2012/6/29

本日の官邸前「紫陽花革命」ライブ中継のお知らせ、大飯原発の件  原爆・原発問題

(1)下記の通り、本日の官邸前アクション(「紫陽花革命」とも呼ばれています)、インターネットで中継されます。

◆6月29日19時〜官邸前アクション空撮ライブ◆

 広瀬隆さんの呼びかけによって、明日、6月29日(金)夕方から夜にかけて行われる官邸前での再稼働撤回アクションを空から中継します。官邸上空にヘリが滞在するのは、18時10分〜30分、
19時10分〜40分の2回。航空法の関係で、疑似ライブとなりますが配信時間は19時頃からとなる見込みです。官邸まで来れない方にぜひお知らせください!

◎OurPlanetTV
http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/1379
◎Ustream(上記でアクセスが殺到した場合)
http://ow.ly/bStd1

■1回目配信:19:00頃〜19:40
リポート:山本太郎(俳優)
配信:OurPlanetTV/IWJ
■2回目配信:21:00頃〜21:40頃
リポート:野田雅也(フォトジャーナリスト)
配信:IWJ

☆カンパ募集を募集しています!☆
◎官邸上空ヘリ空撮プロジェクトの寄付先
城南信用金庫営業部本店  普通預金口座 ──822068
◎OurPlanetTVへの寄付
http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/92

(2)大飯原発の件
「(社民党の)福島みずほ党首は27日(水)、大飯原発直下に存在する可能性がある破砕帯の調査を行いました。
当日は、服部良一議員、橋本勉議員・三宅雪子議員(民主)、平山誠議員(大地)ら超党派の議員5人の国会議員と変動地形学の渡辺満久教授とで大飯原発に入りました。」

http://park3.wakwak.com/~sdp.hokkaido/cgi-bin/news/diary.cgi?no=151
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2012/6/23

カネミ油症 孫世代影響、20歳未満摂取で男児出生減(読売新聞)  公害・薬害・環境・医療問題

(ニュース)
カネミ油症 孫世代影響、20歳未満摂取で男児出生減

 1968年に表面化したカネミ油症問題で、ダイオキシン類が混入した食用油を20歳未満で摂取した女性患者の場合、その子と孫は男児の割合が日本人の平均よりも低いことがわかった。全国油症治療研究班(事務局・九州大)が22日発表した。油症が次世代以降にも何らかの影響を及ぼしているとみられ、子よりも孫世代に傾向が強く表れていた。研究班は今後、健康への影響も詳しく調べる方針。
 今回の調査は、国が2008年度に認定患者1131人を対象に実施した家族構成や健康状態のアンケートを分析した。その結果、20歳未満で被害を受けた女性から生まれた男児の割合は、日本人平均よりも6・4ポイント低い45・0%、女児は55・0%だった。さらに女児が成長し、孫世代を出産した場合、男児の割合はさらに下がり、34・8%だった。
 20歳以上で被害を受けた女性や男性については、日本人の平均と大きな差はなかったという。
(2012年6月23日 読売新聞)

*重大な記事内容だと思います。
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2012/6/19

調布市議会のすばやい行動に拍手!  原爆・原発問題

*昨日、六ヶ所村の再処理工場が3年半ぶりの試験運転を再開というニュースが流れましたが、これに対抗する動きとして、本日、東京都調布市議会では以下の総理大臣、経産大臣、環境大臣、外務大臣に宛てた意見書を採択したとのこと。

すばやい行動で、素晴らしい。


「六ヶ所再処理工場でのこれ以上のプルトニウムの分離中止を求める意見書

世界では、核廃絶、核拡散防止、テロリストによる使用防止などのために、核兵器利用可能物質であるプルトニウムの処分計画を進めるとともに、管理を強化し、これ以上の製造を防ぐことが最重要課題の一つとして議論されている。六ヶ所再処理工場は原発の使用済み燃料からこのプルトニウムを取り出すために計画されたものであるが、いま運転を開始しようとしている核燃料再処理工場は世界中でもこの六ヶ所工場だけである。

原発の使用済み燃料を試験的に再処理して出てきた危険な高レベル廃液のガラス固化計画が難航しているために竣工が延期となっているが、年間8トンものプルトニウム(長崎型原爆1000発分以上)を取り出す予定のこの工場は、運転開始となれば、非核保有国として初めての商業規模のものとなる。

昨年3.11の地震・津波によってもたらされた福島第一原子力発電所の事故の後、日本の原子力政策は再検討されている。日本が原子力の将来を決定していない中で再処理計画を進めるとの決定を行えば、核廃絶を目指す日本の政策に世界から疑問の声が集中することになるだろう。

プルトニウムを利用しながら増やすという「夢の」高速増殖炉計画はもんじゅの事故などで頓挫した。その後出されたプルサーマル計画(プルトニウムを普通の原発で消費するもの)は、溜まってしまったプルトニウムをなんとか消費しようというものだったが、この計画もデータ捏造や原発トラブル隠し、事故などの影響で進んでいない。福島原発では3号機でこのプルサーマルが実行されていたために事故を複雑なものにしてしまった。そもそもプルサーマルは普通のウラン燃料を使った原子炉の運転より技術的に難しい上にコストが高くなるので、原発推進国の多くが再処理をしないで使用済み燃料をそのまま地層処分することに決めている事実がプルトニウム利用の非経済性を物語っている。

プルトニウムの利用ができないまま再処理だけが進んだ結果、日本は2010年末現在、合計約45トン(長崎型5500発分以上)ものプルトニウムをヨーロッパと国内に保有している。利用のめども立たない状態でさらにプルトニウムを取り出す計画を進めれば、不必要に核拡散やテロリストによる使用の危険を増大させるものとの国際的批判は免れない。

以上の理由から、すでに分離してしまったプルトニウムの何らかの形の処分計画が大幅に進展するか、あるいはプルトニウム利用の合理性について国内外での合意が形成されるまでは、六ヶ所再処理工場でのプルトニウムの分離計画を中止するよう求める。

以上、地方自治法99条の規定に基づき意見書を提出する。      
平成24年6月19日       
調布市議会議長 伊藤 学
提出先 内閣総理大臣、経済産業省大臣、環境省大臣、外務省大臣」
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2012/6/19

六ヶ所村、3年半ぶり、試運転再開!  原爆・原発問題

*原発、再稼動の動きにどうすればいいのかと思っている間もなく、先程、こんな驚くニュースが流れています。

再処理工場、試運転再開
六ヶ所村で3年半ぶり 日本原燃
http://www.jiji.com/jc/eqa?g=eqa&k=2012061800976


(時事ドットコムから引用)

日本原燃は18日、青森県六ケ所村の使用済み核燃料再処理工場で、試運転を再開したと発表した。
試運転は、2008年12月以来約3年半ぶり。
政府は使用済み核燃料を再処理せず地中に埋める直接処分も含め核燃サイクルの見直しを進めており、国の政策が不透明な中での試運転となった。
再開したのは、使用済み核燃料を溶かした際に生じる高レベル放射性廃液を、ガラスと混ぜて固める試験。
工場の稼働に向けた最終準備段階と位置付けられている。
(2012/06/18-21:48)
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2012/6/16

『食卓の肖像』上映会、6月16日は終了  映画

(下記の6月16日の上映会は終了しました。参加された皆様、有難うございました。)

「あなたはカネミ油症事件を知っていますか?ドキュメンタリー『食卓の肖像』上映会」
(日時)2012年6月16日(土)午後2時30分から5時30分(終了しました。)
『食卓の肖像』上映とお話(金子サトシ)

(会場)豊島区 エポック10(男女平等推進センター) 研修室2
*保育あり(当日参加可)
豊島区西池袋2ー37ー4(勤労福祉会館4階)
(*池袋駅西口、徒歩7分。下記の「地図」のところをクリックしてください。)
http://www.city.toshima.lg.jp/shisetsu/shisetsu_bunka/004668.html

(この上映会は、「エポック10フェスタ2012」の中で開催されるものです。)

(主催)豊島・健康と環境を守る会
≪内容についての問い合わせ先≫
03-3915-1612 矢口節子    
03-3982-1498 佐藤禮子
090-1793-6627 金子サトシ
金子サトシ、メール n3946062@yacht.ocn.ne.jp
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2012/6/15

原田正純先生関連新聞記事(4)  公害・薬害・環境・医療問題

水俣病患者に寄り添い半世紀 原田正純さん死去 公害の悲劇、世界に訴え 死亡
2012.06.12 夕刊 

 「公害の原点」とされる水俣病事件に長年向き合い、水俣病研究の第一人者だった医師の原田正純さん(77)=熊本市=が11日夜、亡くなった。半世紀にわたって現地を歩き、患者に寄り添い、その目線で研究を続けた。海外の公害事件の現場にも足を運び、「水俣病の教訓」を訴えることで世界に警鐘を鳴らした。
 「見てしまった責任」−。原田さんは、水俣病と長く関わる理由をそう語った。1960年代初めの水俣。熊本大大学院生だった原田さんが見たのは、病を背負い経済的にも困窮し、差別に苦しむ患者の姿だった。
 胎児性水俣病の発見から50年。「胎盤は毒物を通さない」が定説だった時代、汚染魚を食べていないという理由で子どもらは放置されていたが、ある母親は言った。「私は水俣病と思います」。その直感を受け止めた原田さんは研究を続け、胎児性水俣病患者の存在を明らかにした。
 三池炭鉱の炭じん爆発によるCO(一酸化炭素)中毒、カネミ油症事件、世界各地の公害・環境汚染…。研究対象も行動範囲も世界規模だった。
 カナダの先住民たちは、押し込められた居留地で水銀被害に苦しんでいた。「公害が起きて差別が生じるのではない。差別のある所に公害が生じるのだ」。水俣にも重なる世界の悲劇を、講演などで繰り返し訴えた。
 住民調査を実施しない行政の姿勢には、一貫して批判的だった。複数症状の組み合わせを求める国の認定基準も「被害実態にあっていない」と指摘。水俣病特別措置法については「水俣病患者として補償されるべき人が、一律の低額補償の中に埋もれてはならない」と危惧していた。
 がん、脳梗塞、そして白血病。自ら病と闘いながら執筆や講演を続けた。「水俣病は終わらない」−。活動の原点には、そんな思いがあった。最後まで案じていたのは、73年の判決でチッソの企業責任を断罪した水俣病1次訴訟の原告らの将来だ。胎児性患者も介護する親たちも高齢化。「水俣病を終わりにさせなかったのは彼らの功績なのに、世の中は彼らのことを忘れかけていないだろうか」
 ともに1次訴訟を支えた富樫貞夫・熊本大名誉教授は「水俣病を分かりやすい表現で国内外に伝えた業績は大きい」。1次訴訟原告の浜元二徳さん(76)=水俣市=は「患者とも人間として深くつきあってくれた。心から信頼していた。本当に残念でならない。まだ話したいことがたくさんあったのに。もう原田先生のような人は生まれてこないのではないか。あまりに早い」と振り返った。
(石貫謹也、辻尚宏、久間孝志)
熊本日日新聞社

