2009/1/9

結局、僕の映画の評価軸の基本はこういうことです  映画

しかし、『アキレスと亀』についても『ラースと、その彼女』についてもほとんど同じことを言っている。というか、僕が言っていること、僕の評価軸の基本はほとんどいつも同じである。

つまり、まず現実の人間や世界をあるがままに描き出すべきだと思う。
作り手が現実と異なる虚構を見事につくり出しても意味がない。なぜなら、現実と異なる虚構であればあるほど、それがどんなに素晴らしかったとしても、それはその作品の作り手が頭の中で考えたことが素晴らしい・・ということでしかないので、それが完成度が高くて素晴らしければ素晴らしいほど、でもこれは虚構の話であって、現実の人間や世界はこのような素晴らしいものではないのだ・・という結論に至ってしまうわけで、それでは現実の人間や世界を否定する虚無主義にしか行き着かない。それではなんのためにそのような映画が作られたのか、意味がない。だから、虚構としての完成度ばかりを追求しても意味がない。

では、何が肝心なのかと言うと、現実の人間や世界をあるがままに描き、それがどうしようもないものであるならば、どうしようもないものである・・とそのまま描けばいいのである。
もちろん、そうは言ってもそれで終ってしまってはそれこそ意味がないが。それでは、現実の人間や世界はどうしようもないものだ・・という結論にしか至らないので、それこそ虚無主義でしかない。
そうではなく、現実の人間や世界のどうしようもなさをあるがままに描きながら、でもこういう世界や人間も捨てたものではないのではないか? 悪くないんじゃないか? これはこれで素晴らしいものなんじゃないか? ということを見い出すことこそが、映画が表現するべきことなのではないだろうか?

もちろん、このように言っているからといって、僕は映画作品というものが虚構であること自体を否定しているわけでは毛頭ない。僕がつくり込み過ぎないほうがいい・・と言うのは、必要以上につくり込み過ぎて現実の世界や人間から離れてしまってはそれは本当に現実とは異なる虚構の世界でしかなくなってしまうのでそういう風にはしないほうがいい・・という意味で言っているのであって、そもそも映画作品というものが虚構であり、作り手の作為によって成立していることを否定しているわけではない。というか、そういうことを否定するなんてことは有り得ないが。どんな映画であっても、作り手がいて、作為によって作られているものであることは自明であるからである。それはドキュメンタリーであったとしても、どのように編集しているか?といった時点でどうしたって作り手の作為性が入るのであり、作り手が目をつぶって、フィルムを手探りで無造作につないでみたら作品が出来上がっていた・・などということは物理的に有り得ない。(逆に、もし本当にそういう風にして1本の映画作品を作り上げることが出来た映画作家がいたとしたらゴダールやペドロ・コスタ以上の本当の「天才」であると思うが。)
だから、僕が繰り返し言っていることは、別に作り手の作為性を否定しているのではなくて、作為性の中に、あまりに作り込み過ぎない・・という要素を含み入れるべきだ・・ということなのである。
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