2006/4/14

ノーモア水俣病:50年の証言(7)(8)(9)  公害・薬害・環境・医療問題

ノーモア水俣病:50年の証言/7 市民会議 /熊本
 ◇被害者と連帯し活動−−若い世代へ希望託す
 「生活のために弱い者が手をつなぐのが労働組合。その基本は命を守るということなんです」
 68年1月。市民による初の水俣病患者支援組織「水俣病対策市民会議(現・水俣病市民会議)」が発足した。中心となったのは水俣地区労働組合連絡協議会。元水俣市職員で水俣地協の役員も務めた松本勉さん(75)は、事務局長として市民会議の活動に心血を注いできた。チッソの影響力が強大だった当時、「水俣病問題を大々的に取り上げるのは戦を始めるようなものだった。しかし、安賃闘争の流れもあった」。
 1962年4月から半年余り続いた安定賃金闘争。新日本窒素肥料(現チッソ)が4年間、賃上げを保証する代わりにスト権放棄を求めたことから大争議に突入した。会社側はロックアウト(工場閉鎖)で報復し、組合が分裂、市民を二分した。徹底抗戦の末、配転などの抑圧、差別を受けた組合員側には、チッソ批判が高まり水俣病被害者との連帯感が芽生えていく。
 68年に新潟水俣病患者が水俣を訪問することになったこともあり、松本さんは胎児性患者支援に取り組んでいた日吉フミコさんらと市民会議結成に奔走した。「水俣の革新陣営は水俣病の原因究明や患者家族の闘いに何らの支援態勢も組まなかった。恥ずべき怠慢である」。水俣地協傘下組合などに手紙で結集を呼びかけた。「地元の人々がどんどん亡くなる中では保守も革新も関係ない」。発足後には新聞折り込み広告やビラで全市民に協力を訴えた。1次訴訟原告へのカンパ集めで九州中を飛び回る松本さんのもとには市役所の同僚からも浄財が寄せられた。
 初めは個人参加だった新日窒労組(第1組合)も同年8月に「何もしてこなかったことを恥とし、水俣病と闘う」という「恥宣言」を出し患者支援を本格化。組合員の江口和伸さん(69)も1次訴訟の原告の調書づくりのため患者宅を回った。「自分が年を取ったらこの子はどうなるのかと嘆く胎児性患者の母親の話を聞き、改めてチッソそして労組の責任を感じた」。訴訟では証人に立ち、工場による河川汚染の実態を証言した。
 「チッソあっての水俣」。活動を通じ、江口さんは市民を覆っていたその妄信が問題の根幹と思い至った。「会社は市民なしでは成り立たない。本当は市民あってのチッソだったんです」
 市民会議の活動は1次訴訟勝訴という実を結んだ。「関西訴訟の最高裁判決も1次訴訟が土台をつくった」。松本さんは自負を込めて言う。しかし、現在も裁判闘争が続く現状にむなしさもよぎる。「被害者のためには今も市民の力が不可欠。当時の支援者はみな年を取ってしまった。だれかリーダーがでれば新たな市民会議は今でもできると思う。胎児性患者のもとに気軽に市民が立ち寄る。そんな環境ができてもいい」。若い世代へ希望を託した。【水俣病問題取材班】(次回は4月4日に掲載します)
(毎日新聞、2006年3月21日)

