2008/6/26

『ドモ又の死』  映画

現代(平成)の薬物の更生施設に入れられているジャンキーな女の子たちが、大正時代の有島武郎の戯曲の芝居を演じる様を描いた・・という、よく分からないストーリーだが、雰囲気はちょっとリヴェットの映画みたいで(分からないなりに)面白くはあったけど。大正時代と現代が交錯するあたりが興味深い。やっぱり今の時代と大正時代とは通じる何かがあるんだと思う・・。
なぜか、萩尾望都先生が役者として出演しているのだが(監督は少女マンガファン?)。
でも、まあ、こういうわけがわかんない映画を撮る監督はやっぱり「天才」だよなー。

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2008/6/26

捕鯨問題、どっちも逮捕して欲しいね  時事問題

捕鯨問題、グリーンピースジャパンの人達の逮捕の件についてひと言。
僕は、グリーンピースジャパンの行動は窃盗行為に当たるのかなとは思うので、逮捕されたのは仕方がないように思うのですが、横領行為のほうがきちんと調べられもせずに不起訴になったのは不当だと思います。グリ−ンピ−スの人達と鯨肉を横領している人達の両方とも逮捕するのが一番、公正ではないか?と思います。以上が僕の見解ですね。
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2008/6/18

『シークレット・サンシャイン』  映画

なんか、親しい家族を亡くして・・みたいな話の映画が最近、やたらと多いような気がするのだけれども、そういう風に誰かを死なせないと話を作れないんだろうか・・とちょっと気にはなっているのだが、それでもこの映画は、さすがにイ・チャンドン監督のものはひと筋縄ではいかない展開が続く作品で、引っ張られて見てしまった。まあ、なるべく事前情報は入れないで見に行ったんだけど、かなり意表をつかれるような展開が続き、ううむ、こんな話をよく考えるなあ・・と思ってしまった。けっこう、最近、見た映画は展開が読めてしまうものが多くて、あれれ?と思っていたのだ。『ミスト』とか『アフタースクール』とかも展開が読めてしまったんで、そんなに驚き、なかったんですけど・・。でも、この『シークレット・サンシャイン』の展開はさすがに思いつかなかったな。もっとも、これ、原作があるそうで、イ・チャンドンが1から考えた話というわけではないようだが。

イ・チャンドン監督の前作『オアシス』の時に僕が書いた短い感想。

「主演女優、ムン・ソリは半年間、脳性麻痺の女性とともにし、演技作りの基礎としたとか。一方、ソル・ギョングは20キロ体重を減らしてこの映画の撮影に望んだとか。
ムン・ソリとソル・ギョングの凄まじい演技には圧倒される。だがその演技的な作り込みの激しさ、またこの主役の男女をめぐる周囲の人達の状況の作り込み方にはわざとらしさを感じ、反発を覚えるところもある。
それでも次第に男の不器用さを理解していく。
そして、幻想シーン。重い話に、素頓狂なシーンが盛り込まれて行くのが落差となって、なんとも言えない味わいを醸し出す。世間から外れ2人だけの世界を浮遊しているかのような感覚が身にしみる。 」

