2006/8/31

水俣病懇談会 提言案まとまる  公害・薬害・環境・医療問題

*環境省の役人が「今まさに、救済を求めている大勢の被害者を救うシステムをつくるべきだという委員側の発想は、われわれの考えと近くなった」と語ったとあるけれども、「今まさに、救済を求めている大勢の被害者を救うシステムをつくるべきだ」という点でこれまで意見の違いがあったのだろうか? そもそもそうしたことを検討するために懇談会を設けたのではなかったのか?

(ニュース)
水俣病懇談会 提言案まとまる 9月1日に最終決定へ
 小池百合子環境相の私的懇談会「水俣病問題に係る懇談会」(座長・有馬朗人元文相)は三十日、同環境相への提言案をまとめ、九月一日に最終決定のため正式会合を開くことを決めた。正式会合は約三カ月ぶり。提言案は、限定的ながら現行の水俣病認定基準の維持を認める一方、現行基準に基づく補償から漏れる被害者への恒久的な補償・救済の仕組みの構築を求めている。
 懇談会は五月二十六日の前回会合で、ノンフィクション作家の柳田邦男氏ら三委員を提言作成委員に選び、六月から環境省担当者も加わって非公式協議を重ねてきた。
 当初の草案では、現行基準の見直しに言及。法律や医学の専門家らによる第三者機関を設け、新たな診断指針と症状に応じた補償制度を検討するよう求めていた。しかし、環境省側が現行基準の見直しに強く抵抗。正式会合日程を二度も繰り延べ、委員側との間で修正をめぐる応酬が続いた。
 一時は提言の取りまとめ自体が危ぶまれたが、最後は委員側が譲歩。現行基準で認定されるべき潜在患者が残っている可能性もあるなどとした上で劇症・重症患者の認定基準として限定的に維持を認める一方、「これだけでは全被害者を補償・救済できない」とする方向で落ち着いた。専門家ら第三者機関が補償・救済の在り方を検討すべきとの提案を前面に打ち出すことも断念した。
 ただ、恒久的な補償・救済の仕組みづくりで、(1)従来の救済策を受け入れた被害者に配慮する(2)将来的に補償・救済の門戸を閉じない(3)国が補償・救済の前面に立つ、などの条件を付けた。
 同省幹部は補償・救済の在り方について、「今まさに、救済を求めている大勢の被害者を救うシステムをつくるべきだという委員側の発想は、われわれの考えと近くなった」としている。(亀井宏二)
2006年08月31日 熊本日日新聞

水俣病対策 第2の政治決着後退 与党チーム 全面決着困難で一致
 自民、公明両党は30日、与党水俣病問題プロジェクトチーム(PT、松岡利勝座長)の会合を開き、新たな被害者対策として1995年の政治決着と同水準の一時金を支給するという熊本県提案では、水俣病問題の全面解決は困難との認識で一致した。
 一時金を受け入れるかどうかで被害者団体の意向が割れているため。両党は来年度政府予算案が固まる年末までに何らかの被害者対策を打ち出す方針だが、一時金による「第2の政治決着」はトーンダウンした形。環境省が再開した保健手帳受給者への療養手当支給など部分的拡充策の提起にとどまる可能性もある。
 県が想定する一時金は95年の政治決着で医療手帳受給者に支給した260万円と同水準。両党は被害者団体が患者認定申請や損害賠償訴訟を取り下げる見通しがあれば支給を本格検討する方針だったが、この日のPTでは、一時金による早期救済を求める団体と、あくまでも司法救済を求める団体とで意向が2分されていることが県から報告された。
 松岡座長はPT後の記者会見で「理想として全面解決を目指すが、一方では現実も踏まえて政治的な判断と決着もしなければならない」と指摘。一時金による全面解決は困難との前提で、あらためて何らかの対策を模索する意向を示した。
 =2006/08/31付 西日本新聞朝刊=
(西日本新聞) - 8月31日10時6分更新
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2006/8/31

薬害C型肝炎九州訴訟 一部勝訴  公害・薬害・環境・医療問題

*一部勝訴という微妙な判決。「線引き」の基準がややっこしくて分かりにくい。
 それにしても、たびたび薬害を起こすミドリ十字。こうした会社はなんとか出来ないものなのか?

