2006/2/25

『横田めぐみ物語』監督インタビュー  映画

*下記より転載
http://www.flix.co.jp/page/N0007916

横田めぐみさんの映画を撮ったアメリカ人監督激白
(2006/02/22)

 アメリカのユタ州で1月に行われたスラムダンス映画祭で観客賞を受賞した『Abduction(拉致)横田めぐみ物語』を撮った監督はなんとアメリカ人。そのアメリカ人監督クリス・シェリダンに直撃インタビューを敢行した。

Q:家族事務局長の増元さんが早期解決を訴えるため映画祭を訪れたのですが、観客の反応は、いかがでしたか?

僕にとって一番価値のある経験だったのは、増元さんが映画を見終わった直後に立ち上がり、観客から質問を受けた時に、その中の一人が「僕に何か出来ないですか?」と言ったことです。

Q:アブダクション(拉致)は、世界中が抱えている共通の問題とはいえ、なぜアメリカ人のあなたが、日本のこの問題に取り組もうとしたのですか?

われわれが最初にこの事件を耳にしたのが、2002年に平壌で開かれた北朝鮮の金正日総書記と小泉首相との首脳会議で、その時にようやく金正日総書記が、過去にめぐみさんを含め13人を拉致した事を認めたんです。

当然それには、驚かされたのですが、さらに衝撃を受けたのは、その中に13歳の少女がいた事です。そのことが、さらなる情報収集と研究を呼び起こす、われわれの探求の始まりでした。

Q:現在(インタビュー日:2月9日)北京で適時にも日朝並行協議が行われている最中ですが、この会議をどれくらい着目していますか?

もちろん、撮影後の今も、片目を日本と北朝鮮に向け、もう片方はこのアメリカの対応に注視し、今回の協議では、どういった言及がされるかを見ています。それと今でも日本から関係者の方が最新情報をe-mailで送ってくれてます。

こちらでは、入らない情報がたくさんありますからね。ただわれわれが今も追いかけている理由は、映画を撮影したからでなく、彼らに親密な関係を個人的に感じているからです。

Q:日本は現在、容疑者の引き渡しを要求しているですが、それが成立すると北朝鮮側は、この問題の全ては終結したと主張し、われわれが本当の黒幕を知らずに終わることになるのではないでしょうか? 

それは、僕には返答する事ができません。あなたは、何が次に起こるか質問している訳ですから。

誠実で熱心に語る言葉と泣きながら撮影していた事もあったという彼、目頭を赤くしながらインタビューをしたときに誓ったことは、この映画をあらゆる手段を使って人の目に触れさせる事である。現在、日本と北朝鮮は、安全保障問題の並行方式による協議を継続することを確認している。(ニューヨーク:細木信宏)
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2006/2/25

毎日新聞連載ーノーモア水俣病:50年の証言(4)  公害・薬害・環境・医療問題

ノーモア水俣病:50年の証言/4 胎児性世代/上 /熊本
 ◇子供の可能性信じ奮闘、母として教師として
 「1階奥の病室のドアを開けると、悪臭が鼻をついた。7、8人の胎児性患者が、異様なうめき声を上げ、よだれかけはベトベトに汚れていた。窓がない暗い部屋で、いわば隠しているわけ。見せたくないから」
 水俣市立水東小教頭だった日吉フミコさん(90)=水俣市栄町=は初めて胎児性患者と出会った時の衝撃をこう振り返る。
 48歳だった63年3月22日、受け持ち児童の見舞いに同市立病院を訪れ、北海道の女子高校生3人が水俣病患者の見舞いに来ているのを知った。水俣病公式確認から7年、死亡解剖により最初の「胎児性」が確認され2年が経過していた。地元に住みながら患者に関心がなかったことを恥じ、女子生徒について行くと、津奈木町の年老いた男性が、キセルでタバコを吸おうとしていた。指は曲がり、全身がブルブル震えていた。妻がマッチで火を付けようとするが、なかなか付かない。「長男が1カ月前に劇症型で亡くなった。今度は父ちゃんがこげんなって」と涙をポロポロ流しながら訴える妻。日吉さんの目にも涙があふれた。
 次に向かったのが胎児性患者の病室だった。その日見た光景が頭を離れず、「私がこの子たちの親だったらどうするだろう」と苦もんする日々が続いた。悩んだ末、周囲からの勧めもあり翌月、「あの子たちを何とかしたい」と教師を辞め市議に立候補。63年5月〜79年4月の4期務め、現在に至るまで、「子供たち」を支えてきた。
 初当選時、議会内にはチッソ擁護派が多く「議会で水俣病のことを絶対に言うな。言えば水俣が栄えなくなって人が暮らしにくくなるから」とクギを刺された。当時の市長は元日本窒素肥料(現チッソ)水俣工場長の橋本彦七氏(1897〜1972年)だった。
 その後、日吉さんは議会で2度の懲罰処分を受けながらも孤軍奮闘。胎児性患者らのために、リハビリテーション専門の湯之児病院(65年)と、同病院内に市立水俣第一小学校湯之児分校を設立(69年)するなど尽力した。脅し、いやがらせは度々あったが、それでもひるまなかったのは母として、教師として「子供たちの可能性を引き出したかった」からだ。
  ◇  ◇
 人生丸ごとが「水俣病の歴史」と重なる胎児性患者。彼らは世界初の、母親の胎盤を経由したメチル水銀中毒の被害者でもあり、水俣病闘争ではシンボルのように掲げられた。「子供たち」も今40〜50代の中年になっている。【水俣病問題取材班】(次回は28日掲載予定)
(毎日新聞、2006年02月21日)
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2006/2/25