「先生、ありがとう」 原田正純さん死去 患者ら、深い悲しみ 水俣病 死亡
2012.06.12 夕刊 

 「原田先生、ありがとう」「まだ長生きしてほしかった」−。原田正純さんの死去から一夜明けた12日、その活動と人柄を慕った水俣病患者や支援者らに深い悲しみが広がった。
            ▽                 ▽
 関係者によると、原田さんは妻寿美子さんと長女、次女らに見守られ、自宅ベッドで静かに息を引き取った。最後は孫の手を握り、家族の語りかけにうなずいていたという。最近は寿美子さんが手入れした庭を眺めながら過ごし、見舞い客に笑顔で応対していた。「庭がきれいだね、ありがとう」。11日夕、寿美子さんへの感謝の言葉を口にしたという。
 5月20日に面会したチッソ水俣病患者連盟の高倉史朗事務局長は「発熱はあっても、にこやかに応対していただいた。まだまだ長生きしてほしかった」。高倉さんが今後も水俣病訴訟を支援する覚悟を報告すると、原田さんは「大事なことだから、頑張りなさい」と声を掛けたという。
 「先生ありがとう」。涙ながらに声を振り絞ったのは、原田さんが胎児性水俣病の存在に気付くきっかけとなった水俣市の金子雄二さん(56)。母親のスミ子さん(81)は「出会った日も、今と変わらない優しいまなざしだった。これまでどれほど助けられたことか」と振り返る。
 1972年にスウェーデンであった国連人間環境会議に、共に参加した胎児性患者の坂本しのぶさん(55)は「病気のことは何でも聞いてくれて、相談に乗ってくれる人だった。長生きしてほしかった」。母親のフジエさん(87)も「一番頼りにした先生だった」と肩を落とした。
 「本願の会」副代表の緒方正人さんは「患者の声を聞く姿勢を貫いた人で、御用学者ではなく本物の先生だった。患者たちも深く信頼していた」。
 熊本学園大の水俣学研究センター長を引き継いだ花田昌宣教授は「水俣病はもちろん、炭鉱事故による一酸化炭素中毒やカネミ油症事件など、公害被害者である弱者に寄り添う反骨の医師だった。文学や政治にも通じ、言葉の端々に幅広い知識と視野を感じさせた」と振り返る。
 「水俣病問題解決のための大きな柱を失った」と、原田さんと共に不知火海沿岸住民の健康調査を続けていた藤野糺医師(熊本市)は嘆く。「全ての被害者を救済するために、もっと力添えが欲しかった」
 患者とチッソの補償協定締結に立ち会った元社会党書記長の馬場昇さんは「年齢は私の方が上だが、恩師のような存在だった」。環境ジャーナリストのアイリーン・美緒子・スミスさんは「住民に向き合い、訴えにきちんと耳を傾ける人だった。その姿勢を学んだことは、今取り組んでいる脱原発の活動にも生きている」と話す。
 親交が深かった潮谷義子元知事は「誠実で優しく、思いやりのある素晴らしい人だった。訃報を聞いて昨夜は一睡もできなかった」と話した。
 ●功績大きい
 ○蒲島郁夫知事の話 水俣病問題に一生涯をささげられた功績は非常に大きい。水銀などは胎盤を通って胎児に伝わらないという常識を覆し、水俣病を通して世界的に公害問題に貢献された。人間として尊敬する先生であり、早過ぎるご逝去は残念でならない。
 ●心より感謝
 ○細野豪志環境相の話 歴史を振り返れば、水俣病は政府がもっと早い段階で被害者に寄り添って対応していれば、状況は違ったと思う。原田先生は、政府に対して厳しい見解を含めて指摘いただいてきた方だった。心より感謝を申し上げ、心よりご冥福を祈りたい。
熊本日日新聞社

[死亡]原田正純さん死去/さつま町出身、水俣病研究第一人者=77歳
2012.06.12 朝刊 
 水俣病研究の第一人者で、50年余り患者救済に尽力してきた医師の原田正純(はらだ・まさずみ)さん=さつま町出身=が11日午後10時12分、急性骨髄性白血病のため、熊本市内の自宅で死去した。77歳。
 原田さんはラ・サール高から熊本大医学部に進学。水俣病公式確認から5年後の1961年、同大大学院神経精神科教室在籍時に初めて水俣を訪れ、患者を診察。62年、「胎盤は毒物を通さない」とされていた当時の医学界の常識を覆し、胎児性水俣病を立証した。65年、胎児性水俣病の論文で日本精神神経学会賞を受賞した。
 69年に発足した水俣病第1次訴訟を支援する水俣病研究会にも参加。原告患者の診断書作成に携わったほか、以降、多くの水俣病裁判で患者側の証言台に立った。
 また「現場に真実があり生活の場で診る」現場主義を貫き、出水市や長島町獅子島でも患者宅を一軒一軒訪ね、潜在的患者の掘り起こしを続けた。
 99年に熊本学園大教授に就任。05年、同大で「水俣学研究センター」を立ち上げ、センター長に就任。水俣病を医学だけでなく政治、経済、社会学など多角的、学際的に探る「水俣学」を提唱した。
 また、水俣病だけにとどまらず、三池炭鉱(福岡県)の一酸化炭素中毒、土呂久(宮崎県)のヒ素中毒、カネミ油症(福岡、長崎県など)の研究にも携わった。
 2010年3月に同大を退職後も、講演などで精力的に活動していた。今年4月、体調を崩し熊本市内の病院に入院、5月連休明けからは自宅で療養していた。
南日本新聞社
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2012/6/15

原田正純先生関連新聞記事(3)  公害・薬害・環境・医療問題

水俣病 寄り添い半世紀 原田正純さん 胎児性の存在証明
2012.06.12 西部朝刊
 半世紀にわたって水俣病の究明に尽力し、被害者に寄り添ってきた元熊本学園大教授の原田正純さん(77)が11日亡くなった。母親の胎内でメチル水銀を摂取した胎児性患者の存在を証明した功績は大きく、身近に接した人たちからはその死を惜しむ声が相次いだ。〈本文記事1面〉
 被害者団体「チッソ水俣病患者連盟」の高倉史朗事務局長(60)は原田さんと知り合って37年。
 原田さんは最近、入退院を繰り返しており、5月下旬に最後のお別れを覚悟し、原田さんの自宅を訪ねた。
 病床の原田さんに「大変おこがましいが、私も命ある限り、先生のように水俣病のことをやっていきます」と伝えると、「高倉君、頑張ってくれ」と声を振り絞るように語ったという。
 原田さんは2009年、被害者と医師らが不知火海沿岸で1000人以上の住民健康調査を実施した際には実行委員長を務め、自らも離島で診断にあたった。
 高倉さんは「頼れる専門家が少ないなかでいつも先生が支えてくれた。いくら感謝してもしきれない」と声を落とした。
 水俣病訴訟では、何度も患者側の証人として法廷に立った。
 被害者団体「水俣病被害者互助会」の佐藤英樹会長(57)は「水俣病患者を初めて見た時に心を打たれた」という原田さんの言葉を覚えている。「医者としても人間としてもとても立派な方。被害者にとって一番大きな力だった」と語った。
 胎児性患者の永本賢二さん(52)(熊本県水俣市)は幼い頃から、熊本から通ってくる原田さんに診察してもらった。「小さい頃はよくあめ玉をもらった。患者と認定されたのは先生のおかげ。恩人が亡くなってさみしい」と漏らした。
 ◆カネミ油症も尽力
 原田さんは1968年に食用油にダイオキシン類が混入したカネミ油症問題でも、福岡県や長崎県の被害者を精力的に訪ね、診察にあたった。問題発覚の数年後には「化学物質汚染の影響は20年、30年と続く」と語っていたといい、認定患者の矢野忠義さん(79)(福岡県小郡市)は「先生に教わったことが救済運動の原動力になった。多くの医師が患者認定されていない被害者には見向きもしなかった時も、分け隔てなく丁寧に応対してくださった」と振り返った。
 写真=住民健康調査で診断にあたる原田さん(2009年9月20日、熊本県水俣市で)=大石健一撮影
読売新聞社

