2006/11/18

『テヘランでロリータを読む』の書評を読む(1)  イスラエルとパレスチナ、中東

*『テヘランでロリータを読む』を読んだわけではなくて、下記の書評を読んだだけなのであるが、なんだか、熱い本であるようだ・・。

『テヘランでロリータを読む』
http://www.hakusuisha.co.jp/topics/tehrantop.php

◆書評再録/小池昌代
 「秘密読書会で読む『禁制文学』」◆

 イスラーム革命後のイラン・テヘラン。ホメイニー師率いる新体制が、監視の目を光らせる息苦しい社会のなかで、大学を追われ、一切の教職から身をひいた著者が、密かに開いた読書会。そのメンバーは、「傷つきやすさと勇気が奇妙にも同居」する、皆、どこか一匹狼的な女子学生7人だった。

 彼女たちは、ほぼ毎週、木曜日の朝、著者の自宅に集っては、ナボコフやフィッツジェラルド、ヘンリー・ジェイムズ、オースティン…… などを読む。室内に入り、着用を義務付けられた黒いコートとヴェールをぬぐと、その下から現れるのは、鮮やかな色彩、官能的な肉体、そして裸の個の精神だ。

 西欧的な価値観を持つものは、退廃的と批判され、反イスラーム的とみなされれば、直ちに逮捕・投獄。安易な処刑・暗殺もたびたび。そういうなかで、西洋の小説を読むのは、ひどく危険な行為である。外国書籍は流通をとめられ、本屋からは、外国文学が消えていくような状況にあった。

 革命の翌年には、イラクとの戦争も勃発。心身の自由を奪われたとき、ひとは生きているという感覚を失う。そして、外側で形作られている異常な「現実」に拮抗するほどの、もうひとつの「現実」=小説世界を求め、そのなかで、鮮明な生の感覚をとりもどしたいと願うのだ。

 彼女たちは、ナボコフの「ロリータ」を、いま、このとき、このイランという国で生きる「わたし」の立場から、ダイナミックに読んでいく。多くの人が読んできたような、中年男ハンバートが少女・ロリータに対して抱く妄執や恋愛の話ではなく、「ある個人の人生を他者が収奪した」悲哀の物語として、徹底的に、ロリータの側に立って読むのである。この国で女であることの生き難さが、一人の人間が誰かの「夢の産物」となってしまうことへの憤りへと通じ、その哀しみに切実な共感を広げていく。

 著者は言う。「小説は寓意ではありません。それはもう一つの世界の官能的な体験なのです。……彼らの運命に巻き込まれなければ、感情移入はできません。感情移入こそが小説の本質なのです。小説を読むということは、その体験を深く吸い込むことです。さあ息を吸って」

 感情移入とは、なんと懐かしい言葉だろう。そしてこれはなんと普遍的に響く言い方だろう。もしかしたら、わたしたちがなくしかけているのも、この素朴な行為、あらゆるものへの感情移入なのかもしれない。

 全体主義を憎み、抗い続けた著者は、やがてイランを離れアメリカへ渡る。けれど負った傷、様々な思い出は、記憶のなかから消えるはずもない。理不尽な処刑で死んだ学生もいる。読書会のメンバーはといえば、国を出て結婚し子供を産んだ者もいるし、国に残った者たちは、その後も集まり続け、本を読み、書き、ある者は教職についたとある。生きることと読むこととの熾烈な関わり合い。フィクションの力を改めて信じたくなる。透徹な勇気を与えられる本である。(朝日新聞2006年10月1日付紙面より)(評者=詩人)

◆書評再録/若島正
 「文学体験を切実に問う感動の書」◆
 
 『テヘランでロリータを読む』。挑発的なタイトルだ。ホメイニー師が指揮するイラン革命によって、イスラム原理主義に支配されたテヘランで、背徳的な小説として知られるナボコフの『ロリータ』を読むことがどういう意味を持つのか。そう本書は問いかける。

 著者のアーザル・ナフィーシーは、父親が元テヘラン市長という恵まれた家庭に育った。十三歳のときから海外留学してアメリカの大学で学び、故郷の大学の教壇に立つべく革命直後に帰国してみると、テヘラン空港で彼女を待ち受けていたのはホメイニー師の巨大なポスターと、「アメリカに死を!」というスローガンだった。このときから彼女は、故国に暮らしながらも精神的な亡命者として生きることを余儀なくされる。政府当局による大学閉鎖。大勢の学生たちの投獄、殺害。ヴェール着用の強制という形での、女性に対する弾圧。イラン・イラク戦争。こうした嵐のような時代を経験し、現実と小説の中をたえず行きつ戻りつしてきた著者は、ついに故国をふたたび離れる決心をする。その痛みに満ちた記録が本書である。

 著者にとって、文学作品はけっして現実から逃避し、慰めを得るためだけのものではない。むしろそれは、現実に突きつける鏡として機能する。たとえば、フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』がアメリカ的なものの典型であり、このような不道徳な作品を読むことはイランの革命的な若者にとって有害だ、と主張する学生に対して、著者は授業で『グレート・ギャツビー』を裁判にかけてみようと提案し、自らは被告となる書物そのものの役を演じて、文学を擁護する熱弁をふるう。「いい小説とは人間の複雑さを明らかにし、すべての作中人物が発言できる自由をつくりだすものです。この点で小説は民主的であるといえます……。多くの優れた小説と同じように、『ギャツビー』の核心にも共感があります──他者の問題や苦痛に気づかないことこそが最大の罪なのです」

 この他者の心を理解する能力の欠如という悪こそ、ここで取り上げているさまざまな文学作品に、とりわけナボコフの『ロリータ』に登場する、ニンフェット愛という病に取り憑かれて、他者のみならず自己をも破滅に導いてしまう怪物的なハンバートに、著者が見出すものだ。彼女は最後の大学を辞めてから、これまでの教え子たちのなかで文学を愛する熱心な女子学生七人を選び、週に一度自宅に招いて『ロリータ』の読書会を開いた。すると彼女たちは全員一致して、ハンバートに人生を収奪された少女ロリータに圧倒的な共感を示したという。全体主義的な物の見方につねに反対を表明していた、亡命作家ナボコフの『ロリータ』が、革命後のイランに生きるこの女性たちにとって最も身近な小説として読まれたことに、わたしは感動を覚えざるをえない。

 「小説は寓意ではありません」と著者は教壇から学生たちに向かって呼びかける。「それはもうひとつの世界の官能的な体験なのです。その世界に入りこまなければ、登場人物とともに固唾をのんで、彼らの運命に巻きこまれなければ、感情移入はできません。感情移入こそが小説の本質なのです。小説を読むということは、その体験を深く吸いこむことです。さあ息を吸って」

 わたしはこの『テヘランでロリータを読む』を、まるで小説を読むように読んだ。著者をはじめとする、イランに生きる女性たちの悲痛な運命に巻きこまれ、それを固唾をのんで見守った。小説を愛するすべての人におすすめしたい、近来の名著だ。(毎日新聞2006年9月17日付紙面より)
(評者=英米文学者)
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