2013/5/17

『食卓の肖像』大阪・シアターセブンでの6月8日〜21日上映、時間などが確定しました(終了)  映画

(下記の、大阪・シアターセブンでの2週間上映は終了しました。有難うございました。2013年6月21日)


6月8日(土)からの、『食卓の肖像』(カネミ油症のドキュメンタリー)、大阪・シアターセブンでの上映の、上映時間などが確定しました。よろしくお願いします。

☆6月8日(土)から6月21日(金)までの2週間、連日、昼12時45分から『食卓の肖像』(1時間43分)を上映します。(1日1回のみの上映です。)
なお、初日の8日(土)、および翌日の9日(日)は上映後、金子サトシ監督によるトーク(挨拶)があります。
<料金> 一般1500円 専門・大学生1300円 中・高・シニア・会員1000円

☆また、初日の6月8日(土)のみ、夜の午後6時からも「市民社会フォーラム学習会」として、『食卓の肖像』を上映し、上映後、トークイベントを行うことになりました。
トークイベントは、市民社会フォーラムの岡林信一氏が司会で、金子サトシ監督、公害問題に取り組む弁護士、池田直樹氏により行ないます。
<料金> 一律1500円(映画鑑賞代こみ)
この「市民社会フォーラム学習会」については下記をご参照ください。

http://civilesociety.jugem.jp/?eid=21145


(会場)
シアターセブン
(阪急電車十三駅より徒歩5分、大阪市淀川区十三本町1−7−27サンポードシティ5F)
電話 06−4862−7733

http://www.theater-seven.com/
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2013/5/2

『コズモポリス』から『Playback』  映画

三宅唱の『Playback』は、瀬田なつきの『彼方からの手紙』がそうであるように、こんな映画を撮る人がいるのか、自分もこういう映画が撮りたかった(撮りたい)と嫉妬させるのに十分なものだと思うけれども、さらに『Playback』が奇跡的なのは、『彼方からの手紙』のような学生映画というわけでもなく、村上淳というスター俳優主演の商業映画としてこれが撮れたということなのだろう。実は、『彼方からの手紙』がそうであるように、『Playback』も「SFもの」と見なしていいのかもしれないけど、SFのストーリーとしてではなく、具体的な役者の肌触り、映像の感触で、設定ではなく、具体的な映像、感触で、「SF」を成立させようとしているところが、やはり何か、新しいのかもしれない。そして、もしかしたら、こうした瀬田なつきや三宅唱といった意欲的な日本の若手映画監督が試みている、「SF」の成立のさせ方は、カラックスの『ホーリー・モーターズ』やクローネンバーグの『コズモポリス』が試みようとしていることと、どこか、通じるところがあるのではないだろうか。・・ということを、『コズモポリス』を見て、ふと考えてみた。
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2013/5/2

『コズモポリス』  映画

「映画の日」で鑑賞した映画はクローネンバーグ監督の『コズモポリス』。
白いリムジンが舞台という、カラックスの『ホーリー・モーターズ』との、あり得ないような類似性が話題になってて、『ホーリー・モーターズ』を見たからにはやはり見ておかないといけないかと思い、見たわけだが、とにかく、いいとか、悪いとか、面白い、つまらないという以前に、「今まで見たことがないタイプの映画を見ている」という興奮に見ている間じゅう、包まれていて、頭から終わりまで興奮しっぱなしだった。ということは、結局、面白かったということなのだけど・・。とにかく、純粋に、今まで見たことがない何かを見るということ、予測がつかない何かを見るということ、それが「面白い」ことなのだと思わざるを得ない。
ただ、「見たことはない」けれども、「接したことがない」というものではないのかもしれない。
要するに、これは、ほとんどリムジンの中で人々が会話してたり、セックスしてたりするだけで成立しているものなのだが、そんな「SF映画」、たしかに今まで無かったのだけど、それは「映画」では普通、そんなことはやらないということで、「映画」でなく、「SF小説」なら、そういう思索的世界をさまようタイプのものはあるからだ。つまり、この作品の原作は知らないけど、ある種の「SF小説」で触れたことがある感覚を映画にしているものだと言える。
そもそもSFはイマジネーションの世界だけど、だから、それを「映画」にする時、普通は、宇宙船とか、空想が広がる方向のものを題材にする。そのほうが、映像の効果を最大限に生かすものだと思えるからだろう。
それは当然だが、逆に、「映像」としてイメージが限定されて示されることは、観客ひとりひとりにとっては、イメージが固定化されてしまうことだとも言える。つまり、そのイメージが、「うわ、すげえ」と感嘆するようなものだったら、そのひとりの観客にとって本当に凄い体験になるけど、「なんだか、このSF映画、ちゃっちいな、俺だったら、もっとスケール大きいこと、空想するのに」と観客が思ってしまうようでは、その観客にとって満足がいく作品にはならないだろう。
それに対し、SF小説の場合は、キューブリックのSF映画のように映像のイメージで感嘆させることは出来ないかもしれないが、思索的なものを提示することによって、観客(読者)ひとりひとりのイマジネーションをはばたかせることが出来ると言えるのではないだろうか。それが、「SF映画」とは異なる、「SF小説」の面白さであり、可能性だと思うけれども、しかし、普通は「SF映画」において「SF小説」の感覚を忠実にやろうと試みることはしない。「SF映画」なら、やはり宇宙船とかにいったほうが単純に広く受け入れられるだろうし、「映画」と「小説」は別ものという感じで、SF映画とSF小説は平行して発展してきたのだ。
ところが、クローネンバーグは、『裸のランチ』にしろ、『クラッシュ』にしろ、そして今度の『コズモポリス』にしろ、「SF小説」の感覚を忠実に再現するような「SF映画」ばかり、撮ろうとしているようなのである。
その意味では、今度の『コズモポリス』はやはり究極のクローネンバーグの作品なのかもしれない。
だが、こう書くと、結局、小説のような映画なのかと言われてしまうかもしれないけど、『コズモポリス』の凄さは、リムジンの中で人と人が会話したりセックスしたりしているだけなのに、やはり映画として成立しているということだろう。たぶん、これ、脚本だけを読んだら、「ほんとにこれが映画に、映像になるのか?」と普通、思うものなのではないだろうか。しかし、クローネンバーグは、これをれっきとした映画として成立させているのであり、このような見たことがない映画のイメージを具体的に示し得るクローネンバーグの凄さに、やはり驚くのである。
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