毎日新聞連載ーノーモア水俣病:50年の証言(1)〜(3)  公害・薬害・環境・医療問題

*今年は水俣病公式確認50年ということで関連イベントがありマスコミなどでも取り上げられていますが、毎日新聞でも特集の連載がされていますので転載しておきます。

(ニュース)
ノーモア水俣病:50年の証言/1 公式確認 /熊本
 ◇テープが苦悩語る−−保健所長、生前の声
 「私は水俣病の“発見者”なんです。いきさつをお話ししておきましょう」
 「水俣病のはなし 祖父より」と題した2本のカセットテープ。優しく語りかける声の主は、1956(昭和31)年5月1日の水俣病公式確認当時、水俣保健所長だった伊藤蓮雄さん(故人)だ。亡くなる約3カ月前の91年5月、孫娘に捧げるメッセージを残していた。
 「水俣は非常に景色がよくてね。海が青々して、とてもいい所でした。ところが、赴任した翌年の昭和30年。保健所に『変な病人がいるから調べてくれ』という投書がきたんです」。新日本窒素肥料(現・チッソ)水俣工場付属病院の細川一院長を訪ねると「『その人は私も診た。どうも分からんから熊大の教授を呼んで調べてもらったらヒステリーということでした』。そうですかと」。だが、その翌年。細川院長から患者が4人入院したと報告を受けた。これが公式確認となった。
 地元開業医からも「同様の患者を診察したことがある」との情報があり事態は深刻化。その後は「とにかく苦労した」。当初、水俣病は原因不明の伝染病とされたが、混乱するチッソ付属病院から、当時空いていた市の伝染病舎に患者を移すための苦肉の策だった。熊本大学の病理解剖に協力してもらうため患者宅を回りながら、貧しい遺族のため妻に葬式の白装束を縫わせたこともあった。
 熊本大の研究班は水俣病を「魚を食べることによる一種の中毒症」と推定。ネコを使った実験に入ったが難航した。ネコ好きだった伊藤さんはフンだらけの狭い網の中に飼われていることを知り「ネコはきれい好き。これではうまくいかない」と保健所の一室を使いネコ実験を実施。57年4月、同大にさきがけ「発病」に成功した。
 県や熊本大の初期の対応は素早かった。しかし、チッソの抵抗や高度成長を支えた同社への国の配慮からその後の原因究明、患者補償は大きく遅れることとなる。
  ◇  ◇
 57年3月の国の厚生科学研究班報告書「熊本県水俣地方に発生した奇病について」。初期の患者リストの中に中津芳夫さん(74)=水俣市月浦=の名がある。父親と漁業をしていたが「53年ごろから海水からすっぱいような臭いがするようになり、魚が浮いているのが目立った」。公式確認前の55年。「バスから降りる時、握っていると思っていた小銭がなく手の感覚がなくなっていることに気づいた」。まもなく目も見えにくくなった。
 水俣病の影響で魚が売れなくなったこともあり「金をもらってリハビリをさせてもらう」思いで、39歳の時、チッソの関連会社に入社。定年まで勤めた。だが、今でも口元の感覚はなく会話や水を飲むのにも苦労する。「73年にようやく水俣病と認定された。判定はでたらめで最低ランクのCだった。診察してくれていた熊大の先生もそんなに軽いはずはないといっていた。チッソは水俣にいる間は被害者に謝罪し続けるべきだし、できれば水俣から出ていってほしい」。50年たった今でも心にわだかまりを抱えたままだ。
  ◇  ◇
 「父はネコ実験の後、1年間工場の排水を止め、禁漁にすべきだと県の上司に提言したが取り合われなかった。『本当は水俣病は数年でけりがついていた』と死ぬ間際まで悔やんでいました」。伊藤さんの長男隆一郎さん(61)は述懐する。「水質汚濁防止法、大気汚染防止法ができまして、今後、企業が国民の健康を重視するという姿勢ができたわけですが、たくさんの人が病気になって死んでいった悲劇の上にたったもので残念で……。我々の住む環境がいつまでも美しいように努力せんといかんと思います」。テープは後世に訴えている。【水俣病問題取材班】
  ◇  ◇
 水俣病の半世紀を関係者の証言でつづります。(次回は2月7日掲載)
(毎日新聞、2006年1月31日)

