2013/7/17

『さよなら渓谷』  映画

最近の日本映画としてはかなり評価が高いようなので、見てきました。
たしかに、力作で、何より、渓谷とか、歩道橋、電話ボックスなど、ロケーションがいい。ドロドロした暗い話なのに、けっこう開放的な気分で見ることが出来るのは、こうした風景の撮り方の良さがあるからだと思う。こういう作り方があるのかとその点は感心しました。

ただ、この映画は、もともと無理がある設定の話を、細かいディテールで成立させようとしているものなのだけど、無理な設定を成立させようと、ほんとに細かくいろいろ考えてつくっていることはよく分かるのだけど、それでもやっぱり無理なものは無理なのではないかという気持ちは最後まで乗り越えることが出来なかった。
もっと言うと、男目線では、なるほど、これはあり得るかもと思えるのだけど、女目線ではどうなのかな? 女性の方が見たら、「そんなの、無理よ・・」と思われて終わりなんじゃないだろうか・・という疑問が晴れなかった。そこらへん、逆に女性で見た人にどう思ったか、聞いてみたいところ。
ひとつ、思ったのだが、鈴木杏が演じる女性記者が、最初は理解できないと言っていたのだが、それがどうして理解していったのか、そこの部分がもっと描かれていれば、こういう疑問は晴れたかもしれないということ。原作がどうなのかは分からないが、映画を見た限りでは、女性記者の心の動きはじゅうぶんに描かれていたとは言えないように思う。大森南朋が演じる男性記者が納得していくのは、大森は共通する葛藤が背景にある役でもあるので、見せ方としては分かりやすいとは思うのだが、逆に、そりゃ、通じる葛藤がある男の目線で納得していくのは当然でしょという感じもするので、説得力という意味ではじゅうぶんではないのではないか。

あと、不自然と言えば、真木よう子が、かなりいろいろな体位のセックスシーンを演じてるのに、どういうわけか、胸(乳房)やお尻をぜったいに見せないんですけど・・。部屋の中でセックスしているのに、なぜか、パンティをはいていたり・・。これは事務所からの要望なのか? もともと濡れ場をおさえている映画ならともかく、大胆な濡れ場がある映画なので、かえって不自然にしか思えなくて、妙に気になって仕方がなかったんだけど・・。
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2013/7/16

ミランダ・ジュライとヴァレリア・ブルーニ・テデスキ  映画

ミランダ・ジュライ『君とボクの虹色の世界』の車の上の金魚のシーン。なんとも不思議なシーンだ。この映画の世界は、一応、すべて現実ではあるので、夢のシーンというわけではないのだが、現実なのに、まるで夢のような、不思議な感触のシーン。この映画には、そういうシーンが散りばめられている。

『君とボクの虹色の世界』は、ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ『ラクダと針の穴』と印象が重なる。
テデスキの作品は、未婚女性が抱く漠然とした不安で揺れ動く気持ちを、現実と幻想が入り乱れるタッチで描いたもので、ミランダ・ジュライよりは夢のシーンははっきり夢のシーンとして存在しているのだが、『ラクダと針の穴』は、日常的なシーンにふと幻想シーンを入れる感じがさりげなくて良いというのか、だんだん夢想がけっこうとんでもないものになっていくんだけれども、それでも平然と現実の日常にまた戻って淡々とうんざりしている毎日が続いているという感じなのがすごくいいのだが、たとえば、女が車を運転しながら画面の下の方に手をのばし何かをしているんだけど写っていなくて何をしているんだと思い見ていたら口紅を出そうとしていたようで運転しながら口紅を塗る。次は教会のシーン。これでこの女が教会の神父に心の中でこっそり変な気を起こしていることが分かる。うまい演出だと思いました。
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2013/7/13

