2013/10/27  12:00 | 投稿者: min

 江戸末期に石川雲蝶という彫刻家がいた。
 石川雲蝶はもともと石川安兵衛という人物で、1814年に江戸に生まれ30代で新潟県三条市に移り住んだ。
 江戸にいた当時は天保の改革で倹約令が発せられ彫刻家としての仕事も十分ではなかった。
 雲蝶は酒や女好きともいわれ、三条の金物商に婿入りしたのだが、三条に来る際の誘い文句が「良い酒とノミを終生与える」というもので、それが越後入りを決めたそうだ。三条は古くから金物の町で良いノミなどが当時からあったのだろう。

 雲蝶は栃尾で創作活動を始め、三条を拠点に魚沼地方など県内各地に多くの彫刻を遺し、この越後で終焉を迎えた。

 雲蝶の作品は深い奥行きを持った物が多く、ノミを握れば彫の鬼と化したといわれ、その技術と才能は人々を魅了した。このため、雲蝶は後世「越後のミケランジェロ」と呼ばれている。

 雲蝶が彫刻を遺した魚沼の開山堂は「越後日光」の異名を持つほどで、今も鮮やかな色彩が保たれた彫刻は多くの拝観者をいざなっている。

 雲蝶は2014年で生誕200年になるということで、これを期に魚沼市では記念事業を行うこととしているようだ。

【秋葉三尺坊大権現】
 つい最近まで雲蝶のことはよく知らずその彫刻も観たことがなかったのだが、先々週、栃尾(長岡市)にある秋葉神社(秋葉三尺坊大権現)に雲蝶の彫刻があるというのでそこを訪れてみた。

 栃尾は上杉謙信が若い頃入城した栃尾城があったところであるが、その近くに秋葉神社がある。
 秋葉神社は、上杉謙信が門前和尚に建ててやった曹洞宗の寺「常安寺」のために寄進したのが始まりとされている。
 このため、今でも「常安寺」の管理となっている。

 秋葉神社には奥の院があり、その社殿には、雲蝶と小林源太郎が8年をかけて彫上げたという彫刻で社殿の外側が埋め尽くされている。社殿は保護のため鞘堂の中にあり、金網越しに観ることとなるがそれでも迫力は十分である。彫刻の内容は、烏天狗と牛若丸の戦い(いや牛若丸が天狗に稽古をつけてもらっている図かも)などである。
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【西福寺開山堂】
 翌日、魚沼市の西福寺開山堂に行ってみた。
 ここは拝観料を納める必要がある。
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(西福寺)

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(開山堂)

 開山堂の拝観時間は午後4時(11月以降は午後3時)までであったが、そこに着いたのが午後3時40分頃。残り時間がなかったので急いで開山堂へ入る。
 ちなみに中は残念ながら撮影禁止である。
 しかし、案内のCDを流しているので彫刻の素晴らしさがよくわかる。
 西福寺のホームページではパノラマムービーで彫刻を観ることができる。

 雲蝶はここの壮大な彫刻を5年ちょっとの期間で仕上げている。
 彫刻は、天井3間四方に彫られた「道元禅師猛虎調伏の図」を中心に「道元禅師物語」と称する欄間などが所狭しと彫られており、堂内の注意書きには、「寝ころばないでください。」などと書かれている。
 そう書かれると寝ころんで天井の彫刻を眺めてみたくなる。
 それぞれの彫刻はよくもここまでと思わせるほど深く彫りこまれ、遠近法を使ったものなど、奥行きのある作品が多い。
 ひととおり、CDによる案内を聞き終わると、拝観時間が終了の午後4時になり、やむを得ず外にでた。

 外には土産物屋があり、そこには地元の全国納豆品評会で最優秀賞を受賞したことのある大力納豆の「糀入味付納豆」と「辛味納豆」をセットにした「雲蝶納豆」が売られている。(値段はセットで500円位だったと思う)



【佛興寺】
 雲蝶のほとんどの作品が三条地域から魚沼地域にあるのだが、昨日、魚沼市が作成した石川雲蝶のパンフレットを手に入れ、それを眺めていたら、新潟市中央区神道寺の佛興寺にも雲蝶の作品があると紹介されていた。
 そこの拝観は事前連絡が必要とのことで、連絡してから訪ねてみた。
 佛興寺の雲蝶の彫刻はもともと佛興寺のために作られたものではなく、明治の新潟大火後に縁があって譲り受けたらしい。
 ここにある作品は開山堂などと違い晩年の作品であるとの説明を受けた。
 本堂内には「十六羅漢」の欄間彫刻や弟子の彫刻があるが、他の本堂に飾りつけなかった作品は5年程前に建設した「寺寶殿」に納めて保存してある。

