2013/7/13

『君とボクの虹色の世界』『タリウム少女の毒殺日記』  映画

通常の物語映画とは明らかに違うことをやろうとしている映画を2本、見た。
ミランダ・ジュライ『君とボクの虹色の世界』と土屋豊『タリウム少女の毒殺日記』である。
どちらも、通常の物語映画のように、物語があって、人物の葛藤があって、人物が成長していく・・という風な映画とは明らかに異なるものを作ろうとしているが、それでも、最終的には、終盤部で、映画の着地点とも言える「変化」はあり、とりあえず作品は終わる。もちろん、いくら、物語映画をそもそもやろうとしている作品ではないとは言え、ただただループする日常が最後まで続いていくだけ・・では、作品として成立しないわけだから、作品として成立させるためにはやはりなんらかの「着地点」、なんらかの「変化」は必要なのだろう。
では、とりあえず、作品を成立させなければいけないから、「着地点」として「変化」を示しただけなのか?
それとも、これは、通常の物語映画を否定した果ての、新しい物語を提示したものなのか?
そこらへんのことは、ミランダ・ジュライや土屋豊の、他の活動(作品)も含めて考えていかなければ明快に言えないことのように思うが、とりあえず、この2作は何らかの「新しい」と思える感触を描き出しているとは言えるだろう。

そして、どちらの作品も、結局、人間とはひとりで生きていくものなのだという孤独が描かれているとも言えるが、同時に、他者との関係性、コミュニケーションを抜きにしては生きて行けないのだということを示しているとも言える。2作品の「着地点」とも言える「変化」も、他者との関係性という問題が絡むものである。

そして、「映画」というものを僕たちが好きなのは・・、結局、「映画」こそが、こうした「孤独」と「他者とのコミュニケーション」を同時に味わえるものだからなのだろう。「映画」を見ることとは、ひとりで見るものという「孤独」と、同時に、コミュニケーションとして見るものという要素を味わうことなのだから。
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