(ニュース)
薬害肝炎九州訴訟 原告、残酷な「線引き」判決に憤り
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記者会見で「勝訴」と掲げる(右から)山口美智子さん、出田妙子さん、福田衣里子さん、小林邦丘さん=福岡市中央区で30日午後3時33分、西本勝写す 
 30日の薬害C型肝炎九州訴訟判決。6月の大阪地裁判決より原告の救済範囲は広がったものの、全面勝訴を目指してきた原告は、残酷な「線引き」に憤り、涙した。一方で、国の不作為責任は再び認められ、全面解決の道はさらに一歩進んだ。「被害者全員の救済まで歩みは止めない」。薬害の根絶を誓い、原告たちは力強く前を向いた。【清水健二、石川淳一、高橋咲子】
 午後2時。定刻に須田啓之裁判長が口を開くと、原告・弁護団40人余であふれ返る傍聴席を静寂が包んだ。約5分の主文読み上げ。原告の間で勝敗が分かれ、多くが唇をかんだ。傍聴した支援者らも表情は硬く、閉廷後もしばらく沈黙が続いた。
 原告番号1番から順に、読み上げられた原告が勝訴。番号を飛ばされれば棄却。「1番」の全国原告団代表、山口美智子さん(50)は真っ先に勝訴を告げられたが、「2番」「3番」が飛ばされた。「予想してなかった。悔しさがこみあげた」。口を真横に結んだ。
 クリスマシン(第9因子製剤)を投与された福田衣里子さん(25)は飛ばされた。「負けた……。じゃあ何で病気にならなければならなかったの?」。山口さんから手を握りしめられた。「治療でつらい時、頑張った分だけ喜びがあると思っていたから悔しい」と声を詰まらせ、「でも、必ず問題は乗り越えたい」と絞り出すように言った。
 地裁前では、100人を超える他地裁の原告や支援グループが判決を待った。弁護士が「勝訴」の垂れ幕を掲げて駆け寄ると、拍手がわき起こったが、詳細な内容が分かると動揺が広がった。
 判決後の記者会見と支援者への報告集会。原告の出田妙子さん(48)は「私たちの苦しみが癒えることはない。国と製薬会社の謝罪なしに、被害回復の第一歩を踏み出すことはない。一刻も早く謝罪すべきだ」と訴えた。
 弁護団代表の八尋光秀弁護士は「大阪地裁判決が明確にした国と企業の責任を一歩進めた判断だと評価している。C型肝炎は死に至る病。目をそらしている間に多くの命と人生が奪われた。これ以上被害を拡大してはならず、全面解決まで戦う」と決意を表明した。
 ■解説 同じ一部勝訴だが6月の大阪地裁判決より意味重い
 原告18人中11人への救済を命じた福岡地裁判決は、同じ一部勝訴ではあるが、6月の大阪地裁判決より意味は重い。国の責任の時期をさかのぼったというだけでなく、医薬品の安全性について国により高いレベルの情報収集や調査・検討の義務を課しているからだ。
 医薬品の安全性は、効能(有効性)と副作用(危険性)のバランスで決まる。HIV、ヤコブ病など近年の薬害訴訟では、患者に未知の症状が表れて危険性が急に高まった時、国や製薬会社が「いつ気付き、止められたか」が問題になった。
 87年の集団感染を責任発生の起点とした大阪判決もこの延長線上にあるが、今回はやや異なる。血液製剤による肝炎感染は、40年以上前から医療現場で指摘されていた。判決は、集団感染のような際立った状況変化がなくても、米国内での承認取り消しなどさまざまな知見の積み重ねで、製造・販売の中止が判断できたはず、という理屈だ。
 結果的に違法とはされなかったが、判決は80年以前についても、製造承認時の申請データを「水準に満たない」、製剤が71〜78年の再評価を免れたことを「不相当」と批判している。制度を充実させても運用がずさんである限り、薬害は繰り返されるに違いない。
 原告と同じ血液製剤によるC型肝炎感染者は1万人以上。ウイルス性肝炎全体では約350万人もの感染者がいる。その多くが輸血など医療行為に起因することを考えれば、国が主導して対策を取らねばならないのは明らかだ。検査や治療の体制整備は、将来の医療費抑制にもつながる。
 法的責任の争いに固執し、背後にいる多くの患者の救済を先送りするのは、薬害という「人災」の拡大にほかならない。大阪、福岡と敗訴を重ねた以上、国は被害実態を直視し、和解と恒久対策の確立を急ぐべきだ。【清水健二】
 ■薬害C型肝炎九州訴訟判決要旨
 薬害C型肝炎九州訴訟で、国と製薬会社に賠償を命じた30日の福岡地裁判決の要旨は次の通り。
 1 1964年6月の非加熱フィブリノゲン製剤承認の際の責任
 当時は、医薬品の有効性を判断するために提出を義務付けられた資料に関する規定はなく、当時の知見によれば、産科出血原因は低フィブリノゲン血症であり、フィブリノゲンの補充が有効であると考えられていた。
 また、産科出血の重篤性や肝炎の予後が重篤とは考えられていなかったことからすると、非加熱フィブリノゲン製剤の医薬品としての有効性が認められ、その適応を先天性低フィブリノゲン血症に限定することなく、旧ミドリ十字がこれを製造、販売したことに過失はなく、厚生大臣がその製造を承認したことが違法とはいえない。
 2 77年12月までに非加熱フィブリノゲン製剤の適応を先天性低フィブリノゲン血症に限定しなかった責任
 当時の知見によると、非加熱フィブリノゲン製剤に有効性がなかったとまでは認められないし、肝炎の予後が重篤であるとも考えられていなかったから、非加熱フィブリノゲン製剤の有用性が認められる。したがって、77年12月までに非加熱フィブリノゲン製剤の適応を先天性低フィブリノゲン血症に限定しなかったことについて、旧ミドリ十字の過失は認められないし、厚生大臣の権限不行使が違法ということもできない。
 3 80年11月までに非加熱フィブリノゲン製剤の適応を先天性低フィブリノゲン血症に限定しなかった責任
 78年には米国食品医薬品局(FDA)によるフィブリノゲン製剤の承認取り消しが公示され、当時の知見としてもフィブリノゲン製剤の有効性に疑問が生じていたのであるから、医薬品の安全性の確保等について第一次的な義務を有する旧ミドリ十字だけでなく、厚生大臣としても、その詳細を含めた情報を得た上で、非加熱フィブリノゲン製剤について調査、検討を行うべきであった。この時点で調査、検討を行えば、遅くとも80年11月までには、有効性及び有用性についての判断を行うことができたし、厚生大臣については、仮にそうでないとしても、旧ミドリ十字に対して緊急安全性情報を配布するよう行政指導すべきであった。
 その結果、当時の知見によれば、非加熱フィブリノゲン製剤の有効性がないとされた蓋然(がいぜん)性があるとまでは認められないものの、産科出血及びDICに対する知見が集積されるにつれ、その有効性が乏しいとされていた状況であって、そうした知見に加えてFDAによる承認取り消しによって示された知見や当時においては既に代替製剤が存在していたことなどからすると、この時点における判断として、非加熱フィブリノゲン製剤には後天性低フィブリノゲン血症に対する有用性が認められないとして、適応が制限された蓋然性が高い。
 従って、旧ミドリ十字と厚生大臣は、遅くとも80年11月までに非加熱フィブリノゲン製剤の適応を先天性低フィブリノゲン血症に限定するか、または緊急安全性情報を配布すべき義務があったにもかかわらず、これを怠ったことに過失及び違法性がある。よって、被告会社らと国は、その後に同製剤の投与を受けた原告らに対する損害賠償義務を負う(適応外使用の主張は理由がない)。
 4 加熱フィブリノゲン製剤の適応を先天性低フィブリノゲン血症に限定しなかった責任
 加熱フィブリノゲン製剤は、非加熱フィブリノゲン製剤と有効成分が同一なものであるから、加熱処理によるウイルス不活化の効果がない限り、有用性が認められないところ、不活化の効果は認められない。
 従って、加熱フィブリノゲン製剤の適応を先天性低フィブリノゲン血症に限定しないまま製造、販売した旧ミドリ十字には過失があり、厚生大臣がこれを承認したことは違法である。よって、被告会社らと国は、その投与を受けた原告らに対する損害賠償義務を負う(適応外使用の主張は理由がない)。
 5 クリスマシンの製造承認の際の責任及びその後にその適応を限定しなかった責任
 クリスマシンが適応となる場合には、他の薬剤によっていては早急な効果を期待できず、重篤な結果をもたらすことが考えられるような場合があった。87年に行われた医薬品の再評価手続きにおいても、クリスマシンはその適応に対する有効性が認められ、FDAも一般的には有効で安全であるとしている。
 従って、クリスマシンについては、医薬品としての有効性及び有用性が認められるから、その製造承認をし、これを製造、販売したこと及びその後にその適応を先天性第9因子欠乏症に限定しなかったことについて、被告会社らと国に責任はない。
 6 製剤投与の有無に関する事実認定
 非加熱フィブリノゲン製剤の投与を受けたとする原告らのうち1名(原告番号2)については、その投与を受けたことを認めるに足りる証拠がなく、母子感染したとする原告(同3)についても、フィブリノゲン製剤によってC型肝炎に罹患(りかん)したと認めることができない。
 7 因果関係
 80年11月以降にフィブリノゲン製剤の投与を受けた原告ら11名のうちには、輸血を併用された者もいるが、フィブリノゲン製剤の投与とC型肝炎ウイルス感染との因果関係はすべて認められる。
 8 除斥期間
 C型肝炎ウイルスの持続感染となったことによる損害賠償請求権の除斥期間の起算点は、その旨の診断がされた時または持続感染による症状が発症した時であり、除斥期間が問題となる3名の原告らについて、いずれも除斥期間の経過は認められない。
(毎日新聞) - 8月31日10時8分更新
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060831-00000003-maip-soci
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2006/8/31