 本堂は撮影してもよいとのことであったが、寺寶殿は撮影を遠慮してもらいたいとのことであった。

 寺寶殿は普段鍵をかけており、観覧希望者が来たときだけ鍵を開けてくれる。
 その中の代表作は一対の「千羽鶴」のようだが、同じく一対になった「手挟の竜」、さまざまな仙人を彫った蟇股(かえるまた)が14体ある。
 それぞれを近くでじっくり観たが、奥深くまで丁寧に彫られており、その技術は目を見張るものがある。
 特に、仙人を彫った蟇股は、その表情が生き生きとしていて、ちょっと離れてみると陰影がはっきりして一層立体感が増し違った感動を覚える。
 案内をしてくれた奥さまによれば、この寺寶殿は保存のために作ったとのことで、最近のように注目されるとは思わなかったそうであり、見せることを中心に考えていなかったようである。
 ここの雲蝶の作品は遠方から観に来る方もおられるようであるが基本的には少ないと思う。
 奥さまには、もっと観てもらた方がいいとお話をし、お礼を言って帰ってきた。
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 それにしても雲蝶の作品は素人の私にも観れば観るほどじわじわとその素晴らしさが伝わってくる。
 江戸時代には左甚五郎もいたが、個人的な感覚としては、雲蝶の方が断然素晴らしいと思う。
 ま、左甚五郎も謎が多いからなあ。
 素人だからそもそも良くわからないが。



http://www.city.uonuma.niigata.jp/kankou/view/uncho.html
http://www.city.uonuma.niigata.jp/kankou/view/pdf/uncho_guide.pdf
http://www.saifukuji-k.com/index.html
http://www2.niigata-kankou.or.jp/10sum/world/index.html
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2013/10/20  22:58 | 投稿者: min

津南町秋山郷入口に見玉不動尊という天台宗のお寺がある。
津南町は平家に由来するところが結構あるようであるが、ここもそのひとつだ。

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ちょっと前に聞いた講演の講師の方が訪れたことがある場所のようで、ドライブがてら訪ねてみた。
見玉不動尊は昔から眼病にご利益があると言われているようであるが、参道入口に金剛力士像のある仁王門がある。
その仁王に自分の悪いところをなでた紙を水に濡らして投げつけて、その紙が張り付くとその悪いところが治ると言われている。
したがって、その仁王の体には多くの紙が張り付いている。
一緒に行った人は何回も投げていたが、なかなかくっつかず、10回くらい挑戦してようやく張り付いていた。

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この仁王門をくぐって階段を上っていくと「延命水」という水が流れており、それをペットボトルで汲んで持ち帰った。
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その延命水の上には7段の滝が流れている。
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約70段の階段を登ると本堂がある。
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帰りに土産物屋に寄ったが、そこには「めぐすりの木」のお茶なども売っている。
土産屋のおばさまはなかなか愛想の良いかたであった。
土産物屋でめぐすりの木のお茶をご馳走になったが、苦味はあったがまずくない。
その近くにはめぐすりの木も生えている。
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津南町から十日町方向に移動して、笹山遺跡に寄った。
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笹山遺跡は、火焔型縄文土器が出土したところで、復元された竪穴式住居がある。
ここの土器は平成11年に国宝に指定されている。

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2013/10/20  22:02 | 投稿者: min

小千谷市川井の妙高寺に国宝愛染明王がある。


先日、何気なく近くを通りその案内看板を見てふらっとよってみた。
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愛染明王はそもそも恋愛、縁結び、家内安全等々のご利益がある仏様であるが、「染」という文字が入っているので、染織関係の方も信仰されているようである。
実際にご住職と話をしたら、見附の染織関係者の方もよくこられたとのこと。
ここの愛染明王坐像は昭和10年に国宝に指定されたようであり、どこに置かれているのかと探してみたが、見当たらず、聞いてみたら毎月26日に御開帳されているとのことであった。
私が寄った時は14日だから、当然見れるわけがないのだ。
また、26日に来てもらいたいと言われたが、なかなかその日に来るというのは難しいよなあ。
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妙高寺の外には大きなお地蔵さまがたっておられる。
手を合わせてその場をあとにした。
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2013/10/20  0:52 | 投稿者: min

新潟県には、栃尾市という市があった。
平成の大合併により、栃尾市は長岡市と合併した。
その昔、栃尾には上杉謙信(当時長尾景虎)が14歳のときに入城した栃尾城(舞鶴城)があった。
栃尾城は典型的な山城で鶴城山227.7mの山頂に本丸を構えた。