原田正純さん死去:「水俣の教訓、次世代へ」 最後まで意欲−−熊本学園大会見
2012.06.12 西部夕刊 
 11日に77歳で死去した水俣病研究の第一人者の医師、原田正純さんが10年までセンター長を務めた熊本学園大水俣学研究センター(熊本市中央区)は12日、原田さんのお別れ会を14日正午から、熊本市東区月出8の1の5の玉泉院月出会館で行うと発表した。喪主は妻寿美子(すみこ)さん。現センター長の花田昌宣教授らが記者会見し、原田さんの功績をたたえ、死を悼んだ。
 同センターによると、お別れ会は原田さんの遺志で無宗教の自由葬で営まれるという。
 記者会見した花田教授は「原田先生は最後まで『水俣病の教訓を次世代、特に子供たちに伝えたい』と意欲を燃やしていた」と話し、原田さんが子供向けの内容の本など執筆活動も精力的に続けていたことを明かした。10年に血液のがんと診断されたが、最近は自身の意思で抗がん治療を受けず、輸血を受けながら自宅で静養していたという。
 花田教授によると、11日は夕方まで意識がはっきりしており、椅子に座って庭を眺めながら寿美子さん(68)に「庭がきれいね、ありがとう」と言葉をかけた。最期は寿美子さんや2人の娘、弟に看取られてベッドで息を引き取った。
 また水俣病被害者救済特措法の申請期限を政府が7月末に区切るなど水俣病を取り巻く状況について、原田さんは「原点を忘れている。水俣病の原点に立ち返れば、行政は今どんなばかなことをしているか分かるはずなのに」と憤りを隠さなかったという。
 一方、原田さんは1968年に西日本一帯で起きた国内最大の食品公害「カネミ油症」の自主検診にも尽力した。長崎県の被害者団体「カネミ油症五島市の会」の宿輪敏子事務局長(50)によると、原田さんの功績に対して同会として感謝状を贈ろうと考えていた矢先の訃報だったという。宿輪さんは「ここ2、3年はがんを患いながらも何度も五島に来て、たくさんの被害者から聞き取りをして命がけで調査をしてくれた。こんなに早く亡くなるとは思っていなかった。ショックです」と語った。【取違剛、遠山和宏】
毎日新聞社

原田正純さん死去:常に患者の立場から 「胎児性」の存在証明
2012.06.12 西部朝刊 
 医師として長年にわたり水俣病医学の研究に携わった原田正純さん(77)が11日夜、亡くなった。母親の胎盤を通じて水銀汚染を受けた胎児性水俣病患者の存在を明らかにし、常に患者の立場から水俣病問題を見つめ続けた。原田さんを知る患者や関係者らからは惜しむ声が相次いだ。
 水俣病胎児性患者の永本賢二さん(52)=熊本県水俣市=は約50年前、まだ胎児性患者の存在が明らかになっていない頃から原田さんに診察してもらっていた。「体が痛くてものすごくきつかったが、原田先生はいつも真剣に診察してくれた。原田先生が診てくれたから私たち胎児性患者の存在が認められた。ありがとうという言葉しかありません」と惜しんだ。
 水俣病を巡る最初の裁判となった1次訴訟原告で胎児性患者の坂本しのぶさん(55)=水俣市=は「私が子どものころから何でも話を聞いてくれる先生だった。5月に自宅にお見舞いに行ったら1次訴訟のころの懐かしい話になった。思ったよりお元気そうだったけど、やはり心配していた。亡くなったと聞いて、頭の中がボーっとしている」と話した。
 原田さんは晩年まで水俣病認定基準を巡る裁判に原告側証人として積極的に参加した。「水俣病は医学的には一つしかない。認定制度や95年の水俣病政治決着、今回の水俣病救済特別措置法と、水俣病患者が幾つにも分かれていることがおかしいんだ」。政治や制度に翻弄(ほんろう)される水俣病問題をそう断じた。
 水俣病被害者互助会の佐藤英樹会長(57)=水俣市=は「5月27日に原田先生の自宅でお会いしたばかりだった。当時は顔色も良く『熱が出なくなったら、もう一度水俣に行きたい』と話していた。患者への思いが伝わる言葉だった。亡くなったと聞き、本当にショックだ」と話した。
 ◇裁判に痛手か
 水俣病1次訴訟の支援組織「水俣病研究会」の発足(69年)以来の付き合いという丸山定巳・熊本学園大教授(環境社会学)=熊本市=は「医学者の中で最も水俣病の現実と対面してきた人。事実から出発する姿勢を貫き、現場に足を運んで胎児性患者の存在を証明した。もし彼がいなければ、水俣病に関する医学が進まなかっただろう。専門的立場で証明してくれた彼の死は、今後の裁判にとっても痛手となるかもしれない」と話した。
 「科学者の良心を失った思いで非常に残念」。作家、石牟礼道子さんについての作家論や文芸批評をまとめた「石牟礼道子の世界」(弦書房)編者で原田さんと交流があった熊本大学法学部の岩岡中正教授(政治思想史)はそう惜しんだ。「水俣病問題を世界的レベルの研究に広げ、ジャンルを超えた文明論にまで高めた稀有(けう)の研究者だった。人間への愛情と信頼を持ってヒューマニズムを貫いた本当の意味での科学者だった」と振り返った。
 ◇原発にも言及
 原田さんは水俣病との半世紀に及ぶ関わりの中から、科学技術や学問、政治社会のあり方を考える「水俣学」を提唱し、熊本学園大学で「水俣学講義」を開設。昨年12月の毎日新聞のインタビューでは「原因企業のチッソは『有機水銀の人体への影響は不明で予防しようがなかった』と主張したが、未知イコール安全ではない。原発事故も同じだ」と原発の問題についても言及した。
 先月11日、原田さんのお見舞いのために熊本市内の自宅を訪れたカネミ油症新認定訴訟弁護団の保田行雄弁護士(60)=東京都=は「さまざまな症状が表れるために病気のデパートといわれるカネミ油症では常に患者の立場で原因を究明した。原田先生の診断がなければ現在の新認定訴訟はなかった。偉大な医学者を亡くした」と語った。
毎日新聞社

訃報:原田正純さん 77歳=水俣病研究の第一人者
2012.06.12 東京朝刊 
 医師として水俣病患者の診療や公害問題の解決を訴え、水俣病研究の第一人者だった原田正純(はらだ・まさずみ)さんが11日午後10時12分、急性骨髄性白血病のため熊本市東区長嶺南7の1の30の自宅で亡くなった。77歳だった。(社会面に関連記事)
 鹿児島県出身。鹿児島のラ・サール高、熊本大医学部を卒業、熊本大大学院神経精神科教室へ入った。水俣病公式確認(1956年)から約5年後の61年、現地調査のため初めて熊本県水俣市を訪れ、母胎内で有機水銀を浴びた胎児性患者に接した。当時の医学で胎盤は化学物質を通さないとされていたが、症例を集め62年胎児性水俣病の存在を立証した。
 患者29世帯が原因企業チッソ(東京)に損害賠償を求めた水俣病1次訴訟の原告支援を目指した水俣病研究会に参加し、73年の原告勝訴判決(熊本地裁で確定)につなげた。72年、スウェーデンのストックホルムで開かれた第1回国連人間環境会議に胎児性患者らと乗り込み、公害被害を世界に伝えた。
 カナダの先住民や中国での水銀被害、ベトナム戦争での米軍の枯れ葉剤使用に伴うダイオキシン被害の実態調査など海外での公害調査に携わった。国内でも63年の三井三池炭鉱(福岡県大牟田市)炭じん爆発事故に伴うCO(一酸化炭素)中毒やカネミ油症患者の診療に尽くした。
 医学以外に広い分野から水俣病問題を考える「水俣学」を提唱した。潜在患者の広がりを示すため09年9月、不知火海沿岸住民約1400人を対象に実施された水俣病一斉検診にも実行委員長として参加するなど晩年まで水俣病問題とかかわり続けた。
 72年に熊本大助教授、99年に熊本学園大教授。主な著書に「水俣病」「水俣が映す世界」など。【西貴晴】
毎日新聞社

原田正純さん死去:胎児性水俣病を確認 「患者から学ぶ」貫き
2012.06.12 東京朝刊 社会面 
 水銀汚染の恐ろしさを世界に知らしめ水俣病やカネミ油症患者の医療にも携わり、国内外の公害問題で活発な発言を続けた原田正純さん(77)。胎児性水俣病を確認して50年の節目の死に、関係者から惜しむ声が相次いだ。
 4月23日に原田さんの自宅を訪ねたNPO法人「水俣フォーラム」(東京)の実川(じつかわ)悠太事務局長は「病床でも『患者さんを1人にしちゃいかん』と繰り返した」と振り返り「患者から学ぶ姿勢を貫き、それが差別され医療に対する信頼を失いつつあった患者の救いとなった」とその死を惜しんだ。
 約50年前、原田さんの診察を受けた水俣病胎児性患者の永本賢二さん(52)=熊本県水俣市=は「体が痛くてものすごくきつかったが、原田先生はいつも真剣に診察してくれた。先生が診てくれたから私たち胎児性患者の存在が認められた。ありがとうという言葉しかない」と語った。
 また、研究を共にした中地重晴・熊本学園大学教授(環境化学)は「本当にまじめな先生で公害被害者の立場に立ち、体制側に取り込まれないという信念を貫かれた。生き方を尊敬している。皆で先生の思いを継ぎ、被害者の救済につなげていきたい」と話した。
 公害研究を通じて約25年前から原田さんを知る津田敏秀・岡山大大学院教授(疫学)は「いろいろな患者団体や考えの人が参加した運動を『よかたい、よかたい』と言ってまとめる姿が印象的だった」と振り返った。
毎日新聞社

