2014/7/27  9:55 | 投稿者: min

歴史も詳しくないが身近なところで爪跡が残る戦いがあるので勉強不足ではあるが、本で読んだことなどを参考に北越戊辰戦争について書くことにする。
今回は、小千谷談判を中心としたことについて。
割愛して書くつもりであるが少々長くなるかもしれない。


今から140数年前の慶応4年、薩長を中心とした新政府軍により引き起こされた戊辰戦争があった。
新政府軍への恭順を求める戊辰戦争は、東北諸藩にもおよび新潟においても北越戊辰戦争と呼ばれる激戦が繰り広げられた。

朝敵の汚名をきせられた会津藩はすでに新政府軍との戦いに臨んでおり、新潟に領地をもっていた会津藩はこの新潟でも戦っていた。

当時の長岡藩家老河井継之助は、新政府に対して、今は国内で戦っている場合ではないなどとの考えの下、小千谷の慈眼寺に嘆願書を持参し、土佐藩士で新政府軍軍艦岩村精一郎(高俊)との会談に臨んだが、当時24歳の若き岩村は河井の嘆願を一蹴した。

岩村は、無能と呼ばれているが、融通が利かないと言った方が良いかもしれない。
河井の交渉の相手が岩村でなかったとしても、武装中立を目指す河井継之助の願いが届かなかったはずとの意見も多いと思うが、少なくとも少しは展開が変わったかもしれない。

岩村では自分達の意見を理解できないと悟った河井は、もっと話のわかる者に嘆願書を読んでほしかった。
山縣有朋は岩村に河井を小千谷に留め置くように柏崎から会談当日に指示を出したといわれているが、その指示は会談には間に合わなかった。
会談は30分程度で終わったといわれるが、あきらめきれない河井は小千谷の料亭「東忠」に寄り、その後敵本陣付近をうろうろし再度の会談を申し入れるが聞き入れられず旅館「野七」で泊まって長岡に戻ったという。
その間、同行したのは二見虎三郎と家僕の松蔵だといわれている。


河井継之助は慶応4年4月に軍事総督に就任していた。
小千谷会談(談判)は5月2日の出来事である。
慈眼寺での談判は実を結ぶことなく、河井継之助の判断により長岡藩は新政府軍との戦いを決意する。
長岡藩にも戦いを避け、恭順を唱える者もいたが、河井の決意は揺らがなかった。
摂田屋の長岡藩本陣に戻った河井は三島億二郎から戦いは避けるべきとの進言を受けるが、
河井はその意見を通すなら、「敵軍に3万両と自分(河井)の首を切って差し出せ」と三島に申し渡す。それだけ、戦いを避けることは難しこととなっていたのだろう。
それを聞いた三島は河井の決意に従わざるを得ず、生死を共にすることを誓う。

この直後、長岡藩は奥羽列藩同盟に加盟し、新発田藩等の諸藩が加わり奥羽越列藩同盟となる。
(もともと恭順派の多かった新発田藩はその後、新政府軍に寝返ることになる。また、北越戊辰戦争において「今町の戦い」という有名な戦いがあるが、今町はもともと新発田藩が新田開発した土地で新発田藩領であった。)

ちなみに、長岡藩は小千谷談判の前に戦いの意思がないことを示すため長岡藩の藩境「榎峠」から一旦兵を引いているが、岩村精一郎にはその意味が伝わらなかったようである。
5月10日、長岡藩はその榎峠を奪還するために第一歩を踏み出し、そこから激しい戦いが始まった。5月11日には榎峠に近い朝日山を占領し、5月13日には新政府軍参謀時山直八が朝日山で戦死している。その際、時山の遺骸は持ち帰ることが出来ず、首のみを切り落として持ち帰られたとのことである。
(機会があれば榎峠、朝日山に行ってみようかとも思う)

5月19日には、小千谷とは別の新政府軍部隊(長州藩軍艦三好軍太郎ら)が増水した信濃川を渡河し長岡市中島付近に上陸、小千谷方面に陣取っていた長岡藩は長岡城付近が手薄となっており、奇襲攻撃を受けた長岡城はあっけなく落城した。
ちなみに、長岡藩も小千谷方面信濃川上流において渡河を決行しようと作戦を練っていたが、1日違いで先を越された格好となる。

長岡藩は長岡城落城に伴い、城に火を放ち、旧栃尾市の葎谷(むぐらだに)まで兵を引き体制を整え長岡城奪還への道へ進む。



わずか140数年前の話であるが、日本国内の身近なところでこのような激しい戦いがあったことは普段は忘れられている。
この当時の諸藩は実戦から遠のいており、武士の気概も薄れていたのではないかとも思う。
それに対して、河井継之助は戦国武将の戦いに興味を持っていたようであり、九州までの塵壺の旅でも兵器武装に興味があったことがわかる。

