2008/2/27

『テラビシアにかける橋』  映画

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たとえば『パンズ・ラビリンス』を、完成度が高い作品だとは思いつつ、そう思うからこそいっそうあまりに空想の虚構世界を構築することばかりに傾き過ぎていて、だからこそ、「虚構」と「現実」の関係性が図式的にとらえられ過ぎているようにも思え、気持ち的に乗ることが出来なかった僕のような観客には、この『テラビシアにかける橋』のような、「虚構」のファンタジーをやりながら同時に絶えず家庭や学校での11歳の主人公の「現実」のジレンマも丹念に描いていく、「虚構」と「現実」とをいい意味で併走させている作品に出会えたことはなんとも爽快な気分だった。原作は知らないけれども、こうしたファンタジーに対する位相はよく練られていると思った。この映画が『パンズ・ラビリンス』よりも出来がいい作品と言えるのかどうかはよく分からないけれども、少なくとも個人的には『パンズ・ラビリンス』よりもずっと面白いというのか、気分がしらけずに見ることが出来た。たとえばティム・バートン作品とか、『パンズ・ラビリンス』とかを見て、気持ちが離れてしまう自分を発見して、ああ、もう自分にはファンタジーを楽しむことなんて出来ないのかも・・なんて思っていたのだけど(ちょっと大げさな言い方かな・笑)、なんだ、まだまだ話のひねり方によって楽しめるように作れるんじゃないかという気がしてきた。
なんといっても、主人公の少年と少女との関係があくまで「友情」であり、「恋愛」ではないところがいいのだと思う。11歳とはいっても、毎日、仲良くしていれば当然、次第に「恋愛」の感情が芽生え、むしろ、「友情」と「恋愛」との間で気持ちが葛藤する・・という方向に話がいきそうだけれども、このストーリーの場合は、主人公の少年が「恋愛」の対象として憧れている年上の女教師が配置されているので、「恋愛」のほうはその女教師のほうが引き受けてくれるので、少年と少女との関係はあくまで「友情」としてとどまることが出来たのだと思う。
いじめの話も出てくるけれども、いじめられている個人の少年なり少女なりが空想の世界に浸って自分ひとりだけで空想の世界を築き上げていくというのではなくて、2人で空想の王国の世界を築いていくというのがいい。
少女のほうが、空想がちの少女にしてはあまりに開放的で、全然、おたくっぽくないところに最初はちょっと違和感を持ったのだけれども、考えてみればこれは少女は転校生という設定なので、もしかしたら前の学校では暗くていじめられたりもしていたけれども、今度の学校では違う形で人と関われたらいいなぁと思っていて、それがうまくいったという感じなのだろうかとも想像できる。そうすると、この女の子はたとえば男の子よりも速く走ってみせて、男の子と対等な「友情」関係を築けたらいいなぁ・・みたいに思っていて、転校を契機にそういう自分をやろうとしたらやれてしまったというわけなのかもしれない。そういえば『妄想少女オタク系』でも、転校を契機に自分を変えていた女の子が出てきたけれども、「転校」という設定はそういう話にうまく使えるところがあるのかもしれない。
で、そんな風に少年と少女との間に「友情」が成立してしまったことが、この作品の「幸福感」なのではないかと思う。壮大なファンタジーを構築することではなくて、そういう幸福な関係性を築くところにこそ焦点を当てているところがいいように思う。
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2008/2/26

