2013/11/30  12:39 | 投稿者: min

古町界隈をめぐってきた。
新潟は、古くから港町として栄えた。
開国時には、5開港として他とはちょっと遅れたが新潟が開港された。
新潟は港町として栄えたこともあって、古町界隈は古くからの老舗料亭などが多い。
しかし、今ではにぎわいの中心が新潟駅周辺に移りつつあり、古町界隈を通ると人も昔ほど多くない。

今回、その古町界隈をめぐってみた。
当日、新潟市のシティガイドさんにお願いして案内してもらった。
ちなみに、ガイド料は500円である。
西掘地下のローサのふれあい広場で待ち合わせそこからスタート
NEXT21の1階の江戸中期の新潟を描いた絵画をみる。これはあまり人の目に留まらないところにある。
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そのあと、鍋茶屋通りに向かう。
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鍋茶屋通りは車1台がやっと通れる程度の細い道である。鍋茶屋の前に行くと「壽」の暖簾がかかっている。鍋茶屋でも結婚式ができるらしいが、結婚式が行われる場合には、この暖簾がかかる。そんなに鍋茶屋で結婚式を行うことは多いとは思えないが、水曜日にも関わらず結婚式なんて珍しいことだと思う。
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鍋茶屋は弘化3年(1846年)創業で、当初はすっぽん料理から店を始めた。このため、入口両側の門灯は亀甲のような文様をあしらっている。
鍋茶屋は、新潟では超一流の老舗料亭であり、200畳の大広間もある。
われわれ庶民にはなかなか入れない場所である。
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昔、中学だったかの先生が、鍋茶屋の下足番の話をしていたことを思い出した。

鍋茶屋の入り口は鍋茶屋通りから古町通りに通じており、古町通りに出ると、そこには鍋茶屋の門がある。
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そこを通って古町通りに出て、八百重とさくら井化粧品に案内してもらった。

八百重の歴史も古く、明治初期創業らしい。お店の前には、昭和20年代に導入した当時珍しい巨大なレジスターが飾ってある。
以前伺ったはなしであるが、八百重では冬には焼き芋を売っているという
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さくら井化粧品は、古町芸妓御用達のお店である。
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一旦鍋茶屋通りに戻って「丸伊」、「慶」、「かき正」、「市山流宗家宅」、「美や古」、「有明」などを紹介してもらって、「六軒小路」へ
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「六軒小路」は東掘から西掘まで直線でつながる唯一の小路である。
家数が6軒だったことから六軒小路と呼ばれているらしい。
六軒小路を西掘方向に進み、途中「すず家」、「大丸」(大丸の屋根には厄除けの錘馗様の置物が飾られている。)に寄り道し、元の六軒小路にもどり西掘り方向に歩くと「金辰」がありその先が西掘となる。
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西掘りに出ると「三業会館」がある。
「三業」は最近まで意味を知らなかったのであるが、料亭、待合茶屋、芸者置屋で三業である。
三業会館の建物は、庇部分を三味線のバチに見立てているなど工夫がなされている。
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古町芸妓を抱える流都振興株式会社もこの中にあるらしい。流都振興の芸妓はここから料亭にお出かけするようである。
運が良ければ振袖さん、留袖さんが出かける姿を観れる。
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古町には昔400人とも500人ともいわれる芸者がいたようである。
港町としていかに栄えていたかが分かる。
ちなみに、流都振興の芸妓さんを呼ぶと1時間一人9150円のようである。
ただ、どこでもこの値段で来てくれるわけではない。

西掘には多くの寺がある。そのいくつかを紹介してもらった。
勝楽寺の敷地には明治にイギリス領事館があったらしい。
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勝楽寺には新潟に時刻を伝える「時の鐘」があった。
しかし、太平洋戦争の際に供出されなくなってしまった。
このほか、良寛の絵入りの歌碑もある。
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近所の真城院には「二十六夜」と書かれた塚がある。
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新潟は昔、長岡藩領であったが、明和5年(1768年)長岡藩から御用金が課せられ、苦しむ新潟町の町民が嘆願するも聞き入れられず新潟明和騒動がおきた。その責任を取らされた涌井藤四郎の慰霊のため作られたとされているのが「二十六夜塚」である。