ノーモア水俣病:50年の証言/8 自主交渉/上 /熊本
 ◇世に人権問う“一揆”−−若者らの心、揺り動かす
 「潜在患者の問題を含めて水俣病問題がどうして起こったか等、ハッキリとした形を取らない限り、形だけの世論を作り上げて終わりにしたいのなら、いずれ近い将来において、今より以上に大きな社会問題として各層、各界の責任が追求されるであろうことは断言してもよいと思う」
 いまだに4000人近い認定申請者が滞留し、裁判闘争が続く状況を予言するかのような一文。自主交渉派のリーダー、故川本輝夫さんが、自ら掘り起こした患者への補償を求め、71年にチッソ水俣工場前で座り込みをしていた時の日記の記述だ。
 川本さんは、同年12月に上京して闘いの場をチッソ本社に移し、1年8カ月に及ぶ座り込みを展開。「もう今では水俣病の闘いではなく、一日本民族のあるいは人間に課せられた果たすべき闘いの一過程だろう(72年12月15日)」。貧しいながらも海の幸を糧に懸命に生きる家族を破壊し、偏見、差別の苦しみに追い込んだ水俣病の不条理。自主交渉派の行動は、さながら世に人権を問う“一揆”だった。「学生の時、ずっと新聞記者になりたいと思っていたと夫から聞いたことがある」。妻ミヤ子さん(75)は正義感に燃えていた夫を懐かしむ。
  ◇  ◇
 川本さんの姿は全国の若者や文化人の心を揺り動かした。現在、福岡県久留米市に住む男性会社員(59)もその1人。九州から集団就職で東京の建設会社に入り、地下鉄工事現場で働いていた71年12月11日。川本さんらの座り込みの新聞記事が目にとまった。「水俣病はもう終わったと思っていたのに。どうなってるんだ」。70年安保もあり社会問題には敏感だった。会社を休み丸の内のチッソ本社前に出向くと、すでに支援の大学生らが集まっており仲間に加わった。
 その年のクリスマスイブ。本社内で座り込みを続けていた川本さんらが本社前路上に排除され、やがて、鉄格子のバリケードが作られた。患者側を挑発し“暴力行為”の瞬間をとらえようとカメラを構えるチッソ従業員を見て怒りに震えた。男性は車の免許を取り、運転手役として患者宿舎に常駐して支援に没頭。勤務時間に自由が利くタクシー会社に転職した。
 宿舎には「患者さんに」と給食の余りを手に通う中学生の女の子もいた。「チッソ側の人間になるのはいやだ」。大学を辞めて支援に加わる若者も多かった。川本さんは「みなさんの親御さんになんと説明したらいいのか」と困り果てながらも、大きな支援の輪に勇気づけられていたという。
 男性は東京交渉が終わった数年後に帰郷し、原発建設反対運動に参加。行政への直接交渉にも取り組んだ。川本さんの精神は今も支援者の胸中に息づいている。【水俣病問題取材班】(次回は11日に掲載します)
(毎日新聞、2006年4月4日)

ノーモア水俣病:50年の証言/9 自主交渉/下 /熊本
 ◇直談判、今は行政に−−受け継がれる闘いの精神
 チッソへの直談判を続けた自主交渉派は73年7月、1次訴訟判決(73年3月)の救済内容を認定患者全体に適用するという成果を勝ち取った。
 前面に立った故川本輝男さんの傍らで終始闘いを支えた人物がいた。チッソ従業員だった故佐藤武春さんだ。
 佐藤さん一家は患者が多発した水俣市茂道地区で暮らした。佐藤さんの長男・英樹さん(51)は、子供のころから、歩くのも不自由な母、手足のしびれなどに悩む父を見て育った。見舞金契約(1959年)で表向きは水俣病問題が沈静化していた当時。「激症の人しか患者とみられない雰囲気だった」。しかし、川本さんの患者掘り起こし活動や水俣病研究の医師による検診に触れて、武春さんは座り込みなどの活動に加わっていく。
 地域で甘夏の栽培をいち早く始めるなど先見性があった武春さんは、当初は無謀にみえた自主交渉の役割を冷静にとらえていた。「裁判による解決では、原告だけの救済になってしまう」。1年8カ月に及んだチッソ本社前の座り込みで、自主交渉派から離脱するメンバーも出て、くじけそうになる川本さんを「2人だけになっても、のたれ死ぬまでやろうや」と励ました。
 水俣工場前の自主交渉派の座り込みを支援していた水俣病互助会事務局の谷洋一さんは言う。
 「救済というものは、加害者が謝罪し、被害者の望みを聞きながら制度を編み上げていく作業が大事。自主交渉には、そういう意義があった。だが、今の賠償制度は、水俣病に限らず被害者から離れてしまっている。交通事故も司法の場で決められ、加害者と被害者が顔を合わせないことさえある」
   ◇  ◇
 英樹さんは最近、とみに手足の感覚がにぶくなっているのを感じる。甘夏のせん定中にはさみを落とすことも多く、作業中は下に人が来ないよう注意する。95年の政府解決策では医療事業を申請した。しかし、申請した兄弟4人の中で1人だけはずれた。一昨年の関西訴訟最高裁判決後も被害者救済に動かない国をみて、認定申請に踏み切った。
 「個人では国、県に太刀打ちできない」と考え同互助会の支援で昨年6月、認定申請者による「水俣病被害者互助会」が結成され、会長に就いた。12月、県庁で認定制度見直しなどを直談判。父がチッソ相手にやった自主交渉を、国、県に相手を変え受け継いだ形だ。
 ただ、直談判では「認定審査会に被害者救済に取り組む医師を加えてほしい」と求めても、担当者の答えは「審査委員は従来通りで」とそっけなかった。
 「おやじならもっとうまく交渉するだろうな」。そんな思いが頭を巡った。
(毎日新聞、2006年4月11日)
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2006/4/14

三百人劇場でも特集上映が・・  映画

ところで、三百人劇場では、野村芳太郎と田坂具隆の特集上映というのが始まるらしい。

三百人劇場
http://www.bekkoame.ne.jp/~darts/

中川信夫、川島雄三、新藤兼人、三島由紀夫映画祭、女番長シリーズ、加藤泰、神代辰巳に野村芳太郎、田坂具隆が加わった。・・これ、全部、通っている日本映画ファンっているんだろうか(笑)。