『野獣死すべし』(1959年)  映画

『野獣死すべし』
1959年 原作 大薮春彦 監督 須川栄三 脚本 白坂依志夫 主演 仲代達矢

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シネマアートン下北沢で。
松田優作のほうは見たけど、こっちは見てなかったな。こっちはあまり戦争の話は出て来ないんですね。まあ、松田優作の1980年版『野獣死すべし』は当時、流行っていたベトナム戦争ものを真似したのだろうけど。ただ、もともとこの主人公は戦場にいったことがある設定で、それは大薮春彦自身の屈折した生い立ちを反映したキャラクター造型らしいので、戦争の設定のイメージを強めたことは必ずしも原作から離れたものとは言えないのかもしれない。
で、1959年版のほうだけど、こういうピカレスクの犯罪ものって、主人公が明快な理由なしに大量殺人をしていくわけで、基本的に主人公に共感できない話なので、やっぱり僕にはいまいちのめりこめない感じではあったのだが・・。もともと僕はハードボイルドはあまり得意なほうではないです・・(やっぱり感情移入がしにくいので・・)。
ただモノクロ映像の綺麗さ、26歳の仲代達矢のかっこよさ、殺し方が相手によって微妙に違っていてバリエーションがある点とかには興味を覚えたけれども・・。最後がどうなったのか、どちらとも受け取れるような含みのある終わり方にしている点も面白いかな(もっともこれは完全犯罪の話ということで当時、映倫からクレームがあったそうなので苦肉の策でそうしたところがもしかしたらあったのかもしれないが・・)。
でも、一番、印象に残ったのは三好栄子が演じる花売りのおばあさんの出演シーン。まさに怪演です。
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2008/2/26

『異母兄弟』  映画

『異母兄弟』1957年
原作 田宮虎彦 監督 家城巳代治 脚本 依田義賢・寺田信義 撮影 宮島義勇 出演 三國連太郎 田中絹代

ラピュタ阿佐ヶ谷で。
封建的な軍人の父親がいばっている家庭の戦前と戦後。三國連太郎が演じる軍人が妻が病気でつい女中の田中絹代に手を出してしまう。屈折した話だ・・。というか、今、見ると、本当に昔の日本にはこんな男系の家庭があったんだよなーと、今とのあまりの落差に唖然となるわけだが、しかし、三國連太郎はさすがに名演なのである。というか、三國連太郎自身が演技が開眼した作品としてインタビューでこの映画の話をしていて、それによるとひと回り上の田中絹代と釣り合いが取れないので、歯医者で上の歯を全部抜き取ってもらったのだという。それによって、あの三國連太郎の執念と人間味(というか、スケベさ・笑)を感じさせる表情を獲得したわけか。こういうのを役者魂というのかな・・。
まあ、話そのものはさすがに今、見るとつらいものだったが、そういうエピソードを意識して見ると、ちょっと面白い。家城巳代治監督作品を見るのは『雲流るる果てに』に続いて2本め。
田中絹代もさすがにすごいんだけど、ひたすら耐え忍ぶ田中絹代の姿を見るのはきついんだけど、対照的にしたのか、途中から出る若い女中役の高千穂ひづるがコミカルで明るいキャラクターを演じていて救われる。というか、今回のラピュタ阿佐ヶ谷の上映は「高千穂ひづる特集」の1本としてのものなのだが、たしかにこの映画の高千穂ひづるはいいね。そういえば、先日、神保町シアターの中村登監督特集で高千穂ひづる主演のコメディ『明日への盛装』(1959年)を見たけれど、これの高千穂ひづるも良い感じだったので、コメディに向いている女優だったのかなと思う。

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2008/2/25

『銀嶺の果て』  映画

『銀嶺の果て』
1947年 東宝 監督 谷口千吉 脚本 黒澤明 撮影 瀬川順一 出演 三船敏郎、志村喬

ラピュタ阿佐ヶ谷で。岡本喜八監督特集で、岡本喜八の助監督時代の作品として上映されていたのを鑑賞。
黒澤明の過剰なヒューマニズムが「山男が山の掟を守ってしたこと」として処理されているので浮き上がらずに展開がスムーズに納得できる作品になっていると思いました。
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2008/2/24

