2009/11/2

『無防備』  映画

市井昌秀監督。
これはけっこう面白かった。
なるほど、こうしたミニマルな映画はこういう見せ方をすれば面白くなるのか・・と妙に納得したのは、フリスピーとかクモとか、ちょっとした小道具の使い方がいいんだな。小さなちょっとした小道具を使って、必要最低限のものを見せることで映画を成立させようとしている。歩き方とか、走り方とかも、シーンごとに工夫していて、微妙に違うものになっていて、それが映画の緩急のリズムになっている。
こういう描写が出来て、それが2人の女性の心理描写になっているわけだから、この監督は本当に男性なのか?とつい思ってしまう。まあ、監督を女性とか男性とか性別で見ようとすること自体が間違いなのかもしれしれないが、男性監督でこれだけ女心が描けるなんてそれだけで感心してしまう。
監督は鬚男爵の元メンバーという、つまりはお笑い出身の人らしいが、お笑い出身の人なのにもかかわらず、いや、だからこそなのかもしれないが、具体的に見せ方を確立している。
ただ一方で女心は実によく描けていると思うのだけど、逆に旦那や男の側が何を考えているのか? 何を託してこういう夫婦像をこの監督が描こうとしているのか? そこらへんがよくつかめなかったと言えばつかめなかったのだけど・・。
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2009/11/2

『母なる証明』  映画

凄まじい作品である。ポン・ジュノ監督の現在までの最高作だろう。
部分的にはもしかしたら『殺人の追憶』のほうが面白いところがいろいろとあるのかもしれないけど、この『母なる証明』は「母親」というベースになるものをドンと置いたために、これまでのこの監督の作品のように拡散せずに、ひとつの物語が集約されて達成された感がある。

ミステリーとしてもやられたというのか、見事に裏切られた。考えてみれば読めない構成ではないはずだが、伏線のはり方がうまいのだと思う。ひとつのシーンで同時に何かが起こっていて、その中に伏線もまぎれているのだが、観客が伏線だと気がつかないようになっているのだ。

しかし、これだけ、達成していても、これまでのこの監督の作品と同様に、どうしてもこれが「映画」だという気がしない。「映画」ではなくなんなのか・・というと、ひとことでは言えないが、演劇とか漫画とか、あるいはプロレスとかお笑いとか・・とにかく「映画」ではないものを「映画」で見せられているような感がしてしまう。
徹底した風景へのこだわり・・など、「映画」ならではのこともいろいろとやっているはずなのに、何故?と思う。
ポン・ジュノ監督は「映画」が分かっていないのだろうか?
いや、おそらくそうではない。むしろ、「映画」とは異なる、「映画」には向かないようなことを「映画」として成立させようとしているということ・・そこにこの監督は賭けているのではないだろうか?

ひとつには、キャラクターの作り方の問題だろう。
この『母なる証明』でキム・ヘジャが演じる役は「母親」となっている。個人としての「役名」がないのだ。主役なのに、「母親」なのである。
これがまさにこの監督のキャラクターの作り方の異様さを示しているのであるが、この監督の作品ではおそらく役名がついていたとしても、個人としての人間である以前に、息子は息子であり、刑事は刑事であり、売春婦は売春婦であり、引きこもりは引きこもりであるのかもしれない。

ある意味、別役実のように、役名に名前をつけない。別役実の台本では、医者とか看護婦1とか役名が職業になっていたりする。別役実は「人間の性格は立場だ」という考えなのかもしれない。
しかし、別役実は演劇の世界の人である。本来、こうした試みは、「映画」よりも「演劇」のほうが向いていることなのではないだろうか? 『マッケンドリックが教える映画の本当の作り方』でマッケンドリックが書いているように、「シンボリズムはスクリーン上よりも舞台上で大きな効果を発揮する代物」なのではないか? 映画はそういうことをやるためにはあまりにリアルにディテールが描かれ過ぎてしまうのだ。
こうしたキャラクターの作り方が、この監督の映画がこれは「映画」ではなく「演劇」なのではないか?という気にさせてしまうのではないか?
ロケーションの風景へのこだわりといった「映画」でなければ出来ないことをしていたとしても、その点でも、こういう出来事が起こる場所だからこういう風景・・といったように、話に合わせて風景を選択している(風景から話が起こって来るのではなく)という気がしてしまうので、たとえばヌーヴェルヴァーグの映画的なロケーション撮影とは本質的に異なるもののように思えるのである。

しかし、このように書いたが、僕は決してポン・ジュノ監督の映画は「映画」ではないと、このような映画を否定しようとしているわけではない。むしろ、逆に、「映画」として成立させることが難しいようなことをあえて「映画」にしようとしているところがこの監督の凄さなのではないか?と評価したいのだ。
何より、この監督の映画は役名が母親となっていて名前もついていないのにもかかわらず決して抽象的なわけではなくてきわめて具体的な描写を積み重ねているのだから。

それにしても、なぜ「母親」の話なんだろうか?
「刑事」をひとりの人間である以前に「刑事」である人間として描くようなこの監督が、どうして「母親」の話へと辿り着いたのか?
それは、「母親」こそが、ひとりの人間として生きることを失い、「母親」として、そういう役回りとしてだけで生きるようになってしまった・・という人が、実際に多いからなのではないか?
それ自体が物語にきちんとなっているのであるが、『母なる証明』のキム・ヘジャが演じる母親は、おそらくある時に一度、ひとりの人間としては死んで、それ以降は「母親」としてだけ、そういう役回りとしてだけ、生きて来たような人間なのではないか?
それがまさにこの監督が描こうとしていることの本当の怖さなのではないだろうか?
つまり、ひとりの個人の人間であることをやめて、「母親」なり「刑事」なり、役回りそのものになってしまったような人間を描こうとしているということ。(実際、この社会のほとんどの大人はそういうようになってしまっている。いや、子供だってひとつの個性を持った人間である前に「子供」という役回りそのもののような人間になってしまっているのかもしれないが・・。)
刑事としての仕事におわれ、ひとりの人間である以前に「刑事」という人間になってしまったような人間。いや、仕事におわれたからというより、捜査に熱中するあまりにそうなってしまったのかもしれない。今度の『母なる証明』では、刑事でもなんでもなかった友人が、捜査をする内に「刑事」そのものになってしまうのだから!
ひとりの女であることをやめて「母親」としてだけ生きているような人間。あるいは、ひとりの女である以前に「売春婦」になってしまったような女。そうしたことの悲しみが、この映画に描かれていた悲しみだったのではないだろうか?

だからこれは、一度、死んで「母親」という人間になった女が、もう一度、「自分」を取り戻そうとする話なのではないかと思う。
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