先日、そこに登ってきた。
城への道は2通りくらいあるようであるが、今回登ったのは多分あまりその方向からは登る人が少ない方ではないかと思う。
通常は諏訪神社裏から登るようであるが、見附市方面から小貫を通過して少し行った所にも登り口への道がある。
その道を入り1分くらい車で進むと登り口の駐車場がある。
登り口には案内板が設置されていた。
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そこからは結構きつい坂道であり、急いで登ると息切れをおこす。
早足で10分少々だろうか、ほどなく山頂に着く。
天地人のころは結構登った人も多いのだと思うが、その時は誰も山頂にはいなかった。
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本丸跡地は平で木もなく整備され、刈谷田川を中心に栃尾市街地が見渡せる。
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本丸付近には二の丸、少し離れて狼煙台、そのほか中の丸、松の丸、空濠などなどが存在した。
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山城をおりて秋葉公園に移動した。
秋葉公園には上杉謙信の像が建てられている。
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その公園内には、秋葉神社があり隣接して秋葉神社奥の院がある。
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奥の院は江戸末期の彫刻家石川雲蝶の彫刻が施されている。魚沼市の開山堂の彫刻の方が有名だがその話はまたにする。
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高台にある秋葉公園からの下に階段で下ると「常安寺」というお寺がある。
そこには上杉謙信ゆかりの品がいくつか収められている。
詳細は案内板のとおりである。
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ついでと言ってはなんだが、秋葉公園のから少々山を登ったところに栃尾美術館がある。
そこは有料だったから入らなかったが、その美術館の前には、「炉開き」という椿の仲間の木が植えられている。炉開きなんて名前初めて聞いたが、ヤブツバキと茶の木の自然交配によってできた木のようである。一説には栃尾市で発見されたとの話もある。
しかし、この時期に椿系の花が盛んに咲いているのはあまり見かけない。
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気になってその木の下にあった案内板に近寄って読んでみたら、「炉開きの周辺にはハチがいますので注意してください。」などと書いてあった。木をよく見たら、ほんとにたくさんのハチが群がっていて、自然と後ずさりした。
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2013/10/12  23:59 | 投稿者: min

 越後蒲原についての話を聞いてきた。
 以下はその話を交えて勝手に書いてみるので、事実と違う部分があると思う。

 新潟県には越後平野というか蒲原平野が広がっている。
 この平野は、信濃川、阿賀野川を中心とした川の氾濫により肥沃な大地が作られたが、その都度住民を悩ましてきた。
 阿賀野川、信濃川の下流域は低地が多く、昔から潟が多く、鳥屋野潟は海抜よりも2.5mも低い地域である。
 このため、鳥屋野潟の水は親松排水機場、鳥屋野排水機場から信濃川に汲み上げられている。

 この辺は、大昔は海のような場所で徐々に砂丘が発達し、河川からの土砂によって大地が形成された地域である。
 このため、多くの湿地や潟があり、この辺を治めていた新発田藩は江戸時代の初期には石高6万石とされていたが、実際の石高は2万石程度しかなかった。
 しかし、新田開発が進み1600年頃の石高と1700年頃の石高を比較すると約2倍に増えている。
 その後、新発田藩は1700年ころから財政が悪化した。1716年から行われた享保の改革では、町民資本による新田開発が許可され、新発田藩においても民間資本による開発が行われた。
 この頃の阿賀野川の河口は信濃川と合流していたが、流域の湛水をはけさせようと享保15年(1730年)に松ケ崎から直接の海に阿賀野川の水を流すための掘割が作られ、翌年の洪水によって阿賀野川の本流になってしまっている。
 これによって、阿賀野川周辺の地域の水はけが良くなり、潟が少なくなり地形も変化し、新田開発も進んだ。当時の新潟県内での石高推移をみると蒲原郡の石高増加率がダントツに高くなっているようだ。
 しかし、洪水の被害はかえって多くなっている。これは、新田開発で人口が増え、人口の増加に伴い山林が伐採により荒れたことが原因とのことだ。

 1830年代天保の飢饉が始まり数年間継続して冷害による凶作が生じた。しかし、新発田藩はこの頃公表5万石だが実際には32万石あったとのことで飢饉には強かったようだ。
 その逆に洪水には悩まされ、1757年に信濃川、阿賀野川地域を襲った洪水の記録によると、小阿賀野川付近の洪水ではその地域の領分が入り乱れていることによって、利権の衝突がおきて破堤による堤防の改修がはかどらないということがあったそうだ。

 亀田郷などは今でこそ、緑の美田が一面広がる地域であるが、ちょっと前までは田舟を使っての田植え、稲刈りが行われている地域である。
 その苦労は並大抵のものではなかっただろうと思う。

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