2014/10/23

『ザ・テノール 真実の物語』  映画

甲状腺がんの手術で声を失った、オペラ歌手、ベー・チェチョル氏の、声の再生の実話を映画化したもの。まあ、もとの話が凄いのだろうが、映画もなかなかうまくまとめている。(特にうまいと思ったのは、主人公が街をさまようシーンをオペラと重ねているところと、クライマックスシーンの演出など。)
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2014/10/23

シンポジウム「映画の振興を国家文化戦略に」、感想  映画

衆議院第一議員会館大会議室で開催された、文化芸術振興議員連盟の国会議員の先生たちが開催したシンポジウム「映画の振興を国家文化戦略に」、参加してきました。国会議員の先生方が映画の文化戦略について、どのように考えているのかと思って参加したのですが、うーん、現状の問題点を整理して改めて知るにはためになりましたが、深まる議論がされていたシンポジウムだったとまでは思えず、ちょっと不満な内容だったでしょうか。
以下、漠然と思っていることを自分なりに整理する意味でも、思ったことを書いてみます。
否定的な感想を抱いたので、少々、筆が荒れるかもしれませんが、ご勘弁ください。
このシンポジウムの一番、中心的な課題は、著作権の問題と、映画作品の保存の問題でした。
前者は、現在、デジタル化で映画(映像)のあり方が大きく変わり、従来の映画の著作権のあり方でいいのか?が問われている、著作権をどのようにしたらいいのか?という議論。
後者は、日本映画は海外に比べても映画フィルム保存率が低く(戦前の映画フィルムの保存率は10パーセント)、デジタルアーカイブ化が遅れている、このままでは貴重な文化遺産の多くの映画作品が埋もれてしまう、どうしたらいいのかという議論です。
著作権の問題と、映画作品の保存の問題が大きなテーマというテーマ設定はまったく妥当だと思います。しかし、議論として深まったものだったのかが疑問でした。
まず、第一部は、野田聖子さん(衆議院議員、映画議員連盟会長代行)、福井健策さん(弁護士)、崔洋一監督、秋元康さん(作詞家・映画監督)というパネリストで討論をしたのですが、崔洋一監督が、従来の、日本映画監督協会の著作権の主張、すなわち、現状の著作権法の第29条を撤廃し、現在のように製作者に著作権が一元化されていることから、監督が映画の著作権者になる形にするということを熱く主張されました。個人的には、映画監督がなんだかんだ言っても映画を代表する著作者ではないかという作家主義的な考えはうなづけるところはあるかと思うのですが、しかし、この提案には、製作者、プロデューサー側の人達をはじめ、業界で反対の考えの人もいるのではないかと思います。私がこの第一部のパネルディスカッションで不満だったのは、崔洋一監督が熱く語り、主張するのはいいんだけど、それに対して強く反対する意見の者は他のパネリストにいず、なんとなく、崔監督が熱く語る、周りがそうですね…と言って終わるみたいな感じだったことです。これではディスカッションになりません。本当は、崔監督と反対の考えを持つ方をパネリストに加え、対決させたなら、本当に熱いディスカッションになったのではないか。崔監督が熱く語る、それに熱く言い返すやつがいる、それこそ、映画人は熱いなあと思えるのであって、崔監督がひとりで熱くなっているのでは違うのではないかと思います。映画の著作権を製作者(プロデューサー)から監督に移すべきと崔監督が語り、それに対してそれは違うと反論する、だけれどもデジタル時代の中で著作権のあり方がいまのままでいいとは思っていないという点では両者の方々は共通する問題意識を持っているはずで、ではどうすればいいのかということを議論していってこそ、議論が深まっていくのではないでしょうか。
次に、第二部は、文化芸術振興議員連盟の国会議員、6名の方がパネリストで「日本の映画振興政策を考える」という議論を行ったのですが、総じて、私が不満だったのは、著作権のあり方を見直す必要がある、映画作品の保存を考えないといけない、若い人達を映画館に呼び込むようにしていかないといけない、地方の映画館を活性化させないといけないなど、大枠で、こうしないといけないということを各議員の方たちが理念を話すのですが、では具体的にどうすればいいのかという、具体的な政策提案のようなものがほとんどなかったことです。著作権のあり方を見直す必要があるというならではどのように具体的に著作権法を見直すのか、どういう条文を新たに提示するのかとか、映画作品の保存のためにどういう政策があるのかとか、具体的な政策を立案していくのが政治家の仕事なのではないでしょうか。今回のシンポジウムでは各議員が理念を語るだけで終わってしまった感じで、具体的な政策の提案がほとんど何もありませんでした。日本映画の問題について、具体的な政策はこの政治家の方たちには何もないのだろうかと訝ってしまいました。
少し、筆が滑りすぎて、書き過ぎた気もしますが、正直にいま、感じている感想を記して、今日は眠ります。
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2014/10/17