評伝=原田正純さん死去 患者側の立場貫く 公害被害の実像示す
2012.06.12 朝刊 
 医師、原田正純氏は、熊本大学大学院時代に初めて水俣病の被害現場を踏んだ。何度も通ううち、目の前で苦しむ患者に、なすすべもない自分を意識する。以来、「治せない病気の前で医者はどうあるべきか」が人生のテーマになっていった。 【1面参照】
 汚染魚を食べたこともない幼児に水俣病患者と似た症状があることに疑問を持ち、当時の医学の常識を破って胎児性水俣病の存在を世に出した。
 患者の故川本輝夫さんから、未認定の患者がいると知らされ、水俣病終息を望む周囲の冷たい目にさらされながらも患者の掘り起こしに奔走。患者か否かの対立は40年たった今でも続いている。
 足しげく現場に足を運んで患者を診察し、裁判では証言台にも立った。熊大退職後は熊本学園大(熊本市)教授となって「水俣学」を構築した。
 活動は水俣病にとどまらず、三池CO(一酸化炭素)中毒、カネミ油症、さらには海外の公害被害にまで広がった。
 多くの現場を歩き、導き出した法則は「常に弱者側が被害者になる」だった。圧倒的強者の加害企業や国家と、徹底的に弱い立場の被害者が対立する構図。「医師は中立でなければ、という人がいる。中立って何? 強者と弱者の間では、被害者側に寄ってこそ本当の中立だよ」と訴え続けた。
 熊本大では最後まで助教授だった。患者側に寄る「立場」がどう影響したか定かではないが、本人は「自由に国内外を飛び回れてありがたかった」と話した。「医者はどうあるべきか」。目の前の現実(被害)と正直に向き合い続けた原田氏の姿勢こそが、その答えのように私には思える。見事な人生だった。ご冥福をお祈りいたします。(元水俣支局長・石黒雅史)
 ●胎児性水俣病を解明/根源的問題訴え 惜しむ声
 「水俣病」に人生をささげた医師、原田正純さんが11日亡くなった。原因企業チッソや行政の責任を問う一方、患者の早期救済を訴え続けてきた。交流があった人たちは固い信念と温かい人柄を振り返り、その存在の大きさをかみしめた。
 熊本学園大の丸山定巳教授は、1969年に発足した医師らの水俣病研究会で原田さんと知り合って以来の付き合い。「医者としてはざっくばらんで、率直な人だった」と振り返る。
 熊本大大学院生時代から胎児性水俣病を研究。当時「胎盤は毒物を通さない」が定説だったが、水俣湾周辺を訪ね歩き、被害の実態を明らかにした。丸山教授は「長く放置されていた胎児性水俣病の存在を明らかにした意義は大きい」という。
 複数の症状の組み合わせによる水俣病の認定基準も「医学的に誤り。基準に合わない患者は大勢いる。権威を振りかざす一部の専門家が基準をゆがめた」と指摘。水俣病をめぐる裁判では常に患者サイドに立った。
 水俣病被害者互助会事務局の谷洋一さん(63)は2週間前に原田さん宅を訪ね、本人と面会した。「自分はまだやり残したことがあるけれども、これからは若い人たちに頑張ってもらわないといけないと話していた。残念としか言いようがない」と肩を落とした。
 環境相が2005年に設けた提言機関「水俣病問題に係る懇談会」メンバーだった作家の柳田邦男さん(76)は「大学に来る患者だけを診る医師とは違い、現場感覚を持ち、水俣病の根源的な問題をぶれずに訴え続けた」とたたえた。
 数多くの講演をこなした原田さんだが、自慢話はほとんどなく、失敗談を披露して苦笑いする場面が多かった。「世界初」とされる胎児性水俣病患者の確認も、患者の同居家族の異変を知る機会がありながら、診察にまで至らなかったことを幾度も恥じた。「あのとき、どうして家族のことも診なかったのか、僕は今でも後悔している」
 認定患者団体「チッソ水俣病患者連盟」の高倉史朗事務局長(60)は「医師であるだけでなく、文学者、社会学者でもあった。先生がいなかったら水俣病は第1次訴訟で終わっていた」と、その死を惜しんだ。
西日本新聞社

原田正純さん死去 水俣病研究の第一人者 77歳 死亡
2012.06.12 朝刊 

 水俣病事件に長く向き合い、水俣病研究の第一人者だった医師、原田正純(はらだ・まさずみ)さん=神経精神医学=が11日午後10時12分、急性骨髄性白血病のため熊本市東区長嶺南7の1の30の自宅で死去した。77歳。通夜、葬儀の日程は未定。
 熊本大医学部卒。1972年から同大助教授。99年から2010年まで熊本学園大教授を務めた。
 熊本大大学院生だった61年から水俣に通い続け、多くの水俣病患者を診察。ライフワークともなった胎児性水俣病の研究では、日本精神神経学会賞を受賞した。水俣病訴訟の法廷では患者側に立った証言を続け、長年の臨床経験から構築した病像論を展開した。
 活動は海外にも及び、カナダやアマゾン川流域などの水銀汚染やアジアのヒ素中毒、ベトナムの枯れ葉剤の影響など世界各地の環境汚染の現場で調査を継続。三池炭鉱の炭じん爆発によるCO(一酸化炭素)中毒やカネミ油症事件など研究対象も多岐にわたった。熊本学園大では、水俣病事件を学際的にとらえる「水俣学」を提唱した。
 「水俣病」(岩波新書)や子ども向けの「水俣の赤い海」(フレーベル館)など著書多数。「水俣が映す世界」は大仏次郎賞、「水俣、もう一つのカルテ」は熊日文学賞。環境保護への貢献から、94年にUNEP(国連環境計画)のグローバル500賞、2001年に熊日賞。10年には「KYOTO地球環境の殿堂」入りが決まった。(石貫謹也)
 ●さみしかですね
 ○作家・石牟礼道子さんの話 1カ月ほど前にお会いしたばかりでしたが…。(体調が悪いと聞いており)覚悟しておりました。さみしかですね。何と申し上げてよいか分かりません。
 ●多くを学んだ
 ○丸山定巳・熊本学園大教授の話 胎盤は毒物を通さないという医学の定説に疑問を投げかけ、胎児性水俣病の存在を証明したことは大きな功績だった。1969年に水俣病1次訴訟が提起されたころからの付き合いだったが、医学分野でとんちんかんな質問をしても、ざっくばらんに応じてくださった。私自身、原田先生から多くのことを学んだ。非常に惜しい人を亡くした。
 ●業績は大きい
 ○富樫貞夫・熊本大名誉教授の話 医学の枠にとらわれず、患者に寄り添いながら非常に幅広い活動を続けられた。水俣病を極めて分かりやすい表現で、国内だけでなく世界に伝えてくれた業績は大きい。原田さんがいなければ、水俣病はこれほど幅広く認知されなかっただろう。
 ●残念でならない
 ○水俣病被害者互助会事務局の谷洋一さんの話 被害者の立場に立ち、水俣病問題を切り開いてきた医師だった。本当に残念でならない。原田先生なくして、胎児性患者の存在などが明らかにされることはなかった。やり残したことがある、また水俣に行きたい、とおっしゃっていた。
熊本日日新聞社
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2012/6/15

原田正純先生関連新聞記事(2)  公害・薬害・環境・医療問題

原田さん 弱者支え50年 県内から悼む声 水俣病患者「ありがとう」=熊本
2012.06.13 西部朝刊
 常に弱い者に寄り添う医者だった。水俣病の診察と研究に生涯をささげ、77歳で死去した元熊本学園大教授・原田正純さん。訃報から一夜明けた12日、仲間の研究者は涙ながらに偉業をたたえ、被害者たちは「ありがとう」と半世紀以上にわたる支援に感謝した。
 ■被害者たち
 原田さんは1972年に第1回国連人間環境会議が開かれたスウェーデン・ストックホルムで水俣病の被害実態を訴えたことがある。
 その際、傍らに立ち一緒に世界に向かって声を上げた胎児性患者の坂本しのぶさん(55)は12日、水俣市の通所施設「遠見の家」で記者団の取材に応じ、「いつもニコニコして何でも話ができる先生だった。本当に残念です。ありがとう。お疲れさま」とねぎらった。
 同市の別の通所施設で原田さんが理事を務めていた「ほっとはうす」では加藤タケ子施設長(61)が声を詰まらせた。「この1か月は毎週、胎児性患者たちを連れてお見舞いに行った。『元気をもらったよ』と終始、優しい笑顔で応じていた姿が忘れられない」
 この施設に通う胎児性患者の加賀田清子さん(56)は、自らの携帯電話で撮影し保存していた原田さんの写真に見入り、「あまりに早過ぎる」と涙を流していた。
 ■熊本学園大
 熊本学園大の水俣学研究センターでは同日、センター長の花田昌宣教授(59)が、穏やかに笑う原田さんの遺影を横に記者会見した。
 原田さんは1999年に熊本大を退官し、熊本学園大の教壇へと移った。2005年のセンター開設と同時にセンター長に就任。補佐役を務めたのが花田教授だった。
 以来、2人は手を携えて水俣病問題を医学、環境、法律などあらゆる分野からとらえる「水俣学」の研究や講義に取り組んできた。
 花田教授は時折、涙ぐみながら会見し、「『弱い者とともに』を軸とする反骨の人だった」と尊敬する故人をそう表現。さらに、水俣学について、「君たちが作り上げていくんだ」と言われたエピソードを紹介し、「気持ちを受け継ぎ、水俣病問題に取り組んでいきたい」と述べた。
 花田教授によると、原田さんは4月末に入院したが、5月6日に「自分の体になりゆきを任せたい」として退院。それ以来、輸血を受けながら自宅療養を続け、容体を聞きつけて来た人たちと面会していた。
 水俣病などの教訓を次世代の子供たちに伝える絵本の出版を企画していたが、かなわなかったという。
 ■行政関係者
 蒲島知事は12日、県庁で記者団の取材に応じ、「水俣病問題に一生涯をささげられた功績は非常に大きい。常識を覆して胎児性患者を発見し、水俣病を通して公害問題に世界的な貢献をされた。残念でならない」と語った。
 宮本勝彬・水俣市長は「まことに残念な思い。水俣病の発生当初から患者に寄り添い、患者を支えてこられた。原田先生のご意思を大切にしていかなければならない」とコメントを出した。
 同市立水俣病資料館は13日、原田さんの活動の記録を展示する追悼コーナーを設ける。入館は無料。
 ◆水俣病・CO中毒 法廷証言100回超
 原田さんが治療、研究に没頭したのは、水俣病だけでなく、炭じん爆発事故による一酸化炭素(CO)中毒や、ダイオキシン類による油症にも及んだ。
 1960年に医師免許を取得し、すぐに遭遇した水俣病。続いて目を向けたのは死者458人、CO中毒患者839人を出した旧三井三池炭鉱三川鉱(福岡県大牟田市)の炭じん爆発事故(63年)だった。
 当初からCO中毒患者の診察を続け、患者の脳波測定の結果をもとにCO中毒が脳に障害を残すことを医師団として突き止めた。
 自らも胃がんや脳梗塞を患いながら、事故に関する集会やシンポジウムで壇上に立ち続け、「三池の経験を未来に生かすことが患者、家族に報いるせめてもの手段」と訴えた。水俣病とCO中毒に関する訴訟で証人として法廷に立った回数は100回を超えた。
 CO中毒患者や家族、支援者らでつくる「三池高次脳連絡会議」議長の芳川勝さん(69)(大牟田市)は「診察だけでなく、患者の医療体制を整えるために一緒に上京して要望活動をしたこともある」と振り返った。
 また、北九州市のカネミ倉庫が製造した食用油にダイオキシン類が混入し、68年に表面化したカネミ油症問題では、「黒い赤ちゃん」とも呼ばれた胎児性油症患者を中心に検診にあたった。長崎県五島市の患者団体「カネミ油症五島市の会」の宿輪敏子事務局長(50)は「長年、患者に寄り添って被害の大きさや公的救済の必要性を訴えていただいた」と感謝の言葉を述べた。
 ベトナム戦争で散布された枯れ葉剤によるダイオキシン類被害を調査するため現地に赴いたこともある。
 写真=(上)水俣病胎児性患者たちと原田さん(左)(2010年5月1日、水俣市で) (下)原田さんの遺影を横に記者会見する花田教授
読売新聞社

