2007/4/30

イラン人一家、長女を残し帰国  イスラエルとパレスチナ、中東

(ニュース)
高崎イラン人一家 3人が帰国へ 短大進学の長女除き
4月26日17時22分配信
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2007/4/29

水俣病不知火患者会、環境省の被害実態調査アンケート拒否  公害・薬害・環境・医療問題

(ニュース)
水俣病の実態アンケートの中止を
2007年4月12日 20時
 水俣病の患者団体が県のアンケート実施に抗議。最高裁判決を無視した調査の中止を求めています。
団体の代表8人が、4月12日県庁を訪れ、県水俣病保険課に潮谷知事宛ての抗議文を手渡しました。 
このアンケートは、環境省と県が水俣病患者の実態を把握するため、認定申請者と、新保険手帳を所持する県内の9999人に配布したものです。県庁を訪れた水俣病被害者互助会の佐藤英樹会長らは、アンケート自体が「視野が狭いと感じるか」「耳が遠いと感じるか」など、人に言われないと気付けない、自分では判断できない項目が多く、無意味で実態を把握できるものではなく重度の患者が少ないという結果を導き、最高裁判決を無視した安上がりな決着を正当化しようとするものと中止を求めました。県側は「アンケートは国の委託を受けてやっている」と返答し理解を求めました。県はあす、水俣市、芦北町、津奈木町、天草市御所浦町で説明会を予定しています。(熊本朝日放送)
http://www.kab.co.jp/db/asp/KabNewsDetail.asp?hizuke=2007/4/12&group=4&id=4

アンケート用紙1000通回収 水俣病被害実態調査 拒否の不知火患者会
 環境省が実施する水俣病被害実態調査を拒否している水俣病不知火患者会(大石利生会長)が、会員から回収したアンケート用紙が16日、1000通を超えた。同日はアンケート投函(とうかん)期限とされていたが、県水俣病保健課は期限を過ぎた消印でも当面、受け付けるとしている。

 調査を拒否した被害者団体の中で、不知火患者会は会員約1900人と最大規模。今月1日には、鹿児島県出水市で緊急の総決起集会を開き、与党の水俣病問題プロジェクトチームと環境省主導の実態調査を「安上がりな幕引き」と批判、あらためて環境省の実態調査への拒否を確認した。

 水俣市桜井町の同会事務局には熊本、鹿児島両県の会員からアンケート用紙が集まっており、最終的には1200通程度になるとみている。

 同会事務局は「真の解決には、不知火海沿岸の全住民調査が欠かせない。被害者の救済訴えに、国はきちんと応えていない」と強調した。
=2007/04/17付 西日本新聞朝刊=
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/kumamoto/20070417/20070417_001.shtml

*これって・・
アンケートを拒否するっていうんじゃなくてもっと違う形の運動のやり方はないものなのだろうか・・。
環境省が実態調査をする対象にする人が限られていて不十分である、やるなら「不知火海沿岸の全住民調査」をするべきだというのならば、アンケートを求められた人がアンケートを拒否するのではなくて自分がした上でさらに広くアンケートをしていくべきだ・・と主張するという方向もあるのでは? 自分はアンケートを拒否していながらやるならもっと広くやるべきだ・・と主張するのは無理があるのではないかという気がして・・。
という考えはやっぱり甘過ぎる・・?

どうも、アンケートを受けいれる水俣病の被害者団体と受けいれない団体とにわかれてしまっているようなので、またこうして被害者同士がわかれて分断されていくのかな・・、それこそが国(環境省)の思うつぼにはまってしまうことなのではないか・・?と不安になってきてしまって・・。
でも、仕方がないのかな・・。被害者でもそれぞれ考えが違うのならば、それぞれの人が思うようにやるしかないのか・・。運動を統一してやるためにその人の信念を曲げるべきだとは誰にも言えないわけだし・・。
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2007/4/28

『サンシャイン2057』  映画

『サンシャイン2057』
これはけっこう珍品かも。

僕がこの映画を見たいと思ったのは、ネットでこの作品の感想を見てたらトム・ゴドウィンの50年代SF小説の名作『冷たい方程式』を思わせるとあったから。『冷たい方程式』は、ただ1人の乗組員を目的地まで届ける片道分の燃料しかない緊急の宇宙船に密航者がいて、パイロットは密航者を船外遺棄しないといけないんだけど、その密航者が若い娘でたった一人の兄に会いたさに密航したのだった・・という話。シチュエーションものの傑作である。

この、見知らぬ1人がいるというアイデアがインスピレーションを与えたのではないか?と思えるのが萩尾望都の『11人いる!』だけれども、別の形で「もう1人」のアイデアがインスピレーションを与えたのがこの『サンシャイン2057』かもしれない・・

