらには犯罪者が主人公となる場合もある。「犯罪は引き合わない」という古くさいモットーが未だにいきてはいるものの、観客たちは犯罪者に同情し、同化する。

フィルムノワールの特徴であるあやふやさは、登場人物自身の両義性の中にも明らかに認められると『アメリカのフィルムノワ−ル展望』は分析します。
そして、女性を取り巻くあいまいさ。「ファム・ファータル」とは「欲求不満で、倒錯的で、半ばは略奪者、半ばは犠牲者、超然としているけれども誘惑的で、犠牲者を自ら罠に陥れる」。
さらに、フィルムノワ−ルの特徴がいくつか、述べられます。
*暴力の主題の修復(公正なる決闘という冒険映画の慣習の捨象)ー犯罪それ自体はプロの集団によって遂行されたり、「怒りも憎しみもなく」己の仕事を行う殺し屋によって遂行されたりする。
*奇妙なプロットのねじれに由来する不安ーたとえば、私立探偵はいかがわしい仕事を引き受ける、女を探し出し、ゆすりを無視し、何者かの追跡をかわし、突然何体かの死体が彼の行く手に散在する。情報を求め、縛り付けられている自分と血まみれになった地下倉の床に気付く。夜闇の中におぼろげに見える男たちが彼に向かって銃を撃ち、逃げ去る。・・
*動機の曖昧さ
*フィルムノワールのあらゆる構成要素は幾つかの慣例(アクションの論理的発展、善と悪の明確な区別、すぐそれとわかる登場人物たち、はっきりとした動機、より華やかで真に激しい場面、美しいヒロインと誠実なヒーロー)に馴染んでいるためにもはやおなじみの参照点をみつけられなくなった観客の頭を混乱させる。
*代わりに観客は、魅力ある殺人者や腐敗した警官たちのいる、どっちつかずの暗黒街を示されている。善と悪とが区別できなくなる地点にまで進んで行く人物造形やプロット。(強盗たちは普通の人間になる、犠牲者は単に自らの仕事を遂行しているだけの殺し屋と同じだけ有罪である、ヒロインは堕落していて麻薬を服用してたり酔っぱらっている、筋立ては混乱していて動機が不明瞭である、など)
*結論として、道徳的両義性、犯罪性、動機と結果の複雑な矛盾、すべてが観客に、現代のフィルムノワールの真の感情である苦悩と不安を共に体験させることになる。心理的参照点がなくなったとき、その緊張状態は観客にしみ込んでいく。
(以上)
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2005/7/5

『いつか読書する日』  映画

『いつか読書する日』
上野昂志、北川れい子、荒井晴彦などが絶賛しているので見に行ったのだが・・。
すごくよく出来た映画、いや「日本映画」だと思う。ああ、日本映画ってこういう風だったんだよなあと思い出す。たとえば田中裕子が牛乳配達する姿は、ふと柳町光男監督の『十九歳の地図』で本間優二が新聞配達をする姿を思い出させる。
しかし、個人的にはどうにも煮え切らない印象の映画なのだ。あまりにも主人公2人をめぐる恋の話がきれい過ぎるのだ。『十九歳の地図』のようなドロドロしたものが感じられない。児童虐待、痴呆老人など、サイドストーリーで人間のドロドロした部分が顔を見せるのだけど、これもきれいな枠の中に収まってしまっていくかのようだ。
基本がきれい過ぎる話なので、どんなに丹念に生活描写を積み重ねてもドキュメンタリー的な、生活そのものに肉薄する迫力とは違い、どこまでも作られた話という印象に収まってしまっているかのようだ。
だから、ある意味、フィクションに対する無防備さが奇跡的に見たことがないような映画を見てしまったという衝撃を受けた『1リットルの涙』のような新鮮な衝撃をこの『いつか読書する日』は受けることはなく、かつて見たことがある「日本映画」、ああ、成瀬や柳町の映画みたいだなあ・・という枠の中の感想に収まってしまうのではないだろうか。
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2005/7/5

