2006/2/25

毎日新聞連載ーノーモア水俣病:50年の証言(4)  公害・薬害・環境・医療問題

ノーモア水俣病:50年の証言/4 胎児性世代/上 /熊本
 ◇子供の可能性信じ奮闘、母として教師として
 「1階奥の病室のドアを開けると、悪臭が鼻をついた。7、8人の胎児性患者が、異様なうめき声を上げ、よだれかけはベトベトに汚れていた。窓がない暗い部屋で、いわば隠しているわけ。見せたくないから」
 水俣市立水東小教頭だった日吉フミコさん(90)=水俣市栄町=は初めて胎児性患者と出会った時の衝撃をこう振り返る。
 48歳だった63年3月22日、受け持ち児童の見舞いに同市立病院を訪れ、北海道の女子高校生3人が水俣病患者の見舞いに来ているのを知った。水俣病公式確認から7年、死亡解剖により最初の「胎児性」が確認され2年が経過していた。地元に住みながら患者に関心がなかったことを恥じ、女子生徒について行くと、津奈木町の年老いた男性が、キセルでタバコを吸おうとしていた。指は曲がり、全身がブルブル震えていた。妻がマッチで火を付けようとするが、なかなか付かない。「長男が1カ月前に劇症型で亡くなった。今度は父ちゃんがこげんなって」と涙をポロポロ流しながら訴える妻。日吉さんの目にも涙があふれた。
 次に向かったのが胎児性患者の病室だった。その日見た光景が頭を離れず、「私がこの子たちの親だったらどうするだろう」と苦もんする日々が続いた。悩んだ末、周囲からの勧めもあり翌月、「あの子たちを何とかしたい」と教師を辞め市議に立候補。63年5月〜79年4月の4期務め、現在に至るまで、「子供たち」を支えてきた。
 初当選時、議会内にはチッソ擁護派が多く「議会で水俣病のことを絶対に言うな。言えば水俣が栄えなくなって人が暮らしにくくなるから」とクギを刺された。当時の市長は元日本窒素肥料(現チッソ)水俣工場長の橋本彦七氏(1897〜1972年)だった。
 その後、日吉さんは議会で2度の懲罰処分を受けながらも孤軍奮闘。胎児性患者らのために、リハビリテーション専門の湯之児病院(65年)と、同病院内に市立水俣第一小学校湯之児分校を設立(69年)するなど尽力した。脅し、いやがらせは度々あったが、それでもひるまなかったのは母として、教師として「子供たちの可能性を引き出したかった」からだ。
  ◇  ◇
 人生丸ごとが「水俣病の歴史」と重なる胎児性患者。彼らは世界初の、母親の胎盤を経由したメチル水銀中毒の被害者でもあり、水俣病闘争ではシンボルのように掲げられた。「子供たち」も今40〜50代の中年になっている。【水俣病問題取材班】(次回は28日掲載予定)
(毎日新聞、2006年02月21日)
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