ただこの映画、そうしたひとつひとつのアイデアは面白いんだけれども、それぞれのアイデアがもうひとつ、絡まっていってふくらんでいかないという感じはする。アイデア倒れになっているところはちょっとあるのかな・・。だから残念ながら傑作とまでは言えないのかもしれないけれども・・。
でも、一風変わったSFものをつくろうという意気込みは伝わってくるし、SF映画史に残るような傑作ではなくても、やっぱり愛すべき珍品という感じだ。
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2007/4/25

『ロッキー・ザ・ファイナル』  映画

『ロッキー・ザ・ファイナル』
本当は馬鹿にしたいところなんだけど・・
・・泣いてしまった。

スタローンの引き締まった肉体のように・・無駄なところがまったくない映画なんだもの、これ・・
そのシンプルさに「アメリカ映画はこういうものなんだぜ!」という作り手の心意気を感じないわけにはいかなくて・・。シンプルで単純だけど、やっぱりこれがアメリカ映画なんじゃないか?と・・。老兵ロッキーにたくしてスタローンが本当に戦っているのは、「今のハリウッド映画の作り方」(CGなどをもちいた)となのかもしれない・・

『ホステル』も『ロッキー・ザ・ファイナル』もとにかくシンプルに「いい映画だなぁ・・」としみじみするしかないような作品で、やっぱりアメリカ映画なんだなぁ・・と思うのだけれども、あえて文句をつけるならば、そんな風にシンプルに出来過ぎているのが難点なのではないか、特に『ホステル』は若手の監督の作品なのにこんなに出来過ぎていていいのだろうか・・と言いたくなってくるのだけれども、まぁ、そういう理屈をつけようとしている自分がイヤになってくるかなぁ・・

でも、まぁ、僕は僕の道を行くしかないけどね・・
僕も、そういう屈折した「自分をあきらめない」(笑)

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2007/4/25

電車音を聞きながらホラー映画『ホステル』  映画

「新橋文化」という、線路のガード下にあるので、ガタガタと電車が走る音が聞こえる映画館でホラー映画『ホステル』を鑑賞。電車音が映画と妙にマッチして雰囲気があるのがおかしかった。

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でも、この『ホステル』は、タランティーノがプロデュースということでもっとカルトっぽくてマニアックなホラー映画なのかと思っていたら、むしろスプラッターの残酷描写は抑え気味で、ヨーロッパをあてどなく旅する若者たちが惨劇に巻き込まれていく話をきちんとリアリティを持たせて見せていく、なんていうか、ホラーという枠をとっぱらって考えても普通に「いい映画」だと思った。
脇役に至るまでの登場人物のキャラクターを、ちょっとした台詞やディテールの描写でとらえ出しているのが凄くよく出来ていると思う。それがああ、こういうことがあるかも・・というリアリティになっているのだと思う。
「瓶詰めの映画地獄」の栗本さん、「秋日和のカロリー軒」の秋日和さんといった、よく見る映画ブログの人たちがこの作品を絶賛していたのを納得する。
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2007/4/23

『コータローまかりとおる!』と『秒速5センチメートル』  映画

意図的にそうした見方をしようと思っていたわけではもちろんないのだけれども、たまたま渋谷で鈴木則文監督の『コータローまかりとおる!』を見てから、新海誠監督の『秒速5センチメートル』を続けて見たりすると・・
かたや、とことん荒唐無稽で女の子のスカートめくりにあけくれる主人公の学園もの、かたや、アニメーションなのにひたすらリアルに日常の男女の恋愛心理を描写しようとしたもの・・と、あまりにも対照的なあり方の作品だったりするので、つくづく映画表現(映像表現)の幅広さというものを感じないわけにはいかない。

で、個人的にどっちが面白いと感じるのかというと『コータローまかりとおる!』の方であるわけだけど・・

今回の鈴木則文監督の特集は「最終兵器・鈴木則文降臨!」という謳い文句らしいのだけど、実際、鈴木則文監督の作品は、B級プログラムピクチュアの、おバカ映画の、最終兵器というのか、極めつけなのだと思うし、現実世界を超越した、ある種のユートピアの域にすら達しているのではないかと思う。『コータローまかりとおる!』は『伊賀野カバ丸』『パンツの穴』に続く鈴木則文監督作品だけれども(それにしてもつくづくこんな馬鹿馬鹿しい映画をよくもまあ次々、撮っていたものだとあきれるが)、こうした「学園もの」という世界で鈴木則文監督のユートピア世界が花開いたのはちょっと興味深い。「学園」とは本来、世間から隔絶したユートピアであるべき空間だったのだ・・。そして、だからこそ、スカートめくりとか、そういうどうでもいいようなことが・・事件になるのだ。たとえば好意を持つ異性と会話したとか、そういうなんでもないような日常的なことが大事件になってしまう高校生活ってほんと、いいものですよねぇ・・。(まぁ、僕は男子校だったので、あまりそういう経験も個人的にはなかったのだけれども。)

