2005/8/6

原爆小頭症の女性、苦しみの60年語る  原爆・原発問題

*原爆小頭症患者の勇気あるカミングアウト。
でも、2人の子供は家を出たきり、どこで何をしているのだろうか?

(ニュース)
原爆小頭症:体内被爆の女性 苦しみの60年語る

 中国山地の盆地の底に、ひしめきあって並ぶ古い棟割り住宅。6畳の狭い部屋の真ん中にベッドをどんと置いた居間兼寝室で「今まで、幸せだったことは一度もない」といううめきを聞いた。世に生まれ出る前に被爆者となった原爆小頭症患者で、広島県三次市で暮らす岸君江さんの人生は、原爆の重い「罪」を突きつける残酷すぎる60年だった。【田中博子】
 
 1945年8月6日、爆心地の東1.2キロにあった広島市田中町(現・同市中区)のクリーニング店2階。岸さんは、妊娠3カ月の母親の温かい胎内に抱かれていた。そこを、原爆の放射線が襲った。
 岸さんの母は、子どもを授かったことを夫と喜んだばかりだった。その夫は外出先で無残に被爆死したが、母は無傷だった。「奇跡」と思われた。まさか、おなかの中の子どもに、体には感じない無数の透明な凶器が突き刺さっていようとは、知るよしもなかった。
 その後、母は実家のある三次市へ戻った。年も明け、山あいの町の雪も消える46年3月、岸さんが生まれた。ひどく小さな赤ちゃんだった。
 歩き始めのころ、両足の人さし指が内側に湾曲し、股関節が脱きゅうしていることが分かった。首やあご、ひざなど関節の異状を繰り返し、周囲から「病気の問屋」と言われた。中学の登山遠足では、頂上で腰が引きつって立てなくなった。
 現在の身長は138センチ、足の大きさは21センチ。子どものころから、身長は格段に低く、同級生からいじめられた。耐えられなくなり、小学生のころから家にこもりがちになった。薬を飲んで死のうと思ったこともある。今でも通りを歩くと、じろじろ見られたり、指を指される時がある。
 「原爆の影響じゃ」と陰口をたたかれた。気になったが、気にしないでいた。本当にそうだと分かったのは22歳の時。原爆小頭症と診断されたのだった。
 それまで頭が小さいが原爆のせいとは、意識していなかった。体が小さく、目立たなかったから。だが、計られると、頭囲は52センチしかない。今も、ちょうどよいサイズの帽子は、子ども用の麦わら帽子くらいしかない。頭が小さいから、体も小さいのだった。
 中学卒業後、集団就職で広島市に出たが長続きせず、1年で実家に戻ってスナックに勤めた。2年後、股関節の手術への不安から心臓発作を起こす。精神的に不安定になり、神経内科へ長期入院した。同じ病院に入院していた7歳上の調理師と婦長の紹介で知り合い、25歳で結婚した。
 「あの時は、幸せに思ったかもしれない。だけど、今は不幸の始まりだったと思う」
 結婚前に二人で退院、そして妊娠した。だが、周囲は「どんな子が生まれるかわからん」と出産に猛反対した。「放射線が入っとったりせんじゃろうか」と不安はあったが、「授かった命は、私も同じ」と産んだ。
 夫は広島市の百貨店食堂で懸命に働いた。だが1年後、売り上げを伸ばすよう上司に言われたことが、重圧となった。それから、酒を飲んでは暴力を振るった。夫は再び、神経内科での入退院を繰り返す。その末の92年に死亡した。
 2人の子は幸い、病気一つせず育った。しかし、父親が死んでからぐれた。長男も長女も家を出て、今はどこにいるのかもわからない。
 岸さんは50歳のころに再び股関節を傷め、つえが手放せなくなった。現在も「病気の問屋」は変わらず、月4回病院に通いながら、一人で不安な毎日を送っている。年をとって気も少し弱くなり、最近は夜さえ恐い。
 「胎内被爆がどんなもんか、誰もわかってないでしょう。私の顔も名前も新聞に出していいけえ、ちゃんと伝えてね」。ほほえんで言った。
 部屋の卓上カレンダーの8月6日の欄いっぱいに、「原爆60年」の文字が書かれていた。岸さんが、実名で詳しく自らの原爆小頭症について語ったのは初めて。生まれる前から負わされ、死ぬまで続く原爆の人間破壊。岸さんの目は、それを広く伝えるよう私に託していた。口調は穏やかだったが、決して昔話を語る風ではなく、ずしりとこたえる話だった。そして、最後に言った。
 「8月6日は忘れちゃいけん日。原爆が憎い」
 