『君とボクの虹色の世界』『タリウム少女の毒殺日記』  映画

通常の物語映画とは明らかに違うことをやろうとしている映画を2本、見た。
ミランダ・ジュライ『君とボクの虹色の世界』と土屋豊『タリウム少女の毒殺日記』である。
どちらも、通常の物語映画のように、物語があって、人物の葛藤があって、人物が成長していく・・という風な映画とは明らかに異なるものを作ろうとしているが、それでも、最終的には、終盤部で、映画の着地点とも言える「変化」はあり、とりあえず作品は終わる。もちろん、いくら、物語映画をそもそもやろうとしている作品ではないとは言え、ただただループする日常が最後まで続いていくだけ・・では、作品として成立しないわけだから、作品として成立させるためにはやはりなんらかの「着地点」、なんらかの「変化」は必要なのだろう。
では、とりあえず、作品を成立させなければいけないから、「着地点」として「変化」を示しただけなのか?
それとも、これは、通常の物語映画を否定した果ての、新しい物語を提示したものなのか?
そこらへんのことは、ミランダ・ジュライや土屋豊の、他の活動(作品)も含めて考えていかなければ明快に言えないことのように思うが、とりあえず、この2作は何らかの「新しい」と思える感触を描き出しているとは言えるだろう。

そして、どちらの作品も、結局、人間とはひとりで生きていくものなのだという孤独が描かれているとも言えるが、同時に、他者との関係性、コミュニケーションを抜きにしては生きて行けないのだということを示しているとも言える。2作品の「着地点」とも言える「変化」も、他者との関係性という問題が絡むものである。

そして、「映画」というものを僕たちが好きなのは・・、結局、「映画」こそが、こうした「孤独」と「他者とのコミュニケーション」を同時に味わえるものだからなのだろう。「映画」を見ることとは、ひとりで見るものという「孤独」と、同時に、コミュニケーションとして見るものという要素を味わうことなのだから。
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2013/7/7

(終了)「被爆者の声をうけつぐ映画祭2013」のお知らせ  映画

(下記の映画祭は2日間でのべ750名をこえる来場者で、盛会のうちに終わりました。来場された皆様、有難うございました。)

☆私がスタッフをやっている「被爆者の声をうけつぐ映画祭」、今年は下記の通り、行います。この映画祭は2007年より毎年、開催し、今年で7年め(7回め)です。私は第1回からずっと関わっています。よろしくお願いします。

(以下、転載自由、歓迎です。)

「被爆者の声をうけつぐ映画祭2013」(7月6日、7日 於・御茶ノ水、明治大学リバティホール)のお知らせ

2013年7月6日(土)
13:15〜 オープニング・セレモニー
13:30〜16:00
「はだしのゲン (第一部)」
中沢啓治・三國連太郎 追悼上映
(1976年 劇映画 107分 監督:山田典吾)
お話:石子順(映画評論家)

17:30〜20:00
「はだしのゲンが見たヒロシマ」
中沢啓治 追悼上映
(2011年 ドキュメンタリー 77分 監督:石田優子)
お話:石田優子(監督)

2013年7月7日(日)
10:30〜12:30
「放射線を浴びたX年後」
(2012年 ドキュメンタリー 83分 監督:伊東英朗)
お話:伊東英朗(監督)

14:00〜16:30(2作品同時上映)
@「真実はどこに? ―WHOとIAEA 放射能汚染をめぐって―」
(2004年 ドキュメンタリー スイス 51分 監督:ウラディミール・チェルトコフ)

A「フクシマの嘘」
(2012年 ドキュメンタリー 30分 監督:ヨハネス・ハーノ)
お話:小倉志郎(元原発技術者)

18:00〜20:30(2作品同時上映)
@「ある同姓同名者からの手紙」
(1992年 ドキュメンタリー 48分 監督:金高謙二)
お話:金高謙二(監督)

A「もうひとつのヒロシマ アリランの歌」
(1987年 ドキュメンタリー 58分 監督:朴壽南)

詳細は下記の「被爆者の声をうけつぐ映画祭」のサイトをご参照ください。

http://hikakueiga.exblog.jp/
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