2008/11/28

『石内尋常高等小学校 花は散れども』  映画

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なんて独創的な作品。新藤兼人はやはり「脚本家」としてよりも独創的な「演出家」として凄いんだなあと思いました。というか、新藤兼人の脚本ってある意味、図式的なものだったりするので、他の監督が撮ると図式性が出過ぎた作品になってしまうきらいがあるが、新藤兼人自身が監督までして独創的な手法で(演劇的な要素も加えているのか?)演出している作品だと、図式性をこえて、まったく独自の空間に映画が突き抜けてしまう・・という感じがする。決して「巧い」というような演出法ではないと思うんだけど(むしろ、「下手くそ」なのが個性になっている!? マンガで言えばガロ系マンガみたいな・・)、こういう脚本はこの演出法でこそ生きてくるのか・・という意味で的確な感じがする。そういうのを「ひとりよがり」の作品になっているとみなす人ももしかしたらいるのかもしれないが、脚本家と演出家(監督)を同じ人がやっていることが効果をあげている・・と良いほうに考えていいのではないか?と僕は思うのだが・・。
そういえば、ソクーロフがどうして新藤兼人をあれほど評価しているのか、「演出法」という点で考えてみることに意義があるのかもしれない。
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2008/11/25

『告発のとき』  映画

早稲田松竹で。
さすがイーストウッド組の脚本家あがりの監督作品とあって、秘密をぐいぐい引っ張って見せていく手腕はかなりのもの。
結局、法では裁けない人間性の問題に行き着く・・というあたりも、イーストウッドにつながるテーマ性があるように思えるものであり、内容(ストーリー)的には興味深い作品だった。
が、映画として素直に面白かったかというと・・
うーん、ちょっと生真面目すぎるのかもしれない。
端的に言って、『リダクテッド 真実の価値』のほうがずっと面白いように思える。なぜなんだろうか?と考えてみると、やはり『リダクテッド 真実の価値』のほうがデタラメなものだからなのではないだろうか? しかし、デタラメなもののほうが映画だというのはどういうことなんだろうか? 『リダクテッド 真実の価値』は、「どうしてこんな風にカメラが置かれているんだ?こんなの、デタラメなのでは?」と思うわけだけど、まさにその瞬間に映画というものを感じるのである。理屈でなく、これは映画なんだなと思うのだ。『告発のとき』は、「なるほど、なるほど、実によく出来ているなぁ」と感心するわけだけど、理屈でよく出来ているなぁと思うばかりで、「ああ、映画だ」と感じる瞬間がないのだ。デタラメさがないから、理屈からはみだす瞬間がなく、映画を感じることが出来ないのではないだろうか? それは、『告発のとき』でも、『リダクテッド 真実の価値』と同じように兵士自身が撮影した映像が出てくるのだけど、この劇中の映像が『リダクテッド 真実の価値』の場合のように「こんなの、ありか?」というデタラメさを感じさせるものではなく、何があって、兵士がどう思ったのか?の「説明」でしかないように思える点からもうかがえるのではないだろうか?
もしかすると、ここまで言ってしまうのは、ちょっと『リダクテッド 真実の価値』を持ち上げすぎているのかもしれないけど・・(笑)、『告発のとき』を見ながら、作品としての出来ということでは決して『リダクテッド 真実の価値』よりも劣っている作品だとは思えないのに、どうして『リダクテッド 真実の価値』のほうが面白く思えるんだろうか?と考えてしまったのだ。
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2008/11/23