ロシアの映画祭で昭和天皇を描いた映画がグランプリ  映画

*ロシアの映画祭で昭和天皇を描いた『太陽』がグランプリ受賞。これを日本で見れないとは残念。ぜひ、公開してほしい。

(ニュース)
昭和天皇描いた「太陽」、露映画祭のグランプリ受賞
 【モスクワ=五十嵐弘一】タス通信によると、第13回サンクトペテルブルク国際映画祭で29日、俳優のイッセー尾形さんが昭和天皇役を演じたロシア映画「太陽」(アレクサンドル・ソクーロフ監督)がグランプリを受賞した。
(2005年6月30日10時37分
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2005/7/4

都議選の共産党の見解に関して思うこと  時事問題

都議選についての共産党の見解を知ろうと思って今日の「赤旗」を見たところ、実に共産党ならではの、というか、共産党以外は誰も言っていないことにこだわっている見解をしているようだった。
以下のものだ。


(2005年7月4日(月)「しんぶん赤旗」より)
東京都議選の結果について

志位委員長が会見

 日本共産党の志位和夫委員長は三日夜、東京都委員会で記者会見し、東京都議選の結果について次のように述べました。

 一、わが党を支持してくださった多くの都民のみなさん、奮闘してくださった支持者、後援会員、党員のみなさんに、心からの感謝をもうしあげます。

 一、わが党は、この選挙で、「オール与党」か日本共産党かの選択を訴えてたたかいました。また暮らしと福祉の充実、無駄づかいの一掃、平和と民主主義をまもるなどの政策的訴えをおこないました。

 私たちの政策論戦は、都民の願いにかなったものだったと確信しています。新しい都議会で、公約実現のために全力をあげる決意です。

 一、今回の都議選は、前回の都議選からの四年の間に、二つの国政選挙がおこなわれ、政党間の力関係が大きく変化したもとでのたたかいでした。わが党の首都・東京での得票率は、二〇〇三年の総選挙の比例代表選挙で9・3%、二〇〇四年の参院選の比例代表選挙で9・4%まで押し込まれました。

 そういう条件のもとでのたたかいで、現有十五議席を確保できなかったものの、二人区の文京区と日野市のたたかいで勝利をかちとり、十三議席を獲得したことは、重要な成果だと考えます。また、得票率で10%台を回復したと思われることは、今後の前進への一つの足がかりとなる結果となったと思います。

 一、都議選の結果について、内外の方々のご意見に耳を傾け、多面的な教訓を学び取り、今後の前進の糧としていきます。


以上が引用だが、「現有十五議席を確保できなかったものの、二人区の文京区と日野市のたたかいで勝利をかちとり、十三議席を獲得したことは、重要な成果だと考えます」という風に前向きにとらえているようなのだけれども、やはり議席数が減ったということは事実である以上、そのことを重視して敗因がどこにあったのか?をもっと真剣に考えるべきかと思うのだが。なぜ僕がそう思うのかというと、共産党に悪意があるからではなく、逆に共産党までが社民党のようにジリ貧になってしまってはいけないぞと思うからである。上の共産党のコメントからはそもそも今度の選挙で負けたという認識は伺えず、それに対する敗因の分析も伺えない。議席が減ったのに、負けたことを認めずに、自分たちが勝った「文京区と日野市」ばかりに目がいっているようではこの先、ますますジリ貧になるぞと思えてきてしまうのだが、どうだろうか?

