2009/11/27

『すべては自然の贈りもの−西会津のお天気母さん−』  映画

国際有機農業映画祭で。
NHKディレクター、宇佐川隆史氏が、半年間、西会津の農家のおばさんを追いかけたもので、2008年にNHKハイビジョン番組で放送されたもののようだけど、いい意味でNHKらしい、のびのびとした味わいがある。(なんだかんだ言っても、たとえば『小さな旅』とか、ああいうのの、NHK的なゆったりとしたカメラワークって、題材によっては退屈な時もないわけではないが、ぴったりハマると味わいがあるように思う。)
鳥や昆虫やカエルや植物、自然を見て天気を予測するという(ツバメが高く飛んでいると雨は降らないが低く飛ぶと雨が降るとか)、かつては農民が身につけていたものだったのかもしれないけど、いまでは誰もが忘れてしまっているようなことをいろいろと知っている、「お天気母さん」が主人公で、被写体になっているこのおばさん自体がもともと魅力的な人ではあるのだろうけど、その被写体の人の魅力を引き出すインタビューの仕方もうまいように思う。農作業しながらのインタビューや屋外のインタビューだけでなく、家の中でのインタビューの仕方も、背景の生活感を出そうとしたり、大雨の夜中にいきなりインタビューにいったり、いろいろ工夫をしているようで、そこがいいなと思ったのだ。(ごく基本的なことではあるのかもしれないけど。)
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2009/11/17

『誰が電気自動車を殺したか?』  映画

DVDで。
いや、面白かった。GM社が90年代に発売した電気自動車がなぜ市場から回収されて消えたのか? その顛末を追ったドキュメンタリー。
現在、トヨタやホンダがハイブリッドカーを必死で売っているけれども、ハイブリッドカー以上に環境に優しい、電気自動車がすでに90年代に実際に売られていて、充分、問題なく走っていたのに、それは回収されてしまい、現在まで闇に葬られてしまっているという、ほんとにこの世は摩訶不思議なものだと思う。どうしてこんな奇妙なことになってしまうのか、その謎の一端がこの映画を見ると感じ取れるのではないかと思うが、これはまさに現在進行形の、我々が生きている社会の話であり、我々が生きている社会の摩訶不思議さをとらえ出したドキュメンタリーなのだと言えるのではないか。

はっきりしていることは・・、技術的には現在、完全な電気自動車はなんら問題なく作れる段階に至っているのであり、値段が高すぎるというのも、大量生産をしていないからであって、大量生産すればすぐにでも普通に安い価格で電気自動車を生産、販売できるはずだし、そのほうがこれだけ環境、環境・・と世界中で言っている時代に見合うものであるはずだということ。それなのに、なぜいまだに市場で販売されているのはあくまでハイブリッドカーであり、電気自動車ではないのか?
まあ、これは、この『誰が電気自動車を殺したか?』という映画でも指摘されているように(この点をきちんと指摘しているところが面白いなあと僕は思ったのだけど)、販売する企業や、行政の政策ばかりが悪い、問題だというわけではなくて、消費者の側にも問題があるのかもしれないと思うのだけど・・。
つまり、これは、もちろん僕自身を含めた、我々自身の問題なのだ・・ということ。
ああ、環境問題とは、やっぱりまず自分の罪を、自分が一方的な被害者ではなく加害者でもあることを自覚せよ!そこからはじめるしかないものなんだろうか・・。

それにしても、電気自動車の販売員だった若い女性がどんどん活動家として変わって行くというのは面白かった。こういうところは、いい意味でのアメリカらしさがあると思う。
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2009/11/15

「被爆者の声をうけつぐ映画祭2009」のお知らせ(終了)  映画

(終了しました。)

*僕もスタッフとして関わっている映画祭、今年で3回めです。よろしく。

「被爆者の声をうけつぐ映画祭2009」
11月13日(金)〜11月15日(日)
明治大学リバティタワー1F リバティホールで開催。

*詳細は下記を参照してください。

被爆者の声をうけつぐ映画祭
http://hikakueiga.exblog.jp

【映画祭についての問い合わせ先】
共同映画M 03-3463-8245
M独立映画センター 03-5827-2641
ウイング・コア (FAX)03-3205-8958
Mail:eigasai★gmail.com
※上記アドレスの★を@に変えてご連絡下さい。
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2009/11/6

カルロス・レイガダス監督インタビュー  映画

葛生賢氏によるカルロス・レイガダス監督インタビューがとても興味深い内容。
http://www.tiff-jp.net/report/daily.php?itemid=1393
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2009/11/3

