2005/11/18

『エリザベスタウン』  映画

奇妙な味わいを持つ、脱力系恋愛ごっこ映画だと思いました。
「脱力系恋愛映画」ではなく「脱力系恋愛ごっこ映画」と書いたのは、この映画の話は男と女の双方が「本当の恋愛」ではなく「恋愛ごっこ」であることを意識しあって対峙しているとしか、思えないから。たぶん本当の恋愛はまだ始まっていない。
そもそもいくら恋愛はいつ始まるかは分からないとはいえ、この映画の主人公が置かれた最悪の状況では恋愛どころではない。むしろ、この状況で始められてしまったのは「本当の恋愛」ではないことが意識されているからではないだろうか。「本当の恋愛」ではなく「恋愛ごっこ」でなければとてもあの状況では始められないと思う。しかし、逆に言うと、ハードな状況だからこそ、そういう気晴らしの「恋愛ごっこ」を必要としている状況なのであり(大体、本当に真剣な恋愛というのはハードなものだから他のことでハードな状況でさらにそうしたハードなものは抱え切れないのだから)、たぶんこの主人公は「恋愛ごっこ」と割り切ったからこそ、逆に「本当の恋愛」とは異なる映画みたいな「恋愛ごっこ」を一時的に出来るかもしれないと思って試そうとしたのだと思う。この状況だからこそ逆に「現実の恋愛」とは別に憧れていた「映画みたいな恋愛」を一時的な遊びとしてしようとしたのではないだろうか。
女の側がなぜそれに反応したのかという疑問はあるかもしれないが、とりあえず女の側にもハードな現実の恋愛とは別に「映画みたいな恋愛ごっこ」をしてみたいというなんらかの欲求があったのだと了解するしかない。女の側がこういう反応をするかという疑問は、もしキルスティン・ダンストが演じていなければたしかに違和感として残ったかもしれないが、この女を演じるのがキルスティン・ダンストであるがゆえに納得できるような気はするのだ。
キャメロン・クロウ監督は「ワイルダーならどうする?」という本を書いているぐらいなのだからシネフィルなのは疑いようもなく、この映画でもオードリー・へップバーンにオマージュを捧げたらしきシーンも出てくるのだけれども、しかしこうした過去の映画へのオマージュが、前述したように「映画みたいな恋愛ごっこ」をしようとしていることに重ねられているところにこの作品のひねりがあると思う。
そして、がちがちの必然性がある展開をするドラマとしてつくりこんでしまわないで、脱力系の、唐突に必然性がないことがいきなり起こるだらだらしたタッチであることで「映画みたいな恋愛ごっこ」をしている2人の距離感を微妙にとらえ出しているのだと思う。
さらに、この映画の中では深くはつっこまれて描かれていないが、この主人公の父と母はいい時ばかりでなく関係が悪い時やいろいろな時があったはずで、そうしたハードな父と母の恋愛の話が、一時的な恋愛ごっこをしている2人と対比して見せられることによって、「恋愛ごっこ」なのにもかかわらずその中にある真実味がある感情がふとこぼれてしまっているのではないだろうか。
いや、「恋愛ごっこ」であったって人と人とにそれぞれ感情というものはあるわけで、逆に「ごっこ」だからこそ、真実味がある感情がこぼれてしまうということもあるのかもしれない。
特に、それを演じるのがやっぱりキルスティン・ダンストであるわけだから、「ごっこ」であったとしても、いや、「ごっこ」であるがゆえにより一層、等身大の真実味がある感情がこぼれてしまうのだと思う。
とかく、性格ブスとも言われるキルスティン・ダンストだが、決して性格ブスというわけではなく、「等身大の女の子」なんだと僕は思うのだ。「等身大」と言っても「等身大の普通の女の子」なのではない。「等身大の変わった女の子」なんだ、キルスティン・ダンストは。
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