2012/2/2

『くらやみの速さはどれくらい』  SF小説

エリザベス・ムーンの『くらやみの速さはどれくらい』という小説をついに読んだ。
この小説は、すでにネビュラ賞受賞をはじめ、SF小説の名作として高い評価を得ている。21世紀版『アルジャーノンに花束を』とも言われている。(翻訳者は『アルジャーノンに花束を』と同じ、小尾芙佐である。)
たしかに、『アルジャーノンに花束を』に通じるところがあるとも思うが、しかし、総体の感触は『アルジャーノンに花束を』とは大きく異なるものだと言えるだろう。
自閉症(この主人公の場合は自閉症というよりアスペルガ−症候群と言ったほうがより適切なのかもしれないが)を題材にしたSF小説という、珍しいコンセプトにチャレンジし、小説でこんなことが表現できるのかという驚くべき表現を獲得していると思える。正直、SFと本当に言えるものなのかどうかはよく分からないところがある。といって、これはこの小説はSのサイエンスの要素が欠けたただのファンタジーではないかという意味ではない。ただのファンタジーとするには、あまりにも描写が精緻でリアル過ぎると思うからだ。だから、その意味ではやはりSFの傑作なのだとは思うのだが、しかし、いわゆる宇宙空間とか、そういうものは一切、登場しなくて、日常的な描写に徹しているということだけでも、これは(これも)SFなのか・・と思わないではいられない。
それにしても、驚くのは、やはりラストの終わり方だろう。こういう物語の終わり方があるのか、果たしてこういう終わり方でいいのだろうか・・と、すっきりしない気持ちが残る。この小説を読んでから、ずっとすっきりしないのである。(かといって不快ということではないが。)
要するに、この小説は、複雑なことを複雑なまま、提出しているのである。そういうことを小説として具体的に提示することが出来たということが驚きであるわけだが、同時に、終わり方がすっきりしない、感動したとも言えず、これでいいのだろうか、よくないのだろうかということが頭の中をグルグルと回る、なんとも言えない中途半端な気持ちになる、つまり、これは現実の世界や人生がそうであるように、複雑なことを複雑なまま提出しているのではないかと思える小説というのは、いったい、なんなのだろう・・と思わないではいられない。
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2008/11/13

シオドア・スタージョン『[ウィジェット]と[ワジェット]とボフ』  SF小説

シオドア・スタージョンの小説なのであるから、フツーのものではないのは当然で、いまさら驚くことでもないのかもしれないが、それでもやっぱりこの『[ウィジェット]と[ワジェット]とボフ』という小説はいったい、どうすればこのような小説がこの作家にかかると書けてしまうのだろう・・と驚くばかりの小説である。
自殺願望がある職安職員の男、映画スターに憧れる女、階級的偏見にとらわれた弁護士の男といった、それぞれ変な固定観念(もちろん本人は真剣に悩んでいるのだろうけど他人から見ると・・)にとらわれた人たちの群像劇であるこの作品は、映画で言うとちょっとロバート・アルトマンやポール・トーマス・アンダーソンの映画作品を思わせないでもない変な人々の群像ものであるのだけど、強引とも思えるぐらいのハッピーエンドへの志向など、トータルに考えると、アルトマンよりもさらに古典的なハリウッド映画のテイストの作品だと言えるのかもしれない。(実際、この小説は1955年に書かれたものである。)
と、ある種の映画との類似という点を指摘したのだけれども、しかしこの小説はやはり映画とは異なるものであり、「小説」としか言いようがないものだと思うのは、この小説が明らかに、文章自体の実験、さまざまな突飛な比喩的な書き方によって作品として成り立っていると思えるからで、もちろんこの小説にも壮大とも言えるような物語(ストーリー)があるわけだけど、しかし「物語(ストーリー)」自体が凄いというよりも、やはり文章それ自体が凄いから特異な小説として成り立っているのだとしか思えないところがあるのであり、このことはシオドア・スタージョンがやはりまぎれもなく小説家であるのだということを示していると言えるのではないのだろうか。
で、それではこれは「SF小説」なのか? 果たしてシオドア・スタージョンの小説はSFと言えるものなのか? ということだけど、まあ、これは単にジャンルとしての定義の問題だからどうでもいいと言えばどうでもいいことではあるわけだけど(SFであろうとなかろうととにかく面白いものは面白いわけだから)、依然として僕には答えようがないのだが、人間とはなんと支離滅裂で奇妙なものなんだろうか・・ということに驚くことこそがSFなんだ・・という風に言ってしまっていいのであるならば、スタージョンの小説はやはりSFであるととりあえず言ってしまってもいいのではないだろうかと思う。
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2007/4/12