共産党の見解が他の党と違うなと思うのは、「わが党の首都・東京での得票率は、二〇〇三年の総選挙の比例代表選挙で9・3%、二〇〇四年の参院選の比例代表選挙で9・4%まで押し込まれました」「得票率で10%台を回復したと思われることは、今後の前進への一つの足がかりとなる結果となったと思います」という、得票率が延びたという点ばかりにこだわっているところである。このように議席数よりも得票率を問題にしているのは共産党だけだろう。はっきり言って得票率が延びても議席数が減ったのなら意味がないのではないかと思うのだが。
しかも、奇異なのは、上の得票率が延びたという分析は、前の都議選と比較したものではないのだ。本来、前回より得票率が延びたかどうかを比較するならほぼ似た条件のものである都議選同士を比較するべきだろう。「二〇〇三年の総選挙の比例代表選挙」「二〇〇四年の参院選の比例代表選挙」と今度の都議選を比較しても候補者も何も違う条件のもとでの話なのだから、今回の都議選の結果が前回よりも良かったのかどうかを分析することにならないのではないかと思うのだけど。
しかし、なぜ共産党はこのような分析をするのか? それはおそらく次の理由である。共産党は都議選をあくまで国政選挙の予備選挙と位置づけているのである。だから、最近の参院選比例代表選挙の例を出し、今回の都議選の得票率と比較しているのだ。そして、得票率に比例して各党の議席数が決まる選挙制度ならば、議席数が延びただろうと分析しているわけである。
共産党はもともと小選挙区制に反対であり、得票率に比例して各党の議席数を決めるのが民主主義の民意をより反映した選挙制度であると主張している。つまり、共産党がやたらと得票率にこだわるのは、得票率から言えば我々の党の議席数はもっと多いはずなのだという思いが込められているのだ。
小選挙区制は民意を反映させるという点ではたしかに不公平に思えるところがある制度だと思う。だから共産党が得票率にこだわるのは僕は気持ちとしてはまるで分からないわけではない。
しかし、いささか、いや、かなり原理主義的な考え方かと思う。つまり、理屈としてはそうかもしれないけど、あまりに現実に即していないというのか。現実は、とにかく小選挙区制で選挙が行われているのだ。この選挙制度はきちんと国会で民主主義の手続きを通してつくられたものなのだ。違法な選挙というわけではない。(定数是正の点で違憲ではないかという議論はあるけれども。)
共産党がいくら選挙制度に問題があると主張しても、現実の政治の場では議席数が増えれば発言力がそれだけ大きくなるし、議席数が減れば発言力は小さくなる。社民党のように議席がなくなれば発言力はゼロになる。それが現実というものである。その現実を無視して、いくら頭の中で選挙制度が違えばもっと議席数が多いはずなのにと思い描いていても無意味である。現実の政治の場でどれだけの発言力を持ち得るかでいろいろな政策を実現できるか否かが決まるのだから。いくらいい政策を唱えていても現実の政治の場で力がなくて実現性がなかったら意味がないではないか。
この点、共産党とは対照的で、極めて現実主義的なのは公明党だろう。公明党は23人の候補者がいる選挙区の票を守るために、支持者がその議員がいる選挙区にこぞって住民票を移してしまうという政策に出ているのである。これでは他の党がかなうわけがない。
共産党は律義にすべての選挙区に候補者を立てる。明らかに勝ち目がないと分かっている選挙区にも必ず候補者を立てる。もし共産党が公明党と同じように、勝てる見込みがある選挙区に支持者が移動するという政策をとったならば議席数は確実にもっと増えるだろう。しかし、共産党はそんなことはしないだろう。仮に共産党が共産党支持者の人達にそのように勧めたとしても、党のために引っ越ししろっていうのかと反発をかってしまうだろうからだ。公明党の人達のように言われるままに引っ越ししたりはしないだろう。そこが公明党と共産党の違いである。だから、共産党は律義に負けることが分かっていてもすべての選挙区に候補者を立て続け、そのこと自体に意義があると主張し続けるのだろう。その一方でますますジリ貧にならないようにしてほしい、もっと現実に議席数を増やして力をもつためにはどうすればいいのかを考えたほうがいいのではないかと傍目から見ている僕は思うわけだけれども、余計なお世話なのかもしれない。

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2005/7/4

都議選結果  時事問題

他の都議選結果を見ると、さすがに公明党は手堅い。何しろ、公明党は候補者がいる選挙区に支持者が引っ越しするって言うんだから。さすがにこれは他の政党には出来ない。
共産党もだけど生活者ネットもちょっと減ったんだね。ネットは民主党と連携しているのか、ネットが出るところでは民主党候補は出ないとしているのだけど、それでも議席を守れなかったか。まあ、そうは言っても社民党にくらべればたいしたものではある。
杉並区の中核派系の長谷川英憲氏。教科書問題でビラをまいて頑張っていたようだがかなり下位で落選。
諸派で当選したのは、世田谷区の行革110番の後藤雄一氏。地道な活動がしっかりと評価されているようだ。

(訂正)
「ネットが出るところでは民主党候補は出ないとしている」と書いたけど、よく見たら、日野市、南多摩、北多摩2区など、限られた地域だけだった。民主党との連携がうまくいかなかったというのか、23区などではさすがに民主党が譲ってくれなかったのであおりを食ってしまってネットの議席数が減ったよう。あと日野市が共産党に持って行かれたのが予想外だったのか?
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