ドキュメンタリー『二重被爆』  原爆・原発問題

*ドキュメンタリー『二重被爆』、東京では渋谷UPLINK Xで9月2日より上映されるようです。
(大阪ではシネ・ヌーヴォで9月8日まで上映中。)

(関連ニュース)
「二重被爆」の苦悩描く/8人の証言、記録映画に
2006/06/17
 広島と長崎の両方で被爆した人たちの苦しみを描いた記録映画「二重被爆」が完成した。故人も含め2重被爆者8人の証言などをまとめた。2度の惨禍を体験した人たちは「人種や言葉を超え、原爆の非人道性が世界に伝わってほしい」と映画に思いを込めている。

 2つの地で被爆した人が当時どれくらいいたのか、国や自治体に具体的なデータはなく、その実態はほとんど分かっていない。

 映画は「なぜ原爆が2回落とされたのかを問い直したい」と、テレビ番組制作会社の代表稲塚秀孝さん(55)が企画、制作した。

 メーンで登場する山口彊さん(90)=長崎市=は「きのこ雲に広島から長崎まで追いかけられてきたんじゃないかと思った」と、2度被爆した衝撃を語った。

 三菱重工長崎造船所の技師として広島に出張中、爆心地から2キロの路上で大やけどを負った。2日後に列車で長崎に戻ったが、今度は爆心地から3キロの会社にいた時、再び被爆したという。
http://www.shikoku-np.co.jp/cinema/news/20060617_1.htm

なぜ原爆は2度落とされたのか 「二重被爆」国連で上映
2006年 8月 4日 (金) 11:02 asahi.com
 広島、長崎の双方で被爆した人たちに焦点を当て、なぜ2度も原爆は投下されたのかと問いかける日本のドキュメンタリー映画「二重被爆」が3日、ニューヨークの国連本部で上映された。二重被爆者の山口彊(つとむ)さん(90)が長崎市から駆けつけ、「日本では二度あることは三度あるというが、三度目はあってはならない。核兵器廃絶のため、みなさんの力が必要です。私も命の限り訴え続ける」と、会場の国連職員らに訴えた。
 今年完成した約1時間の映画は、山口さんへの聞き取りを中心に進む。造船技師だった山口さんは61年前の8月6日、出張中の広島で被爆して大けがをし、生まれて間もない長男と妻の元にという一心で長崎に戻った翌日の9日、再度被爆した。短歌をたしなむ山口さんが、広島の太田川を埋めて流れる遺体を「人間筏(いかだ)」と表現した同名の短歌集の作品などが、英語の字幕で紹介された。
 映画の中で、二重被爆を知ったフランスの学生が「ヒロシマ、ナガサキは一つの出来事ととらえてきたが、二重被爆はなぜ2度目の原爆が必要だったかを考えさせる」と話す。 山口さんは今回、初めて旅券を手にして訪米したという。「ここで死んでもいいと決意して来た」と話した。
    ◇
 「二重被爆」は6日午後1時と3時の2回、東京都中央区築地5丁目の浜離宮朝日ホール小ホールで上映され、映画制作に協力した星野仙一さんと主題歌も歌う歌手の加藤登紀子さんのトークセッションもある。
http://news.goo.ne.jp/news/asahi/shakai/20060804/K2006080400880.html

「妻も被爆者だった」星野前監督、記録映画作りに協力
2006年
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2006/8/31

水俣病 与党PT、年内に救済策提示目指す  公害・薬害・環境・医療問題

どうなる?水俣病、「第2の政治決着」。

(ニュース)
<水俣病>年内に救済策提示目指す 与党チーム
 自民、公明両党による「与党水俣病問題に関するプロジェクトチーム」が30日開かれ、未認定患者に対する救済策について、年内にも具体策をまとめる方針を明らかにした。当初は8月末の政府来年度予算の概算要求までに決定することにしていたが、患者団体の意向把握に時間がかかった。
(毎日新聞) - 8月30日12時30分更新
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060830-00000044-mai-pol
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2006/8/31