 ◇原爆小頭症患者 社会から孤立
 原爆小頭症患者は、妊娠早期の近距離被爆が原因で頭が小さくなり、知能や身体に複合的な障害を負った。発症の形態は、一様ではない。05年3月末現在で、厚生労働省が認定する患者は全国で23人。
 病気で長期の入院生活を送る人や、90歳近い親と2人で家に閉じこもっている人がおり、ほとんどが社会から孤立している。患者の支援を続ける村上須賀子・宇部フロンティア大教授は「親の高齢化で、患者の兄弟などには、親と患者両方の介護の負担がのしかかっている。患者だけでなく、家族全体に医療と福祉両面での支援が必要」としている。
 まだ、原爆小頭症患者に対する社会の理解は十分ではなく、岸君江さんの実名での告発は、相当の決意を伴っていた。その重みに耐えられるほどの記者なのか。そう自問自答するしかなかった。でも、正面から受けとめたい。原爆小頭症の報道を、今後も模索しようと思う。【田中博子】
(毎日新聞 2005年8月6日 15時00分)
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2005/8/6

甲子園で広島代表校が黙とう提案、高野連が制止  原爆・原発問題

*うーん、こういう場で原爆のことで黙とうするのはどうかというのは難しい判断ですが、「原爆は広島だけのこと」ではないと思う。せっかくの高陽東の主将の希望なのだから、全校生徒に伝えて賛同する学校は一緒に黙とうする。したくない学校は黙とうしない。という風に生徒の自主性にまかせれば良かったのではないでしょうか? 大人が勝手に決めないで。

(ニュース)
<黙とう>甲子園で広島代表校が提案、高野連が制止

 第87回全国高校野球選手権大会に出場する広島代表の高陽東が、6日午前8時15分の原爆投下時刻を前に、兵庫県西宮市の阪神甲子園球場で、開会式に備えて集合した他の48チームの選手たちに黙とうを提案しようとしたところ、日本高校野球連盟の関係者に止められ、同校ナインだけで黙とうした。学校側は前日までに大会本部などの了承を得ていたという。
 関係者によると、当初は同校の工藤真司主将(3年)が「被爆地の高校生として、ピカドンで亡くなられた多くの人々の冥福を祈り、二度と過ちを繰り返さないことを誓います」と宣言し、他の選手たちにも黙とうを呼びかける予定だった。
 しかし、メッセージを伝えようとしたところ、高野連の田名部和裕参事が「原爆は広島だけのこと。この場でみんなを巻き込むのは良くない」と制した。同校ナインは列を外れ、広島の方角に向かって自分たちだけで黙とうしたという。選手の一人は「他府県の選手にも被爆の悲惨さなどを知ってもらおうと考えたのに、悲しい」とがっかりしていた。
 田名部参事は「広島のことも長崎のことも含めて、大会行事として(終戦記念日の)8月15日正午に黙とうしており、原爆の日の黙とうを全体の行事とするわけにはいかない。今日の黙とうは1校でやるものと思って許可した。今朝、朝日新聞から全校に黙とうを呼びかけたいとの意向が伝えられたが、私が主将に話して1校で黙とうすることを納得してもらったと考えている」と話した。
 朝日新聞社の松本督(すすむ)・広報宣伝センター長は「高陽東の意向を高野連に伝えたのは本社企画事業部員だ。しかし、本社は高野連が全体行事としての黙とうを認めなかったことについては意見が一致している」と話した。【横山三加子、平川哲也】
(毎日新聞) - 8月6日14時9分更新
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2005/8/6