で、そうしたちょっとした瞬間をつかまえようとしたはずの『秒速5センチメートル』なのだけど・・
うーむ、要するに根本的にこの恋愛映画が違うんだなぁ・・と思うのは、何か、恋愛のピュアな部分、純粋に相手のことを思っている部分とかばかりをとらえ出して描かれているようで・・でも、恋愛ってもっとドロドロした思いとか打算、計算とかもあるんだろうし、いや、あっていいんじゃないのか?と思う。だって打算や計算というのも相手に対する気持ちがあるからこそうまれるものなのであって・・。
ピュアな部分、きれいな部分ばかりを見せられると、どうも違うと思うし、リアルじゃないような気がしてきてしまう。そう思う僕がひねくれているのかなぁ・・。

まぁ、リアルということでは鈴木則文の作品と比較しても仕方がない気がするが(鈴木則文はそもそもリアルというものを追求していないのでしょうし)、たとえば武富健治のマンガ『鈴木先生』と『秒速5センチメートル』とを比較すると、どうしても僕は『鈴木先生』の方をリアルだと感じ、肩入れしたくなってしまうのだ。
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2007/4/22

地球温暖化対策として原発推進?  原爆・原発問題

*地球温暖化対策として日米で原発を推進する「日米原子力共同行動計画」・・。
 うーむ、この人達は本気で原発推進が地球温暖化につながると思っているんだろうか・・。

(ニュース)
日米が原子力で協力、首脳会談後に共同行動計画を発表へ

 日米両政府は27日に米国で行われる首脳会談で、民生用の原子力開発や核不拡散、地球温暖化対策での協力を盛り込んだ「日米原子力共同行動計画」を確認する。

 首脳会談後、安倍首相とブッシュ大統領が発表する方針だ。将来、両国が協力してインドなどの新興エネルギー消費国での原子力発電所建設を進めることも視野に、日本の技術を生かした兵器転用しにくい民生用原子力の普及を通じて、核不拡散や地球温暖化対策につなげる狙いもある。

 行動計画では、米政府が昨年2月に発表した「国際原子力エネルギーパートナーシップ」(GNEP)構想に、日本が研究開発分野などで協力することを明記する。

 同構想は、核燃料の再処理を行っている国が、再処理技術を持たない国の原発から出る使用済み燃料の再処理を引き受け、兵器転用が困難な民生用燃料にリサイクルする国際的な枠組みの構築を目指すものだ。兵器転用につながる恐れのある再処理の拡大を抑え、核燃料を厳しく管理することで核不拡散を徹底する。日米両国は行動計画に基づき、より高度で、兵器転用が困難な新しい核燃料サイクル技術の開発を目指す。また、温室効果ガスの排出が少ない原発の普及は地球温暖化対策への貢献ともなる。

 一方、行動計画には、今後30基以上の計画があるとされる米国の新規原発建設の費用を、米政府が債務保証で支援し、日本側も建設主体の米企業と提携関係にある日本企業への貿易保険の適用で支援する仕組みも盛り込む。将来は、日米協力の枠組みを活用し、インドなどでの原発建設を推進することも想定している。
(2007年4月21日3時1分
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2007/4/22

毎日新聞「記者の目」 カネミ油症救済と「美しい国」  公害・薬害・環境・医療問題

*カネミ油症などを救済できなくては「美しい国」ではないという記事。

>公害や薬害は今後も起こりうる。「悪いのは誰か」でなく「救うべき相手は誰か」の視点で、迅速に対応する制度を作れないものか。例えば公的基金を用意し、被害者のために使った分を原因企業に負担させればいい。一時的に税金を使っても非難されないと思う。

 この、とにかくまず公害、薬害の救済制度をつくるという提案には賛成かな。責任の所在の追及はあやふやになるかもしれないが、被害は現在進行形のものなのだからまず早急に救済策を立てることが先決なのでは・・。(責任の所在が明らかになってから救済するのではなく。)
 公害、薬害の問題は本来、左翼とか右翼とかは関係ないはず。国民の生命、健康が危険にさらされているのだから・・。

(以下、毎日新聞より)
記者の目
カネミ油症、救済立法決定
 なぜ39年も、かかったのか
 迅速に対応する制度を

 昨年秋のことだ。安倍晋三首相が口にする「美しい国」という言葉を聞いて悲しくなった人たちがいた。40代の男性は「きれいな言葉で社会の実相が覆い隠されていく」と言った。60代の女性は「私の周りに美しさなんてない。置き去りにされた気持ちになる」と打ち明けた。2人は国内最大の食品公害「カネミ油症事件」の被害者。病気にむしばまれ、経済的に苦しい被害者に当時、公的救済策はなく「日本に居場所がなくな
るかもしれない」と不安を訴えた。