ボコノンは言っている、「さよならを言っておけば、まず間違いはない」  SF小説

さよなら

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米作家のカート・ボネガット氏が死去
2007年04月12日13時21分 asahi.com
 カート・ボネガットさん(米作家、劇作家)は、11日のニューヨーク・タイムズ紙(電子版)によると、ニューヨーク市で死去、84歳。

 第2次大戦でドイツに派兵され、捕虜としてドレスデン大空襲を体験。これが69年の作品「スローターハウス5」につながり、時空を超えて存在する自身の分身を通じて大量殺戮(さつりく)を糾弾した同作品で米国を代表する作家の一人として不動の地位を得た。人間の親切への信を根底に、独特のユーモアで生きることの絶望や皮肉を描いた。
http://www.asahi.com/international/update/0412/TKY200704120173.html
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2006/1/10

スタージョン『きみの血を』  SF小説

『きみの血を』シオドア・スタージョン(ハヤカワ文庫)
ミステリー仕立てで読ませるが、展開が全く予測がつかないという程ではない。1961年に書かれた当時は斬新だったんだろうけど、今となっては話の発想自体はそれほど驚くべきものではないのかもしれない。
だが、これはまぎれもなくスタージョンにしか書けないだろう、異形のヴァンパイアもののラブストーリーの傑作だ。
異形と書いたが、この小説の主人公は、特殊な性癖をもつことを除けば、アメリカの田舎の片隅で生きてきたどこにでもいるような青年でしかない。父親がアルコール中毒で暴力をふるう貧しい家庭に生まれた子供の凡庸な少年時代、青年時代の回顧録でしかないように途中までは読める。が、あるアイデアにより凡庸な回顧録が異様な様相を見せはじめ、ひりひりとする程のラブストーリーであるかのようにさえ感じられ出すのだ。それも、「人間は自分自身に孤独になり、耐え切れずにちょっかいを出し、結婚し、そして二人して孤独になるのだ。」というこの小説の一節の通りの、どこまでも孤独なラブストーリーに。
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2005/9/28

ハインラインのSF小説について  SF小説

唐突に映画からSF小説へと話が飛ぶけれども、ハインラインなどはまぎれもなくアメリカ的な作家ではないだろうか。
ハインラインのSF小説は、『夏への扉』が示すようにストーリーテリングが優れているわけだけど、『夏への扉』を「大衆的な読みものとしてのストーリーテリングに優れた作品に過ぎない」と言ってしまうのだとすればそれは違うと思う。いや、「大衆的なストーリーテリングに優れた作品」であることはまさにその通りだと思うが、そんなものに「過ぎない」というならば間違いである。まさにそういうものとして、「技巧的な面白さ」に集約されているかのような小説だからこそハインラインの小説は優れているのだ。
『夏への扉』は、スーパーマンでもなんでもない1人の生活人でしかない主人公がコールドスリープ(冷凍睡眠)という技巧を使ってささやかな個人的な幸福を獲得するという慎ましやかな話に「過ぎない」。ここでのコールドスリープは話の手段として使われるものでしかない。たとえばクラークのSF小説のような哲学的思弁性とは無縁である。
ハインラインはまさに明朗なるアメリカ精神の作家なのだ。それこそイーストウッドのように。明朗なるアメリカ精神とは1人の生活人(市民)が自分の力で独立を、自由を、個人的な幸福を獲得していく精神のことであり、ハインラインの作品はその明朗さゆえに、時にはタカ派的主張の作品になったり(『宇宙の戦士』)、ヒッピー文化思想的な世界を描き実際にヒッピーの人達の聖典として読まれる作品になったり(『異星の客』)するのではないだろうか。
つまり、ハインラインのSFとは、生活色がきちんとあるものなのだ。ストーリーテーラーであるとは、ストーリーを具体的に面白く語る技術のことであり、それはすなわち生活の中で人間がいかに生きるかを描くことなのではないだろうか。それは、観念的、哲学的な理屈としての思想ではなく、具体的に生活の中で人間がどう生きて行くかを描くことであり、ハインラインのSFは空想の世界を描くものであるにもかかわらず生活世界を無視した空想を描いているわけではないのだと思う。だからこそ、ある意味で「思想性」はこえてしまっているのであり、『宇宙の戦士』のようなタカ派的な作品も、『異星の客』のようなヒッピー文化思想的な作品もともにこの作家ならではの作品として成立しているのではないだろうか。
この明朗なるアメリカ的と思える精神性が、まさに技巧的な小説以外の何物でもないという「SFでしかない小説」として血肉化されてあると言えるのかもしれない。ハインラインの小説からは宇宙に対する哲学的思考よりもむしろ生活人レベルの実感が感じられるのだ。