野村芳太郎は森崎東や加藤泰が脚本に参加している作品は気になる。そういえば『白昼堂々』っていうのは大好きな森崎東監督の『女咲かせます』の原典(『女咲かせます』が『白昼堂々』のリメーク)でした。

田坂具隆にいたっては実は1本も見たことがないのだが、『陽のあたる坂道』って前からちょっと見たいと思っている。石坂洋次郎の原作小説が好きなので・・。(石坂洋次郎って俺はいつの時代の人間なんだ・・。)
田坂具隆は鈴木尚之脚本の『冷飯とおさんとちゃん』あたりも気にはなるけれども。(つーか、田坂、1本も見たこと、ないんだってば。)

そういえば吉村公三郎だってほとんどまともに見たこと、ないんだよなあ。新藤兼人特集でかなり吉村作品を上映しているけれども・・。

しかし、三百人劇場のHPの田坂具隆特集の紹介文。この文章だけで「そんな監督がいたのか!」って泣けますね・・。

「愚直なまでに人間の誠意を信じ技巧に依らない伸びやかな映画世界を構築した不世出の映画監督田坂具隆!
昭和の産声とともに映画監督としての歩みを始めた名匠・田坂具隆。丹念な描写の積み重ねによって生みだされるそのヒューマンな映画世界は、日本映画の孤峰として屹立しています。戦時下においても反戦映画と見紛う描写に終始した『五人の斥候兵』と『土と兵隊』。後に、戦争賛美と指弾された『海軍』でも、母にご飯をよそう九州男児が活写されています。生まれ故郷広島で被爆し、原爆症と闘いながら歩んだ戦後は、石原裕次郎、中村錦之助、佐久間良子らの資質を全面に開花させ、新たな日本映画史を書き加えました。「無技巧の技巧」という言葉そのままに、緻密な描写を丹念につないだ田坂のキャンバスに秘められた映画の秘密に迫るべく、上映可能な17作品を上映します。 また日活多摩川で同時期に活躍した、田坂とは因縁浅からぬ島耕二の代表作4本を参考上映。」
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2006/4/14

中東和平への希望(アモス・オズ)  イスラエルとパレスチナ、中東

*今日の毎日新聞朝刊より

世界の目  中東和平への希望 アモス・オズ(イスラエル、作家)
 イスラエルの有権者は3月末の総選挙で、オルメルト首相代行率いる中道系新党カディマ主導の「中道・左派」連立政権を選んだ。この結果は、イスラエル社会に劇的な変化が起きていることを意味している。
 昨年8月、シャロン首相は出身母体の右派政党リクードや民族主義者が激しく抵抗する中、占領地ガザ地区からの一方的撤退を断行した。今回の選挙では、投票者の大部分がエルサレムの一部を含む90%の占領地放棄を受け入れる意向を示した。67年の第3次中東戦争でイスラエルがヨルダン川西岸とガザ地区を占領して以来、初めてのことだ。翻意の理由は▽占領地での暴力的な抵抗▽国際社会からの疎外感▽(イスラエル国内の)ユダヤ人とアラブ系住民の人口比逆転の可能性ーという厳しい現実を突きつけられたためとみられる。
 イスラエル国民は、領土的欲求から物理的欲求へ、自己中心的な民族主義から相互依存主義へと、徐々に優先順位を移している。今回の投票率が低迷したのは「和平の欠如」「貧困の拡大」という喫緊の課題について、どの政党も明確な回答を示せなかったためだ。イスラエルは今や、民主国家で最も貧富の差が激しい国の一つだ。またオルメルト首相代行が主張する占領地からの一方的撤退は、第3次中東戦争後の国連安保理決議242に盛り込まれた「土地と平和の交換」原則ではなく、「土地と時間の交換」に過ぎない。
 パレスチナでのイスラム原理主義組織ハマスの台頭は多くのアラブ諸国にとっても懸念材料だ。アラブ連盟(本部カイロ)は02年、イスラエルの占領地からの撤退とパレスチナ難民問題の公正な解決などを条件に、アラブ諸国がイスラエルと和平合意する提案を採択した。パレスチナのハマス内閣はイスラエルの生存権を認めず、武装闘争の放棄も拒否している。イスラエルの新政府はアラブ連盟と先の提案について、直接交渉を始めるべきではないだろうか。
 1月のパレスチナ評議会選でハマスが獲得したのは投票総数の約4割に過ぎない。イスラエルとアラブ連盟の合意はパレスチナ人の大多数に受け入れられるはずだ。 (訳・前田英司)
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