ノーモア水俣病:50年の証言(18)(19)(20)  公害・薬害・環境・医療問題

ノーモア水俣病:50年の証言/18 にせ患者/上 /熊本
 ◇抗議に“見せしめ逮捕”−−変わらぬ権力の体質
 「にせの患者が補償金目当てに次々に申請している。金の亡者だ。認定審査会は苦労している」「運転免許の試験では視野狭さくじゃないのに、検診の時は『見えない』と答える」−−。
 チッソと患者側の補償協定締結後、認定者が急増した75年8月。陳情先の環境庁で杉村国夫、斉所一郎両県議(いずれも当時)がこぼした“にせ患者”発言は、後に県議会に抗議に訪れた患者や支援者4人が逮捕される騒動に発展。水俣病被害者の差別・偏見被害が広く論じられるきっかけとなった。熊本市で飲食店を経営する森山博さん(56)はこの時逮捕された1人だ。
  ◇   ◇
 当時、熊本大に在学。患者を支援する「水俣病を告発する会」のメンバーとして活動していた。発言を報道で知った時は「なんちゅうバカが……」とあきれた。患者らが9月の県議会の公害特別委員会で県議に抗議するとの知らせを聞き、先輩と2人で駆けつけた。すでに、私服警官や機動隊が待機。杉村県議が「発言の内容が真意と異なり伝えられ、誤解を招いたことは遺憾だ」と声明文を読み上げ、委員会は打ち切られた。患者から怒号が飛び交った。
 患者らと委員会室の外の廊下で待っていた時だった。杉村県議が飛び出してきた。「みんなワーッと近寄って行ったが、たくさんの警官や県職員がガード。もみくちゃになったが県議に手が届かない」。混乱の中で私服警官が「お前、けっただろ? けったね?」としきりに言うのが聞こえた。
 やがて県庁を引き上げ、釣りに行ったほどで、暴行した意識はまったくなかった。ところが、10月の早朝、突然、20人もの捜査員が下宿先に訪れ、公務執行妨害・傷害容疑で逮捕された。「逮捕された患者さんの自宅にも機動隊やらがたくさん来たという。若いリーダー格の患者だったのでつぶしにかかっているのだと思った」。逮捕は被害者を抑えつけるための見せしめだった。
   ◇   ◇
 89年の最高裁判決で、懲役4月執行猶予2年の有罪が確定した。「でっち上げ裁判は簡単だと思った。県議が(正しいと)言えば通るのが裁判所だった」と振り返る。「〓罪(えんざい)とはいえ、自分の逮捕は大したことじゃない。その後、運動がしぼんだわけでもない。ただ、患者さんが逮捕されて犯罪者扱いされたから、戦わなければと思い最高裁まで争った」。2県議はその後、認定申請者から名誉棄損による損害賠償請求を起こされた。熊本地裁は「申請者の社会的評価を低下させた」と原告の主張を認めたが、慰謝料の支払いは命じなかった。
 現行認定基準を事実上否定した関西訴訟最高裁判決後、再び4000人を超す被害者が認定申請している。申請者に対し今は「金目当て」という発言が出てこない世の中に変わったのだろうか?
 「『にせ患者』発言をするような権力側の体質は変わっていないのでは。だからまだ、水俣病問題は終わっていない」。森本さんは冷めた表情で話した。【水俣病問題取材班】
毎日新聞 2006年8月15日

ノーモア水俣病:50年の証言/19 にせ患者/下 /熊本
 ◇逮捕も「生きた証し」−−水俣の本質問う契機に
 「『にせ患者』という言葉はチッソ擁護の立場(だからこそ出てきた言葉)なんです」。「水俣病患者連合」事務局長として患者支援を続ける高倉史朗さん(55)も、警察と衝突した75年の「にせ患者県議発言」抗議行動の現場にいた。
 「社会的に上の立場の人が差別的なことを口に出して通る時代だった」。時間を経るごとに、初期の劇症型から外見からは症状が分かりにくい被害者が増えた水俣病の特徴も「にせ患者」発言を招く原因だった、と高倉さんはみている。
 今でこそ、水俣病は神経からの感覚情報を処理する大脳皮質が有機水銀で障害を受ける「中枢説」が有力とみられるようになった。「単純で無意識の動作に支障は出ないが、意識して複雑な動作では症状が出る」とも指摘されている。
 検診の際にまっすぐ歩くように言われた患者がその時はふらつき、検診を終えて帰る時には普通に歩けるといったことも起こるわけだ。だが、当時は患者に不信の目が向けられていった。
 実際の姿は違っていた。高倉さんは、患者とキノコ栽培をしていたことがあった。体格が良く健康そうに見える人でも、同時に複数の作業をするのが難しかったり、道具などを渡そうとした時、視界が狭いため、うまく受け取れない。
 高倉さんは「当時は『何をもってにせ患者というのか』を論理的に知りたいと思った」。水俣病の症状を論文にもまとめた。「にせ患者」として切り捨てられた認定申請者の行政不服審査請求や処分取り消し訴訟にもかかわり続けている。
 県議の「にせ患者」発言から約30年。表向きは同じ言葉を聞くことはなくなった。「しかし現状は『にせ』と思っても口に出せないというだけ」と思う。
  ◇  ◇
 水俣病認定申請患者協議会の副会長だった芦北町の緒方正人さん(52)は「抗議行動をやろう」と呼びかけた1人。県議への傷害などの疑いで逮捕された。「『金目当てのにせ患者』『暴力患者はこんなに過激な連中だ』と知らしめようとしたんでしょう」
 だが、今は「いい思い出。だれも恨んでいない」と穏やかな表情で振り返る。「当時は警察、議会、検察官にも激しい怒りを覚えたけれど、生きていた証しというか……。裁判所が代わりに日記をつけていてくれたのだと思う」とほほえむ。逮捕は「にせ患者」という差別をどう乗りこえるか、水俣病の本質とは何かを考えるきっかけとなった。
 事件から10年後の85年、緒方さんは認定申請を取り下げた。自分の存在を自問自答するうち「自分がチッソの労働者か幹部だったら同じことをしたのではないか」と思い至ったからだ。「人間が加害者、被害者のどちらか一方であることはありえない。チッソの人も立場を超えて目覚めてほしい」と思う。
 そして、水銀を含む汚泥が埋めたてられた埋め立て地に手彫りの地蔵を置く「本願の会」を結成した。そこには「生命がよみがえることが一番大切」という願いが込められている。【水俣病問題取材班】
毎日新聞 2006年8月22日