ノーモア水俣病:50年の証言/2 チッソ /熊本
  ◇「終息」発言に懸念−−水銀使用の元社員
 水俣病公式確認から50年の今年は原因企業「チッソ」(東京)の創業100周年にもあたる。
 1906(明治39)年1月、野口遵(したがう)が鹿児島県大口村(現・大口市)で水力発電を始め、電力を基に近辺の石灰石などからさまざまな化学原料・製品をつくり出す「日本窒素肥料」が生まれた。国内でいち早く塩化ビニールを生産するなど化学工業をリードした同社は、小さな農漁村だった水俣に君臨した。
 「会社が出来たおかげで電気がつき、ランプ掃除をしなくてよくなった」「文芸講演会で(文芸評論家の)小林秀雄氏の話が聞けるのも工場あってのこと」。水俣病公式確認の56年当時の水俣工場新聞(同社水俣工場発行)に住民代表の賛辞が並ぶ。同紙によると、57年春中学卒業予定の就職希望者614人のうち251人がチッソを志望。夏のボーナス時には支給から1週間で市中金融機関の預金残高は約4000万円アップ。商店もうるおった。
 文化、教育面での影響も大きく、元社員の江口和伸さん(69)は「野球も県内で最も早く普及した。チッソのスポーツ活動が盛んだったため」と話す。同工場の運動会は時代風刺の仮装大会が人気で街の一大イベントに。小中学校ではチッソ社員の子どもかどうかがクラス分けを左右した。
 だが、市長、県議、市議も送り出した強大な企業の負の影響も目立ち、やがて水俣病をもたらした。
   ◇   ◇
 元社員の徳田嘉蔵さん(86)は尋常小高等科卒業後、15歳でメールボーイ(社内伝達係)として入社。2年間、勤務後に同社の教育機関だった双葉会で勉強した。「物理や数学、英語も学べた。当時の水俣には(旧制)中学はなかった。『貧乏人が勉強し生意気になったらいけない』という社の方針によるものだった」という。
 現場に移ってからはガスによる爆発や中毒の危険と隣り合わせ。煙突からの有毒ガスは裏山の木々を枯らし、雨の日には工場内の廃棄物から汚水が川に流れ込んだ。戦時中は徴兵で社を離れたが、戦線で他社の化学会社員から「チッソは世界の中でも労働条件が悪い」と言われた。取り扱う危険物質が多く、給与水準も同業他社の3分の2程度と知った。
 戦後、チッソに戻った徳田さんの配属先は繊維原料となる無水酢酸の製造工程。触媒には水銀を使った。「職場にはこぼれた水銀がきらきら光っていた。廃液中の残さから水銀を取り出す回収係だったが、上澄み液は排水溝に捨てた。その中にはそれこそ(水俣病原因物質の)メチル水銀が含まれていた」と話す。メチル水銀排出の主因とされたアセトアルデヒドの工程は「無水酢酸より生産量がはるかに多く水銀量も多かっただろう」と振り返る。
   ◇   ◇
 チッソは今も先端技術を売りに業績を伸ばしている。パソコンなどに広く使われるTFT液晶の素材生産は、世界で同社とドイツの企業の2社だけ。05年3月期は水俣病患者補償債務を抱えながらも34年ぶりの単体黒字を計上。今後、健康食品や医薬品の開発にも力を入れるという。
 「使用量を抑えられる肥料、新たなし尿処理の技術も開発している」(同社・広報)と今は環境に配慮する会社を自負する。一方で、今年1月の創立100周年謝恩会では社長、会長名で「(水俣病問題は)終息に向かいつつある」とのあいさつ状を出した。徳田さんは水俣病の教訓の風化を警戒する。「特に新しい原料や化学物質を扱う時には大丈夫かと疑わなければ。私たちは企業が情報を隠していないか監視を怠ってはいけない」【水俣病問題取材班】(次回は14日掲載予定)
(毎日新聞、2006年02月07日)