水俣病1000人検診 未認定93%に症状  公害・薬害・環境・医療問題

(ニュース)
水俣病1000人検診 未認定93%に症状 69年以降の出生者も
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/131405

 水俣病の潜在患者を掘り起こすため、医師や被害者7団体でつくる実行委員会(委員長=原田正純・熊本学園大教授)が9月、熊本、鹿児島両県の不知火海沿岸の住民約千人に実施した大規模検診の分析結果を29日、発表した。未認定の受診者974人中、93%に当たる904人に手足の先のしびれなど、水俣病特有の症状が確認された。
■行政線引きと矛盾
 水俣病の症状は、国が「新たな発生はない」とする1969年以降の出生者や、不知火海沿岸地域への転入者など若い世代でも51人を確認。医療費が無料になる保健手帳の交付対象地域外でも、93%に特有の症状があったという。
 熊本県水俣市で会見した原田委員長らは「有機水銀の汚染が不知火海全体に広がっていることが確認できた。未解決の人がたくさんいる事実を真剣に受け止めてほしい」と述べ、国による早急な調査を求めた。
 調査は9月20日と21日、熊本県水俣市、天草市、鹿児島県出水市など8市町17カ所で行われ、医師約140人が沿岸住民に感覚障害など水俣病特有の症状があるかを診察。2日間で1044人が受診、データの公開を了承した974人の診断結果をまとめた。
 国は水俣病の救済対象を公害健康被害補償法に基づく指定地域ないし、医療費が無料となる保健手帳の交付対象地域としてきたが、今回の結果では、上天草市など対象地域外から受診した213人中、199人が「水俣病である可能性が濃厚」とした。
 さらに、国は原因企業チッソが68年に有害排水を停止したことを踏まえ、69年以降、水俣市住民の頭髪の水銀濃度が他地域と同程度になったことを例に「水俣病が発生する状況はなくなった」とした中央公害対策審議会答申(91年)を根拠に、水俣病患者の存在を認めてこなかった。
 しかし、調査結果では69年以降の出生者、転入者59人のうち、51人にも水俣病の症状が見られたとし、行政の線引きは「非常に不完全」(原田委員長)とした。
 調査では、今回の受診者のうち、これまで水俣病の検診を受けたことがある人はわずか11%(112人)だったことも判明。検診を受けなかった理由として「差別を恐れた」が46%の396人、「情報がなかった」が41%の354人いた。
=2009/10/30付 西日本新聞朝刊=
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2009/11/2

『無防備』  映画

市井昌秀監督。
これはけっこう面白かった。
なるほど、こうしたミニマルな映画はこういう見せ方をすれば面白くなるのか・・と妙に納得したのは、フリスピーとかクモとか、ちょっとした小道具の使い方がいいんだな。小さなちょっとした小道具を使って、必要最低限のものを見せることで映画を成立させようとしている。歩き方とか、走り方とかも、シーンごとに工夫していて、微妙に違うものになっていて、それが映画の緩急のリズムになっている。
こういう描写が出来て、それが2人の女性の心理描写になっているわけだから、この監督は本当に男性なのか?とつい思ってしまう。まあ、監督を女性とか男性とか性別で見ようとすること自体が間違いなのかもしれしれないが、男性監督でこれだけ女心が描けるなんてそれだけで感心してしまう。
監督は鬚男爵の元メンバーという、つまりはお笑い出身の人らしいが、お笑い出身の人なのにもかかわらず、いや、だからこそなのかもしれないが、具体的に見せ方を確立している。
ただ一方で女心は実によく描けていると思うのだけど、逆に旦那や男の側が何を考えているのか? 何を託してこういう夫婦像をこの監督が描こうとしているのか? そこらへんがよくつかめなかったと言えばつかめなかったのだけど・・。
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2009/11/2

『母なる証明』  映画

凄まじい作品である。ポン・ジュノ監督の現在までの最高作だろう。
部分的にはもしかしたら『殺人の追憶』のほうが面白いところがいろいろとあるのかもしれないけど、この『母なる証明』は「母親」というベースになるものをドンと置いたために、これまでのこの監督の作品のように拡散せずに、ひとつの物語が集約されて達成された感がある。

ミステリーとしてもやられたというのか、見事に裏切られた。考えてみれば読めない構成ではないはずだが、伏線のはり方がうまいのだと思う。ひとつのシーンで同時に何かが起こっていて、その中に伏線もまぎれているのだが、観客が伏線だと気がつかないようになっているのだ。

しかし、これだけ、達成していても、これまでのこの監督の作品と同様に、どうしてもこれが「映画」だという気がしない。「映画」ではなくなんなのか・・というと、ひとことでは言えないが、演劇とか漫画とか、あるいはプロレスとかお笑いとか・・とにかく「映画」ではないものを「映画」で見せられているような感がしてしまう。
徹底した風景へのこだわり・・など、「映画」ならではのこともいろいろとやっているはずなのに、何故?と思う。
ポン・ジュノ監督は「映画」が分かっていないのだろうか?
いや、おそらくそうではない。むしろ、「映画」とは異なる、「映画」には向かないようなことを「映画」として成立させようとしているということ・・そこにこの監督は賭けているのではないだろうか?

