2007/5/3

ノーモア水俣病:50年の証言(34)(35)  公害・薬害・環境・医療問題

ノーモア水俣病:50年の証言/34 水銀分析 /熊本
 ◇「精力的に国際貢献」−−「赤木法」確立、元国水研の赤木さん
 1978年10月、水俣病に関する総合的医学研究を目的に、水俣市の湯の児海岸を見下ろす高台に国立水俣病研究センター(国水研)が完成した。環境庁(当時)の施設で臨床部、基礎研究部、総務課の2部1課。96年には多くの未認定患者が政治決着を受け入れたのを機に環境と人の健康にかかわる情報を世界に発信しようと、国際・総合研究部を新設して「国立水俣病総合研究センター」に衣替えした。現在は、水銀関係の研究はもとより、患者のリハビリや海外の環境汚染研究者たちを受け入れる施設として利用されている。
 赤木洋勝さん(64)=同市袋=は設立から3年足らずの81年、「水銀で汚染された水俣湾の全体像が知りたい」と、国水研に着任した。鹿児島県枕崎市出身。岐阜薬科大学大学院修了後、厚生省(当時)の国立公衆衛生院を振り出しに、衛生化学分野で水銀汚染のメカニズムの研究に携わっていた。カナダ国立科学研究所の客員研究員時代には、水銀に汚染されたオタワ川プロジェクトに従事し、水銀のメチル化と生物濃縮機構の解明を研究した経験もあった。
 着任時の研究者はわずか5〜6人、体内に取り込まれる金属の影響などを研究していた。研究の根本となる水銀分析は「公定法」と呼ばれる手間と時間がかかるやり方で、赤木さんは「もっと簡便で時間が短縮でき、正確な値となるやり方はないか」と分析法の開発に打ち込んだ。メチル水銀の抽出溶液を変えるなど試行錯誤を繰り返し90年、従来より簡便で精度が高く、少量の試料でも測定可能な「赤木法」「赤木方式」と呼ばれる分析法を確立した。
 自動水銀測定装置も考案、実用化させた。「金魚用ポンプを転用したり、大学院時代に実験で使った基礎的な材料を試してみたり、過去の経験と身の回りのものを応用して考えついた」と振り返る。
 世界で水銀分析法は数十種類あり、代表的なものは赤木法含め10近い。環境省は赤木法を採用した。専門家の間でも「ほかの分析法が一定の試料しか使えないのに対し、赤木法は人体、動物、水質、土壌、底質など幅広い試料に対応できる」と評価されている。
 90年に赤木法が発表された後、国水研には国内外から問い合わせが相次いだ。金採掘に伴う水銀汚染国の研究者たちが、何人も赤木さんの元を訪れ教えを請うた。赤木さんは04年3月、国水研を退官したが、よりよい技術を開発しようと同年6月、自宅近くに私設の研究所「国際水銀ラボ」を開設。国水研と共同で、海外の研究者を受け入れたり、自らもブラジルなど世界中を訪れ、精力的に水銀分析技術を伝えている。
 今月、赤木さんと共にカザフスタンで技術指導する国水研の松山明人・疫学研究部リスク評価室室長(45)は「発想が豊かで、研究者の鏡と言える方。精力的な研究に頭が下がる」と話す。
 水俣の研究も20数年が経過した。「分析法は進化していくもの。全試料に対応できるまで進化させたい」と意欲が尽きない。赤木さんはこうも言う。「日本という国も、研究者も、水銀の研究成果を伝え、世界に貢献しなければいけない。それが教訓だ」。【水俣病問題取材班】
毎日新聞 2007年3月6日