穏やかな陽光のよう 原田正純さん死去
2012.06.13 朝刊 
 11日に77歳で死去した水俣病研究第一人者の医師、原田正純(はらだ・まさずみ)氏の「お別れ会」は14日正午から熊本市東区月出8の1の5、玉泉院・月出会館で営まれる。喪主は妻寿美子(すみこ)さん。
 原田氏は昨年、血液中の血小板が減り続ける病と診断され体調が悪化していた。晩年は「自分が見てきた水俣を子どもたちに伝えたい」と願い、絵入りの本の出版構想を抱いていた。13日には鹿児島県さつま町の母校の小学校で授業を予定していた。
 鹿児島県出身、熊本大医学部卒。水俣病公式確認5年後の1961年、熊大大学院時代に初めて水俣を訪れ、患者の診察と研究を続けた。63年の三井三池炭鉱(福岡県)炭じん爆発事故の一酸化炭素(CO)中毒患者やカネミ油症患者の診察にも当たった。72年には水俣病患者らを連れて第1回国連人間環境会議が開かれたスウェーデンで「ノーモア・ミナマタ」を訴えた。
 (重川英介)
 ●胎児性の子が「先生、先生」と甘えて… 作家・石牟礼道子さん
 「原田正純先生は誰に対しても優しく、楽しい人でした。先生の存在は穏やかな陽光のように、私の作品に投影しています」−。代表作「苦海浄土(くがいじょうど)」をはじめ、水俣を深いまなざしで表現し続けている作家石牟礼(いしむれ)道子さん(85)=熊本市=は、12日、長い交友のあった原田さんの死を悼んだ。2人は「水俣」を世に問うことで"戦友"だったように、記者には思われる。以下は、出会いからの記憶をたどった石牟礼さんの証言録である。
 初めて会ったのは、水俣病がまだ「奇病」と呼ばれていたころでした。最初、食中毒事件と言われていたので、熊本大の医師の先生方が原因を調べにおみえになった。その中に原田先生もおられた。まだ青年でしたが、胎児性の子どもたちがなついて、「先生、先生」と甘えていました。
 私は当時、役場にあった(奇病に関する)マル秘文書を読ませてもらっていた。患者が「おめき声を出して死んでいく」というような、すさまじい症状が書いてあった。私は、あまりのことに、(「奇病」について)書きとめておかずにおれなくなった。
 当時、亡くなった患者さんは(大学で)解剖されておられた。私はある程度書き進むうち、解剖を見たくなり、原田先生にそれをお願いした。幾つかの医学用語についてお尋ねもした。「そういうことを聞きに来た人は初めて」と言われた。
 私はそれを渡辺京二さんが出されていた「熊本風土記」に連載させてもらったら、原田先生が読んでおられて「医者の診断書より詳しく書いてある」と言われた。それで私はやや安心した。私はずっと、先生に読んでいただくのが喜びでした。
 先生は非常に開放的な方で、広い牧場に牛が放たれたように、人の心を伸びやかにし、遊ばせてくださいました。先生にかかれば気持ちが大変自由になる。そんなお人でした。寂しいですよね。 (島村史孝)
 ●病押して証言台に立つ 原田さん 生涯 患者に寄り添い
 原田正純さんは、いつも水俣病患者のそばにいた。漁村を歩き、胎児性患者の存在を知らしめたのが1962年。それから半世紀。近年は実態が解明されていない若い世代の被害者の闘いを後押しした。
 2007年に始まった熊本地裁の「水俣病被害者互助会」の裁判。原田さんは原告9人全員を診察し、病を押して証言台に立った。彼らは水俣病公式確認(1956年)から間もない時期に認定された患者たちの子ども世代。胎児・幼児期に受けた微量のメチル水銀の影響はなお未解明な部分が多く、頭痛やめまいに苦しんでいる。原田さんは「(被害者のため)挑まないといけない。最期の闘い」、そう話していた。
 5度に及ぶ証人尋問に臨んだ。自身が手掛けたカルテに基づき一つ一つ、原告たちを水俣病と診断した根拠を裁判官に説いた。
 互助会の谷洋一事務局長は「常に患者を見続け、被害の実態を証明してくれた。具合が悪くなれば夜中でも電話でやりとりできるのが先生だった」と振り返る。
 国は水俣病被害者救済法に基づく救済策の申請期限を7月末と決めている。だが原告たちはこれに応じず裁判を続ける。原告団長の佐藤英樹さん(57)は「先生の遺志をついで闘っていく」と語る。13日には26回目の口頭弁論がある。
 原田さんが症状を確認した胎児性患者たちも12日、記者会見で思い出を語った。
 金子雄二さん(56)は「子どものころ先生が話し掛けてくれ、自分のことを本にしてくれた」と話した。長井勇さん(55)は「具合が悪くなったとき、原田先生が主治医に『この人は水俣病だから慎重に治療してくれ』と話してくれた」。
 加賀田清子さん(56)の携帯電話の待ち受け画面は原田さんの笑顔だ。「いつも先生が応援してくれた。一生懸命生き抜きたいです」。そう誓った。 (重川英介)
 ●カネミ油症患者救済にも尽力
 ▼原田正純さんが証言台に立ったカネミ油症訴訟原告弁護団の高木健康弁護士(北九州市)の話 カネミ油症や水俣病のように前例のないものをこれまでの理屈で割り切ってはだめで、患者から実情を学ぶべきだと訴えていた言葉を覚えている。油症患者が抱える多くの特異症状を一つ一つすくい上げ、彼らの厳しい状況を明らかにしてくれた。カネミに限らず多くの(公害病の)症状で苦しむ人たちを発掘し、救済運動の原動力になった人。とても残念です。
 ●三池炭じん爆発事故CO患者 「教えを受け継ぐ」決意
 原田正純さんが水俣病と並んで生涯をささげた仕事に、三井三池炭鉱の炭じん爆発事故による一酸化炭素(CO)中毒患者の支援がある。1963年11月、死者458人を出した「戦後最悪の労災事故」は来年、発生から50年を迎える。今も後遺症に苦しむ患者やその家族は「もっと力を借りたかった」と悔やんだ。
 「家族みたいに身近な存在だった」。入院が続く夫を看病する熊本県荒尾市の清水栄子さん(82)は涙を浮かべた。十数年前、病院から一時帰宅した夫の正重さん(87)の診察に訪れた原田さんは「指を曲げて」「背広を着てごらん」と語り掛け、うまくできない正重さんを見て「これがCO中毒の後遺症」と丁寧に説明してくれたという。
 患者の追跡調査に心血を注ぎ、毎年11月の抗議集会に参加して国や企業の責任を追及した原田さん。昨年の集会では「三池の歴史を後世に伝え、世界の教訓にしなければ」と繰り返し訴えた。患者として企業の責任を問う法廷闘争を続けた荒尾市の沖克太郎さん(72)は「医者は患者から学ぶ。それが口癖だった」と振り返り「教えを受け継いでいかなければ」と自らに言い聞かせた。 (古川幸太郎)
西日本新聞社