『主水之介三番勝負』  映画

『主水之介(もんどのすけ)三番勝負』
東映 1965年 監督 山内鉄也/脚本 高岩肇、山内鉄也/撮影 赤塚滋/出演:大川橋蔵、近衛十四郎

新文芸坐で。
別に傑作とかいうものではないのかもしれないが、普通によく出来た時代劇である。いや、当時は、普通に、当たり前にこういう映画がいっぱいあったんだろうと思う。だけど、いま、作れるか?というと、作れない気がするんだけどね・・。
だいたい、大川橋蔵や近衛十四郎みたいな、見事なチャンバラ自体、いまの役者にはCGとか特殊技術を使わないと無理なのではないか・・。
近衛十四郎という人(松方弘樹のお父さんである)は本当にチャンバラの名手で、この人のチャンバラシーンはどれもすごいが、大川橋蔵がこの映画の中盤で石の階段を降りながら四方八方の敵とチャンバラをするロングショットのシーンも何気にすごいシーンだ。
『忍者狩り』以外の山内鉄也監督作品って初めて見たんだけど、『忍者狩り』だけだと異様な映画を撮る監督のように思えるが、この『主水之介三番勝負』を見たら、普通にきちんと娯楽時代劇を撮れる監督なのだと分かる。まあ、『忍者狩り』は悪役のイメージが強い近衛十四郎主演のものだからもともといびつなダーティヒーローものとして作られたものなのだけど、この『主水之介三番勝負』は善の陽気なヒーローの大川橋蔵と、悪役の近衛十四郎とが対決するものなので、話がバランスが取れている。逆に言うとある意味では「定番」というようなストーリーなので新鮮味はないかもしれないが(だからこの映画はとりたてて傑作として印象に残るほどではないのかもしれないのだが)、でも、ううむ、こういう風にエピソードを擬縮していって(クライマックスの「対決」に向けていろいろなエピソードを擬縮していくのがやはりうまいというのか、映画だなぁと思う)、普通に楽しめるように作るんだなぁ、当時はこういうことを当たり前にやっていたんだなぁ・・などと思う。
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2008/2/21

石井敦「なぜ調査捕鯨論争は繰り返されるのか」  時事問題

『世界』3月号の、石井敦氏(東北大学准教授)の一文「なぜ調査捕鯨論争は繰り返されるのか」は、日本が続けている調査捕鯨のどこに問題があるのかを分かりやすく分析していて、参考になります。
やはり、日本は捕鯨を日本近海での捕鯨に限り、南極での調査捕鯨はやめるべきなのではないかと僕は思います。


『世界』
http://www.iwanami.co.jp/sekai/

石井 敦
 日本の悲願は果たして「商業捕鯨一時停止(いわゆるモラトリアム)の解除」なのだろうか。そうだとすると、日本政府のIWC(国際捕鯨委員会)などでの国際的な振舞いにはおかしなところが多い。日本は何を目的として、反捕鯨運動をあおり、国際的評価のまったくない「調査捕鯨」で日本の科学的信用を失墜させてまで、国際法違反である可能性のある調査捕鯨を続けるのだろうか。
 捕鯨についての国際会議へのオブザーバー参加も多い筆者が日本の捕鯨外交を多角的に分析、批判する渾身の論考。

いしい・あつし 1974年生まれ。筑波大学大学院修了 (経済学修士)。国立環境研究所を経て、現在、東北大学東北アジア研究センター准教授。専門分野は国際関係論・科学技術社会学。日本の捕鯨外交を分析した論文はBBCラジオで推奨論文として紹介されるなど、国際的に注目されている。
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2008/2/20

スピルバーグ監督、北京五輪の芸術顧問を辞退  映画

*スピルバーグ氏を支持します。

(ニュース)
スピルバーグ監督、北京五輪の芸術顧問を辞退

2008年02月13日 13:20 発信地:ワシントンD.C./米国

米ビバリー・ヒルズ(Beverly Hills)のビバリー・ヒルトン・ホテル(Beverly Hilton Hotel)で開催された第79回アカデミー賞(79th Academy Awards)ノミネート者の昼食会に出席した、スティーブン・スピルバーグ(Steven Spielberg)監督(2007年2月5日撮影)。(c)AFP/Gabriel BOUYS

【2月13日 AFP】(写真追加)米映画監督スティーブン・スピルバーグ(Steven Spielberg)氏は12日、中国政府がスーダン西部のダルフール(Darfur)地方で続く紛争の解決に十分尽力していないとして、今夏開催される北京五輪の芸術顧問を辞退すると発表した。

