2012/10/15

「被爆者の声をうけつぐ映画祭2012」の報告  映画

2007年より毎年、開催され、今年で6回めになる「被爆者の声をうけつぐ映画祭」。今年度は、9月14日(金)、15日(土)、16日(日)の3日間、明治大学リバティホールにて、原爆、原発関連の劇映画3本、ドキュメンタリー8本を上映しました。9つのプログラムで、のべ635名の来場者(映画祭スタッフは除く)で、1プログラム平均70名をこえ、まずまずの動員のうちに終わりました。
劇映画は、5月に100歳で亡くなられた新藤兼人監督の追悼上映として『原爆の子』(1952年)を上映し、新藤次郎さんにお話して頂きました。『原爆の子』は戦後はじめて広島の悲劇を取り上げた長編劇映画で(ただし長崎を題材にしたものはそれ以前にあり)、観客にはこの作品を見るために静岡県からわざわざ駆け付けたという方もいらしたようです。劇映画は他に、戦後の被爆者たちの苦しみと葛藤を真正面から描いた『ヒロシマの証人』(1968年)、原爆の癒えない傷を負った女性をめぐるメロドラマ『その夜は忘れない』(1962年)を上映しました。いずれもたいへんな力作で、観客に感銘を与えていたようです。
また、この映画祭では、評価が定まった名作を上映するのみならず、珍しい作品を発掘して上映することにもこれまでも力を入れて来ましたが、今年も、『無限の瞳』(1955年)、『幻の全原爆フィルム日本人の手へ!』(1982年)など、貴重な作品を上映しました。『無限の瞳』は、新宿区にある成城高校の生徒たちがつくった16ミリ映画です。原爆による白血病と闘う学友を救おうと、同じ成城高校の生徒たちがカンパを集める運動をはじめ、自分たちで映画まで制作したのです。ビデオカメラが普及した今ならともかく、1955年に高校生たちが運動をしながら16ミリで映画までつくったというのは驚きで、上映後、当時、学生で制作に携わった関係者の方々にトーク座談会をして頂きましたが、興味深い数々のエピソードをお話されていました。『幻の全原爆フィルム日本人の手へ!』は、1980年代にアメリカから原爆投下直後の惨状を撮影したフィルムを日本の市民が買い戻す「10フィート運動」がありましたが、そのフィルムに写っている被爆者の方々を熊谷博子監督が捜しあて、フィルムを見て頂きながら被爆体験と、戦後、どのような症状と闘ってきたかを語って頂いたものです。原爆の惨状をリアルに伝えるドキュメンタリーの秀作でしたが、テレビ番組としてつくられたもののため、劇場などではこれまでほとんど上映されてこなかった作品です。熊谷博子監督は上映後のトークで、福島原発事故を体験した今、改めてこの作品を上映していかないといけないと感じていると語られていました。(ただし、作品の版権は熊谷監督にあるものではないですが。)
原発を題材にしたドキュメンタリーは、『あしたが消える −どうして原発?−』(1989年)、『内部被ばくを生き抜く』(2012年)を上映。『あしたが消える』は、チェルノブイリ事故後、日本でも原発事故が起きたらという危機感から製作された作品で、福島原発で働く技術者が何故、ガンで亡くなったのかも取材されており、まさに22年後の福島原発事故を予言したかのような作品でした。鎌仲ひとみ監督の新作『内部被ばくを生き抜く』は、福島第一原発事故後、食べ物や検査に気を使う福島県の親子の姿を取材していました。観客のアンケートの回収数は『内部被ばくを生き抜く』が一番、多く、内部被曝の恐ろしさ、深刻さが分かった、驚いたなど、アンケートに寄せられていました。
他にも、『もし、この地球を愛するなら』(1981年)、『あの日 この校舎で』(1996年)、『二重被爆〜語り部・山口彊の遺言』(2011年)、『HELLFIRE:劫火−ヒロシマからの旅−』(1988年)といずれも力作のドキュメンタリーを上映しました。また、映画に合わせて、被爆者の山本英典さん、児玉三智子さんに、被爆体験と、戦後、いかに数々の病気や差別などの苦難を乗り越えて生きてきたかをお話して頂きました。これも来場者に深い感銘を与えていたようです。
たいへん充実した内容の映画祭に、スタッフ(実行委員)のひとりとして参加でき、私としてもとても勉強になりました。来場された皆様、本当に有難うございました。
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