東掘、西掘ともその名の通り昔は堀であった。
そのため、堀には橋が架けられたが、その橋は、そこに面している店等が自分でかけたという。
老舗ホテルイタリア軒の前にも橋があった。
今でも、イタリア軒では、西掘に面した街灯の下には、「イタリア橋」の名前が残されている。
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イタリア軒には別館「蛍」という割烹がある。
その前には、蕗谷虹児の花嫁人形の歌碑がある。蕗谷虹児は新潟に住んでいて、新潟の「小路」から、虹児とつけたのではないかとも言われている。
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ガイドはここで終了し、昼食を食べに行った。
場所は鍋茶屋の光琳であるが、光琳に行くなら、一緒に行きたいとガイドさんがおっしゃるので一緒に会食をした。

それにしても、古町界隈には古くからの料亭などが多く残っている。
改めて、このまますたれていくのはもったいないと考えさせられた。
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2013/11/17  0:03 | 投稿者: min

長岡に金峯神社という神社がある。
金峯神社では毎年7月15日に流鏑馬が行われる。
今年、7月14日に金峯神社に行ってきた。
たまたま、流鏑馬の前日ということで、宵宮祭がおこなわれていた。
もともとこの神社は蔵王権現と呼ばれており、神社には毘沙門天が中央に祀られており、両隣りには蔵王権現像がにらみを利かせている。
また、ここは戦国時代から蔵王堂城があったところで、近辺の方は蔵王さまと呼んでいるらしい。
長尾景晴が当初蔵王堂城に居城していたが、上杉家が会津へ移封されたのち、堀家が治めることとなる。元和2年(1616年)堀直寄が藩主となるが、信濃川に近いこの城は川に浸食されるため、堀直寄は長岡の地に城を移すこととする。計画は着々と進んだが堀直寄は村上へ国替えになった。そのあとを引き継いだのは牧野の殿様である。
蔵王から移った長岡城本丸は今はJR長岡駅になっている。ちなみに二の丸は現在アオーレ長岡になっている。
昔を知っている人には、アオーレ長岡より厚生会館と言ったほうがよいかな。
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毘沙門天と蔵王権現

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堀直寄の像
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アオーレ長岡にある石碑
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アオーレ長岡の入り口付近には長岡(城)の歴史を木片に記載して年表にしてある。
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2013/11/9  14:12 | 投稿者: min

先週の話
久しぶりに奥只見まで足を運んだ。
奥只見湖の遊覧船には乗ったことがないし、奥只見では紅葉もややピークを過ぎようとするころであり、今年最後のチャンスと覚悟を決めて、雨の降りしきる中出かけてみた。
あいにくの天候だが、途中のトンネルで多くの観光バスに行き交う。
現地に到着すると多くの観光客が紅葉目当てに訪れている。

当初、銀山平から奥只見ダムまで往復しようと考えたが、天候を考慮し、奥只見湖からの遊覧船乗車に変更した。遊覧時間は約30分、料金は800円である。
周囲の山々はすっかり紅葉し、素晴らしい景観である。
奥只見に向かう途中、山の下の方でも紅葉を観ることができたがその紅葉とは、見栄えが全く違う。
残念ながら、もみじの真っ赤な紅葉はほとんどなかったが、散ってしまったのだろうか。

昭和36年に完成した奥只見湖は、湖面を福島県と新潟県をまたいでいる人口湖で、阿賀野川水系にあり日本最大級を誇る。
周辺は日本100名山にも選ばれている名山が連なり、遊覧船は尾瀬への昇り口にも通じている。

