2005/11/21

『エリザベスタウン』 (2)  映画

前の『エリザベスタウン』の記事のコメント欄で書いたことを整理してまとめてみました。

『エリザベスタウン』
ー中途半端さが味わいになっている奇妙な映画ー

この映画は中途半端なつくりのところがあり、それが不評の要因のひとつになっているのかもしれませんが、個人的にはその中途半端さが味わいとなって面白く思えてしまうという奇妙な作品のように思いました。

キャメロン・クロウ監督は、ビリー・ワイルダーにインタビューした「ワイルダーならどうする?」という著書があるぐらいのシネフィルの監督で、この映画でも往年のハリウッド映画へのオマージュと思われるところが散見されました。
まず『ローマの休日』のワンシーンがテレビに写っていて、引用されているところがあります。それから送別会のシーンでは『ティファニーで朝食を』の曲、ムーンリバーが流れます。これらはオードリー・へップバーンへのオマージュでしょう。
また主人公の父と母は東京のエレベーターの中で出会ったという設定ですが、これはワイルダー監督の『アパートの鍵貸します』のシャーリー・マクレーンがエレベーター嬢という設定から来ているように思います。
そういえば、仕事に失敗して傷心の青年とスチュワーデスという設定は『アパートの鍵貸します』のジャック・レモンとシャーリー・マクレーン(エレベーター嬢)の設定に関連性があるような気がします。

このように過去の映画へのオマージュがあるのですが、しかし散発的にそうしたシーンや設定が盛り込まれ、話の流れとして結び付いて機能していないような感じはします。
たとえば、これは靴の製造に失敗してという話なのだから、靴の製造の話に『ローマの休日』の王女の靴のシーンからの引用やスーザン・サランドンがタップで踊るシーンを関連づけていけばもっとストーリーの脈絡がつながっていったのではないかと思うのですが、そうしたことはしていないようです。
もしかしたら、単にうまくストーリーを連関させることに失敗したのかもしれません。
しかし、この映画が不思議なのは、設定や展開はそんな馬鹿なと思えたりリアリティがないものなのにもかかわらず、シーンごとにはリアリティが感じられることです。それは、オーランド・ブルーム、キルスティン・ダンスト、スーザン・サランドンらの役者の演技が自然体でナチュラルなので、突飛な設定でも気持ちが伝わるものになっているからかと思います。
そして、気持ちの中途半端さということを、中途半端なつくりの映画であるがゆえに伝えるものになっているように思うのです。
そもそも実際の恋愛の局面でも気持ちというのは中途半端にあったりするものではないかと思います。たとえば「これは恋愛なのかなあ?」とか、「とても今は恋愛どころじゃないんだけど」とか、そんな風に思いながら恋愛をしていたりしないでしょうか?
あるいは、恋愛だけではなく、たとえば親や知人が死んだら悲しい一方なのかというと、そうでもなかったり、いろいろな感情が混合して中途半端に人の中にはあるように思えます。
つまり、この映画が中途半端でだらだらしたつくりの映画だからこそ、そういう中途半端な状態の感情が伝わる作品になっているように思うのです。
もしかしたら、キャメロン・クロウ監督が作り方に失敗してそうなった要素もあるのかもしれないけれども、意図してこのように作っているようにも思えます。
少なくとも、設定のリアリティはある程度、無視して、各シーンの役者のナチュラルさを大切にしようという意図はあったのではないかと思われます。

個人的にはこの映画でキャメロン・クロウ監督がやっていることは『女は男の未来だ』でホン・サンス監督がやっていることに通じるところがあるような気がちょっとしました。
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