なお、ハインラインとはタイプはまるで異なる作家のように思え、ハインラインよりもだいぶ屈折している作家のように思えるけれども、スタージョンも生活色がある、やはりアメリカ的な作家なのだと思う。スタージョンの作品は、SFなのにもかかわらず、実在する人物をモデルにして描かれているという。やはり生活実感的なところから描かれているSF小説なのではないだろうか。
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2005/4/7

未来の文学  SF小説

国書刊行会から『未来の文学』(全5巻)というSFものが。
国書刊行会ってこういうのも出すんですね。

ジーン・ウルフ『ケルベロス第五の首』柳下毅一郎訳
イアン・ワトソン『エンベディング』山形浩生訳
トマス・M・ディッシュ『アジアの岸辺』若島正編
シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』大久保譲訳
R・A・ラファティ『宇宙舟歌』柳下毅一郎訳

http://www.kokusho.co.jp/kinkan/

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2005/4/6

SFベスト  SF小説

ついでに、好きなSF小説のベストを。

海外
「人間以上」(スタージョン)
「星からの帰還」(レム)
「さなぎ」(ウィンダム)
「武器製造業者」(ヴォークト)
「星の海に魂の帆をかけた女」(コードウェイナー・スミス)

日本
「白き日旅立てば不死」(荒巻義雄)

SFというより恋愛ものばかりかも?
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2005/3/30

再びスタージョンについて  SF小説

チラッとシオドア・スタージョンの『時間のかかる彫刻』(『スタージョンは健在なり』の再版)のことを書いたけど、これはたしか、スタージョンが4度目の結婚をしたときに続々、書いた短編をまとめたものだったでしょうか。
このスタージョンというSF作家は、女性とうまくいっている時は続々と作品を発表し、女性と別れ失恋するととたんにスランプになるという人だったと言います。(笑)
これは、スタージョンの小説というのは、SFで奇想天外な話のものばかりなのにもかかわらず、けっこう自伝的な要素が入っているものらしい(小説の登場人物と父親との関係とか、職業の話とかの面で)ということも関連ある問題なのかもしれません。
そもそもシオドア・スタージョンはジャンルとしてはSF作家とか幻想小説家に分類されるのだろうけど、SFなのかどうかは分からないけれども。どのジャンルにも属してなくてただ「スタージョンの小説」と言うしかないようなものかもしれません。
作家以外にも、船乗りをはじめ、様々な職業を転々とし、5度、結婚し、さらには『スタートレック』などのテレビの脚本や、他の作家のゴーストライターもやっているというすごすぎる経歴の人ですが、スタージョンの小説は奇想天外な話でも独特の生活感があり、テーマは「愛と孤独」とでも言うしかないようなものだったりします。
ネタバレしない範囲で、短編作品のプロットを例としてあげると以下のような具合です。こんな話をどうして次々、考え付き具体化させることが出来るのでしょうか。

「ビアンカの手」
白痴の少女の美しい手に魅せられた男が少女の家に下宿し、やがて結婚。少女に絞め殺されることを望むようになる。

「成熟」
胸腺機能亢進症の青年ロビン・イングリッシュは、さまざまな芸術と創造の才能を持つ天才だが、子供みたいに純粋で才能を金もうけに利用するところはない。しかし、美貌の女性医師がホルモン投与の治療を受けさせるために男性医師のところへ連れて行く。これで子供のようなロビンは、年齢なりに成熟するはずだった。ところが2人の医師に対する心理が変化していきー。