ノーモア水俣病:50年の証言/3 原因究明 /熊本
 ◇壁に挑んだ良心−−拒む力とせめぎ合い
 「魚介類摂食による中毒。おそらくある種の金属類であろうと推測される。新日窒(チッソの前身、新日本窒素肥料)工場の実態につき充分な実態調査を行い原因を明らかにしたい」
 国の厚生科学研究班が水俣病公式確認翌年の57年にまとめた報告書は、早々にほぼ原因を解明していた。しかし、反論するチッソ、擁護する旧通産省の壁は厚く「有機水銀」という確証を得るためにさらに歳月を要した。解明を果たしたのは熊本大学研究班の努力だが、医師の誠意はチッソ内部にもあった。
 「みんな医師として原因を明らかにしたいという一心だった」。工場内部のネコ実験で廃水が原因と突き止めたチッソ付属病院のスタッフの一人、小嶋照和さん(65)=大阪府河内長野市。工場側は廃水原因説の検証のためネコ実験を進めており、その責任者の一人が小嶋さんだった。「多い時は何十匹もいた。時には散歩もさせ、当時、幼かった娘から『お父さんはどんな仕事してるの』と聞かれ『ネコ医者』といっていたくらいだった」
 59年7月、通算で400号となるネコのそばに見慣れない液体の入った一升瓶があった。細川一院長に聞くと「秘密実験です」と一言。小嶋さんは熊本大学医学部に研究生として出入りしており、同大の水俣病研究班の教授とも親交があった。有機水銀説の検討が進んでいることを知り、細川院長にも話していた。一升瓶の液体は水銀が使用されるアセトアルデヒド工程の廃水。「廃水が原因と明らかになれば大問題。細川先生は一人で責任を負うため内緒にしていた」
 同年10月、ネコ400号は発症。その後、工場側は廃水の採取を拒み続けた。1例だけでは判断がつかず、もっと実験が必要とする細川院長。水俣市出身だった小嶋さんも「地元の人間として原因をはっきりさせなければと思い『もっとやりましょう』と励ました」。細川院長は辞表を手に工場長と交渉。実験は再開されさらに9匹で症状が疑われた。小嶋さんによると、その標本の一部を東京大に送ったが、受け取った教授が紛失し結果はうやむやになったという。ネコ実験の後も工場側は有機水銀説への反論を続けた。「事実は事実として認めるべきだった」。小嶋さんは振り返る。
  ◇  ◇
 工場廃水を巡る行政の対応でも内部のせめぎ合いがあった。57年3月に熊本県が開いた「奇病対策連絡会」。廃水の影響が濃厚として漁業法、食品衛生法による漁獲禁止が検討されたが、結局、「原因不明」として措置は見送られた。当時、県予防課長補佐として会議に出席した富島博さん(74)=熊本市=は「チッソへの影響や漁業補償などを考えた口実と感じた。実施できないことはなかった」と話す。
 水産庁も59年、旧厚生省食品衛生調査会が「原因は有機水銀」との答申を出したため旧水質2法による排水規制を旧通産省に申し入れた。しかし、実現したのは公害認定後の69年。当時の水産庁の担当者はのちの裁判で「私が行くといつもほかの省の連中、いやな顔をしまして。『一言で言えば工業立国だよ』と。非常に苦しい立場で頑張った」と証言している。
 公害などによる健康被害を防ぐチャンス、制度があっても、それを生かすのは良心――。これらのエピソードはそのことを今に伝えている。【水俣病問題取材班】(次回は21日掲載予定)
(毎日新聞、2月14日朝刊)
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2006/2/25

風邪気味なのでなるべく家で静養  映画

どうもここ数日、風邪気味なので、こじらせたらまずいので映画を見に行くのは我慢してなるべく家で待機。
マキノや、フィルムセンターの『激情の嵐』(ロベルト・ジオドマーク監督)、『今宵こそは』(アナトール・リトヴァク監督)、日仏学院の『人生なんて怖くない』(ノエミ・ルヴォウスキー監督)など、見たかったけど、全部、無視する。ロードショーもヴェンダースの新作をはじめ見たいものが目白押しだがじっと我慢だ。
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