『小川町セレナーデ』  映画

これは面白い。前半、物語、歳月がどんどん進むので、やけに歳月の進行が早いなと思って見ていたら、中盤部で、いよいよ主の物語の「おかまバー」の話になり、それまでが全て「前触れ」だったことに気付き、「おかまバー」というキワものの物語を成り立たせるためにこれだけの涙ぐましい映画的アイデア、物語を繰り出していたのかと思わずジーンとなる。
以前に、日向寺太郎監督の『爆心 長崎の空』が、原爆を題材にアルトマンの群像ドラマのようなことをやろうとしていて、その意欲は凄いと思うが、うまくは行っていないようでやはりアルトマンのようなことをやろうとするのは難しいのかと思ったのだけど、原桂之介監督のデビュー作『小川町セレナーデ』は、独自のやり方で、アルトマンの人間喜劇のようなことをやり遂げている。
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2014/10/12

『太陽の座る場所』  映画

台詞が妙に文学的というのか、あり得ないような台詞というか、それは個々の描写もそうなのだけど、全然、リアルじゃないんだけど、でもこの映画の場合はそういうことがどうでもよくなるぐらい(いや、観客によってはどうでもよくならないかもしれないけど、僕は、ここまでやるならこれはありだと思った)、独特のワールドを成立させている。矢崎仁司監督、まさにやりたかった世界なんだろうな。
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2014/10/11

『北朝鮮・素顔の人々』  映画

『北朝鮮・素顔の人々』を試写で見た。これはいい構成の作品なのでは。
北朝鮮の内情を、極秘撮影された映像をもとに伝えようとしたものだが、センセーショナルに告発する感じではなく、ごく日常的と思える映像を脱北者の人たちが的確に解説していく。そういうことだったのかと驚くようなこともある。公開処刑もとらえられているが、結局は浮浪孤児のこの子たちを見よという感じのところに収斂されていくのに、ハートを感じる。30分、ドキュメントとして、よくまとまっていると思う。
『北朝鮮・素顔の人々』は、『金日成のパレード』と2本立てで、シネマヴェーラ渋谷で11月15日から上映。
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2014/10/11

『色道四十八手 たからぶね』  映画

井川耕一郎監督の『色道四十八手 たからぶね』。なんと、ピンク映画50周年記念作品だ。
井川さんが好きな映画『冷飯とおさんとちゃん』を思い出す。『冷飯とおさんとちゃん』の第2話、「おさん」で、妻・おさんが知らない男の名前を口にするのに苦悩する夫。ここから発想されたのか、『色道四十八手 たからぶね』はセックスにうぶと思われた妻が「たからぶね」という謎の言葉を口にすることから話が始まる。
「たからぶね」というのは実はセックスの体位なのだけど、妻(あるいは夫)が知らない異性の名前を寝言で口ずさむなんてそれこそありきたりな話だろうけど、謎の体位を口ずさむというのは発想として抜群で面白い。舟とか水辺とかはひどく映画的なものなので(『アタラント号』とか『ジョーズ』とか。)「たからぶね」というのが何やら映画的だし。
しかし、妻の正体が分かっても夫は妻を憎めない。それもそのはずだと思う。そもそも「うぶな妻」を求めていたのは夫のほうだったのではなかったのか。夫が「うぶな妻」を求めて、その設定に燃えるから、妻はそれを演じていたんでしょ。なら、妻の演技は騙していたというより夫への愛情表現でもあったのでは。そこがとらえられているので、このヒロインの妻は憎めないし、やはり可愛らしく思えてしまう。むしろ、「うぶな妻」を求めていたのは自分なのに、そのことを省みないで、俺にも「たからぶね」をしてくれ…なんて言うのは、男の勝手ではないだろうかと思う。
欲を言えば、そこらへんの、夫の内面的苦悩をもう少し、深めて描いて欲しかった。たとえば鈴木清順監督『ツィゴイネルワイゼン』(親友の妻に子どもを産ませた男の苦悩の話)に比べると、内面的葛藤が足りないような気がちょっとしたが…。(ここで、鈴木清順の映画に内面的葛藤なんて描かれているのかよ?とは突っ込まないでください。)
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2014/10/2