ノーモア水俣病:50年の証言/35 相思社 /熊本
 ◇敵だった行政と連携−−住み良い町目指し活動30年
 財団法人水俣病センター相思社は「水俣病運動のよりどころを作ろう」と全国から寄付金約3300万円が集まり、74年4月7日に誕生した。
 「互いに思い合う」という意味を込めた。キノコ工場で患者との共同作業▽患者らが栽培する低農薬甘夏などの販売▽はり・きゅう・マッサージ治療▽水俣病と有機農業を学ぶ「生活学校」の開設▽水俣病関連資料の収集−−など訴訟や運動をあらゆる面から支えた。チッソや行政と「闘う」場所だった。ところが、89年の甘夏事件を機に方向性が変わっていく。
 現在の常務理事で相思社職員、遠藤邦夫さん(57)は87年10月、神奈川から相思社の生活学校にやって来た。89年に相思社職員になった直後、甘夏事件が発覚。責任を取り川本輝夫(故人)理事長をはじめ、多くのベテラン職員が去った。設立以来最大の危機を迎え、「就職して大船に乗った気持ちだったのに、その船は泥船だった」と、ショックを受けた。
 相思社は規模を縮小し、水俣病を伝える活動を中心に再出発することになった。その核が前年の88年に完成した歴史考証館。水俣病の教訓を伝えつつ、収入も得たいと福岡や東京など各地で考証館の移動展を開いた。そのころ、熊本県など行政が地域再生を目指して「環境創造水俣推進事業」に乗り出し、相思社に「ユージン・スミスの写真展を一緒にやらないか」と連携を求めてきた。
 相手はかつて敵対した行政。「変節するのか」「ひよるのか」という非難も想定しつつ、遠藤さんたちは全国の維持会員に意見を問うた。すると意外にも「行政だから組まない、という理由はおかしい」と肯定する声がほとんど。それを境に行政との連携が始まり、現在までに数多くの企画を打ち出した。さらに、遠藤さんの考え方を劇的に変えたのは、環境創造水俣推進事業に関連して水俣のこれからを考える私的懇談会「水俣研究会」での出合いだった。
 県や市の行政マン、地元商店主、青年会議所会員らが約1年間、月1回以上、意見を言い合った。ルールは「意見が違っても席を立つな。相手の声に耳を傾けろ」。学生運動の名残から、自分の主張が届かない時には席を立つのが「普通」だと思っていた遠藤さんには新鮮だった。「それまでは町の人たちを『チッソの肩ばかり持って、患者を差別して、まともじゃない』と思っていた。でも、じっくり話してみると、町の人もいろいろ考えていて、互いに互いを知る機会が無かっただけと、初めて気付いた」と苦笑する。
  ◇   ◇
 相思社の考証館入場者は年間約3000人。年間約70団体が、水俣病を学ぶ町案内を求めて訪れる。患者関連では生活相談、新保健手帳の手続き代行など、何でもこなす「駆け込み寺」のような存在だ。「患者が安心して暮らせる町は、だれもが住み良い町。それを目指すのは設立趣旨にかなう」と遠藤さん。
 市を挙げて反対運動が高まっている産廃最終処分場建設問題への積極アプローチには、そんな願いも込められている。【水俣病問題取材班】
毎日新聞 2007年3月20日
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2007/5/3