「三の法則」
地球にやってきたエネルギー生命体は、地球人と違い、3つでひとつのカップルとなることが正常だった。エネルギー生命体たちは、それぞれ地球人のなかに侵入し、 3つが1つになるよう誘導していく。

「墓読み」
喧嘩をして家を飛びだし見知らぬ男のスポーツカーで事故にあって死んでしまった妻。妻の墓に刻む文字はなかった。 ところが妻の墓を読ませてくれと声をかけてくる男がいた。男は文字ではなく墓そのものを読むことができるのだという。妻の生前の本心を知りたいと思った旦那は男の申し出を受け入れてー。

「海を失った男」
少年が、ヘリコプターの模型を持って、腕以外はすべて砂に埋もれてしまっている男のそばに来た。男はそれを追い払う。男は海のことを考えていた。

「不思議のひと触れ」
人魚とのデートのため、男は夜の海を泳いできた。待ち合わせ場所で、てっきり相手の人魚だと思い込み、言葉を交わし戯れあう。ところが、相手は人魚ではなく人間の女だった。 女は男の人魚と会いに来たのだという。互いの秘密を打ち明けた二人は共感を覚えて行く。

「影よ、影よ、影の国」
継母から虐待を受けているボビー。ガラスを割った罰としてボビーは部屋に閉じこめられた。おもちゃを全部取り上げられてしまったけれど、ボビーには影絵で遊ぶことができた。そこには影だけが住む別世界があったのだ。

「もうひとりのシーリア」
安アパートに住むスリムは、生まれつき他人の家に潜り込み、中に隠してあるようなものを見る癖があった。別に理由はない。ただ気持ちが落ち着くのだ。 ある日、特に特徴のない女性が同じアパートの上の階に越してきた。さっそく女性の留守中に部屋へ忍びこんだスリムだが、その部屋はまるで空き部屋のように人の住んでいる痕跡がなかった。

「裏庭の神様」
ケネスはどうしても嘘をついてしまう性分だった。結婚してまだ一年だというのに、ケネスの妻は嘘つきの夫に愛想が尽きはじめているようだった。 憂さを晴らすためにケネスは裏庭に蓮池を掘る。そして、自分を神様だという石像を掘り出してしまう。その石像が願いを叶えてくれると言うのだが、性格が悪い神様だった。

「タンディの物語」
四人兄弟の二番目の子供、長女のタンディは5歳にして知的才能を発揮していたが、ギョッとするような人真似をしたり、叫び声をあげたりして、他人を苛立たせる才能にも長けていた。 タンディは汚い人形のブラウニーのため、裏庭に家を造りはじめた。

「閉所愛好症」
クリスの弟ビリーは、クリスのやりたいこと、なりたいものをすべて実現してしまう。何か、面白いことを思い付いて始めてもいつも弟が取り上げて実現してしまう。ビリーは今、宇宙士官候補生となり、将来を約束されている。一方、クリスは実家で、内に籠もりがちの毎日だ。 久しぶりにビリーが帰省した日、クリスの家に新しい下宿人がやって来た。それは、腰が抜けるほどの美女だった。

「雷と薔薇」
様々な国から一気に原子爆弾などを投下され、アメリカは死に瀕していた。わずかな生き残りの人々で暮らすピートのいる基地でも外に出られず、未来もない状況に耐えられず、 精神を病み自殺する者が後を絶たない。
(ごく普通の設定のように思えるが、実は核戦争後の世界という設定で描いた初めての小説らしい。)

「孤独の円盤」
公園を歩いていたこれといって取り柄のない平凡な女に、円盤がまとわりついた。平凡な女が異世界に触れる。円盤は壊れ、回収された。しかし、女は円盤に語りかけられた内容を絶対に話そうとしなかった。
   
   
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2005/3/29

スタージョン  SF小説

創元SF文庫からシオドア・スタージョンの『時間のかかる彫刻』というのが出てたからあれっと思ったが、サンリオSF文庫で昔、出てた『スタージョンは健在なり』の再版でした。サンリオSF文庫ってマニアックですごかったですね。
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