熊本県/水俣病究明 生涯ささげ 原田正純さん死去 「一番の頼りが…」 県内関係者も惜しむ声
2012.06.13 朝刊 
 水俣病研究の第一人者、原田正純さんが11日夜、熊本市東区の自宅で亡くなった。77歳。医師として研究者として、常に患者の立場で水俣病にかかわり続けた生涯だった。関係者からは、その死を惜しむ声が相次いだ。
 原田さんが顧問を務めていた同市の熊本学園大水俣学研究センターは12日、記者会見を開いた。センター長の花田昌宣教授は「原田先生はいつも、次の世代の子どもたちに水俣病を伝えたいとおっしゃっていた。先生がやり残したことを僕たちが続けていきたい」と語った。
 原田さんは昨年9月、血液中の血小板が減り続ける病気と診断された。花田教授によると、11日は昼、病院で輸血を受けて帰宅したが、夕方ごろから息が乱れる状態に。最期は妻の寿美子さん(68)や2人の娘たちに見守られ、孫の手を握ったまま自宅で静かに息を引き取った。家族の呼び掛けには最期まで、うなずいていたという。
 晩年は「次世代へのメッセージ」と言い続けた。水俣病の教訓を子どもたちに伝えようと、絵本の出版も計画し、13日は鹿児島県さつま町の母校の小学校で出張授業を予定していた。
 胎児性水俣病の存在を初めて明らかにした人でもある。幼いころから原田さんの検診を受けていた水俣市の胎児性患者、坂本しのぶさん(55)は「何でも話せる先生だった。真剣に私たちの話を聞いてくれて、一番頼りにしていた。長い間、頑張ってくれてありがとう」と話した。
 胎児性・小児性患者が通う同市の支援施設「ほっとはうす」でも12日、患者とその家族8人が原田さんとの思い出を語り合った。加藤タケ子施設長は「最もお世話になった先生。今は混乱して、なかなか言葉にできない」。胎児性患者の永本賢二さん(52)は「先生は月の光になったのかな。ずっと天国から胎児性患者の皆の幸せを見守ってほしい。77歳はまだ若い。100歳まで生きてほしかった」と語った。
 支援者たちも悲しみに暮れた。水俣病センター相思社の弘津敏男理事(61)は「患者を救いたいという強い信念があった。気さくな人柄で、どの患者にも笑顔で接する。大勢の未認定患者の検診も、原田さん以外には務まらなかったのではないかと思う」。認定患者団体「チッソ水俣病患者連盟」の高倉史朗事務局長(60)は「覚悟はしていたが、いざ亡くなると…。水俣の被害者は先生に頼るしかなく、訴訟も患者側の医者として闘ってくれた。患者が頼りにできる人がいなくなった」と肩を落とした。
 ●荒尾市のCO患者遺族 「先生が支えだった」
 「これから誰を頼っていけばいいのか」。荒尾市本井手の塚本ミスエさん(86)は12日、2年前に亡くした夫正勝さん=当時(83)=と原田正純さんの交流を振り返り、言葉を詰まらせた。正勝さんは1963年の三池炭鉱炭じん爆発で一酸化炭素(CO)中毒となり、原田さんから検診を受けたという。
 ミスエさんによると、2003年秋頃にあった事故から40年目の検診で、CO中毒の研究もしていた原田さんは、長年の闘病生活で笑顔を失いかけた正勝さんを励まし、歩行訓練をアドバイスしたという。ミスエさんは当時のスナップ写真を手に「夫も家族も先生が支えだった」。
 正勝さんは10年7月に亡くなった。ミスエさんが夫の労災認定の申請準備を進めると、原田さんは「死因は、炭じん爆発によるCO中毒が起因」と記した意見書を作成。「認定されなかったが、先生は最後まで応援してくれた」とミスエさん。三池CO現地共闘会議(荒尾市)の織田喬企(たかき)代表(72)は「自分の病気も顧みず患者と家族を支えた。ノーベル賞ものだ」と振り返った。
    ×      ×
 ●早過ぎるご逝去、残念
 ▼蒲島郁夫知事の話 水俣病問題に生涯をささげ、その功績は大きかった。早過ぎるご逝去、残念でならない。水俣病を通して公害問題に世界的な貢献をされた。自分のキャリアをかけて水俣病問題に取り組まれてきた。人間として尊敬していた。
 ●患者に寄り添い支えた
 ▼宮本勝彬・水俣市長の話 水俣病の発生当初から患者に寄り添い、支えてこられた。環境汚染や公害問題については、国内にとどまらず国際的にも貢献されている。まだまだ、ご活躍いただけると思っていましたので、本当に残念です。
 ●油症患者救済にも尽力
 ▼原田正純さんが証言台に立った2009年のカネミ油症訴訟原告弁護団の高木健康弁護士(北九州市)の話 カネミ油症や水俣病のように前例のないものをこれまでの理屈で割り切ってはだめで、患者から実情を学ぶべきだと訴えていた言葉を覚えている。油症患者が抱える多くの特異症状を一つ一つすくい上げ、彼らの厳しい状況を明らかにしてくれた。カネミに限らず、多くの(公害病の)症状で苦しむ人たちを発掘し、救済運動の原動力になった人。とても残念です。
西日本新聞社

評伝・原田正純さん 貫いた精神の自由 死亡 死去
2012.06.13 朝刊 
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 折れない葦[あし]のような人だった…。
 半世紀以上も水俣病と向き合い続けた医師の原田正純さんが11日、亡くなった。77歳。どんな強風にも折れることなく、しなやかに揺れる一本の葦。か細くも見える葦の真ん中を貫いていたのは、権威におもねらない精神の自由さ、だった。
 「僕はもう、データ上は死んでいるんだよ」。お地蔵さんのような笑顔でそう言った。亡くなる10日ほど前のことだ。2度にわたるがん、脳梗塞を克服。しかし今度の急性骨髄性白血病は少しずつ体の力を奪っていった。患者としての自身のデータを見る目は、医師の目だった。
 胎児性水俣病の確認など原田さんの研究は深く、広い。最近の面目躍如は、溝口訴訟の控訴審。
 亡くなった母親の水俣病認定申請を熊本県が放置、21年後に棄却したのは違法だと次男が訴えた裁判。福岡高裁は、原告敗訴の一審判決を取り消し、逆転勝訴とした。原田さんはこの裁判で、「環境病跡学」と名付けた論を展開したのだった。
 病跡学は精神医学で、特定の人物の性格や行動を背景事情や歴史を踏まえて分析、研究する分野。原田さんは、濃厚汚染された地域で住民がどれほど多くの魚を食べていたかを追跡、立証し、母親を水俣病と診断した。研究室ではなく、現場を見続けた原田さんの証言が裁判所を突き動かしたのである。
 演劇、絵画など趣味も広く、無類の話好き。よく笑った。若いころは酒を飲んでの失敗もあり、兄貴分を自称した先輩医師・故三村孝一さん(元城ケ崎病院長)を交えた酒席はその話で盛り上がった。2人は三池CO(一酸化炭素)中毒患者の診察、実態調査でスクラムを組む。水俣病、CO中毒、カネミ油症。社会が生んだ病と向き合うことで、原田さんは社会の側の病を見抜いた。
 原田さんに対し、医学の議論なのに社会学の立場から発言をするといった批判もあった。しかし、これはむしろ批判する側の限界を示していたのではないか。水俣病を医学の問題に閉じ込めてしまったことへの痛切な反省が、熊本学園大での「水俣学」開講となった。誤りを訂正することに躊躇[ちゅうちょ]はなかった。
 5月1日、水俣病公式確認56年に当たり原稿を寄せてもらった。第1号患者の女性が今もひっそり生きていることを軸とした原稿は、事件を起こした側が反省もせず、被害者が忘れられていく現状を批判していた。絶筆となったが、いつもの原稿のトーンと違い、強い怒りが感じられた。自らの生の今後を自覚してのことだったか。
 最後の訪問となった日。話を終え辞去しようとすると、「いい人と巡り会えた人生だった」と笑われた。「いえ、いい人と出会えたのは私たちの方ですよ」と言いかけたが、言葉にならなかった。やや逆説的な言い方になるが、長い水俣病史の中に、原田さんがいたことで少しは救いがあったのではないかとも思う。(論説委員長 高峰武)
熊本日日新聞社

社説=原田正純さん死去 水俣病から学ぶべきこと/シリア情勢 国際社会が協調し打開を
2012.06.13 朝刊 
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 ●原田正純さん死去 水俣病から学ぶべきこと
 水俣病研究の第一人者で医師の原田正純さんが死去した。一貫して患者の側に立ち、広く公害根絶を訴えた生涯から、私たちが受け継がなければならない大切な視点は多い。
 一つは、「被害者に学ぶ」という姿勢だ。
 水俣に通い始めた原田さんは多くの障害児に接したが、当初は母親の胎内で有機水銀を摂取した胎児性患者とは思い至らなかった。当時、胎盤は有害物質を通さないというのが医学の定説だったからだ。だが、母親が子どもたちを前に「ほら、みんな一緒でしょ」と訴えた言葉がきっかけとなり、原田さんは「胎盤を通じた水俣病」を立証。胎児性患者認定へ道を開いた。被害者に学ぶ姿勢はその後も貫かれた。
 二つ目は、社会の病理にも目を向ける視点だ。
 原田さんは「水俣病の原因のうち、有機水銀は小なる原因であり、チッソが流したことは中なる原因であるが、大なる原因ではない。根本的な原因は人を人と思わない、相手の立場になって考えようとしない差別の構造だ」と述べていた。
 水俣病は単に原因企業と患者の間に起きたのではなく、背景にそれを発生させる社会構造があったという洞察である。その問題提起は行政だけでなく、地域社会を構成する私たち一人一人にも向けられていよう。
 そこから原田さんは三池炭鉱CO(一酸化炭素)中毒、カネミ油症、土呂久鉱毒、スモンなど多くの公害、薬害事件の現場に足を運ぶ。カナダ先住民やブラジル・アマゾン川の水銀中毒、インド・ボパールの農薬中毒など世界の現場も訪れ、「公害が起こって差別が生まれるのではなく、差別のあるところに公害が起きる」という確信に行き着く。
 専門家の役割に対する原田さんの厳しい視線も忘れてはならない。水俣病では「専門家の判断を盾に患者認定が切り捨てられてきた」という原田さん。その疑いの目は、昨年来の原発事故に対しても注がれた。専門家の1人が「放射性物質が海に流れ出ても薄まるので問題ない」とコメントするのを見た原田さんは、「海では有害物質が食物連鎖を経て濃縮され、人間を侵す。水俣病から何も学んでいない」と憤った。
 水俣病は今なお終わっていないが、その失敗の経験から学ぶ大切さを原田さんは行動で示し続けた。今あらためて水俣病から何を学ぶべきかを自らに問い掛ける姿勢が、私たちに求められている。
熊本日日新聞社

