2006/8/31

ノーモア水俣病:50年の証言(18)(19)(20)  公害・薬害・環境・医療問題

ノーモア水俣病:50年の証言/18 にせ患者/上 /熊本
 ◇抗議に“見せしめ逮捕”−−変わらぬ権力の体質
 「にせの患者が補償金目当てに次々に申請している。金の亡者だ。認定審査会は苦労している」「運転免許の試験では視野狭さくじゃないのに、検診の時は『見えない』と答える」−−。
 チッソと患者側の補償協定締結後、認定者が急増した75年8月。陳情先の環境庁で杉村国夫、斉所一郎両県議(いずれも当時)がこぼした“にせ患者”発言は、後に県議会に抗議に訪れた患者や支援者4人が逮捕される騒動に発展。水俣病被害者の差別・偏見被害が広く論じられるきっかけとなった。熊本市で飲食店を経営する森山博さん(56)はこの時逮捕された1人だ。
  ◇   ◇
 当時、熊本大に在学。患者を支援する「水俣病を告発する会」のメンバーとして活動していた。発言を報道で知った時は「なんちゅうバカが……」とあきれた。患者らが9月の県議会の公害特別委員会で県議に抗議するとの知らせを聞き、先輩と2人で駆けつけた。すでに、私服警官や機動隊が待機。杉村県議が「発言の内容が真意と異なり伝えられ、誤解を招いたことは遺憾だ」と声明文を読み上げ、委員会は打ち切られた。患者から怒号が飛び交った。
 患者らと委員会室の外の廊下で待っていた時だった。杉村県議が飛び出してきた。「みんなワーッと近寄って行ったが、たくさんの警官や県職員がガード。もみくちゃになったが県議に手が届かない」。混乱の中で私服警官が「お前、けっただろ? けったね?」としきりに言うのが聞こえた。
 やがて県庁を引き上げ、釣りに行ったほどで、暴行した意識はまったくなかった。ところが、10月の早朝、突然、20人もの捜査員が下宿先に訪れ、公務執行妨害・傷害容疑で逮捕された。「逮捕された患者さんの自宅にも機動隊やらがたくさん来たという。若いリーダー格の患者だったのでつぶしにかかっているのだと思った」。逮捕は被害者を抑えつけるための見せしめだった。
   ◇   ◇
 89年の最高裁判決で、懲役4月執行猶予2年の有罪が確定した。「でっち上げ裁判は簡単だと思った。県議が(正しいと)言えば通るのが裁判所だった」と振り返る。「〓罪(えんざい)とはいえ、自分の逮捕は大したことじゃない。その後、運動がしぼんだわけでもない。ただ、患者さんが逮捕されて犯罪者扱いされたから、戦わなければと思い最高裁まで争った」。2県議はその後、認定申請者から名誉棄損による損害賠償請求を起こされた。熊本地裁は「申請者の社会的評価を低下させた」と原告の主張を認めたが、慰謝料の支払いは命じなかった。
 現行認定基準を事実上否定した関西訴訟最高裁判決後、再び4000人を超す被害者が認定申請している。申請者に対し今は「金目当て」という発言が出てこない世の中に変わったのだろうか?
 「『にせ患者』発言をするような権力側の体質は変わっていないのでは。だからまだ、水俣病問題は終わっていない」。森本さんは冷めた表情で話した。【水俣病問題取材班】
毎日新聞 2006年8月15日

