2011/8/26

『ツリー・オブ・ライフ』  映画

そんなに言われる程、意味が分からない映画というわけではないのでは。むしろ、宗教的な解釈をするなら、天地創造、そのままじゃんとも言えるし、ファザコンとかマザコンとかで解釈すれば、きわめて言いたいことは明快なのでは。しかし、分からないとか、言われるのは、そもそもなんでこんなどこにでもありそうな、思春期の少年のいらだちとか、ごく普通の家族の話に、唐突に、天地創造の映像が結び付いているのかが分からないということなのだろうか。特に、宗教色を感じてしまうことへの反発というのはあるのかもしれない。たしかに、それはそうかもしれないのだが、しかし、かといってこれは別に宗教の宣伝映画とか、そういうものではないと思う。というか、天地創造の部分を見ればいいのか、家族や思春期の少年の心理的葛藤を見ればいいのか、よく分からないというのでははっきり言って宗教の宣伝にもなりようがないと思うし、やはりテレンス・マリックの映画としか、言いようがないのではないか。では、テレンス・マリックの映画とはどういうものなのか、というと、考えてみれば、そもそも渾沌としているというのか、混乱しているのがテレンス・マリックの映画なのであり、テレンス・マリックの映画に面白さがあるとするならばそこにあるとしか、言いようがないのではないだろうか。
たとえば、『シン・レッド・ライン』であるが、あの作品はテレビの戦争ドキュメンタリーみたいだと言われたが、それはあながち的外れでもないと思う。たしかにまるでドキュメンタリーのように即物的に戦場を撮りたかっただけのようにも見える。しかし、テレンス・マリックが混乱しているのは同時にドラマへの志向も見えるからである。つまり、テレンス・マリックにはあたかもドキュメンタリーのように即物的に淡々と撮りたいという要素と通俗的な大ドラマをやりたいという要素が両方あり、それがぶつかりあっている。両方への志向があるから、作り手自身も結局、何がやりたいのかが分からない混沌とした映画になるわけである。だから『シン・レッド・ライン』がテレビドキュメンタリーのようだという意見も外れていないと思うし、実際、『シン・レッド・ライン』は戦争映画というより戦争映画を撮ろうとしているメイキングフィルムみたいな感触の作品だと言えるのかもしれない。
あるいは、『ニュー・ワールド』。まさに、歴史ものをやろうとしていることと、通俗メロドラマをやろうとしていることとの間に混乱がなかったか。そこが変な映画なのだが、特に、コスチュームプレイものとしての面白さはたしかにあったように思う。つまり、これも歴史ものの映画というより、歴史ものの映画を撮ろうとしているメイキングフィルムみたいな感触の作品だと言える。
だから、『ツリー・オブ・ライフ』も、天地創造の話なんて無くて、すっきりと、家族の話だけに絞って描かれた映画であったならば、テレンス・マリックの映画ではないのである。これを家族の話、マザコン部分だけに絞り込んだら、たとえばタルコフスキーの『鏡』のような作品になったのかもしれない。しかし、木々へのこだわりとか、映像のタッチとか、『ツリー・オブ・ライフ』はかなりタルコフスキーを思わせるところはあるようには思うが、しかし、やはり決定的にこれはテレンス・マリックの映画なのだと言えるのは、むしろ、天地創造の映像みたいなのが入って来て、どこにでもありそうな普通の家族の話と、天地創造の映像が結び付いてしまうという、混乱ぶり、やけに哲学的なものと通俗的なものとが結び付いてしまうというアンバランスさにあるのではないのだろうか。だから、この作品も、宗教映画というより、宗教映画を撮ろうとしているメイキングフィルムみたいな作品だと言ってもいいのではないだろうか。
このように、むしろ、やけに哲学的なものと通俗的なものとが結び付いてしまうアンバランスさに独特の味わいがある映画を撮る映画作家というのは、考えてみれば、やはり奇妙な映画作家だと思う。
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