『リダクテッド 真実の価値』  映画

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大学の映画学科志望の兵士が、退役してから映画学科に行くために隊内を記録するビデオを撮っている・・という設定なので、たしかに「あり」ではあるんだけど、どうしてこういう時にここにカメラが置いてあるんだ!?と思うシーンがけっこうあった。むしろ、この設定なら、このようにある種、デタラメにカメラがあってもOKだと、映画ならではのデタラメさを生かしてプログラムピクチュア的にこうしたリアルタイムでイラク戦争を題材にした映画を撮ってしまおうというデ・パルマの意気込みを感じる。プログラムピクチュア的と書いたけど、内容的にも同じデ・パルマ監督の『カジュアリティーズ』のリメークとも言えるものであるわけで、イラク戦争の真実を暴くと言いながら(もちろんイラク戦争の真実を暴くという意図も明白にあり実際、そのような作品に仕上がっているのだろうけど)自分の過去作品のリメークという感じの話を撮ってしまうあたりもプログラムピクチュア的と言えるのかも。これは決してけなすつもりで言っているわけではなく、デ・パルマはやっぱりプロの職人監督なんだなあ、さすが・・という感じの意味合いで言っているのだけど。
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2008/11/23

ヴァレリア=ブルーニ・テデスキ『女優』  映画

東京日仏学院で。
『ラクダと針の穴』に続いて、ヴァレリア=ブルーニ・テデスキの監督としてのたしかな演出力を感じる。
ただ、『ラクダと針の穴』は現実と幻想とが入り乱れていく話だったが、今回も舞台女優の現実の生活の間に女優としての役作りと舞台上の世界とが混合していき、現実と虚構の舞台の世界との区別がつかなくなっていく話なので『ラクダと針の穴』に通じるスタイルではあったのだけど、今回の場合は俳優という特殊な職業の人たちの、舞台をやっている間の一時的な混乱の話・・とも思えてきてしまうので、普遍的な共感を出来る話ではないような気もしてきてしまい(俳優ではない自分にはあまり関係ない話かなと思えてきてしまう)、『ラクダと針の穴』ほどはインパクトがなかったかも。
でも、ラストはなんか、ヌーヴェルヴァーグぽくって良かったです。

*『ラクダと針の穴』の感想
『ラクダと針の穴』
http://blue.ap.teacup.com/documentary/498.html

『ラクダと針の穴』(その2)
http://blue.ap.teacup.com/documentary/499.html
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2008/11/15

『秋深き』  映画

織田作之助原作、西岡琢也脚本、池田敏春監督。
んん、ひさしぶりのロマンポルノ風味か?と思って、軽い気持ちで見始めたのがいけない。ロマンポルノ風味かと思ったこちらの期待をスルリとかわすかのように官能的なシーンはあっさりと描写され、今どき、随分、ベタなラブストーリーだなあ・・と面喰らって見ていたらー。いったい、いつの間に、どこからこのストーリーはとんでもない方向に走り出していたのか? 気付くと、あれよあれよととんでもないストーリーになっていたのだ・・。で、さらにはラスト寸前、なるほど、こういう風に物語が完結するわけか、よくこんな奇抜な話を考え付いたものだなあーと感心していたら、そのさらに上を行き、それさえスルリとかわす見事さ。原作は未読なので、このストーリーのどこまでがオダサクが考えたもので、どこから西岡、池田コンビが考えたのかは知らないけど、とにかく見事なまでのプロの技あり。
で、官能的なシーンはほとんどないのにもかかわらず、最終的な味わいはどういうわけか、ロマンポルノ風味だったりもする。オダサクの世界をこんな形で現代によみがえらせるとは。脱帽。