ここに書いた通り、『オアシス』はその激しさに圧倒されながらも、作り込み方に「わざとらしさ」を感じてしまい、どこか、乗れないところもあったのだが、今回の『シークレット・サンシャイン』はその点がより「自然」になってきていて、その点だけでも深化していると言えるのではないかと思う。
それは、イ・チャンドンが、なんと韓国の閣僚まで経験してしまい、もはや円熟味を持つ「巨匠」になってしまった・・ということではなくて(この場合、「巨匠」っていうのは悪口です・笑。たとえば「クローネンバーグも巨匠になった」と僕が書いたらそれは悪口で言っているんだと思ってください・笑。)、むしろ、「イ・チャンドンは丸くならなくて、相変わらず屈折したことやってるなあ〜」と思える上で言っているんですが、いや、というよりその屈折を作品にしのびこませる手付きがより「自然」風になってきているということはより屈折が深化していると思えて、やるじゃん・・みたいな意味なのだが。
だって、「自然」と書いたけれども、実は全然、「自然」なストーリーじゃないんだもの、これ・・。誘拐の話も、刑務所のシーンも、ちょっと不自然で強引な展開だと思うんだけど、でもこれをリアルに成立させているのが凄いなと・・。なんといっても、チョン・ドヨンが演じるヒロインのキャラクターが抜群によく描けているので、ああ、この人だったらこういうこと、あり得るなあ・・と納得できてしまうのだ。このヒロインはちょっとずつ、世間とずれた行動をしてしまう人間。そもそもこのヒロインがミリャンに来たのも、夫への愛とか言っているけど、そうではなくて、いつも世間や周囲の人間とちょっとずつずれてしまう自分というのがいるので誰も知人がいない場所で1から始めたかったんじゃないだろうか?と思う。そういういつも世間からずれてしまうというか、世間の人とは違うエキセントリックとも言える行動をしてしまう人なのが次第に沁みるように描写されていくので、ほかの人がおこなったら不自然に思えて、「強引な話の展開ではないか?」と思ってしまうような展開でも、納得できるようになっているのではないかと思う。このヒロインは、途中から気がおかしくなっていったのではなくて、実は最初からちょっと変な人なんだな。
で、変と言えば、ソン・ガンホが演じる男も、一見、いかにも平凡な男のようでいて、実はなかなかいないキャラクター。だいたい、彼はほんとにヒロインのことをちゃんと理解しているのかどうかも心もとないのだが、そんなことは気にかけずにひたすら彼女の傍にいつづけるんだもの。へらへら笑ってて、「こいつ、何、考えているんだ?」と思うんだけど、たぶん何も考えてないんだ。考えてないから、彼女の傍にいつづけられるんです(笑)。だって、「この女、やばいぞ」と考えてたら、逃げ出しちゃうじゃん。いや、冗談でなく、世の中には鈍感力の素晴らしさってこともあるんじゃないかと思います。この男の描き方にこそ、イ・チャンドンの屈折を僕は感じる(笑)。「屈折するは我にあり」(?)みたいな・・。
まあ、そういうヒロインや男のような変な人達をちゃんと存在させる(成立させる)ことで(これは、もちろんチョン・ドヨンやソン・ガンホの卓越した演技力にもよる)「ああ、この人達ならこういう展開、ありだよなあー。なるほど」と「自然」に納得させるような映画を撮り上げてしまった点で、『オアシス』よりもこの監督の作品が深化しているのではないか・・と思ったのです。

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2008/6/13

スタン・ブラッケージ!  映画

ミストラルジャパンの上映会で、スタン・ブラッケージ監督の『幼年期の情景』(1967〜1970年、140分)を見ることが出来た。まさに他に類がないような作品。スタン・ブラッケージこそ、他に類がないような、唯一無二の映画作家。

シェルドン・レナン著『アンダーグラウンド映画』(波多野哲朗訳、1969年6月、三一書房刊)には以下の記述がある。
「現在、ブラッケージは『子供時代に撮ったシーン』(1966〜)を仕上げている。彼は純粋な光を求めて、レザー・プロジェクター用の色を塗った映画を作りたいと考えている。(もし、誰かがレザー・プロジェクターを発明したらの話だが)。」

実際、この映画で印象的なのは、赤や緑、青、紫など、さまざまな色に塗られた画面。それ以前の作品からブラッケージの映画は、ごく普通の日常の情景を、「光」の乱舞としてとらえた独創的な編集によって再発見していくという、日常的な情景を「再発見」する、「見る」ことについての映画を追及してきたと言えるのではないかと思うのだけれども、この『幼年期の情景』(『子供時代に撮ったシーン』)に至っては、「光」が、赤、緑、青、紫など、さまざまな色の乱舞にまで至ったようである。写っているものは、本当に一軒家の中での家族の日常的な情景がえんえんと続くだけなのだけれども、さまざまな色の「光」の乱舞によって、幼年期の記憶の情景がよみがえり浮かび上がってくるかのようである。

DVでも、先日見たペドロ・コスタ監督の『コロッサル・ユース』のような前衛的な映画をつくることが可能であるならば、フィルムにこだわる意義はどこにあるんだろうか・・と漠然と思っていたのだけれども、スタン・ブラッケージ監督の映画はフィルムでなければ絶対につくれないようなものであり、「映画をフィルムでつくる」ことの存在意義がまさにここにはある。
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2008/6/12