『ジャージー・ボーイズ』…うーん、ノレない!これは微妙…  映画

『ジャージー・ボーイズ』
クリント・イーストウッド監督の新作!さすがにうまい!絶品!
…なんだけど、実は、個人的にはこれはちょっとノレなかった…。
出来が悪いと思ったからではない。むしろ、真逆に、うまい!うますぎる!あまりに、うまく、「いい話」すぎる!…と思って、ちょっと信じられなかったのだ…。(ひねくれた性格なんで、すみません…。)
イーストウッド作品は時たま、こういうことがある。『パーフェクト・ワールド』とか『インビクタス』とか。「いい話」すぎて、展開が信じられないというのか…。
うーん、、、刑務所に入ったり、借金をかかえたり、いろいろなことがあるんだけど、そうした問題が、いともあっさりと解決していってしまうので、というか、この人たちにはそんなの、へっちゃらみたいな感じなので、それでは全然、問題ないじゃないか!、結局、ただのサクセスストーリーじゃんという感じがしてしまって…。ドラマの葛藤が切実感がないというのか…。良すぎるんだよな、たぶん。人間はもっともっと汚いものじゃなきゃ、嘘なんじゃないかと…(笑)。
うーん、困ってしまった…。

『ジャージー・ボーイズ』は、フォー・シーズンズにかけて、デビュー前の不良時代の「春」、デビューしてヒット曲を連発する「夏」、莫大な借金をかかえ、メンバーに亀裂が入る「秋」、さまざまな別れを繰り返す「冬」という4つのパートで構成されている。ドラマの構成がフォー・シーズンになっているわけで見事だが、言うまでもなく、現実の人生はこのようにきれいに4つに分かれるものではない。どの時代にも並行していろいろなことが実際は起こっているはずで、幸福と不幸は人生のすべての季節にともにある。たとえば、ヒット曲を連発している「夏」に、実は裏で莫大な借金がふくらんでいたという「秋」が平行して進んでいたのだ。なので、この映画は、「秋」のパートが始まってから、回想で2年前に戻るという構成になっているのだ。「秋」は実は2年前から進んでいたんだよと…。フォー・シーズンの構成を基本にしている以上、こういう回想でちょっと戻る構成になるのは分かるんだけど、でも、ここがちょっと気持ちが入っていきにくいと思う。なんか、結果が出ていて、説明で回想を入れているみたいになってしまうからだ…。もちろん、「説明的」にはならないように、つくりては細心の注意をはらっているのだろうが、やはり「説明的」になってしまっていると思う。
これなら、むしろ、メンバーに亀裂が入っていく過程を丹念に時系列順に描いていったほうがリアルに響いてくる作品になったのではないか?

『ジャージー・ボーイズ』の、過程を飛ばして、結果とポンと見せる手法は、『グレン・ミラー物語』を参照しているのかもしれない。『グレン・ミラー物語』は、メロドラマの肝の箇所で、過程を描かず、結果をポンと見せて、まさにこれがこのメロドラマの核心として屹立した傑作だった。
最近の日本映画で、『舟を編む』が、過程を描かず結果をポンと見せる飛躍をしていて、これはもしかしたら『グレン・ミラー物語』をやろうとしたのかな?とちょっと思った。
『ジャージー・ボーイズ』は、当然、ミュージカル伝記ものの代表作『グレン・ミラー物語』を参考にしているのだろうが、『ジャージー・ボーイズ』の場合は果たして、『グレン・ミラー物語』のように、結果をポンと見せる手法が効果的だったのか…。うまいけど、このうまさはこのドラマにあっていたのかと…。
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