原発反対  原爆・原発問題

下記の文章は左翼運動をしていたわけではない人が原発反対になった経緯が書いてあって面白かったです。

「私はこうして原発反対になりました」
http://www.nsknet.or.jp/~yamabuki/hantai.html
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2005/8/6

西村眞悟氏は新党でもつくったら?  時事問題

自民党がもしかしたら分裂、新党が出来るかもなんて話が出てきているようだが、民主党からも、西村眞悟氏などは飛び出して新党でもつくったらどうだろうか? 以前から西村氏について「なんで民主党にいるの?」なんて言われているようなので。
西村眞悟氏と言えば、お父さんは民社党委員長で労働組合運動のリーダーだったことでも知られる西村榮一氏だけど、西村眞悟氏が自民党ではなく民主党にいるのはそうした血筋だからだと思うけれども、このお父さんのように少数政党をつくって独自の立場で政治家として活動されるのもいいのではないだろうか?
小選挙区制なので、少数政党はなかなかやっていくことが難しいということはあるのかもしれないけれども、独自の主張と立場を持つ少数政党がいろいろ出来るのは政治の世界を活性化させることになって面白いのではないかと個人的には思う。


*参考
西村栄一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

西村 栄一(にしむら えいいち、旧字:西村榮一、1904年3月8日 - 1971年4月27日)は、日本の政治家、民主社会党第2代委員長。 民主党の衆議院議員・西村眞悟は三男。

戦前は社会民衆党→社会大衆党に参加し、堺市の市議会議員を歴任。戦後最初の総選挙(1946年)で衆議院議員に当選、日本社会党→右派社会党→日本社会党→社会クラブ→民主社会党に所属した。

1953年2月、衆議院予算委員会の質疑中に首相・吉田茂に「バカヤロー」と暴言を吐かれる。これをきっかけとしてバカヤロー解散による総選挙が実施、与党・自由党(現自由民主党)を過半数割れに追い込み、翌1954年に吉田が退陣した。

日本社会党では西尾派に所属し、西尾が民主社会党(民社党)を結成に参加する。西村は1960年の衆議院選挙で、淺沼稻次郎社会党委員長の選挙区(東京1区)に浅沼の恩師である麻生久の息子、麻生良方を擁立させるなど、社会党と全面対決の姿勢を取った(しかし、浅沼が右翼少年に殺されたため、良方は裏切り者と非難され落選した)。1965年、書記長・曾禰益の副委員長就任に伴い書記長に就任、1967年に第2代委員長になる。

公明党の支持母体・創価学会の政教分離問題が表面化した際に政治評論家の藤原弘達を絶賛する一方で、公明党との合併を構想する(結局、西村の死去で実現せず)など機を見るにつけ敏とも言える行動を取り、また日韓基本条約や日米安保条約で自由民主党と同一歩調を取り、古巣・日本社会党から“第2保守党”と批判されたりもした(この様な批判に対し、西村は社会党を“第2共産党”とやり返している)。しかし、社会党に対しても一方では社公民共闘による連立政権の実現を模索していた。

沖縄返還協定の審議と参議院議員選挙の準備のさなか急死。
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2005/8/6

林由美香追悼上映  映画

亡くなられた林由美香の追悼上映があるようです。

9/3(土)テアトル新宿「追悼オールナイトイベント」
9/10(土)〜16(金)渋谷シネ・ラ・セットで「ピンク傑作選レイトショー」
9/21(水)〜29(木)渋谷UPLINK FACTORYで『由美香』上映