 カネミ油症事件は68年に西日本一帯で発生した。カネミ倉庫(北九州市)の食用米ぬか油にダイオキシン類が混入し、約1万4000人が被害に遭った食品公害事件だ。「美容と健康にいい」と評判の油を買い、料理を作って食べただけで皮膚の病気や内臓疾患に襲われた。伝染病と誤解された。疲れやすいこと、思うように働けないことを理解してもらえず、偏見や差別の視線にさらされた。

 加害企業だけでなく、国の救済を求めて被害者は裁判に訴えた。勝訴判決を重ねていく以外、有効な手だてが見つからなかったからだ。84年の福岡高裁判決など1、2審では国の責任が認められた。

 しかし司法は万能ではない。薬害エイズ訴訟で弁護団に加わり、カネミ油症の被害者救済にもかかわった保田行雄弁護士は「裁判は被害者が思うほどストレートに役立つ制度ではない。時間も金もかかる」と率直に語った。それでも「裁判で行政の責任を明らかにし、政治解決につなげるしかない」という。

 カネミ油症事件は原因物質の特定が大幅に遅れた。油に含まれたPCB(ポリ塩化ビフェニール)だと長く言われていたが、01年になって国はようやくPCBが熱で変性した猛毒のダイオキシン類が原因と認めた。世界でも例のない食品公害事件が再びクローズアップされた。支援団体ができ、活動を始めた。

 自民、公明の与党プロジェクトチーム(PT)が今月10日にまとめた救済策は、1、2審で敗訴した国が被害者に支払った仮払金について、大半の返還を免除し、生存する認定患者約1300人に一時金20万円を支給するとした。初めての公的救済策だ。大きな前進とはいえ、1万人を超えるとみられる未認定患者は対象外で、被害者にとって必ずしも満足できる内容ではない。それでも39年を要した。

 なぜ時間がかかったのか。私を含め多くの人が過去の事件だと思っていた。救済の仕組みができないまま、80年代後半に裁判闘争が終わると風化が始まり、被害者は置き去りにされた。水俣病、薬害エイズ、C型肝炎と同じ、被害者に冷たい構図があった。

 日本では、国は救済に積極的に関与しない。加害者と被害者の当事者間の解決を待つだけだ。救済制度の一つ「公害健康被害補償法」の原則は、原因企業負担だ。与党が救済に動き出した昨春、国会議員の会合で厚生労働省の官僚は、裁判で国の責任が最終的には否定された経緯を淡々と説明し「あくまで原因企業が補償すべきだ」と言った。

 国は誤解しているのではないか。被害者が裁判に国を巻き込むのは、他に救済のすべがないからだ。責任を取らせたいのではなく、国に早く救ってほしい、病気を治してほしい、と訴えているのだ。

 与党プロジェクトチームの救済策決定を受けて会見した被害者代表の長崎県五島市、宿輪敏子さん(45)は「自殺したり、離婚したりした人もいる。二重、三重に苦しんだが(救済策で)思いはだいぶ軽くなった」と語った。救済運動をリードしながら、体が動かなくなった福岡県小郡(おごおり)市の矢野トヨコさん(84)は自宅で「国は何もしてくれなかったが、やっとここまできた」と話した。何の責任もない人たちに、こんな悲しい言葉をいつまで語らせるのだろう。

 公害や薬害は今後も起こりうる。「悪いのは誰か」でなく「救うべき相手は誰か」の視点で、迅速に対応する制度を作れないものか。例えば公的基金を用意し、被害者のために使った分を原因企業に負担させればいい。一時的に税金を使っても非難されないと思う。

 被害者の一番の望みは病気が治ることだが、いまだに治療法すら確立していない。認定患者の医療費を負担するカネミ倉庫の支払総額は減少傾向にある。

 被害はまだ進行中だ。被害者が40年近く放置された事実を直視したい。「自分に同じことが起きたら」「被害者は苦しんでいる」という想像力と痛みへの共感を持ちたい。落ち度のない被害者を思いやることができなければ「美しい国」とは呼べない。           
井本義親(西部報道部)
2007年4月18日 毎日新聞社 東京朝刊
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2007/4/21