 スピルバーグ氏は「現在もスーダンで続く人道犯罪の責任はスーダン政府にある。スーダン国民の苦難を終結させるために国際社会、特に中国はさらなる尽力が必要だ」と訴えたうえで、「北京五輪の外国人芸術顧問として開・閉会式プロジェクトに関わってきたが、これを正式に退くこととした」とする声明を発表した。

 国連(UN)の推計によると、ダルフール地方では、アラブ系の政府軍および民兵組織と非アラブ系反政府勢力間の紛争が勃発した2003年以降、戦闘、飢餓、病気などで約20万人が犠牲になっている。

 スーダン政府と経済分野などで緊密な関係を持つ中国には、国際的取り組みの糸口としてダルフールの危機打開をスーダン政府に働きかける役割が期待されている。

 スピルバーグ氏は「中国政府に対しては、ダルフール地方に安全と安定をもたらすべく、スーダン政府に対する影響力を行使するよう繰り返し促してきた」と述べたうえで、自身の良心に従い「現時点において、わたしの時間と全エネルギーは五輪ではなく、ダルフールで続く非人道的な犯罪の終結に注がれるべきだと判断した」と辞退理由を説明した。

 北京五輪に国際的な関心が集まる中、スピルバーグ氏のほかにも、ノーベル賞受賞者や五輪選手らも同日、胡錦濤(Hu Jintao)国家主席に宛てて、スーダン政府に圧力をかけダルフールでの非人道的行為を停止させるよう要請する書簡を送っている。(c)AFP
http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2350134/2635689
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2008/2/16

『アニー・リーボヴィッツ レンズの向こうの人生』  映画

名実ともに世界最高の写真家、アニー・リーボヴィッツ!
この超セレブな有名人アーティストのドキュメンタリーだけど、「レンズの向こうの人生」なんて副題がついていることもあって、何か、セレブなアーティストの裏側に隠された実人生の虚実を明かしてくれる映画なのかな?と芸能三面記事的なものを実はつい期待して見に行ったのだが・・。たとえばミック・ジャガーとの薬中毒づけになっている関係や、スーザン・ソンタグとのレズビアン関係の虚実がついに明かされる!?とか。
・・すみません、そんな下ネタ的な映画ではありませんでした。やっぱ、僕の期待してたのが見当違いでした・・。

考えてみれば、これは「写真家」の人の映画なのだから・・。「実人生」が焦点ではないんだ。
この人って、本当に世界一の有名写真家であるわけだけど、全然、気難しい、孤高のアーティストタイプの人ではなくて、気さくで誰とでもすぐ友達になれちゃうような人みたいです(この映画で見る限り)。ほとんど「追っかけ」みたいなノリでロックスターや芸能人や政治家と親しくなれた人なのかも・・。でも、だからこそ、世界最高の仕事が出来たんだ・・。「写真」っていうのはそういう芸術だからね。被写体の人の「瞬間」を切り取る、「他者」の魅力を発見して切り取る芸術なのだから・・。
その意味では、この映画に登場したアニー・リーボヴィッツには本当に拍子抜けするほど、気さくな、「ええ?これがその道で世界一の人なの!?」とびっくりするような印象を受けたんだけど、でもだからこそ「写真」を極めることが出来たのかもしれないと思い直しました。写真というのは「他者を発見するもの」なのですね・・。
だから、この映画では、アニー・リーボヴィッツ自身の実人生はそんなに語られていないわけだけど、ほとんどどういう風に写真を撮ってきたか?ということだけが語られていくわけだけど、それで十分。というか、それだけでも「他者」をひたすら撮ってきたアニー・リーボヴィッツの写真を追っていけば、もうアニー・リーボヴィッツという個人についても見事に語られている気がするし(どうしてここまで「他人」をひたすら撮ってきたものを辿るだけで「写真家自身」が語られてしまうのか!?)、同時に、その軌跡はそのまま、現代の写真史であり、芸能史であり、風俗史であり、政治史でさえあるのだ・・。しかし、ニクソンが辞めた時の写真や、ダンスの写真でもあれほどのものを撮っていたとは・・。凄え。
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2008/2/14