ノーモア水俣病:50年の証言/20 教育 /熊本
 ◇「命と人権」教える意義 教職員、患者から学ぶ
 今月26日、水俣市で「水俣芦北公害研究サークル」の30周年記念祝賀会が開かれた。水俣病教育を推進する教職員の組織だ。「水俣にいる限り、水俣病から目をそらさない教育をしなければならない。水俣病事件が教育にどういう意味を持っているのか追究してほしい」。会では前会長の広瀬武さん(72)が、後輩教職員に願いを託した。
 71年、広瀬さんは当時在籍していた小学校に患者の1人、浜元二徳さんを招き、地元で初めて水俣病を授業に取り上げた。話を聞いた児童は「ひどい被害が放置されているのはおかしい」と率直な思いを作文につづった。
 だが、当時はチッソ擁護の風潮もあり「反響は大きすぎた」という。臨時校長会が開かれ「加害企業の責任を追及する一方的なものだ」「患者を教室に入れ、あまりにも生々しい」と次々に批判があがり、水俣市議会でも問題となったほどだった。
  ◇  ◇
 水俣の教職員は、患者支援をきっかけに、水俣病と向き合うことになった。市民による初めての患者支援組織「水俣病市民会議」ができたのは68年。広瀬さんは日教組組合員としてメンバーに加わった。同じ年に新潟県で開かれた日教組の教育研究全国集会で水俣病について報告。「当時はまだ知識も十分でなく、あちこちの患者から聞き取り調査し『生活破壊との戦い』とのテーマで話した」という。翌69年には患者が1次訴訟を起こした。支援のカンパ集めなど、組合の活動はさらに活発となった。
 そんな中、親ぼくを深めた浜元さんの一言はこたえた。
 「先生たちは教えるのが仕事じゃろう。なして今まで水俣病ば教えんじゃったか」
 広瀬さんはある出来事が胸につかえていた。市民会議発足当時、新潟水俣病患者が水俣市を訪れ患者同士が交流した時だった。その場に第一小で受け持った女児の母親がいた。
 「何でここに?」
 何の気なしに声をかけると母親は「先生には言えなかったが、あの子の父親は劇症患者だった」と明かした。
 「自分は8年間、第一小で何をしていたのか」と身につまされた。
  ◇  ◇
 水俣病の授業は、公害が社会問題化する中で関心が高まり、教育現場で取り上げざるを得ない風潮へと変わっていった。広瀬さんらは76年にサークルを結成。県教組も県内で水俣病の「一斉授業」の運動を展開した。広瀬さんはその後、患者多発地区の袋小学校でも授業を続けた。「にせ患者」問題も起き、「差別、人権」を考える授業として同和教育とも結びついた。
 広瀬さんは「時代は違っても、教育の大切な部分は『命と人権を大事にする教育』」と水俣病教育の変わらぬ重要性を訴える。現会長の田中睦さん(55)も「水俣病は過去のことと捉(とら)えられがちだが、単に環境保護というのではなく経緯を教えることが大事。水俣病は私たちに多くのことを教えてくれる」と話す。【水俣病問題取材班】
毎日新聞 2006年8月29日
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2006/8/31

ノーモア水俣病:50年の証言(17)  公害・薬害・環境・医療問題

ノーモア水俣病:50年の証言/17 名付け親 /熊本
 ◇実態追及ゆえに冷遇−−「全容解明へ健康調査を」
 「『水俣病』と名付けたのは私です」
 現在も老人ホーム施設長を務める武内忠男熊本大名誉教授(91)。今なお白衣姿でりりしい。50年前の水俣病公式発見直後から熊本大研究班の一員として多くの患者の診察や解剖にあたり、有機水銀が原因物質だと解明した。
 武内さんは、戦前の満州医科大を卒業。在籍時に中国の医学書を多く読んでいた。
 「古代中国では水銀は生薬と混ぜて不老長寿の薬として用いていた。しかし、服用を続けた武将が狂い死にしたという詳細な記録があった。水俣で患者を診た時、それを思い出し『水銀が原因ではないか』と直感した」
 ドイツの病理学全書に記載されていたイギリスの農薬工場での有機水銀中毒事故の患者所見(ハンターラッセル症候群)が、水俣病患者と酷似していることを発見。猫に水銀を投与する実験を経て59年7月、有機水銀説を発表した。「水銀は常温で蒸発する。実験でずいぶん吸い込んだ。実は私も水俣病。今も足の裏が常に草履を履いたように感覚が鈍い」という。
 有機水銀説は経済優先でチッソを守ろうとする政府や御用学者から反論を受けた。政府が公式に「チッソ排水の有機水銀が原因」と認めたのは約10年後の68年。武内教授は、その後さらに「第3水俣病」騒動で行政や学内から冷遇を受けた。
   ◇   ◇
 「水俣病研究は患者だけを拾い上げている。一般住民も含めた疫学調査が不十分だ」。親交のあった米国の医学者から受けた指摘が、後に思わぬ波紋を呼んだ。
 武内教授は熊本大第2次研究班を組織し、71年に水俣や天草地区の住民健康調査に乗り出した。その結果、“非汚染地区”のつもりで調査した旧有明町(現天草市)で水俣病と同様の患者を確認した。「有機水銀中毒症とみうるとすれば、新潟水俣病に次いで第3の水俣病ということになり、その意義は重大」。報告書の総括が一部報道でスクープされ、全国に水銀ショックが広がった。
 最終的には環境庁の“安全宣言”や熊本大医学部教授会による“シロ判定”で幕引きが図られた。それまで県認定審査会委員として比較的多くの認定を出していた武内教授は、74年の任期切れ後に県の再任要請がないまま辞任。次第に水俣病から遠ざかった。
 水俣病は、いまだに認定申請者が増え続け、裁判闘争が続く。「不知火海沿岸に居住歴がある人の8割は患者でしょう。(水俣病の全容を明らかにし)問題を終わらせるには住民の健康調査しかない。今は症状をつかみにくい人が多いだろうが、数十メートル走らせるなど負荷をかければ明確に出てくる」と話す。
 関西訴訟最高裁判決で認定基準が事実上否定され、認定審査会はストップしたままだ。「私が元気なら審査委員を受けてもいい、そして自分なりの審査会を作る。今は水俣病についてきちんと判断ができる学者がいないから、問題が解決しない」。卒寿を過ぎた医師の眼に一瞬怒りの色が見えた。【水俣病問題取材班】
毎日新聞 2006年8月8日
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2006/8/31