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2008/11/13

シオドア・スタージョン『[ウィジェット]と[ワジェット]とボフ』  SF小説

シオドア・スタージョンの小説なのであるから、フツーのものではないのは当然で、いまさら驚くことでもないのかもしれないが、それでもやっぱりこの『[ウィジェット]と[ワジェット]とボフ』という小説はいったい、どうすればこのような小説がこの作家にかかると書けてしまうのだろう・・と驚くばかりの小説である。
自殺願望がある職安職員の男、映画スターに憧れる女、階級的偏見にとらわれた弁護士の男といった、それぞれ変な固定観念(もちろん本人は真剣に悩んでいるのだろうけど他人から見ると・・)にとらわれた人たちの群像劇であるこの作品は、映画で言うとちょっとロバート・アルトマンやポール・トーマス・アンダーソンの映画作品を思わせないでもない変な人々の群像ものであるのだけど、強引とも思えるぐらいのハッピーエンドへの志向など、トータルに考えると、アルトマンよりもさらに古典的なハリウッド映画のテイストの作品だと言えるのかもしれない。(実際、この小説は1955年に書かれたものである。)
と、ある種の映画との類似という点を指摘したのだけれども、しかしこの小説はやはり映画とは異なるものであり、「小説」としか言いようがないものだと思うのは、この小説が明らかに、文章自体の実験、さまざまな突飛な比喩的な書き方によって作品として成り立っていると思えるからで、もちろんこの小説にも壮大とも言えるような物語(ストーリー)があるわけだけど、しかし「物語(ストーリー)」自体が凄いというよりも、やはり文章それ自体が凄いから特異な小説として成り立っているのだとしか思えないところがあるのであり、このことはシオドア・スタージョンがやはりまぎれもなく小説家であるのだということを示していると言えるのではないのだろうか。
で、それではこれは「SF小説」なのか? 果たしてシオドア・スタージョンの小説はSFと言えるものなのか? ということだけど、まあ、これは単にジャンルとしての定義の問題だからどうでもいいと言えばどうでもいいことではあるわけだけど(SFであろうとなかろうととにかく面白いものは面白いわけだから)、依然として僕には答えようがないのだが、人間とはなんと支離滅裂で奇妙なものなんだろうか・・ということに驚くことこそがSFなんだ・・という風に言ってしまっていいのであるならば、スタージョンの小説はやはりSFであるととりあえず言ってしまってもいいのではないだろうかと思う。
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2008/11/8

『その日のまえに』  映画

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あまりに全編、大林ワールドが全開!よくも悪くも、大林監督じゃなきゃ、撮れない映画だ・・。
原作は読んでいないが、死期が迫る夫婦の心情を描いたものなのだろうが、大林の映画だから、生者と死者が混在する世界の話として描かれる。『ふたり』『異人たちとの夏』など、大林監督おはこの世界。大林ワールドは堪能できたけど、あまりに平然と生者と死者がともに存在してしまうから、「死」の重みがどこかにいってしまった気がするのもたしか・・。
ただ、永作博美の好演で、少女ヒロインものが多い過去の大林映画とは違い、大人の女性でなおかつ大林ワールド的なヒロイン像というのが描かれていたような点は注目できるかも。
あと宮澤賢治の使い方は、ああ、なるほど、大林監督は宮澤賢治をこんな風に解釈してきたんだなと納得してしまった。そういえば、大林監督が、最初、小説家をめざしていたけど福永武彦の『草の花』を読んでこんなすごいものが書かれているならと小説家はあきらめ映画監督をめざすことにした・・とか語っていたけど、その福永武彦の小説も、生と死の両立、共存という観点で読み直すことができるのかもしれない。
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2008/11/6

『アンナと過ごした4日間』について思い至る  映画

『アンナと過ごした4日間』について、なぜこの映画の主人公が法廷で「愛」の言葉を口にする時、ある種の宗教的な慎ましさが感じられるのか?についてずっと考えていたのだけど、ふと思い至る。
これは「セックス抜きに愛は成立し得るのか?」を描いた映画なのだと・・。
この映画の主人公は女性の部屋にしのびこみ、いわゆる覗き行為をしているわけだけど、こう書くと「異常性愛の変質者」の話であるかのように思えるかもしれないが、しかし、この男は「異常性愛の変質者」ではないのだ。むしろ、正反対に、「セックスに興味がなく、セックス抜きの愛を貫こうとしている男」なのではないだろうか?
もちろん、「セックスに興味がない人間」というのは異端者ではあるわけで(セックスに興味を持つのが通常の人間なのではないかと思うので・・)、だからこれは「異端者の人間の話」には違いないわけだけど、しかし、「変質者の話」ではないのだ。「異端者」ではあっても「変質者」ではないのである・・。
で、だから、あの法廷のシーンが宗教的な感じがしたのではなかったのか・・。
そして、この映画が同じスコリモフスキー監督の『早春』に通じる感じがしたのも、どちらの作品も実は「セックス抜きに愛は成立し得るのか?」を描いた映画だったからなのではないだろうか?
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