『潜水服は蝶の夢を見る』  映画

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これ、実話なんだけど、あまりにマチュー・アマルリックに適役の話で、よくこんな話があったものだよなー、と驚く。実際のジャン=ドミニク・ボビーという人が、マチュー・アマルリックに似通っていた人だったのかもしれない。ポジティブで、ユーモアを忘れず、女性をひきつける魅力があって(この点は羨ましい・笑)という・・。ただ、マチュー・アマルリックを見てると、どうしてもデプレシャンの映画とイメージがダブってしまうというのか、アートっぽくしたデプレシャン映画というのか(いや、デプレシャンの映画自体、アートっぽいものではあるから変な言い方かもしれないが)、デプレシャン映画の亜流を見ているような感じがしてしまって仕方がなかったのだが・・。話のテーマはデプレシャンの映画とは異なるものだし、そもそもこっちは実話なんだから、単にマチュー・アマルリックが主役ということで勝手に連想していたに過ぎないと言えばそうなので、こんなことを言うのはまったくの言いがかりではあるのだけど・・。ただ、あえて言えば、アート映画とかドキュメンタリーの手法をたくみに取り入れた作りとか(たとえば『キングス&クイーン』でうまいと思ったのに、回想シーンを手持ちでぶれた画面で撮ることで、回想なのに進行形で起こっていることのような臨場感を出していた点があったのだけれども、そういう手法によってつくられた臨場感がシュナーベルの『潜水服は蝶の夢を見る』という映画にもあるように思う。)、マチュー・アマルリックが何人かの女性の間をふらふらしているところとか、家族との関係性を再発見していくといった箇所はやっぱりデプレシャンの映画と重なるところがあるような気がするのだが・・。
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2008/2/14

素晴らしきジャン・ルノワール  映画

ジャン・ルノワールの映画の大らかさは「1対3」の関係を平然と描いてしまうことにある。トリュフォーの映画の多くが「1対2」の三角関係を描くのに対し、ジャン・ルノワールの映画の多くは「1対3」の関係を描いている。大体、「1対2」でも十二分に羨ましい、羨望の対象の話なのだけれども、「1対3」ともなると羨望を通り越してあきれるしかない。
『フレンチ・カンカン』に至っては、フランソワーズ・アルヌールをめぐる3人の男とジャン・ギャバンをめぐる3人の女という、2つの「1対3」の関係が交錯するわけだから、これ、「なんと申しましょうか」・・(ここ、小西得郎風に・・、って書いても古すぎて誰も分からないか・笑)。
そのプレイボーイ、プレイガールぶりにはあきれるしかないわけだけれども、しかし、いかにプレイボーイ、プレイガールと言えども「1対3」ともなればもはや事態は収拾をつけようがなくなっているのであって、そこまできたらすべてはご破算にするしかないのである。

こうした一連の「1対3」ものに対し、『素晴らしき放浪者』の場合は、主要な登場人物は、男2、女2である。だから、これは性別で言うと「1対3」の関係の系譜のものではないように見える。しかし、そうではないのだ。これは、ミシェル・シモンが演じる浮浪者を、本屋の主人、その妻、メイドの3人が奪い合うという話なのであり、実は性別をこえた「1対3」の関係を描いたものなのだ。そして、やっぱりミシェル・シモンが3人めとうまく行きそうになった時、すべてはご破産になってしまうのである。
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2008/2/12

工藤栄一監督特集  映画

完成度が高い犯罪映画というと、たとえばキューブリックの『現金に体を張れ』のような作品のことを言うのだろうか。決して僕はキューブリックの完全主義的なつくり方は好きなわけではないし、実は『2001年宇宙の旅』もそれほど好きな映画ではないのだけれども、『現金に体を張れ』に関しては男と女の関係性の哀切さを見事に描き切っていて、やはり傑作だと認めるしかない。
そして、『現金に体を張れ』のような映画に比べると、シネマアートン下北沢の工藤栄一監督特集で見た『野獣刑事』(1982年)や『逃がれの街』(1983年)は「完成度が高い」という言い方はやはり出来ない映画なのだろうかと思う。むしろ、工藤栄一の映画は、どこか、バランスを崩してしまっているように思える。工藤栄一はプログラムピクチュアの職人監督として鳴らした監督なのだけれども、この監督の映画は職人的に手堅くまとめられた作品ではないような気がする。むしろ、あまりに野心的すぎて物語としてはバランスを崩してしまっていたり、どこか、過剰なのだと思う。無論、だから良くないと言いたいわけではない。その過剰さこそが工藤栄一の映画の魅力なのであり、哀切さであることも疑いようがないのだから。