少年法改正には必ずしも反対しない  時事問題

僕は死刑廃止論の考えを持つ者だけれども、少年法改正については必ずしも反対ではない。
もちろん、大人よりも精神的に未熟で判断能力を持たない少年は刑を軽くすることは当然だと思うし、少年法を撤廃するべきだとは考えない。
しかし、今回の少年法改正は容認できるものだと思う。
こう書くと、一方で死刑廃止という処罰を軽くすることを求めながら少年法改正という厳罰化には賛成するというのはおかしいのではないか?と思われるかもしれない。
なので、以下、自分なりの考えを述べる。

少年法が改正され、警察によって少年事件が捜査されると強制的に自白させられ冤罪が増えるのではないか?という意見があるが、必ずしもそんなことは言えないと思う。むしろ、少年の保護を名目にしてきちんとした捜査や裁判が行われないほうが自白だけで冤罪がつくられる危険性があるのではないか?
精神的に未熟な少年がやってもいない犯行をやったと言うことはあり得ることだと思う。だからこそ、自白だけに頼らずに大人の犯行と同じように捜査や裁判を行ない、より真実を明らかにしようとするべきなのではないだろうか? 警察が捜査をするようになるとでっちあげの冤罪が増える・・というのはいくらなんでも警察を信用しなすぎではないだろうか?
もちろん、警察や権力を持つ側が冤罪をでっちあげることがないとは思わない。左翼とか、権力にとって都合が悪い人物を冤罪ででっちあげて窮地に陥れようということは実際にやっているかもしれない。しかし、それは精神的に未熟なことにつけこんで少年をどんどんつかまえ冤罪をでっちあげているということとは話が別である。たとえば12才の少年をでっちあげの冤罪でどんどんつかまえたりしたら発覚したら大変なことであり、そこまで日本の警察が無茶苦茶だとは思えないのだが・・。
もしかしたら警察の点数稼ぎでそうしたことも実際にあるのかもしれないが、それはむしろきちんとした捜査をしないで自白にばかり頼るから起こってしまうことなのではないか? なら、警察が捜査をきちんとできるようにすることは、冤罪を増やすわけではなく、むしろ、自白ばかりに頼らなくなるので、冤罪をふせぐことにはならないのだろうか?
(・・という僕の考えは甘いのだろうか?)

また今回の少年法改正で「おおむね12歳以上」としたことも、「おおむね」という曖昧な形にしたことはどうなのか?という議論もあるようだけれども、たしかに法というものは「おおむね」などと曖昧にせずに厳密にするべきではないか?という考えもあるかもしれないが、少年犯罪のように、個人個人の事情やその犯行の中身によって分析して考えていかなければいけないデリケートな問題だからこそ、一概に年齢で区分けできないところがあるわけで、「おおむね」という曖昧な含みを持たせたことは個々のケースで該当するか否かを考えていく余地を残したということであり、悪くないのではないかと思う。

そもそも少年に罰を与えたり、少年院に送ったりすることは犯罪を起こした人間を更生させようとすることでもあるのであって、そのこと自体は悪くないのではないか?
肝心なことは、犯罪を起こした人間をきちんと更生させることではないのだろうか?
僕が死刑に反対なのは、死刑というのは更生させること、更生させる努力を放棄するものであるからだ。それでは問題の解決にはならず、むしろ、問題を解決するための努力を放棄することにしかならないのではないだろうか?(現実に犯罪をしてしまう人間がいるという問題がある以上、そうした人間を更生して同様のことをくり返さないような人間にすることが問題の解決になるのであって、更生する努力を放棄して死刑に処してしまうことは問題の解決を放棄することではないのだろうか?)

それと同じように、犯罪者を少年だからといって処罰せずにすましてしまうことのほうが更生させる(同様のことをくり返さないような人間に教育し直す)ことを放棄してしまうことなのではないだろうか?

このような論理で考えていくと、死刑廃止と、少年法改正とにともに賛同することは矛盾していないように僕には思えるのだ。
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2007/4/17

武富健治『鈴木先生』 ーマンガはマンガである  マンガ

[マンガはマンガである]
武富健治の『鈴木先生』は、「マンガはマンガである」とでも呟くしかないような傑作である。

しかし、「マンガはマンガである」と言う時、あるいは「映画は映画である」とか「音楽は音楽である」と言う時、いったい何を言っているというのか?
「映画は映画である」の場合は純粋に映像と音によって、「マンガはマンガである」の場合は絵とネーム(台詞、言葉)によって、他の表現ジャンルではなし得ないことをしているということなのだろうか・・?
たぶんそのようなことだろう。そして、同時にリアリティの問題なのではないかと思う。