ノーモア水俣病:50年の証言(31)(32)(33)  公害・薬害・環境・医療問題

(毎日新聞連載)
ノーモア水俣病:50年の証言/31 水俣湾埋め立て /熊本
 ◇水銀ヘドロ封じ込め、巨大な「産廃処分場」に
 水俣市の元助役、小松聡明さん(80)=同市南福寺=の自宅には1981年7月1日に水俣湾中央部で採取した海水と泥が、透明ビンに入れられ保管されている。「水銀を含んだ海水と泥。水分が蒸発し、もう半分近くに減ってしまった」と小松さんは言う。神棚に供え、この4半世紀、毎朝、手を合わせてきた。
 県職員だった76年5月1日、水俣湾の海底をしゅんせつし、底にたまった水銀を封じ込める「公害防止事業」の初代現地所長として赴任した。海水と泥は5年2カ月後、離任する日に採取した。「埋め立て地には数百、数千、数万の犠牲になった人や魚、動物の無念の思いが水銀と共に埋まっている」。その原点を忘れてはならないと、今も自らを戒めている。
 チッソは32年から約40年間、アセトアルデヒドなどの製造工程で水銀を触媒として使用。排水に混じって水俣湾に流れた水銀は70〜150トンとも、150トン以上とも言われる。湾内には25ppm以上の総水銀を含む土砂151万立方メートルが約209ヘクタールに渡ってたまり、厚さ4メートルに達する所もあった。
 県は77年10月、環境庁(当時)が定めた暫定除去基準で算出した総水銀25ppm以上の汚泥を処理する「公害防止事業」に着手した。水銀値の高い湾奥部約58ヘクタールを鋼板で仕切り、この中に比較的水銀値の低い約151ヘクタールのたい積汚泥約78万立方メートルをしゅんせつして埋め立てる計画だった。
 工事開始から間もない12月26日、患者運動のリーダーだった故川本輝夫さんらが、二次汚染を恐れて熊本地裁に工事差し止めの仮処分を申請し、工事は約2年間、中断せざるを得なくなった。何十回と開いた住民説明会で、小松さんは川本さんらから「なぜ25ppmで区切るのか。それ以下は何もしないのか」と厳しく追及された。「あの問いが一番きつかった」と小松さん。真意は痛いほど分かるが、現地所長として即答できる範囲は限られていた。「二次汚染を決して起こしてならない」。小松さんは中断中を含め、現場で徹底した。水質は1日3回、にごり具合は5回、数カ所で調査。監視費用だけで総事業費の1割を占めた。
 公害防止事業は90年に完了。58ヘクタールの「産廃処分場」には運動場や公園が整備され、市民に親しまれている。しかし、足元には水銀ヘドロが封じ込められたままだ。鋼板の寿命は約50年。残り時間はそれほど長くはない。
 小松さんは言う。「人間が作ったものに絶対はない。埋め立て地も、阪神大震災並みの地震が起きたらどうなるか」
 水銀は消え失せた訳ではなく、これからもほぼ永遠に監視、管理しなければならない。「一度崩れた自然は二度と元通りにはならない」と語る小松さんの言葉は重い。【水俣病問題取材班】
毎日新聞 2007年2月6日