特に、『野獣刑事』の終盤部、泉谷しげるが少年と車を盗んで以降のパートはこの物語にとって必要なものだったのだろうか? あるいは『逃がれの街』の終盤部の水谷豊と少年の逃避行はそれまでハードボイルドとして展開してきた物語からあまりにバランスを崩してしまっているのではないだろうか? そもそもなぜ突然、少年を連れた逃避行の話になってしまうのか? これらの疑問は正統なものである・・と言えるのかもしれないと思う。
だけれども、やはりこうしたことが工藤栄一監督にとって必要なことだったのだと思う。どちらの映画も、少年を出すことが、おそらく工藤栄一監督にとっては大切なことだったのだ。というか、大人になってしまった男女のぐちゅぐちゅした話の傍に、少年を出すことで、何かを「未来」に向けて伝えたかったのではないだろうか?
そして、また、同時期に相米慎二監督が「少年少女もの」の作品を撮っていたこととも何か、連関しているように思うのである。工藤栄一は当時、すでにベテランの大監督だったわけだけれども、当時、新人、新鋭の監督として鳴らしていた相米慎二監督の作品群とどこか、共鳴しあっていて、もしかしたらそのことが『野獣刑事』や『逃がれの街』に少年を登場させる原動力になっていたのではなかったのだろうか?と思うのだ。
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2008/2/8

『フローズン・タイム』  映画

ファッション誌の写真家として知られる、1970年生まれのショーン・エリス監督の作品。
写真家の人が撮った映画というと、とかく「映像美」や決まった構図の映像づくりに凝っている反面、ストーリーのほうがおろそかになってしまうことがあるのだけど、この作品は、「時間が止まる」という、写真のように人物の動きが止まった瞬間と、動いている時の「映像」とのズレを「物語」にしており、写真のような「映像美」の追求がストーリー的にも生きている。しかも、主人公の青年のバイト先の同僚がみな、ユニークな人達で、ユーモア(ギャグ)のセンスもあるので、なんとも愛おしい作品に仕上がっている。
写真家の人が撮った映画としてはある意味では理想的な作品かも? こんな映画を長編第1作の映画として撮れた監督の才能が羨ましい。

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2008/2/7

『人のセックスを笑うな』(続き)  映画

と『人のセックスを笑うな』について書いたものの、しかし、この作品がヒロインと旦那との関係性とか、そこにポイントを置かないで描いたことが実はねらいなのかもしれないけれども・・。
つまり、そういうのを描いても、なんか、現実にべったりの話になっちゃうわけで、そうでないのが、この映画の持ち味というのか、いきおいというのか、可愛さみたいなのものなのかもしれないわけで・・。
現実には、やっぱり先のことを考えてしまって、この映画のように人妻が年下の男の子とセックスするなんて躊躇してしまうことが多いように思うのだけど、でも、それを思いきってやってみる、そこがこの映画の話の思いっきりの良さであり、ヒロインの可愛さなのかもしれないから、それがこの話で描きたかったことなのかもしれない。
ならば、僕が言うように旦那との関係性を描くことは必要ないことなのかもしれないけど・・。だから、あくまで観客として求めるものが僕は違ったということで(映画の出来、不出来ということではなくて)、どこにポイントを置くかの違いなのかもしれません。

西川美和監督の『ゆれる』もそういうところがあったけど、女性監督のものを見ると、ここにポイントを置くのかあとびっくりさせられるところはあります。
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2008/2/5