原田氏死去/油症告発にも尽力/患者から惜しむ声/五島
2012.06.13 
 「カネミ油症は原爆、水俣病に匹敵する人類初めての経験だ」−。11日死去した水俣病研究の第一人者、原田正純氏は、本県に被害者が多いカネミ油症でも1970年代から患者たちに寄り添い、油症被害を医療の側面から社会に告発し続けた数少ない医師だった。
 被害が特に集中する五島市に通い、自主検診などを重ね、被害実態を把握。福岡地裁小倉支部で係争中の油症新認定訴訟では2009年、原告側証人として出廷し、患者の病状は一層悪化しているとして被告のカネミ倉庫側と対立した。
 訃報を聞いたカネミ油症五島市の会の宿輪敏子事務局長(50)は、原田氏の功績をたたえて感謝状を贈る予定だったことを明かした。「命懸けで油症の研究、実態調査に尽力し、国の対応を非難して『被害者に学ぶべきだ』と繰り返し主張していただいた。偉大な先生でした」と声を震わせた。
 新認定訴訟原告団長の古木武次さん(82)=同市奈留町=は「裁判では証人として被害者の苦しみを訴えてもらった。体調がすぐれないのに奈留島まで来て患者を診てくれた。もう一度、診察してほしかった」と言葉を詰まらせた。
 (後藤洋平、山田貴己)
長崎新聞社

弱者救済、最後まで/「胎児性」を発見、水銀汚染の怖さ発信=原田正純医師、死去
2012.06.13 朝刊 
 「患者に寄り添う」―。水俣病をはじめとする原田正純さんの半世紀にわたる研究者人生は、弱者と同じ目線に立つ姿勢が貫かれた。
 熊本大学大学院生だった1961年、原田さんは初めて水俣を訪問。貧困と差別で、隠れるように暮らす患者宅を1軒ずつ回りながら、運命的な出会いをする。地元で「宝子(たからご)」と呼ばれた胎児性患者の存在だった。
 縁側で遊んでいた幼い兄弟は、有機水銀に汚染された魚を食べていないことを理由に、弟は患者に認められていなかった。「私が食べた魚の水銀は、おなかの中でこの子が吸い取ってくれたに違いない」。母親の言葉を元に症例を集め、胎盤は毒物を通さないという定説を覆し、胎児性水俣病を立証した。
 「現場で事件を目撃した責任がある」。こう語る原田さんは、潜在患者の掘り起こしに尽力。未認定患者による損害賠償請求訴訟でも「企業の責任逃れと行政の怠慢だ」と、チッソや国、熊本県を厳しく非難した。複数の症状の組み合わせを求め、結果的に患者を限定した認定基準を改め、広く認めるよう訴えた。
 著書も多く、72年に出した「水俣病」(岩波新書)は40刷り以上を数え、海外でも翻訳された。原田さん自身も海外に足を運び、カナダ先住民居留地やブラジル、中国などで水俣病の疑いのある患者を発見した。
 活動は内外で称賛され、97年には南日本文化賞を受賞した。受賞インタビューで、原田さんは「科学技術の進歩で人間は便利さを追い求めた。その代償は貧しい漁民など自然の中で生きる人々、社会的弱者が負った」と述べ、現代社会の矛盾を鋭く突いた。
 99年に熊本学園大学教授に就くと、水俣病問題を医学だけでなく総合的に研究する「水俣学」を開講。講演や文筆活動を精力的に続け、昨年の福島原発事故では「被害を受けるのは常に弱者だ」と語るなど、ミナマタの悲劇を繰り返さないため最後まで走り続けた。
 ●原田正純さんの歩みと水俣病史
(■印は原田さんの歩み)
■1934年 出生
■  45 熊本大空襲で母が死亡、父方の祖父母に引き取られ、宮之城町(現さつま町)へ
■  50 ラ・サール高入学
■  53 熊本大学医学部入学
   56 水俣病公式確認
   59 熊大水俣病研究班が有機水銀説を公表
■  61 水俣で現地調査
■  62 熊本医学会で胎児性水俣病の存在を発表
   68 政府が「水俣病はチッソ工場から排出されたメチル水銀が原因」との見解、公害病と認定
■  69 川本輝夫さん(故人)と出会い、患者掘り起こしへ
   71 環境庁(現環境省)が発足
■  72 第1回国連人間環境会議(ストックホルム会議)に参加
   73 水俣病第1次訴訟で患者側勝訴
■  74 長崎県五島でカネミ油症患者を調査
■  75 水銀汚染が問題になっていたカナダ先住民居留地を訪問
   77 環境庁が水俣病の認定基準を厳格化
■  80 中国で水俣病調査
■  85 インド訪問
      第2次訴訟控訴審で患者側が勝訴
■  87 ベトナム訪問
      3次訴訟第1陣判決で、国と熊本県の責任が認められる
■  88 ベトナムで枯れ葉剤影響調査
■  89 「水俣が映す世界」が大佛次郎賞
   90 東京訴訟で東京地裁が全国初の和解勧告
■  92 ブラジル・アマゾン訪問
   95 未認定患者を救済する政府解決策を閣議決定
■  97 南日本文化賞受賞
■  99 熊本学園大学教授に就任
■2001 吉川英治文化賞受賞
   04 関西訴訟で最高裁が国、熊本県の責任を認定
   05 不知火患者会が提訴
   09 未認定患者救済の特措法成立
   11 各地の集団訴訟で和解が成立し終結
■  12・6・11 急性骨髄性白血病で死去
南日本新聞社

原田正純さん死去 水俣病研究の第一人者
2012.06.12 東京朝刊 
 水俣病研究の第一人者で、半世紀を超える研究や被害者の診療にあたり、有機水銀が胎盤を通じて子どもに伝わる胎児性水俣病を突き止めた元熊本学園大教授で医師の原田正純(はらだ・まさずみ)さんが11日午後10時12分、急性骨髄性白血病のため死去した。77歳だった。葬儀の日取り、喪主は未定。▼38面=評伝
 1934年生まれ、鹿児島県育ち。熊本大で医師免許を取った翌年の61年、熊本県水俣市で水俣病の調査を開始。「胎盤は毒物を通さない」という当時の常識を覆し、母親の胎内で有機水銀に侵されて起こる胎児性水俣病を突きとめた。
 周辺の不知火海一帯を歩いて診察し、被害の広がりの解明にも貢献。全国の水俣病裁判では、一貫して被害者の立場に寄り添って証言を続けた。
 また、戦後最悪の炭鉱事故で、458人の命が奪われた63年の三井三池炭鉱(福岡県大牟田市)の炭じん爆発では、一酸化炭素中毒患者を40年間追跡し、「後遺症はほぼない」とする教科書の誤りを正した。
 国内最大の食品公害のカネミ油症でも長崎県五島市などで被害を調べ、患者救済に向けた世論を喚起。ベトナムの枯れ葉剤被害の日越共同研究の代表も務め、88〜89年に地元の医師らと7400人以上の住民健康調査を行い、被害を明らかにした。
 99年に熊本大を助教授で退官。熊本学園大に移り、水俣病の歴史から学際的に教訓を学ぶ「水俣学」を02年に開講し、初代の水俣学研究センター長に。カナダやブラジルなど世界の水銀汚染の調査経験を踏まえ、06年に同大で環境被害に関する国際フォーラムを開き、警鐘を鳴らした。
 胎児性水俣病の研究で日本精神神経学会賞(65年)、「水俣が映す世界」で大佛次郎賞(89年)、国連環境計画のグローバル500賞(94年)、水俣病研究を通した学際的な「水俣学」の提唱と深化で朝日賞(10年度)。著書に「水俣病」「炭じん爆発」などがある。
朝日新聞社

