2006/11/18

『テヘランでロリータを読む』の書評を読む(2)  イスラエルとパレスチナ、中東

◆特別寄稿/岡真理
 「人が小説を読むということ」◆
 
 革命に揺れ、イスラーム政権の嵐に揺れ、イラクとの戦争でミサイルに揺れるテヘランで、英文学者である著者と学生たちは『ロリータ』や『ギャツビー』、『高慢と偏見』などの小説をいかに読み、それぞれの人生とこれらの作品はいかに切り結んだのか。その経験を愛情深い筆致で細やかに紡ぎながら、本書は、イラン革命とはイラン社会に生きる者たちにとって何であったのか、イランに生きるとはいかなることなのか、そして、小説とは、小説を読むとは、根源的に、人間にとっていかなる営みであるのかを私たちに教えてくれる。『テヘランでロリータを読む』は、痛みと美しさに満ちた、稀有な、小説ならざる「小説」である。

 イラン革命が何であったかなど、イラン人やイラン研究者にしか意味のないことだと人は思うかもしれない。だが、イラン社会に生きる一個一個の人間たちがそれをいかに生き、いかに生き延び、あるいは生き延び得なかったか、それがもし、イラン人やイラン研究者だけにしか意味のないものであるならば、現代イランの学生にとっても、一九二〇年代のアメリカで成功を夢見た青年の物語(『ギャツビー』)や十八世紀英国の田舎娘の恋愛譚(『高慢と偏見』)も無意味ということになる(それこそ、イランの体制当局がこれらの作品に対してとった態度だ)。それらの小説を読むことが現代日本に生きる私たちやイランの学生たちにとっても意味あることだとしたら、革命をイランの人々はいかに生きたかもまた、私たちにとってそうであるにちがいない。なぜなら小説とは根源的に─著者が幾度も強調するように─他者たる人間の生、なかんずく、その個としての尊厳を描くものだから。

 イランの女性映画監督サミラ・マフマルバフが十八歳で『りんご』を撮ったとき、日本の女性批評家が書いた文章に、黒いチャドルを纏って現れたサミラがアイラインを引いていたことに対する書き手の共感が綴られていた。それを読んだとき覚えた違和感がなにゆえのものだったのか、本書を読んだ今なら分かる。

 ムスリム女性の全身を覆う黒いチャドルは私たちにとって大いなる他者性の象徴である。異質な他者と思われたその女性が化粧をしている、私たちと同じように。私たちは安心する、彼女のなかに私たちの似姿を発見して。コーランが何を言おうと、彼女たちも実は、ホメイニー師がサタンと罵る西側の、私たちの文化を愛する「私たち」の仲間なのだ、私たちの文化こそ普遍なのだと知って。だが、人間的共感を自分たちとの同一性によって担保しようとするこうした態度こそ、「小説」の対極にあるものとして著者が本書で一貫して批判してやまないものだ。

 人間的共感が同一性を介してのみ可能なら、私たちはなぜ、ロリータの人格を無視し、彼女を自らの欲望に隷従させようとするハンバートのような男を描いた小説に感動するのか?(この問題は、学生たちのあいだでも議論になる。)誰しもハンバートのエゴイズムを程度の差こそあれ持ち合わせているにしても、作品が私たちを揺さぶるのは、彼が私たちと同じだからではない(梁石日の『血と骨』の主人公、金俊平にいたっては、大方の者にとって、彼がヒトであるということ以外に何の同一性もないが、それでも作品は読む者の魂を揺さぶる)。サミラが『りんご』で描いたのも、幼い娘二人を自宅に監禁し、幼児虐待の廉で逮捕された男の話だ。日本の私たちだけでなく、大方のイラン人市民にとってさえ、彼は「他者」である。にもかかわらず作品は、彼のそのまったき他者性を描きながら、彼の人間性に対する私たちの共感を喚起する。著者が本書で繰り返し訴えているのもそのことだ。私たちが想像力を駆使することで他者を他者のままに、その多面性において人間として理解すること、それこそが小説の真髄であるということ(だから著者は、イランを全体主義国家にしたホメイニー師が繊細な詩人でもあった事実を、戸惑いとともに作品に書き込むのである)。

 著者にとって、イランのイスラーム体制が批判されなければならないのは、まさにこの点にある。全体主義的体制のつねとして、体制が、「自分たちと同じ」者にしか人間性を認めず、異なる価値観をもつ者や自分たちに理解できないものを無意味なもの、無価値なものとして、その存在自体を全否定するからだ。サミラのアイラインは、先の批評家が示唆するように体制に対する彼女の抵抗だったかもしれない。だが、彼女の抵抗とはそれだけではないはずだ。問題なのは批評家が、自分に理解できるもの、自分と同じものを通してしか、サミラの人間性を認めていないことにある。

 なぜ、テヘランで『ロリータ』を読むのか? それは、他者の人格を無視し、自分の欲望を実現する対象としてしか他者を見ない主人公のありようが、イラン社会の体制の謂いであると同時に、体制が、「反革命」のレッテルを一方的に貼った者たちを裁判もなくこの世から抹殺しているとき、小説は読者に、主人公の人間性をその他者性と多面性において理解することを求めるからである(それは、彼の背徳を是認することとはぜんぜん違う)。単に、体制が禁じるがゆえにそれを読むことが、体制に対する抵抗であり思想の自由の行使になるからではなく、『ロリータ』だけでなくおよそ小説とは、他者を他者として理解することを人間に求めるという点において根源的に、全体主義的体制に対する批判であり、抵抗であり、民主主義の実践なのだ。だとすればタイトルにある「ロリータ」とは、ナボコフの作品を意味するだけではない、あらゆる小説の謂いであり、同時に「テヘラン」もまた、人間の多面性に対する理解を欠いた世界の謂いであるとすれば、それが意味するのはイランや全体主義的なイスラーム主義体制だけではない。他者たる者たちに「テロリスト」というレッテルを貼ることで彼らの人間性を否定する、私たちが生きるこの現代世界のありようもまた、本書によって根源的な批判にさらされているのである。

 小説を読み作品世界について論じることを通して、小説という「別の世界」は、イランで彼女たちそれぞれが生きる実人生のなかに深く織り込まれ、虚構の存在であるハンバートやギャツビーは、彼女たち一人ひとりのなかで、血肉を備えた一個の人間として長く生き続けることになる。そうした彼女たちの経験を読むことで、気がつけば、遠い他者であったはずの彼女たち一人ひとりの生が、私にとってかけがえのないものとなり、最初は馴染みのないカタカナの羅列に過ぎなかった彼女たちの名は、いつしか私のなかで体温を帯び、忘れがたい人間存在へと変貌する。イラン革命は私にとってもはや他人事ではなく、マフシードが、ナスリーンが、その苦悩とともに生きた、痛みに満ちた出来事として記憶される。「小説」以外に何が、このような奇跡を成し遂げられるだろうか。
(筆者=現代アラブ文学者)
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