『人のセックスを笑うな』  映画

これは・・
ああ、『犬猫』の監督の新作なのだなあ・・ということだけで、後は個人的には残念ながら言いたいことは特にない。
というのは、映画の出来がどうこう・・ということとは関係なく・・。
要するに、僕が期待して見に行ったものとあまりに関係ない作品だったのだ。
つまり、僕は、おお、人妻が年下の男の子によろめくアバンチュールものなんて久しぶりー、どういう風に人妻が苦悩して、しかし、それでも欲望に負けて不倫に走っちゃうんだろうか? また旦那の間とはどういうことが起こって、どういう修羅場が描かれるんだろうか? 新鋭の若手女性監督がいかにそうしたドロドロした世界を現代風に描いてくれるんだろうか? と期待して、ワクワクして見に行ったのだ。

しかし・・
この映画は旦那との関係性とか、修羅場とか、そういう部分はほとんど描かれていないのである!
いや、もしかしたら原作がそういう話なので仕方がないのかもしれないけど(原作、知らないけど)・・
それに『犬猫』の監督の新作なのだから、予測できたことだったのかもしれないけど、それでも僕は、あの『犬猫』の監督が、ドロドロの不倫ものを撮っちゃったの? ウヒョー・・という感じで、つまり、『犬猫』の監督の新作だからこそ、どういう新境地を見せてくれるんだろうか?と期待していたのだ。『犬猫』と同じようなタッチで不倫の話とかを描く映画を見たかったわけではなかったのだ。

だから・・
要するに、これは決して出来が悪い作品だとか、そういうことではなく、自分が期待して見に行ったものをあまりに外してくれたので、あ、そっか、と思って、後、言葉が続かないのだ。
で、これがヒットしていて評判がいいということは、みんなはこういうのが見たかったわけで、僕が見たかったものはみんなが見たかったものとは違うわけで、それは単に僕のほうが時代遅れになっているということなのかもしれないなあ・・と思って、なんだか、寂しい気持ちになりました。
でも、まあ、実際、自分には中村登監督の『斑女』のほうがはるかに面白い映画に思える・・ことはたしかなんだけど、そういう風に『斑女』も見れたし、この『人のセックスを笑うな』も見れたわけだから、結局、いいじゃんと言えばいいんですけどね・・。

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2008/2/4

原爆症認定、基準見直し 救済の扉、どこまで(毎日新聞より)  原爆・原発問題

(ニュース)
クローズアップ2008:原爆症認定、基準見直し 救済の扉、どこまで

 昨年8月に始まった原爆症認定基準の見直しは、今年1月に政府・与党が新たな審査方針の概要をまとめ、4月導入に向けて被爆者側と厚生労働省の協議が週内にも始まる。被爆者健康手帳所持者の約1%しか認定されない「狭き門」が広がることは確実だが、被爆者側の国への不信は根強く、全国で係争中の集団訴訟の行方も不透明だ。平均年齢が74歳を超える被爆者が「最後の大きな運動」と位置付ける原爆症認定問題の攻防は正念場を迎える。【清水健二、錦織祐一、大沢瑞季】

 ◇個別審査、不信強く

 「まだ納得できる制度になっていない」。1月24日、厚労省に協議の場の設置を要請した日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の代表らは、担当者に厳しい視線を投げた。

 従来の原爆症認定は、浴びた放射線量が病気にどの程度影響したかを表す「原因確率」が、ほぼ絶対的な基準だった。新たな審査方針は、今まで切り捨てられた原因確率10%未満のケースに認定の道を開いたのが特徴だ。「爆心地から約3・5キロ以内で被爆」といった要件を満たすがん患者などは実質無審査で認定し、漏れた場合も、個別審査で救済を図る。

 問題は「個別審査」の中身だ。これまでも個別審査の形は取っていたものの、実際は原因確率で機械的に振り分けられ、被爆後の行動や脱毛などの症状はほとんど無視された。この部分のハードルが高いままだと、救済の目的を果たさない。

 実績を見ると、新たに認定されるのは年間百数十人。総認定者数は2000人台で推移している。「個別審査は予算との調整に使われるだけでは」。被爆者からは、こんな懸念が聞かれる。