ノーモア水俣病:50年の証言/19 にせ患者/下 /熊本
 ◇逮捕も「生きた証し」−−水俣の本質問う契機に
 「『にせ患者』という言葉はチッソ擁護の立場(だからこそ出てきた言葉)なんです」。「水俣病患者連合」事務局長として患者支援を続ける高倉史朗さん(55)も、警察と衝突した75年の「にせ患者県議発言」抗議行動の現場にいた。
 「社会的に上の立場の人が差別的なことを口に出して通る時代だった」。時間を経るごとに、初期の劇症型から外見からは症状が分かりにくい被害者が増えた水俣病の特徴も「にせ患者」発言を招く原因だった、と高倉さんはみている。
 今でこそ、水俣病は神経からの感覚情報を処理する大脳皮質が有機水銀で障害を受ける「中枢説」が有力とみられるようになった。「単純で無意識の動作に支障は出ないが、意識して複雑な動作では症状が出る」とも指摘されている。
 検診の際にまっすぐ歩くように言われた患者がその時はふらつき、検診を終えて帰る時には普通に歩けるといったことも起こるわけだ。だが、当時は患者に不信の目が向けられていった。
 実際の姿は違っていた。高倉さんは、患者とキノコ栽培をしていたことがあった。体格が良く健康そうに見える人でも、同時に複数の作業をするのが難しかったり、道具などを渡そうとした時、視界が狭いため、うまく受け取れない。
 高倉さんは「当時は『何をもってにせ患者というのか』を論理的に知りたいと思った」。水俣病の症状を論文にもまとめた。「にせ患者」として切り捨てられた認定申請者の行政不服審査請求や処分取り消し訴訟にもかかわり続けている。
 県議の「にせ患者」発言から約30年。表向きは同じ言葉を聞くことはなくなった。「しかし現状は『にせ』と思っても口に出せないというだけ」と思う。
  ◇  ◇
 水俣病認定申請患者協議会の副会長だった芦北町の緒方正人さん(52)は「抗議行動をやろう」と呼びかけた1人。県議への傷害などの疑いで逮捕された。「『金目当てのにせ患者』『暴力患者はこんなに過激な連中だ』と知らしめようとしたんでしょう」
 だが、今は「いい思い出。だれも恨んでいない」と穏やかな表情で振り返る。「当時は警察、議会、検察官にも激しい怒りを覚えたけれど、生きていた証しというか……。裁判所が代わりに日記をつけていてくれたのだと思う」とほほえむ。逮捕は「にせ患者」という差別をどう乗りこえるか、水俣病の本質とは何かを考えるきっかけとなった。
 事件から10年後の85年、緒方さんは認定申請を取り下げた。自分の存在を自問自答するうち「自分がチッソの労働者か幹部だったら同じことをしたのではないか」と思い至ったからだ。「人間が加害者、被害者のどちらか一方であることはありえない。チッソの人も立場を超えて目覚めてほしい」と思う。
 そして、水銀を含む汚泥が埋めたてられた埋め立て地に手彫りの地蔵を置く「本願の会」を結成した。そこには「生命がよみがえることが一番大切」という願いが込められている。【水俣病問題取材班】
毎日新聞 2006年8月22日

ノーモア水俣病:50年の証言/20 教育 /熊本
 ◇「命と人権」教える意義 教職員、患者から学ぶ
 今月26日、水俣市で「水俣芦北公害研究サークル」の30周年記念祝賀会が開かれた。水俣病教育を推進する教職員の組織だ。「水俣にいる限り、水俣病から目をそらさない教育をしなければならない。水俣病事件が教育にどういう意味を持っているのか追究してほしい」。会では前会長の広瀬武さん(72)が、後輩教職員に願いを託した。
 71年、広瀬さんは当時在籍していた小学校に患者の1人、浜元二徳さんを招き、地元で初めて水俣病を授業に取り上げた。話を聞いた児童は「ひどい被害が放置されているのはおかしい」と率直な思いを作文につづった。
 だが、当時はチッソ擁護の風潮もあり「反響は大きすぎた」という。臨時校長会が開かれ「加害企業の責任を追及する一方的なものだ」「患者を教室に入れ、あまりにも生々しい」と次々に批判があがり、水俣市議会でも問題となったほどだった。
  ◇  ◇
 水俣の教職員は、患者支援をきっかけに、水俣病と向き合うことになった。市民による初めての患者支援組織「水俣病市民会議」ができたのは68年。広瀬さんは日教組組合員としてメンバーに加わった。同じ年に新潟県で開かれた日教組の教育研究全国集会で水俣病について報告。「当時はまだ知識も十分でなく、あちこちの患者から聞き取り調査し『生活破壊との戦い』とのテーマで話した」という。翌69年には患者が1次訴訟を起こした。支援のカンパ集めなど、組合の活動はさらに活発となった。
 そんな中、親ぼくを深めた浜元さんの一言はこたえた。
 「先生たちは教えるのが仕事じゃろう。なして今まで水俣病ば教えんじゃったか」
 広瀬さんはある出来事が胸につかえていた。市民会議発足当時、新潟水俣病患者が水俣市を訪れ患者同士が交流した時だった。その場に第一小で受け持った女児の母親がいた。
 「何でここに?」
 何の気なしに声をかけると母親は「先生には言えなかったが、あの子の父親は劇症患者だった」と明かした。
 「自分は8年間、第一小で何をしていたのか」と身につまされた。
  ◇  ◇
 水俣病の授業は、公害が社会問題化する中で関心が高まり、教育現場で取り上げざるを得ない風潮へと変わっていった。広瀬さんらは76年にサークルを結成。県教組も県内で水俣病の「一斉授業」の運動を展開した。広瀬さんはその後、患者多発地区の袋小学校でも授業を続けた。「にせ患者」問題も起き、「差別、人権」を考える授業として同和教育とも結びついた。
 広瀬さんは「時代は違っても、教育の大切な部分は『命と人権を大事にする教育』」と水俣病教育の変わらぬ重要性を訴える。現会長の田中睦さん(55)も「水俣病は過去のことと捉(とら)えられがちだが、単に環境保護というのではなく経緯を教えることが大事。水俣病は私たちに多くのことを教えてくれる」と話す。【水俣病問題取材班】
毎日新聞 2006年8月29日
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