奥只見湖は銀山湖ともいわれる。
奥只見湖のほとりにある銀山平は今はキャンプ場などとして利用されているが、江戸時代には銀が発見され鉱山として発展した。
しかし、江戸末期には完全に閉山した。
また、奥只見湖の完成に伴って銀山は湖底に沈んだ。

奥只見に通じる奥只見シルバーラインは奥只見ダムの建設工事用道路として建設され、昭和32年に完成したものであるが、昭和42年に一般の通行もできるようになった。
以前は有料道路であったが、昭和52年から無料になったのだそうだ。
この道路はほとんどがトンネルであり、古いトンネルであるので幅高さもさほど広くない。最近は観光バスも大型化され、トンネル内ですれ違う時は、いちいち片方のバスが停止して慎重にすれ違っており、途中で何かあったらどうしようかと不安になる。
ちなみに、奥只見シルバーラインのシルバーはもともと銀山の銀に由来しているらしい。

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2013/11/9  13:36 | 投稿者: min


【本成寺】
先週、土曜日に三条市の本成寺に行った。
本成寺は、法華宗陣門流の総本山である。
毎年2月3日に行われる「鬼踊り」はいつもその様子が地元テレビ局のニュースで放送される。
本成寺自体は前から知っており、近くはしょっちゅう通るが、境内に入ったのは初めてである。
さすが総本山というだけあってかなり広い敷地に大きい本堂がある。
本堂のほかに客殿・鐘楼・宝塔・千仏堂、俗に赤門と呼ばれる三門(山門)などがあり、その周囲には10程度の関連寺院がある。

本成寺には石川雲蝶の彫刻が多くあり、雲蝶の墓もあるという。
本堂には雲蝶の彫刻が飾られているようであるが、入るには寺務所の許可がいる。
外にある彫刻を眺め、帰ることとした。

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【石動神社】
本成寺を後にして、同じ三条市(旧栄町)にある石動神社を目指した。
ここにも石川雲蝶の彫刻があるのだ。
ナビで目的地にたどりついたが、肝心の神社が見当たらない。
ほどなく鳥居を見つけ、その先をみると階段が。
「この先に石動神社があるのか」と見上げるも階段しか見えない。
約500段の階段を登るとようやく神社にたどりつく。
最初は駆け足で昇るも、途中からは一段一段踏みしめてのぼり、登りきった頃にはぐったりである。
標高を調べたら102mあるようだ。
石動神社は「吉野屋の権現様」ともいわれ、歴史は古く医薬の神様として信仰を仰いでいる。
明治元年に拝殿が焼失し、再建に合わせて晩年の雲蝶が彫刻を施している。
拝殿には「向拝の竜」があるが、当初竜の頭が右を向いており、夜な夜な水を飲みに里に下りてきて村人を困らせた。そのことを雲蝶に相談し、竜の頭を左向きに付け替えられ、それ以降竜はおとなしくなったと伝えられている。
拝殿の中には自由に入ることができ、雲蝶の欄間なども見ることができた。

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【永林寺】
翌日、魚沼市の「永林寺」に行ってみた。
雲蝶はそこに13年間住み活動を行った。
永林寺には100点を超える彫刻が残されている。
同じ魚沼市の「開山堂」に勝る素晴らしさである。
ここに彫刻を遺すにあたって、永林寺の弁成和尚が雲蝶に賭博を仕掛け、雲蝶が勝ったら金銭の支払い、弁成和尚が勝ったら永林寺に手間暇を惜しまず彫刻などを製作するという賭けを行った。
賭けに負けた雲蝶は彫刻、絵画を数多く残したのだそうだ。
彫刻は深彫のものと浅彫のものがあり、その数と深彫の素晴らしさには圧倒される。
ここは是非一度訪れたほうがいい。その価値のあるところだ。
それにしても、一回のかけで、ここに13年も滞在させた弁成和尚もしたたかだと思うが、雲蝶も居心地がよかったのだろう。


雲蝶の魅力を再認識した2日間であった。

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