ノーモア水俣病:50年の証言(14)(15)(16)  公害・薬害・環境・医療問題

ノーモア水俣病:50年の証言/14 認定審査会/上 /熊本
 ◇チッソ守る壁だった−−メモなどで明らかに
 「認定制度は、チッソを守る壁を作る制度だったんです」
 認定審査会発足当初から、棄却処分に対し行政不服審査請求で問題点を指摘し続けている水俣病互助会の伊東紀美代さん(54)は、実感を込めて振り返った。
 審査会のルーツは、59年に旧厚生省が臨時に設置した水俣病患者診査協議会。水俣病初の“患者補償”である「見舞金契約」の対象者を絞り込むための機関だった。同協議会は64年、条例に基づく県水俣病患者審査会となり、同年までに100人余りを認定したが、それ以降は「地元医療機関から患者の報告はない」と休止してしまう。後に判明するが、この時期、行政機関も医療機関も、水俣病に似た症状を持つ人たちに別の病名をつけていた。
 68年9月に「水俣病の原因はチッソ」と政府が公害認定。それまでは、差別を恐れ身を潜めていた被害者がようやく認定を申請し始め、翌年には審査会が5年ぶりに再開された。ところが、割り当てでもあるかのように、認定されたのは2年連続で5人ずつだった。
 当時は「水俣病は53年から60年に発生した」と対象期間も狭められていた。審査会は69年に公害健康被害救済特別法による機関に衣替え。そこで、同法に基づき棄却された故川本輝夫さんらが行政不服審査を申し立て、伊東さんは川本さんらを支援した。
 「水俣病は終わった」と考えていた人たちから大きな注目を集めるようになった71年、審査会はいきなり13人を認定した。川本さんたちの行政不服審査請求も「棄却処分の破棄差し戻し」という旧環境庁裁決を勝ち取る。この経過で分かったことがあった。
 「委員が、いかにチッソに気兼ねしていたかが『入江メモ』で明らかになったのです」と伊東さんは語る。
 71年10月に川本さんらが補償を求めチッソ東京本社を占拠した際、入江寛二専務(当時)の部屋から日記帳を見つけた。そこには審査会が一挙に13人を認定した後、委員の1人が「情勢から認定せざるを得なかった」と入江専務を訪ね、弁明したことが記されていた。
 川本さんたちが勝ち取った旧環境庁裁決でも審査会の様子が分かる。
 「裁決を決定的にしたのは、審査会の議事要点録でした」(伊東さん)。70年の審査会で「公害補償も考慮して慎重に」と申し合わせていたことが分かった。不服申し立てを受けた国の調査で発覚し、県の認定棄却処分が「不正」と裁定される根拠になった。
 だが、審査会はその後も、厚い壁として立ちはだかり続けた。伊東さんは現在も約25人の行政不服審査請求を支援し続けている。
 生い立ちを見ていくと、審査会がチッソと一蓮托生(いちれんたくしょう)だった姿が浮かび上がる。だからこそ、伊東さんは「審査会は一つでも被害者の正常なところを見つけて棄却しようとする」と批判する。
 審査会は、現行認定基準を事実上否定した関西訴訟最高裁判決を受けて、ようやく揺らぎが生じ始めた。県の認定審査会は04年10月に任期切れを迎えたまま委員が再任に応じず、休止したままだ。県の審査会の岡嶋透・前会長は「審査会が再開しても『棄却審査会』との批判を浴びる。補償体系を見直すことも必要ではないか」と漏らした。【水俣病問題取材班】
毎日新聞 2006年5月30日

ノーモア水俣病:50年の証言/15 認定審査会/中 /熊本
 ◇科学的検証なき“基準”−−「中枢説有利」でも見直さず
 98年12月、大阪高裁。元鹿児島県認定審査会長の井形昭弘氏は、関西訴訟で国側の証人として法廷に立った。井形氏は「77(昭和52)年判断条件」と呼ばれる現行認定基準の策定に深くかかわった人物だった。
  ◇  ◇
 原告側代理人 「末梢(まっしょう)神経障害が常識」とおっしゃるが、症状が合わない例がある。にもかかわらず、問題を積み残してきたんじゃないか。
 井形氏 困ったなとは思ったけれども、そのまま過ぎ去って。今後医学が進歩することによって明らかになると思いますけど。
  ◇  ◇
 73年にチッソと患者の間で補償協定が結ばれた後、認定申請者が急増した。同時に初期の劇症型と違い、感覚障害だけで水俣病かどうか判断しにくい被害者の存在が問題化。旧環境庁は75〜77年、井形氏らをメンバーとする水俣病認定検討会で基準を論議した。
 それまでの環境庁事務次官通知は、感覚障害や視野狭さくなど「いずれかの症状があれば水俣病」としていたが、検討会は「二つ以上の症状の組み合わせが必要」と厳格な基準を決めた。水俣病は有機水銀が手足などの神経を損傷することで起きるとする従来の「末梢神経障害説」に立ち「感覚障害だけではほかの神経炎などと区別できない」というのが理由。その後は、申請棄却が相次いだ。
 だが、関西訴訟での井形氏の証言などから、検討会が症例の実態調査などの科学的検証なしに基準を定めたことが、明らかになった。冒頭の証言からは、77年判断条件の大前提となった「末梢神経障害説」に、井形氏自身が疑問を持ち始めていたことが分かる。
 「水俣病は、有機水銀が大脳皮質を損傷して起きる」という「中枢神経説」の実証を進める浴野成生・熊本大教授らも証言した。感覚障害の被害者には、特定の場所ではなく、全身に症状がある▽症状が変動する▽かっけなどの検査で行われるひざの腱(けん)反射が正常−−という例が多い。手足など末端の神経が障害を受けたとする「末梢神経説」では説明がつかない現象だった。
 しかし、全身の感覚をつかさどる大脳皮質が障害を受けたのだとすれば、こうした現象は説明がつく。弁護団の追及に井形氏らは説得力のある反論ができず、高裁は中枢説を採用。最高裁も高裁の判断を支持し、原告救済につながった。
 関西訴訟の証言で、井形氏らは、明言はしなかったものの、腱反射などを示す申請者を「末梢説に合わない」と棄却してきたことを“示唆”した。関西訴訟弁護団長の松本健男弁護士は「自分たちの『経験』を『常識』としているだけ。認定基準はいいかげんなものだったと感じた。最高裁判決後も、基準を見直さないという環境省の姿勢は見過ごせない」といら立ちを隠さない。
 浴野教授はその後、天草の水俣病発生地区と宮崎県の非汚染地区の比較調査で、水俣病被害者は全身の感覚が健常者より鈍っているとする論文を海外に発表。中枢説を補強し、認定審査委員にも論文を送った。
 井形氏は今年2月、取材に対し「いろいろデータを見たりして、昔と考え方は変わってきた。中枢が関与していることは間違いない」と語った。
 ならば、認定基準を見直すべきなのでは……。
 記者の質問に、井形氏は「いやあ、難しいねえ……」とだけ答えた。【水俣病問題取材班】
毎日新聞 2006年6月13日