「原田さん弱者と生きた」 関係者ら死去悼む
2012.06.12 西部夕刊 
 ◆水俣病胎児性患者・坂本さん「ありがとう」
 水俣病研究の第一人者だった元熊本学園大教授・原田正純さん(77)の死去から一夜明けた12日、ともに研究を続けてきた同大水俣学研究センター長の花田昌宣教授(59)が記者会見し、「『弱い者とともに』を軸とする反骨の人だった」としのんだ。
 熊本市のセンターで午前10時から始まった会見の席には、穏やかに笑う原田さんの遺影が置かれた。
 花田教授は、原田さんから水俣病問題を医学、環境、法律などあらゆる分野からとらえる「水俣学」について「君たちが作り上げていくんだ」と言われたエピソードに触れ、「気持ちを受け継ぎ、水俣病問題に取り組んでいきたい」と述べた。
 花田教授によると、原田さんは4月末に入院したが、5月6日に「自分の体になりゆきを任せたい」として退院。それ以来、輸血を受けながら自宅療養を続け、容体を聞きつけて来た人たちと面会していた。水俣病などの教訓を次世代の子供たちに伝える絵本の出版を企画していたが、かなわなかったという。
 1972年に第1回国連人間環境会議が開かれたスウェーデン・ストックホルムで原田さんと水俣病の被害実態を訴えた胎児性患者の坂本しのぶさん(55)は12日、熊本県水俣市の通所施設で母フジエさん(87)らと記者団の取材に応じた。
 坂本さんは「いつもニコニコして何でも話ができる先生だった。本当に残念です。ありがとう。お疲れさま」とねぎらい、フジエさんは「患者の仲間みたいに何でも話せた。私たちにとって本当に大事な人だった」と話した。
 蒲島郁夫知事は熊本県庁で記者団に「水俣病問題に一生涯をささげられた功績は非常に大きい。常識を覆して胎児性患者を発見し、水俣病を通して公害問題に世界的な貢献をされた。残念でならない」と語った。
    ◇
 お別れの会は14日正午、熊本市東区月出8の1の5玉泉院月出会館。喪主は妻、寿美子(すみこ)さん。
 ◆水俣病CO中毒 法廷証言100回超
 原田さんが治療、研究に没頭したのは、水俣病だけでなく、炭じん爆発事故による一酸化炭素(CO)中毒や、ダイオキシン類による油症にも及んだ。
 1960年に医師免許を取得し、すぐに遭遇した水俣病。続いて目を向けたのは死者458人、CO中毒患者839人を出した旧三井三池炭鉱三川鉱(福岡県大牟田市)の炭じん爆発事故(63年)だった。
 当初からCO中毒患者の診察を続け、患者の脳波測定の結果をもとにCO中毒が脳に障害を残すことを医師団として突き止めた。
 自らも胃がんや脳梗塞を患いながら、事故に関する集会やシンポジウムで壇上に立ち続け、「三池の経験を未来に生かすことが患者、家族に報いるせめてもの手段」と訴えた。水俣病とCO中毒に関する訴訟で証人として法廷に立った回数は100回を超えた。CO中毒患者や家族、支援者らでつくる「三池高次脳連絡会議」議長の芳川勝さん(69)(大牟田市)は「患者の医療体制を整えるため一緒に上京して要望活動をしたこともある」と振り返った。
 また、北九州市のカネミ倉庫が製造した食用油にダイオキシン類が混入し、68年に表面化したカネミ油症問題では、「黒い赤ちゃん」とも呼ばれた胎児性油症患者を中心に検診にあたった。ベトナム戦争で散布された枯れ葉剤によるダイオキシン類被害を調査するため現地に赴いた。長崎県五島市の患者団体「カネミ油症五島市の会」の宿輪敏子事務局長(50)は「長年、患者に寄り添って被害の大きさや公的救済の必要性を訴えていただいた」と感謝の言葉を述べた。
 写真=水俣病犠牲者慰霊式とは別に行われた慰霊祭に出席した原田正純さん。右は胎児性水俣病患者の坂本しのぶさん(2010年5月1日、熊本県水俣市で)=板山康成撮影
読売新聞社
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2012/6/15

原田正純先生関連新聞記事(1)  公害・薬害・環境・医療問題

慕われた笑顔に別れ 水俣病研究者・原田正純さん死去 /熊本県
2012.06.13 西部地方版/熊本
 半世紀以上、水俣病の研究に尽くした元熊本学園大教授で医師の原田正純さんが77年の生涯を閉じた。悲報から一夜明けた12日、多くの水俣病の患者や関係者たちがその死を悼んだ。
 ●死去前「やりたいことやった」
 「常に弱者に寄り添い、反骨の医師として生涯を閉じられた」。12日午前、熊本学園大(熊本市)で記者会見した同大水俣学研究センター長の花田昌宣教授(59)は人柄をたたえた。
 同センターによると、原田さんは11日夜、熊本市の自宅で妻の寿美子さん(68)や2人の娘らに囲まれ、最後は孫の手を握って静かに息を引き取った。亡くなる数時間前には、寿美子さんが手入れした庭を眺めて、「きれいだね。ありがとう」と話したという。
 死去前は「やりたいことはだいたいやった」と話す一方で、「唯一の心残りが次世代への経験の伝承だった」と花田教授。「公害などの悲劇を二度と繰り返さないで欲しい」との思いから、自らが見聞きした経験を子どもたちに伝える本の構想も温めていた。13日には鹿児島県の母校の小学校を訪ね、子どもたちに思いを伝えるテレビ番組の企画も予定していたが、かなわなかった。
 花田教授は、水俣病の経験から学問の枠を超えて教訓を学ぶ「水俣学」を02年から原田さんとともに発展させてきた。「先生と同じ仕事はできないが、気持ちをついでいきたい」と語った。
 ●患者「待ち受け」に写真
 水俣市の水俣病患者たちも、長年慕ってきた原田さんとの別れを惜しんだ。
 胎児性水俣病患者の坂本しのぶさん(55)は「何でも話せる方。懸命に患者を診てくれて、おつかれさまと言いたい」。胎児性患者で1977年に21歳で亡くなった上村智子さんの父好男さん(77)は「いつも優しく『智子ちゃん、おるね』とリュック姿で家を訪ねてくれた」と懐かしんだ。「水俣病を通じて、原田さんは熊本だけでなく、世界の医者になった」
 原田さんが理事を務めていた水俣市の事業所「ほっとはうす」も12日、会見を開いた。
 ほっとはうすに集う患者らは5月、原田さんが入院していた熊本市の病院を訪れた。原田さんは「みんなが来てくれたから元気になった」と大喜び。患者らが帰りの車に乗り込もうとしても病室の窓から手を振り続けた。松永幸一郎さん(48)は「逆に私の体調を心配してくれた。本当に残念」と振り返った。
 長井勇さん(55)は昨年3月、体に力が入らなくなり、3カ月間入院。病院を訪れた原田さんは、長井さんの主治医に対し、「水俣病は世界初の病気。(長井さんは)世界で大切な人だから治療は慎重にしてほしい」と伝えた。長井さんは「先生は本当に優しい人だった」と涙ぐんだ。
 原田さんが体調を崩してから、携帯電話の待ち受け画面を原田さんの顔写真にした加賀田清子さん(56)は「先生の笑顔が好きやったもんね。(亡くなったことが)信じられない」。携帯電話を手にする度、原田さんの回復を祈り続けてきたという。
 施設長の加藤タケ子さん(61)は亡くなる2日前、原田さんを見舞った。原田さんは「僕は久しぶりに泣いたよ」と語りかけてきた。加賀田さんが、自身の写真を携帯電話の待ち受け画面にした思いを知り、深く感激していたという。加藤さんは「みんなを気遣ってとにかく笑顔を絶やさない。本当に純粋でした」。
 ■原田正純さんの歩み
 1934年 出生。鹿児島県さつま町で育つ
  53年 熊本大医学部に入学
  56年 水俣病公式確認
  60年 医師免許取得、大学院に進学
  62年 胎児性水俣病の存在を立証する発表
  63年 三井三池炭鉱の炭じん爆発事故で一酸化炭素中毒患者を診察
  65年 胎児性水俣病の論文で日本精神神経学会賞を受賞
  68年 カネミ油症の被害が発覚
  69年 水俣病第1次訴訟提訴
  72年 スウェーデンで国連人間環境会議が開催、現地へ
  74年 長崎県五島でカネミ油症患者を調査
  75年 世界環境調査団に参加、カナダ先住民居留地などを調査
  85年 インドの有毒ガス漏出事故を調査
  88年 ベトナムで枯れ葉剤被害を本格調査
  95年 政府が水俣病未認定問題の解決案を決定(政治決着)
  99年 熊本学園大教授に就任(2010年まで)
 2002年 熊本学園大で「水俣学」を開講
  04年 水俣病関西訴訟最高裁判決で国と県の行政責任が確定
  10年 水俣病被害者救済法に基づく未認定患者の新救済策開始(第2の政治決着)
  11年 「水俣学」の提唱と深化で朝日賞受賞
  12年 急性骨髄性白血病のため死去
 【写真説明】
 原田さんの写真を携帯電話の待ち受け画面に。これを知った原田さんは「久しぶりに泣いた」と感激していたという=水俣市
朝日新聞社
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2012/6/13

訃報 日隅一雄さん  原爆・原発問題

元産経新聞記者のジャーナリストで弁護士の日隅一雄さんが亡くなられました。

弁護士・日隅一雄さん死去(東京新聞)
http://ceron.jp/url/www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2012061302000102.html

ガンと闘病しながら、福島第一原発事故後、連日、東電の記者会見に通われていたのですね。
ご冥福をお祈りいたします。
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2012/6/12

訃報 原田正純先生  公害・薬害・環境・医療問題

*本当に大切な方が亡くなってしまいました。心よりご冥福をお祈りいたします。

水俣病研究の第一人者、原田正純氏が死去
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120612-OYT1T00009.htm
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2012/6/7

ETV特集『ネットワークでつくる放射能汚染地図6 川で何がおきているか』  テレビ・ラジオ

このシリーズも6作めです。

ETV特集『ネットワークでつくる放射能汚染地図6 川で何がおきているか』
6月10日(日)夜10時から59分、NHK−Eテレ
6月17日(日)午前0時50分 再放送

http://www.nhk.or.jp/etv21c/file/2012/0610.html
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2012/6/6

福島原発事故、本格的に集団訴訟の動き  原爆・原発問題

福島原発告訴団、6月11日に第一次告訴。

http://kokuso-fukusimagenpatu.blogspot.jp/2012/06/611_04.html?spref=tw

原告が1200人を越えたそうです。凄いですね。

また、いわき市の人達を中心にした訴訟はもっと多くて、1600人の原告になりそうと聞きました。(福島県の中では比較的、線量が低いいわき市の人達が集団訴訟を起こすのは大きな意味があると思います。)


*そのほか、原発関連で気になった情報をふたつ。

首都圏を襲う、超高線量の「黒い物質」Part1(志葉玲さんの記事)
http://reishiva.jp/report/?id=5888

「黒い物質」の話はこれまでインターネット上で見た覚えがありますが、漠然とした言い方のもので、これは何か、デマの類いのものかと思っていました。
しかし、この志葉玲さんの記事では、具体的にどのようなものかが特定され、また線量が非常に高いことが確認されているようですね。そうであるならば、ただのデマだろうと軽く考えないで、きちんと調べてみる必要があることなのかもしれないと思いました。


「真実はどこに?」 〜 WHOとIAEA 放射能汚染をめぐって 〜

http://www.savechildrengunma.com/truth/whoiaea/

書き起こしがされています。(どなたが書き起こししたものかは知りませんが。)
この内容に、偏っているものではないかなど、批判のある方もいるかもしれませんが、参考になるものだと思います。
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