ひとつには、キャラクターの作り方の問題だろう。
この『母なる証明』でキム・ヘジャが演じる役は「母親」となっている。個人としての「役名」がないのだ。主役なのに、「母親」なのである。
これがまさにこの監督のキャラクターの作り方の異様さを示しているのであるが、この監督の作品ではおそらく役名がついていたとしても、個人としての人間である以前に、息子は息子であり、刑事は刑事であり、売春婦は売春婦であり、引きこもりは引きこもりであるのかもしれない。

ある意味、別役実のように、役名に名前をつけない。別役実の台本では、医者とか看護婦1とか役名が職業になっていたりする。別役実は「人間の性格は立場だ」という考えなのかもしれない。
しかし、別役実は演劇の世界の人である。本来、こうした試みは、「映画」よりも「演劇」のほうが向いていることなのではないだろうか? 『マッケンドリックが教える映画の本当の作り方』でマッケンドリックが書いているように、「シンボリズムはスクリーン上よりも舞台上で大きな効果を発揮する代物」なのではないか? 映画はそういうことをやるためにはあまりにリアルにディテールが描かれ過ぎてしまうのだ。
こうしたキャラクターの作り方が、この監督の映画がこれは「映画」ではなく「演劇」なのではないか?という気にさせてしまうのではないか?
ロケーションの風景へのこだわりといった「映画」でなければ出来ないことをしていたとしても、その点でも、こういう出来事が起こる場所だからこういう風景・・といったように、話に合わせて風景を選択している(風景から話が起こって来るのではなく)という気がしてしまうので、たとえばヌーヴェルヴァーグの映画的なロケーション撮影とは本質的に異なるもののように思えるのである。

しかし、このように書いたが、僕は決してポン・ジュノ監督の映画は「映画」ではないと、このような映画を否定しようとしているわけではない。むしろ、逆に、「映画」として成立させることが難しいようなことをあえて「映画」にしようとしているところがこの監督の凄さなのではないか?と評価したいのだ。
何より、この監督の映画は役名が母親となっていて名前もついていないのにもかかわらず決して抽象的なわけではなくてきわめて具体的な描写を積み重ねているのだから。

それにしても、なぜ「母親」の話なんだろうか?
「刑事」をひとりの人間である以前に「刑事」である人間として描くようなこの監督が、どうして「母親」の話へと辿り着いたのか?
それは、「母親」こそが、ひとりの人間として生きることを失い、「母親」として、そういう役回りとしてだけで生きるようになってしまった・・という人が、実際に多いからなのではないか?
それ自体が物語にきちんとなっているのであるが、『母なる証明』のキム・ヘジャが演じる母親は、おそらくある時に一度、ひとりの人間としては死んで、それ以降は「母親」としてだけ、そういう役回りとしてだけ、生きて来たような人間なのではないか?
それがまさにこの監督が描こうとしていることの本当の怖さなのではないだろうか?
つまり、ひとりの個人の人間であることをやめて、「母親」なり「刑事」なり、役回りそのものになってしまったような人間を描こうとしているということ。(実際、この社会のほとんどの大人はそういうようになってしまっている。いや、子供だってひとつの個性を持った人間である前に「子供」という役回りそのもののような人間になってしまっているのかもしれないが・・。)
刑事としての仕事におわれ、ひとりの人間である以前に「刑事」という人間になってしまったような人間。いや、仕事におわれたからというより、捜査に熱中するあまりにそうなってしまったのかもしれない。今度の『母なる証明』では、刑事でもなんでもなかった友人が、捜査をする内に「刑事」そのものになってしまうのだから!
ひとりの女であることをやめて「母親」としてだけ生きているような人間。あるいは、ひとりの女である以前に「売春婦」になってしまったような女。そうしたことの悲しみが、この映画に描かれていた悲しみだったのではないだろうか?

だからこれは、一度、死んで「母親」という人間になった女が、もう一度、「自分」を取り戻そうとする話なのではないかと思う。
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