『P2』  映画

『ヒルズ・ハブ・アイズ』のアレクサンドル・アジャ監督がプロデューサーにまわった作品。
『ヒルズ・ハブ・アイズ』はなんていうか、いかにもホラーマニアの人が撮りたいものを撮った作品という感じで、根っからホラーが好きな人には当たりなんだろうけど(実際、ホラーファンにこの映画は評価が高いようです)個人的にはあまりにホラーマニア向けの「画」ばかりを追求しているようなところがちょっと・・と思ったのだけれども、今度も同じような感じかと予想していたのだが、なかなかどうして、こっちは面白かった。(いや、「面白かった」と言うより「参った」と言うべきかもしれないが・・。)個人的には『ヒルズ・ハブ・アイズ』よりずっと興味を覚える。
どこに興味を覚えたのかというと、端的に言うと、変質者の男のキャラクター造型。まあ、変質者なわけだが、型通りの変質者としてではなく、複雑な感情を持った(変質者なりに・・)人間として描いている。その点が『ヒルズ・ハブ・アイズ』よりも進化しているのかも・・と思ったのだ。
このウェス・ベントリーが演じる男は、まったく支離滅裂な行動をしているようで、何がやりたいのか、よく分からないんだけど、実際、おそらく本人も分かっていないのだ(笑)。レイチェル・ニコルズが演じるヒロインに「望みは何?」と聞かれて、男は漠然としか答えないんだけど、それはごまかそうとしたのではなくて、実際に男自身、自分が何を望んでいるのか? なんのために女を監禁しているのか?がよく分からないでいるのではないだろうか? では、やはりただの変質者が欲望のおもむくままに行動しているのではないか?と言われるかもしれないが、それがそうではないのだ。「欲望」というより「感情」によって行動しているのだと思う。男は「君に感情があるように僕にも感情があるんだ」と言うが、実際、そうなのだ。女を監禁するような変質者の男にもやっぱり「感情」がきちんとあって、男が女を監禁したのも実際、「友達になりたかったから」といった「感情」によるものなのかもしれないのである。変質者だって決して欲望のおもむくままに行動しているわけではないのである。(監禁されて喜ぶ女なんているわけがないし、「友達になりたかったから」女を監禁するなんてまったく馬鹿げた話のように思えるかもしれないけど、それは理性ではすぐ分かることであっても、「理性」ではなくそういうことを求めてしまうのが「感情」というものなのだ・・。)
そして、この映画は、男とヒロインの双方の「感情」の動きがよく分かる。ので、参った。だって、それは、「男」と「女」の絶望的な距離を示すものなのであるから・・。

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2008/6/8

タイ式シネマパラダイス、『ヌーヒン バンコクへ行く』  映画

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シネマート六本木、「タイ式シネマパラダイス」で『ヌーヒン バンコクへ行く』。
この大傑作アジアンコメディ映画をこうした特集上映の機会にしか日本の観客が見ることが出来ないのではもったいない。ぜひぜひロードショー公開してほしいもの。
人気マンガが原作らしいが、日本でいえば「ちびまる子ちゃん」みたいなものなのか!?マンガ的なキャラクターの勝利とも言えるが、マンガ的なキャラクターを実際の生身の役者が見事に成りきって演じていてそのアクションは見事に映画になっている。だから、マンガ原作の荒唐無稽な世界を無理に映画にしているというわけではなくて、映画として実に生き生きとした、「これこそが映画だ!」と言いたくなるような、絶妙なバランスで映画が成立しているというのか・・。コメディって、シチュエーションがよく出来ていて笑わせるものと、アクションそれ自体で笑わせるものとがあると思うのだけど、この作品はその両方の要素が混在していて、その混在ぶりがなんとも言えない絶妙な味わいを醸し出しているように思えて、それがまさに「コメディ映画ってこういうもののことを言うんだ!」と唸らせるようなものになっているのではないかと思う。こういう至福の映画を現在進行形でつくっているタイやマレーシアの映画界の活気が羨ましい!
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2008/6/7