詳細は下記のブログにあり。
http://blog.livedoor.jp/spotted701/archives/29615770.html
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2005/8/6

ル・モンドの記事はさすがに参考になります  

ところで、このブログのリンク集に入れてある「ル・モンド・ディプロマティーク」の記事はさすがに参考になります。
最新記事は以下の3つだが、いずれもへーと思うところがあるもの。

中東のシーア派の実相
http://www.diplo.jp/articles05/0507-3.html

政府開発援助のまやかし
http://www.diplo.jp/articles05/0507-2.html

韓国の危惧
http://www.diplo.jp/articles05/0507.html

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2005/8/6

原爆の被害は現在進行形で続いているということ  原爆・原発問題

今日もTBSでヒロシマに関する番組を放送していましたが、NHKスペシャルでも8月6日(土)と8月9日(火)に原爆についての番組をやります。

http://www.nhk.or.jp/special/

■8月6日(土)⇒ 内容はこちらへ
 「被爆者 命の記録 〜放射線と闘う人々の60年〜」
■8月9日(火)⇒ 内容はこちらへ
 「赤い背中 〜原爆を背負い続けた60年〜」

上の番組が注目されるのは、被爆者の現状について取材したものであるらしいことです。
原爆の記憶が風化しているみたいなことが言われますが、風化も何も原爆被害というのは過去のことではありません。現在進行形で続いているものなのです。被爆者は未だに病気で苦しみ続け、何十年もたってガンで死んだ人もいるのです。また子供や孫の世代の体にまで影響が出ていると言います。
アメリカが原爆を落としたことについては、アメリカ側にも軍事目的としてそれなりに理由があり、落とすべきであったのか、否かなど、議論の余地はあるのかもしれません。(一般市民に向けて落としたことはどう考えても許せる行為ではないとは思いますが。)
しかし、原爆という兵器においてとりわけ問題だと思うことは、当時の被害の甚大さということもありますが、同時に後に何十年、何百年ものスパンにわたって被害を与え続ける兵器であったということではないかと思います。戦争が終わって、生き残った人々がさあ、復興しようと思っても、戦争の時の原爆の被害はずっと物理的に残り続けるのです。特に、被爆者の子供や孫の世代の人間というのは戦争当時に産まれていなかったわけで、自分が産まれる以前の出来事を背負って産まれて来なければならないのです。
ここに核兵器というものの兵器としての特殊性があるかと思います。

「核」も平和利用ならば(事故を起こさなければ)いいのではないかという考えもあるかとは思いますが、電力など、「核」を平和利用する場合も、後処理で環境汚染を進める問題については棚上げしたままです。後世に影響を与えることを承知で、我々は現に原子力発電の電気を使っています。未来の人達の中からその被害者が出るかもしれません。我々の日常の暮らしそのものが、未来に産まれてくる人達の体に(その未来の人にとっては全く身に覚えがない、自分が産まれる以前に生きていた人達の所業のせいで)影響を与えることが予測されているのです。

こうした「核」というものが持つ本質的な問題を我々は意識する必要性があるかと思います。
原爆の被害は過去のものではなく、現在進行形で続いているものであり、そして、我々のごく日常的な暮らしそのものが未来の人達に被害を与えるだろうということが予測され、我々は加害者になることはさけられない運命にあるのではないかと。

もちろん、そういうことを認識したからといって僕個人はそのことに対してどうすることも出来ないし、だからどうこうと言うつもりもない、というのか、偉そうにそういうことがけしからんなどと言ったらそれこそ偽善者であるような気がしてくるので言いませんが、でもとりあえず、それが現実であることは認識しておいたほうがいいようには思います。認識することぐらいしか、出来ないので、せめて認識ぐらいはしておくものだろうという感じがするので。たとえ認識したからといってどうにもならないようなことなのだとしてもです。
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