武富健治の『鈴木先生』は、異様に現実的なリアリティを感じるマンガである。中学校の教室の場で起こっている、ごくごく日常のなんということもないようなエピソードを拾い集め、教師と生徒との葛藤を具体的にリアリティをもって描き出している。
ある生徒が給食時間にちょっとした問題発言をした・・そんな、はっきり言って、わざわざマンガにするようなことなのか?と思えるような、日常のどこにでもありそうな他愛がない話をマンガにしている。
その意味では、等身大の中学教師像を描き出したといっていいのかもしれない。
だが、この『鈴木先生』を「等身大もの」だと言うと、ちょっと違和感を感じてしまうのは、このマンガのディテールの描写のひとつひとつは現実にはあり得ないものだと思うからである。
だって、現実に、ある生徒が給食時間に問題発言をした・・というようなことで、教師が何日もとことん悩み抜き、論理的思考の果てにある「真実」に到達する・・なんてことがあるんだろうか? そんな教師、いるんだろうか?
だから『鈴木先生』で描かれるディテールのひとつひとつはあり得ないものなのではないか?とも思える。しかし、この作品が到達しているのは、たしかに現実的なリアリティを醸し出すことであり、鈴木先生は理想的な熱血教師・・とばかりは言えない「普通」の教師だからこそ、共感を呼ぶ作品になり得ているのではないだろうか?とも思える。
(「鈴木」先生という名前が「普通さ」を象徴している・・。)

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[マンガにおけるリアリティとは?]
この作品にリアリティを感じる、と言う時に、2種類のリアリティのあり方があるのかもしれないと思う。
ひとつには、ディテールが徹底的にリアルというのか、「こういうこと、あるある」「このネーム(台詞)、あるある」みたいに読者が感じて、リアリティがある作品だと感じるというもの。
もうひとつは、ディテールのひとつひとつはあり得ないことばかりなのにもかかわらず、全体になぜか、リアリティを感じる場合である。
具体例をあげると、安野モヨコや黒田硫黄のマンガは前者であり、岡崎京子や武富健治のマンガは後者であると言っていいかもしれない。
たとえば岡崎京子のマンガについて、ある知人が「あり得ないファンタジーである」と言っていた。でも、だからこそ、かっこいい、と・・。
この知人の言うことに僕はなるほどと思い、参考になる意見だと思った。
同時に、むむむ、でも岡崎京子ってホントに「あり得ないファンタジー」だからいいのかなあ・・?と違和感も感じた。
たしかに岡崎京子のマンガは現実にはあり得ないようなディテールで出来ていると思えるところはある。しかし、岡崎京子のマンガが衝撃的だったのは、ファンタジーだったからではなく、そこで描かれた「リアル」が衝撃的だったからではないのだろうか?
つまり、ディテールはあり得ないようなことばかりでもリアルに到達する・・という場合もあるのではないか?

もちろん、マンガにおけるリアルの問題と、映画におけるリアルの問題はちょっと違うところがあるので、それぞれ別個に考えないといけないように思うのだけれども・・

岡崎京子や武富健治が、ディテールはあり得ないことばかりなのにリアルに到達しているのは、まさにそれがマンガだからこそ成し遂げられたものなのではないだろうか?
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2007/4/13

今頃、なぜか、『オール・ザ・キングスメン』  映画

ロバート・ロッセン監督が政治家を描いた名作『オール・ザ・キングスメン』がなぜか、今頃、リメーク。それもショーン・ペン主演で・・ということで気になるのだが、そのリメーク版を見る予習というわけでもないけれども、新宿の安売りビデオ店でロッセン監督版『オール・ザ・キングスメン』のDVDが980円で売られていたのでつい買ってしまう。

ロッセンと言えば、元ボクサーで共産党員だったこともあり赤狩りでハリウッドを追われたという凄すぎる経歴の監督。

*以下を参照。
http://www.athenee.net/culturalcenter/DATABASE/cinedate/d_1/r/RR.html

「ロバート・ロッセン
映画監督、脚本家、製作者。1908年、ニューヨーク生まれ。貧困と暴力の中で育ち、ごくわずかの間ではあるが、プロボクサーの経験もある。次第に舞台演出家、脚本家として頭角をあらわし、その作品はブロードウェイで上演されるまでになった。演劇界での一応の成功の後、36年にはワーナーの契約脚本家としてハリウッドに進出。理想家の彼は共産党に入党するが、そうした政治的関心は彼の書く脚本にもあらわれ、社会問題や専制の恐怖などをしばしば題材とした。しかし44年、党に幻滅を感じ、一年間のニューヨークでの充電期間の末、翌年ハリウッドに戻った時には、共産党と決別している。
40年代後半に、監督、独立製作者として新たなステップを踏み出し、社会的かつ野心的な映画作家として評判を得、49年には『オール・ザ・キングスメン』でアカデミー作品賞を受賞。しかし、まるで彼の映画の登場人物のように、彼自身も自らの過去に捕らわれることになる。赤狩りが始まったためだ。47年、非米活動委員会の尋問に召喚され、この時は公聴がハリウッド・テンの有罪判決ののち延期されたため、無事に終わるが、51年には再び非米活動委員会で共産党員であるとみなされ、証言台に立たされる。彼は現在は党員ではないと弁明したが、ハリウッドの他の党員の名を言うことを拒否したため、活動停止を余儀なくされた。
二年間に及ぶ魂の彷徨の末、彼は委員会に手紙を書き、尋問に応じ、50人以上の同僚の名を報告する。転向後、映画制作を再開するものの、ハリウッドに戻ることは決してなく、自分自身の中にひきこもりがちだったらしい。友人達はそんな彼のことを苦悩に苛まれた人であったと表現している。60年代初頭には『ハスラー』で、失った名声をいくらか取り戻したが、最後の映画“Lilith”は、アメリカにおいては批評家の間でも商業的にみても失敗に終わった。68年、フランスの「カイエ・デユ・シネマ」の年間ベストテンで“Lilith”が選ばれるのを知る前に、彼はこの世を去った。」