PFFでダグラス・サークとミロス・フォアマン特集  映画

PFFのダグラス・サーク監督特集(11本)とミロス・フォアマン監督特集(4本)の専用パス(フリーパス)、買いました。合計1万5千円。整理番号はダグラス・サークが95番、ミロス・フォアマンが21番。けっこうぎりぎりだった?(ダグラス・サークが限定100枚、ミロス・フォアマンが限定50枚の発券。)
と、自分が買い損ねるといけないので、買ってから記事にしているんですが・・。ずるくてすまん。とりあえず買えたのでホクホク。

http://www.pia.co.jp/pff/festival/30th/lineup/index.html
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2008/6/6

シネマアートン下北沢が閉館  映画

シネマアートン下北沢
http://www.cinekita.co.jp/

うわー、これは急すぎる。よほどの事情かとは思うが、せめて上映スケジュールにあがっている作品の上映は終えてから閉館にして頂きたかった。でも、なにはともあれ、お疲れさま。いい映画、レアな映画をたくさん有難うございました。
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2008/6/5

石綿(アスベスト)被害はいったいどこまで広がっているのか・・  公害・薬害・環境・医療問題

(ニュース)
<石綿>健康被害救済法認定者の45%が関連職歴なし
6月5日2時31分配信
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2008/6/5

『堕靡泥の星 美少女狩り』  映画

他の鈴木則文監督の作品とやや印象が異なるのは、これが東映ではなく唯一の「にっかつロマンポルノ」作品だからというより、大和屋竺脚本だからなのではないだろうか・・。これは実存主義的な作品である。すなわち、この作品の主人公にとって結局、女という「他者」はいない。同じ大和屋竺脚本の映画『大人のオモチャ ダッチワイフ・レポート』のように相手がダッチワイフというわけではなく、生身の女性だったのだとしても。この作品に描かれているものをSMと言うのかどうかよく分からないが(ジャンルとしては一応、「SMもの」ということになっている)、ここで描かれているSMというのか、加虐、被虐の関係性はもはや人と人のコミュニケーションとは言えないものであるように思う。だから主人公は、こうしたSMというのかレイプというのかセックスを通してどこまでも自己の実存を見つめるしかないのだ。原作者の佐藤まさあきが執拗に描き続けた「レイプ」にとりつかれた男の話は、結局、女性を「他者」として認識することが出来ず、どこまでも自己の欲望と実存を見つめ続けるしかなかった男のサガを描いたものなのではないかと思う。だから、女性にこの世界が分かるはずがないと思う。(というか、女性にこれが分かってしまっては困ります!女性という「他者」の存在を認識することが出来ないという、そういうセックスしかできないという話なのだから!)佐藤まさあきは戦災孤児という彼の生い立ちからこのような妄想を生み出すに至ったらしい。佐藤は家族がいない「孤児」だったからこそ、自分を見つめ続けるしかなかったのだ。そして、やはり実存主義的な作家である大和屋竺がこの佐藤まさあきの劇画を脚本化した。この映画が「孤高」の作品として屹立しているのは当然だと言えるのかもしれない。
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2008/6/1

『アフタースクール』  映画

むむ、これも面白いことは面白いんだけど、基本的にあまりにやっていることが『運命じゃない人』と同じなので・・。『運命じゃない人』を見ているので、前半でほとんど最後までストーリーが予測できてしまい、後半は予測した通りだったので、今回は驚きはなかった・・。ちょっと残念。うーむ、というか、ミスリードがうまくないのかな・・。緻密と言えば緻密なんだけど、逆に緻密すぎてまったくストーリーと関係ない無駄なシーンがないので「ああ、これはこういうのの伏線だな」と分かってしまうんだな・・。『運命じゃない人』は初めてだったので驚きだったんだけど、今回はかまえて見てしまっているわけだし・・。あと、出だしから、「ええ?それはあり得ない。明らかに不自然。ということは・・」というシーンが多いのでネタが読めてしまうんだな・・。『運命じゃない人』を見て、かまえて見ている観客をさらに騙すのであれば、もっとストーリーとまるっきり関係ないシーンを入れてミスリードをする必要があるように思いました。

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