ノーモア水俣病:50年の証言/16 認定審査会/下 /熊本
 ◇末梢神経説と戦い−−自らの組織採取し実証
 水俣病の原因が、有機水銀による末梢(まっしょう)神経の損傷によるものか、大脳皮質(中枢)の損傷によるものか。現行の認定基準が決められる際、有力視されていた末梢神経説の「壁」を破る研究を続けてきたのが、熊本大医学部などで長年、神経を研究してきた熊本市在住の永木譲治医師(77)だ。
 「私自身も神経を取りました。ここです」
 永木さんの足首には数センチの摘出跡が残る。それは「末梢神経説」との戦いの生き証人とも言うべき傷跡でもある。
 熊本大大学院に進学したのは水俣病公式確認前年の55年だった。運び込まれる多くの患者を診察しながら、未知の病気に関心が高まった。「末梢神経がおかしいというなら直接、神経を調べなければ」と思っていた時、東大から来た教授が新しく神経内科の教室を開いたため、早速、助手となった。
 カエルの神経の電気反応などを通し、神経の仕組みに理解を深めた。海外では直接、人の神経細胞を取り、顕微鏡などで異常の有無を調べる生検(バイオプシー)で研究が進んでいることも知った。一方、国内はほとんどがマウスなどの動物実験だった。だが、動物種で障害の出方は異なり、人にそのまま当てはめられるとは限らない。水俣病の末梢神経説の主要論文も、動物実験を基にしていた。しかも、正常例との比較が不十分なまま結論づけられていた。
 「水俣病患者でバイオプシーをやりたい」と、水俣市の病院に就職した。85年、九州大の神経内科医らと出した論文では、精密な分析で末梢神経説を否定した。
 水俣病認定患者と健康者各8人の末梢神経でバイオプシーを実施。また神経に微弱な電気を流して損傷を調べる検査をした。患者と健康者の間にはバイオプシーで大きな差はなく、電圧の変化にも大きな差はなかった。一方、それまで「感覚障害だけでは水俣病と区別がつきにくい」とされてきた他の神経炎患者で同様の検査をしたところ、神経を伝わる電圧が明らかに低下。バイオプシーで神経組織の異常も確認された。神経を提供した健康者の1人は永木さん自身だった。
 現行認定基準は、末梢神経説を前提としているため、神経炎などの患者との誤診を防ぐために感覚障害だけでなく複数の症状が必要としている。しかし、永木さんは「(汚染魚を多食した人が)足の神経の電気の流れが正常で、ハリや筆などで感覚が鈍いことが確認されれば、それは水俣病特有の感覚障害ということなんです」と断言する。
 論文発表後、末梢神経説を唱える研究者から論文が届いた。患者と健康人で差がなかったのは「患者の神経細胞が再生した」との反論だった。しかし、その研究者は過去の論文で、末梢神経が損傷されて神経線維が減ると、代わりに神経として機能しない線維が増えると書いており、自己矛盾した論理だった。
 関西訴訟最高裁判決では、水俣病の感覚障害は末梢神経でなく「中枢損傷説」を支持した。それでも、環境省は認定基準見直しを拒み続ける。同省特殊疾病対策室は「症状が多い方が水俣病と診断する精度は高まる」と話すが、その裏では、感覚障害だけだという理由で水俣病でないと切り捨てられたままの多くの被害者がいる。【水俣病問題取材班】
 高校野球のチーム紹介などのため、しばらく休載します。
毎日新聞 2006年6月20日
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2006/8/31

ノーモア水俣病:50年の証言(11)(12)(13)  公害・薬害・環境・医療問題

(毎日新聞連載)
ノーモア水俣病:50年の証言/11 74年を問う集い/上 /熊本
 ◇「孤立の苦悩」切々と−−胎児性の問題、今も
 水俣病互助会などが先月30日、水俣市で「水俣病事件74年を問う集い」を開いた。公式確認から50年の慰霊式に対し、チッソがアセトアルデヒドの製造を始め、触媒として使われた水銀が流出し始めた1932年を「苦しみの原点」として検証した。胎児性患者や患者家族らは今も続く心の痛みを、涙ながらに告白した。貴重な証言を紹介する。【水俣病問題取材班】
 ◆公式確認患者となった田中静子さん(当時5歳、故人)と実子さん(52)=当時2歳=の姉(62)
 うちの家は窓を開けたらすぐ下が海。カキを取って食べたり。普通の生活していた。楽しく……。静子が昭和31(56)年4月に朝起きたら歩くことが出来ず。市立病院に連れていったら小児マヒだろうと、せき髄から水を取った。こわがりだった静子は、それからずっと2年8カ月泣き続けました。何も分からず。
 病院に泊まることになったが、6人部屋だったから「迷惑がかかる」と看護婦(師)さんに言われた。父母がいたが、屋上にからって(背負って)きた母が「ここから飛び降りて親子3人で死のう」と言って……。父が「あとの子どもはどげんすっとか」と言って止めた。
 それからチッソ付属病院に転院したが本人はずっと泣いて、物も言えず、食べることもできず。それから1週間したら下の実子も歩き方が変になって、新しい靴をはかせたらどうだろうと買ってきたけどだめで。私は12歳でしたが実子をからって「かあちゃん実子もこげんなったばい」と言ったら、父も母も泣き崩れました。
 今度は「伝染病」と(見られるように)なったもんですから(注)、それから私たちは……。本当に口では言い表せません。兄弟で捨て猫のように毎日を暮らしました。消毒に家に来るし、どこにも出られなかった。私がご飯を炊くのですが、幼いので要領が悪く、学校に遅刻すると、運動場の真ん中に立たせられた。先生は嫌いでした。
 静子が亡くなり家に帰ってくるというのに親せきも隣のじいちゃん、ばあちゃんの所に集まっており、私は外の井戸の暗いところで仏さんにあげるごはんを、恐ろしい気持ちで炊いて待ってました。「伝染病」となれば口を聞いてくれる人はいません。私たちのような経験をした人は2人といません。
 実子はうれしい時は笑って、人が来ても喜んでいたが、今は寝たきりで何も分かりません。風呂に入れるのもお父さん(夫)がいないとできない。ご飯も座っては食べられない。体重は20キロちょっと。夜もほとんど寝ない。私も布団には1週間に一度しか寝ません、あとは一緒に。私もめまいがして、薬を続けています。今普通の病院はたくさんあるが、水俣病のことを科学的に話してくれる先生、身近に話せる医療がほしい。
 ◆胎児性患者、坂本しのぶさん(50)
 水俣病50年は私と同じ年です。私は水俣病は終わってないと思っております。将来のことが不安になります。今はいいけど、お母さんがおるからいいけど、自分たちで暮らしていける場を作りたいと思っています。「水俣病は終わった」というけど絶対に終わっておりません。今も認定申請している人がいる。私は胎児性の問題が何も終わっていないと思います。
 (注) 公式確認直後、原因不明だった時期の水俣病は「伝染病」と恐れられた時代があった。その後、チッソ水俣工場から排出された有機水銀による慢性中毒症だと判明した。
毎日新聞 2006年5月9日