なお、1949年作品『オール・ザ・キングスメン』はアカデミー作品賞を受賞した代表作とされるものだが、同じ1949年に八百長をしているボクサーを描いた『ボディ・アンド・ソウル』という作品も撮っていて、もしかしたら『ボディ・アンド・ソウル』は『オール・ザ・キングスメン』以上の傑作だと言っていいものかも・・。

で、『オール・ザ・キングスメン』だが、本当に「善」の要素と「悪」の要素をあわせ持つ、ブロデリック・クロフォードが演じる主人公のキャラクター造型がすごい。これがフランク・キャプラ監督が政治家を描いた作品だともっとヒューマンで正義漢の主人公だったりするのだけれども、ロッセンはあくまでドライで非情なのだ。語り口も非情というのか、ぐんぐんストーリーが進行し、まるで犯罪映画を見るよう・・。
さて、リメーク版ではどうなっているのかな?
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2007/4/13

注目の映画『ボラット』関連記事  映画

*以下は日本では5月公開の映画『ボラット』関連記事。

(ニュース)
コチコチの共和党員を嘲笑?
米で「自虐映画」大当たり 「ボラット」
2006年10月16日(木) 産経新聞 東京朝刊
【ロサンゼルス=松尾理也】カザフスタン国営放送のリポーターが全米を旅するという架空の設定に基づいたドキュメンタリー映画「ボラット(原題)」が、公開から2週連続で全米映画興行収入ランキング1位という、予想外の大ヒットとなっている。外国人の主人公によってあぶり出される米国人のこっけいさや偽善ぶりに観客は腹を抱えるのだが、自虐的とも言える映画のヒットは、米国の何を意味しているのだろうか。

「ボラット」は英国人コメディアン、サシャ・バロン・コーエン主演のコメディー。オープニングからの興行収入はすでに約6800万ドル(80億円)に達した。

リポーターのボラットが米国を見て回るというもので、実際に保守派政治家や、宗教右派の教会、女性の権利団体などを訪れて「取材」して回るというストーリー。ボラットは女性差別主義者かつ反ユダヤ主義者という設定だ。ボラットが行く先々で女性差別や反ユダヤ的発言や行動を取り米国人があわてふためく中で、次第に米国人自身の「隠された素顔」があぶり出されていくという趣向だ。

こうした米国人自身を笑いものにする自虐的な作品がヒットした理由については、さまざまな見方がある。米紙ロサンゼルス・タイムズは先の中間選挙と結びつけて、「ヒットの理由は、ボラットの餌食になる米国人がほとんど共和党(寄りの人々)であるということだ」と分析。中間選挙で共和党が大敗したことを引き合いに出し、「(映画に登場する)コチコチの共和党員たちを残りの米国人は突然、笑いものにし始めた。そして選挙でも投票しなかった」と揶揄(やゆ)した。

もっとも女性の権利団体などリベラル寄りの人々も、この映画では存分にちゃかされている。米誌ニューズウィークは、「撮影中は常に、やり方が公平かどうか自問し続けた」とする監督の言葉を紹介した上で、「この映画はリベラルと保守との双方へのロールシャッハ・テスト(無意味な模様が何に見えるかを答えさせ、性格や精神状態を診断する検査)だ」と論じている。

ただ、製作にあたっては、ほとんどは事前承諾を得ないまま撮影に入ったと思われ、映画公開後、登場人物から「だまされた」として訴訟も起こされている。カザフスタン人リポーターの設定も差別的だが、米国内ではこの点についての反省はほとんどみられない。
http://www.sankei.co.jp/enak/2006/glace/nov/kiji/16cinemabolatt.html