ノーモア水俣病:50年の証言/32 公害原論 /熊本
 ◇15年で2万人聴講−−宇井さんの刺激、市民に
 「公害を出す側と受ける側に整理してみれば、これまでの東京大学における科学・技術というものは、大体出す側の科学・技術であった以上、どうしても受ける側の学問がなければなるまい、そういうことで(中略)自主講座を開くことになりました」(亜紀書房「公害原論」)
 1970年10月12日夜、東京大学工学部82番教室。工学部助手の故宇井純さんの声が「公害原論」の教室に響いた。当時としては珍しい市民を交えた公開講座の始まりだった。
 宇井さんは東大工学部を卒業し3年間、化学会社に勤務。在職中に排水の中に水銀を流した経験から、60年ごろ独自に水俣病の研究を開始。その後65年に東大工学部助手になった。チッソ付属病院長の故細川一院長がネコを使った実験で水俣病発症に成功したことを世に知らしめ、富田八郎(とんだやろう)のペンネームで、合化労連機関誌で水俣病問題を告発していた。
 大学非公認の夜間講座は85年まで15年続き、2万人以上が聴講したと言われる。学生や主婦、会社員、教師……。その中に当時東大の学生だった水俣病患者連合事務局長、高倉史朗さん(55)=水俣市袋=もいた。
 東大紛争直後に入学した高倉さんは、ゲバ棒を振り回す同世代を「暴力で対抗しても、世の中は変わらない」とどこか冷ややかな目で見ていた。そんなころ、学内の看板かチラシで自主講座開講を知った。
 200人以上が詰めかけ、約半分は学生だったと記憶している。「当初、受講者は『宇井純ってどれほどの奴か』と値踏みするように聞いていた。栃木弁の宇井さんの声は、断定的だが決して感情に走ることなく、何回かの講義を経て受講者はすぐに引き込まれていった」と振り返る。関係者を講座に呼んで直接話をさせて討論する手法だった。ヤジを飛ばす受講生には「出てきて正面から議論を」と宇井さんはたしなめた。
 高倉さんの胸に最も響いたのが「現場を見ろ」という一言だったという。その声に導かれ、足尾鉱毒事件の現場を歩いたり、川崎市の公害被害者たちを支援するなど、各地の被害地に足繁く通った。75年春、講座で知った福岡県のある地を目指して東京を旅立った。しかし足はいつしか水俣へ。水俣病センター・相思社に宿を求め、水俣病患者との共同作業のエノキ栽培を手伝ううちに、正職員に。その後89年に相思社を退職し、仲間たちと「ガイアみなまた」を設立した。患者家族らが生産する甘夏などを販売する傍ら、約30年患者支援に携わってきた。
 「自主講座を聴いてなければ水俣にいなかったかもしれない」と高倉さんは振り返る。「行動する科学者」として全国の公害運動に影響を与えた功績だけではない。宇井さんと親しかったジャーナリスト、広瀬一好さん(66)=東京都=は「市民を巻き込んだ公開講座の先駆けで、当事者をゲストに呼ぶ手法は世に大きな刺激を与えた」と評する。自主講座がきっかけで人生を決めた人は、宇井さん自身を含めて少なくない。
   ◇  ◇
 東大で万年「助手」だった宇井さんは86年、沖縄大学教授に。行動する反公害学者は昨年11月11日、胸部大動脈瘤(りゅう)破裂のため74歳で亡くなった。来月25日、沖縄で宇井さんをしのぶ会が開かれる。【水俣病問題取材班】
毎日新聞 2007年2月20日

ノーモア水俣病:50年の証言/33 甘夏事件 /熊本
 ◇「加害者にならない」−−苦い教訓糧に決意再び
生活の糧だった海が汚された水俣病患者たちは、温暖な気候と恵まれた地形を生かして、人気が上昇していた甘夏ミカン栽培に取り組む人が増えた。ただ、健康な者でも過酷な作業は、患者であればさらに厳しかった。
 「農薬散布作業がきつい」「農薬をかぶってしまう」。この声を聞いた水俣病センター・相思社の職員が、作業を軽減しようと低農薬栽培を呼びかけ1977年、水俣病患者家庭果樹同志会が発足した。「被害者は加害者にならない」という決意で19世帯が結集、未認定患者運動を支えていた相思社に受注・販売事務局を置き、東京を中心に販路を開拓した。
 甘夏に添えた生産者の顔写真とメッセージが好評で、関東の大手生協などの大口から個人宅まで注文が相次いだ。発足時年36トンだった出荷量は増え続け、84年以降は800トン台で推移するほどに。会員は発足4年で49世帯に増え、その後水俣芦北地区の会員は固定化。85年に御所浦地区の11人が、86年に同地区の1人が増えただけだった。
 会員からの出荷時期・見込み報告を基に、相思社職員で同志会事務局長だった高橋昇さん(58)=水俣市袋=らが注文を受けていた。89年のことだった。裏年で約100トンが不足し、会の農薬基準を超える会員外甘夏で補充することを決めた。
 後に相思社のあり方を検討した第3者機関が「会員以外の、しかも同志会の低農薬基準に合致しない甘夏を、会員が栽培したものと偽って販売した」と評した“甘夏事件”だった。「集荷・箱詰めした時に会員と会員外の区別が付かなくなったまま、出荷してしまった」と高橋さんは苦い過去を振り返る。
 会発足翌年の78年、「不足が生じた場合には会員外から調達し注文に応じる」方針が同志会内で了承されていた。その場合、会の規格に近いものを集荷し、販売先にあらかじめ断って販売した。甘夏事件の時もそのはずだった。ところが違った。89年、会員内から「基準外甘夏を売っているのではないか」と指摘があり事件になった。
 何度も集会が開かれ、事務局は糾弾された。89年6月7日、相思社臨時理事会で全理事が総辞職を決めた。同志会は8月に解散を決定。会員の多くは11月に再結集し、甘夏生産者グループ「きばる」を結成した。一方、高橋さんら事務局員ら3人が11月に、責任をとって相思社を退職。12月から翌年4月の間に職員10人が後を追った。
 「今、振り返れば、甘夏事件は起こるべくして起こった事件ではなかったか」。未認定運動が盛んな時代で、未認定患者たちを支えるための活動費も人手も足りなかった。相思社の経済的自立も迫られていた。「自分たちの給料を上げようというつもりはサラサラなかった」と高橋さんは振り返る。退職組9人は90年1月、きばるの販売窓口「ガイアみなまた」を設立。かつての精神を守り、29世帯で年間300〜350トンを関東を拠点に販売する。高橋さんは体を壊した会員の畑90ヘクタールで甘夏25〜26トン、不知火0・5トンを生産する会員でもある。【水俣病問題取材班】
毎日新聞 2007年2月27日
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2007/5/3