ノーモア水俣病:50年の証言/12 74年を問う集い/下 /熊本
 ◇行政への不信募る−−家族の将来、高まる不安
 先週に続き水俣病互助会などが開催した「水俣病事件74年を問う集い」での発言を紹介する。
 ◆坂本しのぶさんの母・フジエさん(81)
 長女の真由美が生まれたのは結婚して8年目。近所も喜んでくれた。ところが、歩き方がおかしく、食事の時に震えがきて丸々1年、流動食で暮らし死亡しました。自分の子どもが歩けなくなり、しゃべれず、食べられなくなる、その姿を見ている母の気持ちは、どんなに大きな声で話しても分かってもらえないと思います。
 真由美が死んでも、しのぶは魚を食べていないので、まさかと思っておりました。しかし、回りの子は首が据わってきているのに、(生後)3カ月でも体がグラグラしていた。考えてみれば(体が)弱い子供がみんな奇病の患者の家庭に生まれていたから、私たちもおかしいと思っていた。しのぶを歩かせるために、一生懸命けいこをしました。今は前より自分のことをできるようになった。「なんでも自分でせんば、私がおらん時はどがんすっとね」と今でも言っています。
 ◆胎児性患者の娘を持つ水俣病互助会の諌山茂会長(75)
 関西最高裁判決をみて腹が立ってたまりませんでした。私たちは(漁民として)排水を止めろと何回も言っていた。それを止めず会社は利益のために……。胎児性患者の家族は、親が年をとってこれからどうするかが一番心配。私たちが心配するのを本人たちも分かるのではないかと思う。娘は家内には「かあちゃんが逝くときは、連れて行って」と言う時もあるそうです。それを親として聞いた時になんと言ったらいいか……。
 ◆水俣病問題研究の宮沢信雄さん
 関西訴訟最高裁判決で日本には曲がりなりにも司法が生きていたと思いました。しかし、行政は完全に存在意義がない。この国は法治国家ではありません。
 最高裁判決は被害を拡大させたのは国、県の責任と断じました。その責めを負うものとして、国は被害者を一人残らず見つけ出さなければならなかった。環境省は「最高裁は認定基準を変えろとは言っていない」と言いますが間違い。大阪高裁に立ち返って判決文をよく読むと、(昭和)52年の判断条件は1600〜1800万円の補償にふさわしいと思われる人で、全メチル水銀中毒患者の一部と言っている。
 国は水俣病を防ぐために法律を使わなかった。公害健康被害補償法はあるが、認定基準があるために患者が門前払いを食っている。そして最高裁判決。それでも国は認定基準は変えないと言って、法律を踏みにじっています。
 ◆岡山大・津田敏秀教授
 環境省は(水俣病に関する環境相の私的)懇談会で「判断条件において認定している患者は、水俣病である蓋(がい)然性が50%以上の人たち」といっているがうそ。99%以上の人たちも認定していないということを関西訴訟で実証したのです。彼らは一度も蓋然性の計算をしていないし、水俣病の第1号、第2号患者と一緒に住んでおられた姉が患者と認定されていません。同じ家族で原因食品を食べ、下痢をして食中毒患者とみなされなかったら、みなさんどうしますか。
 患者かどうかの判断は、まず、食中毒患者を数える手法を採用する。原因食品を食べ症状があるか食品衛生法で定められた調査を申請者以外も行わなければなりません。【水俣病問題取材班】
毎日新聞 2006年5月16日

ノーモア水俣病:50年の証言/13 八幡プール /熊本
 ◇10年間、ひそかに廃水流す−−被害さらに拡大
 「今、私たちが立っている場所にチッソは10年間、原因物質の水銀を含む廃水を流し続けた。しかし、一帯(の埋め立て地)に、どれくらい水銀が含まれているか調べられていないんです」
 水俣病公式確認から50年の5月1日。水俣病事件研究で知られる宮沢信雄さんは、水俣病互助会の「事件史跡巡り」の参加者を前に拡声器のマイクを握り、そう切り出した。
 水俣川河口わきの約50ヘクタールの広大な産業廃棄物埋め立て地が広がる。元々は海だったが、現在では不知火海を見下ろす高台に。今は清掃工場などが建ち、空きビンを砕く音が響く。
 この地は、かつて「八幡プール」と呼ばれた。最も根深い行政の怠慢による罪が眠る場所だ。
 水俣湾沿岸で、水俣病患者が発生し、問題化しつつあった58年。チッソはひそかに、工場廃水の排水口を水俣湾に注ぐ「百間排水口」から八幡プールに移した。廃水はその後10年間、八幡プールを経て水俣川に流され、水流に乗って、水俣病被害は不知火海一円に拡大した。
 「10年間、ここから不知火海に向けて排水が流された。何万人という被害者が出るのは当たり前。そのことを肝に銘じて水俣病被害のありようを見ないといけない」
 宮沢さんは声を大きくして、対策を怠った行政の怠慢を批判した。
 宮沢さんによると、水俣病被害者が水俣湾沿岸以外にも広がりをみせ始めた59年9月、漁民などが「八幡」への排水を止めるよう国に陳情。旧通産省は排出先を水俣湾に戻すようチッソに指導した。
 しかし、廃水を水俣湾に戻せば汚染はひどくなる。チッソは「排水を工場に戻してアセチレン発生に使う水に再利用する」と説明した。しかし「それはうそだった」と宮沢さんは説明する。
 実際には、水銀を使ったアセトアルデヒドの製造工程がなくなる68年まで、チッソはやや場所を変えつつ廃水を八幡に流し続けた。浸透しやすい土壌だったこともあり、廃水はどんどん不知火海へしみ出した。後半は隠しパイプを埋めて、直接、海に排水したという。
 当時の旧通産省担当者は、チッソが排水口を八幡に移したことをいち早く知りながら黙認した。59年11月、チッソは「廃水を浄化する」として、「サイクレーター」と呼ばれる浄化施設を導入。その後、水俣湾への廃水では水銀値が下がった。だが「それは、サイクレーターできれいになったからではなく、八幡に廃水を流したから」(宮沢さん)。八幡の排水の水銀値は調べられることもなかった。
 八幡プールは、71年の廃棄物処理法施行前に造られ今の産廃最終処分場のように汚水の浸み出しを防ぐシートが敷かれているわけではない。最近、一部で白い物質が漏れ出していることが問題となり、県が調査した。チッソは不知火海沿岸部の一部に井戸を掘り、水銀値を定期検査しているが、全体的な調査は行われていない。流出地点の重金属類は基準値以下だったが、市民は今も、この土地に対する警戒を解けないでいる。【水俣病問題取材班】
毎日新聞 2006年5月23日
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