青木陽子の東京-ロンドン編集後記 - 英米のエンタメ界を席巻している映画
http://blog.cafeglobe.com/archives/fromeditor/2006/11/post_32.html

ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記 -
2006-10-17 カザフスタンからアメリカを探検しに来た男ボラット
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20061017

ボラットをマジメに見ル
http://d.hatena.ne.jp/sasajun/20070404

ハリウッドを震撼さす男、その名はボラット / 日日爺
http://blog.kansai.com/debaser/175
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2007/4/12

ボコノンは言っている、「さよならを言っておけば、まず間違いはない」  SF小説

さよなら

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米作家のカート・ボネガット氏が死去
2007年04月12日13時21分 asahi.com
 カート・ボネガットさん(米作家、劇作家)は、11日のニューヨーク・タイムズ紙(電子版)によると、ニューヨーク市で死去、84歳。

 第2次大戦でドイツに派兵され、捕虜としてドレスデン大空襲を体験。これが69年の作品「スローターハウス5」につながり、時空を超えて存在する自身の分身を通じて大量殺戮(さつりく)を糾弾した同作品で米国を代表する作家の一人として不動の地位を得た。人間の親切への信を根底に、独特のユーモアで生きることの絶望や皮肉を描いた。
http://www.asahi.com/international/update/0412/TKY200704120173.html
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2007/4/12

『蒼き狼』を女性映画として擁護する・・ことは果たして可能なのか!?  映画

澤井信一郎監督の『蒼き狼』が、「女の目から見たチンギス・ハーン」というユニークな着眼点でつくられていることはいくつかのブログで分析されている評を見たし、『キネマ旬報』の山根貞男氏による日本映画時評でも女性映画として評価されているようである。たしかにこの映画からはそのような観点を見てとれる。

だがしかし・・、しかし、なのである。

(以下、ややネタバレ)



この作品が女性映画であるならば、肝心なところが抜け落ちていないか?

何かというと、Araの出演シーンのことである。Araは「女を捨てた女」として登場する。はっきり言って、このシーンのこの台詞にはぐっとくる。そして、胸がたかまる。おお、チンギス・ハーンの映画で「女の活劇」をやってしまうのか!と・・。
ところが、この映画はそうならない。その後、Araは戦場にいっても何やら馬の上で微笑んでいるだけ。さっぱり「女を捨てた女」のアクションシーンは登場しないのだ。
それどころか、「女を捨てた女」のはずなのに、夜は女に戻るというようなシーンまで。なんだよ、これ。
断っておくが、僕は別に反町の演じる主人公が妻がいるのに別の女を抱く貞操観念がどうとかいうことを言っているのではない。「女を捨てた女」が次のシーンで女に戻っているという御都合主義に怒っているのだ。
ほんとになんでこの映画は「女の活劇」をやらないんだよ!
もしかしたら、マキノ節で、女に活劇をやらせるのは気にいらないので・・ということなのかもしれないが、だったら最初から「女を捨てた女」なんて登場させるなよ・・。
ほんと、あの澤井が「女を捨てた女」をどうやって描くんだ!?と思って、胸がたかまって、いよいよ映画が暴走しはじめたかと思って期待にわくわくしたというのに・・。

これでは、監督の澤井信一郎も、脚本の中島丈博と丸山昇一も、一番、肝心なところで手を抜いたとしか、思えないよー。
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2007/4/12

スコセッシのミュージカル『ニューヨーク・ニューヨーク』  映画

下記のリンク先の東京芸術センターでスコセッシ監督の1977年作品『ニューヨーク・ニューヨーク』が上映されていたので、北千住まで見に行く。

http://homepage2.nifty.com/ac-tokyo/

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スコセッシのミュージカル!いやー、これはかなり極上の作品だったのに、観客は5人・・。

スコセッシがミュージカルを撮るとこうなるのかーと興味深々だったのは、ロバート・デニーロが演じる男がほんとにクレイジーでしばしば突発的な行動をするトラブルメーカーのような男で(しかし音楽の才能はすごい)、その男のキャラクターの壊れ方が、ミュージカルだから突然、歌や踊りのシーンに転調することとマッチしているように思えたんですね。デニーロはかなり若いが、魅力的です。

またライザ・ミネリが歌うミュージカルナンバーがジョージ・キューカー監督『スタア誕生』のジュディ・ガーランドとダブる気がしたのは、歌い方が似ていたこともあるけど、夫婦の間で微妙にずれていくというストーリーが重なるところがあったからでしょうか。この『ニューヨーク・ニューヨーク』の夫婦は、同じ音楽をやる者同士だからこそ、愛し合っていてもずれていってしまうという切なさ。

スコセッシがこんなすてきなミュージカル映画を『タクシー・ドライバー』のすぐ後に撮っていたとはねー。
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