『卒業の朝』 ーアメリカンドリームの光と影  映画

*公開中の『ライフ・イズ・ベースボール』のマイケル・ホフマン監督の前作『卒業の朝』について以前に「映画生活」に書き込んだ文章を掲載。

http://www.eigaseikatu.com/imp/4789/76245/

『卒業の朝』 ーアメリカンドリームの光と影ー

学園もの、教師ものによくあるパターンの、反抗する生徒を教師が導き救い出すという方向に展開しない。
従来の教師もののパターンを踏み外してしまった作品である。

マイケル・ホフマン監督は、『プロミスト・ランド/青春の絆』で、人々が成功を求めるアメリカンドリームの光と影、成功する者と脱落する者との対比をうまく描いていたが、今回の『卒業の朝』もアメリカンドリームの光と影をとらえた秀作だ。
『プロミスト・ランド/青春の絆』はニコラス・レイ監督の『夜の人々』を参考にしていると思われるシーンがあった。『夜の人々』には『俺たちに明日はない』という有名なリメーク作品があるが、『プロミスト・ランド/青春の絆』も『俺たちに明日はない』に劣らず、『夜の人々』がやろうとしていた、社会から疎外された若者像をとらえだすことを些細に行おうとしている作品だったと思う。
あるいは、ホフマン監督は、『素晴らしき日』ではバツイチ、子持ち同士の男と女の姿を暖かく見つめていた。
今回の作品も現代アメリカ社会にもがきながら生きている人達をとらえだした、苦味のある作品である。
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2007/5/3

ベネズエラ、世界銀行と国際通貨基金を脱退  ニュース

(ニュース)
世銀とIMFから脱退へ ベネズエラ
5月2日8時1分配信 産経新聞

 ベネズエラの首都カラカスからの報道によると、チャベス大統領は30日、世界銀行と国際通貨基金(IMF)からの脱退を表明した。反米路線を展開するチャベス大統領は豊富なオイルマネーを資本に、途上国向けの銀行や基金を独自に設立する構想を打ち出しており、ワシントンに本部がある両機関の脱退はその布石とみられる。

 チャベス大統領はかねて、世銀、IMFが米国の意向を反映した新自由主義経済を中南米に押しつけ、所得格差を拡大させたと批判していた。ベネズエラは世銀、IMFから受けた融資はすでに返済済みで、「もはやワシントンにもIMF、世銀にも通う必要がなくなる」と脱退を宣言した。(ワシントン 渡辺浩生)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070502-00000006-san-int
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