2008/9/8

『イントゥ・ザ・ワイルド』  映画

先日のダグラス・サーク特集で上映された『天が許し給うすべて』でロック・ハドソンが演じる庭師の男とはまた別の形で、ソローの名著『森の生活』に魅せられ、いかれてしまって、無謀な冒険の旅に出てしまったかのような主人公の青年。
が、サーク作品のロック・ハドソンは堅実なやつで、庭師としての技術を身につけ、ちゃんと自分の「森」を作り上げてから恋愛にチャレンジするのだが、この『イントゥ・ザ・ワイルド』の原作、『荒野へ』の青年は、そうした堅実さが足りない。たとえばカヌーは素人なのに訓練を積む努力をすることもなく、ヘルメットさえつけずに実践に出たりする・・。これではただの若さゆえの無謀な冒険主義で、世間に背を向け、自然主義で生きるのはアリだとは思うけど、それは若さゆえの無謀ということとはちょっと話が違うのではないか・・。
と主人公の行動には疑問も沸くのだけど、この作品はそうした主人公のキャラクターの無謀さもしっかりと見つめ、そうしたキャラクターの若者だからこそほっておけない大人たちもあらわれて交流が生まれていくさまも描いていて、その点が清々しい作品になっているように思う。
そもそもサーク作品の場合は、あくまでメロドラマが主軸であり、サーク作品の登場人物たちはそれぞれさまざまな幻影にとらわれていて(実際に、現実に生きている我々、人間のひとりひとりがそうであるように)、その「幻影」のひとつの例としてソローの『森の生活』のような生活にとらわれているロック・ハドソンが演じる庭師の男の姿が描かれているのであって、「恋愛」などには背を向けて、ひたすら孤高に自然の中での生活に挑もうとしている『荒野へ』の青年の場合とは話が違うのではないか・・と考えてみると、そうなのかもしれない。そうすると、ソローからサーク作品を想起して比較しながら見ていた僕の見方がそもそも見当違いだったのか・・。
いや、でも、実際のソローとこの青年はやはり違う。この青年はやはりソローその人ではなく、ソローに憧れ、とらわれてしまった者なのだ。そうすると、やはりサーク作品の登場人物たちに近いのかもしれず、僕の連想はまったくの見当外れでもなかったのではないだろうか・・。
また例によって、書いていることが混乱してきて、何が言いたいのか、自分でもよく分からなくなってきてしまったが、なかなか面白い映画だった。

ショーン・ペンは、原作に付け加えたものはないと語っている。脚本を書くのに必要なものはすべて原作に書いてあったんだって。考えてみれば、ショーン・ペンの最初の監督作『インディアン・ランナー』にしろ、ブルース・スプリングスティーンの歌そのままだったよな。全然、オリジナルなんかじゃないのだ・・。でも、オリジナルにつくった物語じゃないのに、「ああ、いかにもショーン・ペンだなあ・・」と思わせる作品にいつも仕上げてしまう。そういう意味では不思議な才能だな。(あ、なんて書くと、けなしているみたいだけど、ほめようとしたつもりだったのだが・・。)

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