2007/2/4

増村『闇を横切れ』  映画

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ラピュタ阿佐ヶ谷で見た、増村保造監督の『闇を横切れ』(1959年)は、これはフリッツ・ラングの映画かと見紛うばかりの、ものすごい速度でストーリーが展開するハードボイルドなサスペンスものの快心作であり、この作品のことをよく知らなかった僕は増村にはこんな傑作もあったのかと思わないではいられないのだけど、この傑作がそれほど増村の作品の中でこれまで評価されてきたわけではないようなのはもしかしたら恋愛ものというよりサスペンスものであるからなのかもしれない。(増村監督と言えばなんといっても恋愛ものの巨匠なのだから。)
しかし、それではこの作品では増村監督ならではの「ボーイ・ミーツ・ガール」が描かれていないのかと言うとそんなことはなく、むしろ、話の肝になっている、一番、感動的なシーンは川口浩と叶順子のボーイ・ミーツ・ガールのシーンなのであるから、ただストーリー全体はサスペンスが主軸になっていて恋愛を主軸にしたものではないように見えるというだけなのかもしれない。
とはいえ、川口浩の新聞記者が叶順子のストリッパーのもとを取材し、何度、断られても通いつめるうちに恋仲になってしまうという強引な設定はある意味、増村的であると言えると思うし、ここでの川口浩は『不敵な男』(1957年)の川口浩よりも確実にいいと言えると思う。それは何故なのかというと、何より、『不敵な男』ではヒロイン、野添ひとみの生い立ちは描かれていず、ここでの川口浩と野添ひとみの関係はあくまで「ボーイ・ミーツ・ガール」でしかないのだけど、『闇を横切れ』の川口浩と叶順子は「ボーイ・ミーツ・ガール」であるとともに「ガール・ミーツ・ボーイ」でもあるということ、つまり叶順子が演じる看護婦からストリッパーに身を落としたという過去を持つ女が「ボーイ」に出会う物語の部分も描かれていて、ボーイとガールの魂の交歓があるからではないだろうか。
と、ここで「ボーイ・ミーツ・ガール」と「ガール・ミーツ・ボーイ」という言い方をしたのは、村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』を「あくまでもボーイズの物語であり、ガールは、セクシュアリティを媒介としてボーイと接続した上で機能する、副次的な存在としてしか取り上げられていない」(『ユリイカ』2006年8月号)と断じた木村カナさん風に言ってみたのだけどー。
増村監督の『遊び』(1971年)の感動は、「ボーイ・ミーツ・ガール」ものであると同時に「ガール・ミーツ・ボーイ」ものでもあったからなのだということを改めて想起したい。
話を『闇を横切れ』に戻すと、これはそのように増村的な要素を見事に消化しつつも、なんとも速度があってノリがいいB級商業映画の、いい意味でプログラムピクチュア的な快作と言えるものだと思うのだけれども、にもかかわらずギリギリの、「これだけは譲れない」ということについての物語のものだと思うのである。人にはいかにお金を得たり生きるためにすることだとはいっても「これだけは譲れない」「それだけは出来ない」という一線があるのであって、川口浩や山村聡の新聞記者にも、叶順子のストリッパーにもそれぞれ「これだけは譲れない」というものがあってそうした情念が噴出するのが感動的なのであって、叶順子のストリップの踊りが感動的なのもそのためなのではないだろうか。
そして、フリッツ・ラング的な速度で展開するサスペンスものでありながらそのような情念の噴出もあるということがまた驚きなのである。
たとえば、ヒッチコックの映画はもちろん素晴らしいものだとは思うけれども、ヒッチコックには登場人物がなぜ人を殺すのか、その理由などはどうでもいいというところがどこかあって、それが映画としての凄さの一貫であったりもするのかもしれないけれども、(映画としてダメだという意味ではもちろんまったくなくて)倫理性ということを持ち出すならば釈然としないところも残らないわけではないのである。
だから、『闇を横切れ』が映画としてのフォルムの達成と、倫理性の両方を成立させているように思える点に注目してしまうのだ。
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