 一方、審査を担当する専門家にも、新方針への戸惑いが見られる。21日の被爆者医療分科会では委員から「科学的に矛盾する」と疑問が噴出した。日常に浴びる年間放射線量(1ミリシーベルト)を一瞬に浴びることになる「3・5キロ以内の被爆」であれば認定するとした点には「数字が独り歩きすると、少量の被ばくで健康を害するという誤解が広がる」と批判が集中した。

 今回の見直しを、厚労省幹部は「科学というより政治」と解説する。しかし認定の水準を下げた結果、原爆症患者へ給付される医療特別手当(月約13万7430円)と、放射線との関係が否定できない病気になった場合の健康管理手当(月3万3800円)の違いはあいまいになった。被団協の田中煕巳(てるみ)事務局長(75)は「被爆者全員に健康管理手当を払い、病気になったら原爆症と認めた方が分かりやすい」と指摘する。

 被爆者の主張は「被害は国が償うべきだ」という国家補償に行き着く。被爆者援護法は「国の責任」との表現を使い、批判を浴びた。厚労省は医療・福祉対策の一線は越えぬまま、救済範囲は広げるという制度設計を余儀なくされている。

 ◇司法行政、二重基準の恐れ

 認定基準の見直しは、15地裁で起こされた訴訟で国側が6連敗したのが発端だった。しかし訴訟解決の形は、まだ見えていない。

 原告団は1月10日、302人の原告全員を政府に原爆症と認定させる方針を確認した。6地裁で勝訴した原告は82人にとどまるが、山本英典団長(74)は「命を削って闘っている原告の労に報いるべきだ」と主張する。

 一方、厚労省の立場は「行政も司法も原爆症と認めていない人まで例外的に救済するわけにはいかない」。訴訟を取り下げたうえで改めて新基準で認定を求めるのが正しい手続きだとして、全員の認定には否定的だ。弁護団の推定によると、新たな審査方針に従うと、東京1次訴訟の原告30人のうち7人は認定から漏れるという。

 新基準導入後も訴訟が多発し、行政と司法で二重基準が作られるのを恐れるのが、厚労省と被爆者の間に立ってきた与党だ。与党プロジェクトチーム座長の河村建夫元文部科学相は「泥沼化は許されない」として、国側に敗訴分の控訴取り下げ、原告側にも裁判を続けないよう促す構えを示す。また国側が一時金を払って和解する案も一部に出ている。

 ◇「線引き」、医師ら批判

 被爆者の治療に当たる医師たちは、新方針をどう見るのか。

 疑問の声が強いのが、3・5キロ、100時間といった距離や時間による「線引き」だ。認定訴訟で00年に初めて最高裁で勝訴した長崎市の松谷英子さん(65)の主治医、山下兼彦医師は「被爆者で、かつ裁判で認められた症例が出れば、すべて原爆症としなければ、つじつまが合わなくなる」と指摘する。

 福島生協病院(広島市)の斎藤紀(おさむ)院長も「3・5キロ以遠での被爆や、100時間以後の立ち入りでも、残留放射線などで自然界で浴びる以上の放射線にさらされたのは明らかだ」と批判。さらに個別審査についても「急性症状などで判断するというが、記憶が定かでない人は多い。同じ時期に同じ地点にいた人でも、記憶の有無で判断が異なってしまう」と問題を挙げる。

 被爆者にも線引きの不安がある。爆心地から1・2キロで被爆した広島訴訟原告の丹土美代子さん(75)は1審で原爆症と認められたが、症状はC型慢性肝炎で、新方針の無審査認定の疾病に入っていない。「がんになってから認定されるのでは遅い。肝炎も早く認定してほしい」と訴える。

==============

 ■ことば
 ◇原因確率
 かかっている病気が、原爆の放射線を浴びたために起きたと考えられる可能性を表した数字。計算式で推計した被ばく線量と、年齢、性別、病気から割り出す。爆心地から2キロ以上離れていた場合、原因確率はおおむね10%未満になり、現行では認定されない。
(毎日新聞 2008年2月3日 東京朝刊)
http://mainichi.jp/select/opinion/closeup/news/20080203ddm003010137000c.html
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