そんな状況の中、長岡藩河井継之助は軍備の洋式化を推し進め、その兵力を後ろ盾に小千谷談判に臨んだ。しかし、若い岩村ではそんなことは認識していなかったようである。また、小千谷談判前には、会津藩兵が長岡藩の五間梯子の藩旗を戦線に放置し、長岡藩が抵抗の意思があると偽装したとの話もある。

北越戊辰戦争は止められなかったのだろうか。
河井継之助は本当に止められると思ったのだろうか。



この小千谷談判の舞台となった慈眼寺や東忠は平成16年の中越大震災の際、建物に大きな被害を受け、存続を危ぶまれた。
慈眼寺に行くと、小千谷談判の様子が音声で解説されるとともに、中越大震災の被害時の住職の心境も流されている。しかし、慈眼寺も東忠も何とか復興し存続している。

慈眼寺には2回訪れたが、「会見の間」は今も当時の様子を残しており、床柱には「己欲達先達人」という河井の師山田方谷の書が掲げられている。
慈眼寺には立派な山門があり、これも中越地震の際に被害を受けた。

慈眼寺付近には船岡山があり、そこには船岡公園がある。
船岡公園には、戊辰戦争で戦死した薩長藩士などの墓が建てられている。
前に船岡公園に行ったがその際に写真を撮ったような気もするが、なくしてしまったようである。


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慈眼寺 会見の間


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山田方谷の書


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慈眼寺 山門


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案内板
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2014/7/21  22:52 | 投稿者: min

「人間って雑食動物なのかねえ。」
「そりや雑食動物に決まっているじゃないか。最近は飽食動物なんてこともいわれているがなあ。」
「そうか、やっぱり肉を食べ、草を食べるから雑食なんだよなあ。」
「なんでそんな決まりきったことを聞いているんだい。」
「いやねえ。俺も肉を食うが、動物を殺すなんて野蛮だなあと思うんだよ。雑食ってことは肉食であり、草食であるんだよな。つまり肉食の本能があるなら、動物を殺すことはかわいそうなんて感情は必要ないんじゃないかと思ってねえ。」
「確かに動物を殺すなんてのはかわいそうな気もするが、われわれが生きていくうえでは必要なんじやないのか。」
「理屈ではわかるんだけどねえ。やっぱり動物を殺すなんてそう簡単にはできないなあ。」
「俺も動物をやたらに殺すなんてのは反対だが、われわれの知らないところで多くの家畜などの動物が殺され、最終的に食卓に上っているよな。」
「そうなんだよね。そもそも、その殺される現場に今の子供たちは立ち会っていないし、そういった教育も大切なんじゃないかなあ。」
「そうか。大昔人間は狩りをして動物をしとめ、それを子供たちも身近なところで学んでいただろうし、数十年前までは、農家では鶏や豚をごく普通に飼っていて、鶏なんかは自宅で絞めていたからそういった環境で育った子供は理解できただろうけど、今の子供はそんな経験がないし、そのまま大人になっているからなかなか理解できないかもしれないねえ。」
「俺もその理解できない大人の一人かもしれないよ。どうも動物を殺すのは嫌いでねえ。そのくせ肉を食うから、昔この矛盾に苦しんで、菜食主義者になろうと良く思ったよ。結局、実現していないけどね。」
「今流行の言葉で言えば、草食系男子ってことか。ちょっと意味が違うけど。」
「ま、そんなところだね。」
「そもそも、肉食動物ってのは生きるために他の動物を殺す必要があるから”かわいそう”なんて感情をいちいち持ってられないし、人間が”かわいそう”なんて感情を持っているのは、もともとは草食動物だったからなのかねえ。」
「いや、肉食動物だって仲間は殺さないし、種の保存のために仲間の命は守るから”かわいそう”という感覚がまったく無いわけではないと思うよ。ただ、生きるためには犠牲が必要なだけじゃないのかねえ。」
「そうか、人間より肉食動物の方が命を大切にしているかもしれないね。」


人間は良くわからない動物である。
犬や猫を飼ってかわいがる。一方では、牛、豚などを家畜として飼い、食料としている。犬や猫だって昔の人は食べたことがあるなんてことをたまに聞く。
教育現場では、動物の飼育などを行い、生き物をいたわらなければならないという精神を教えるが、家畜は屠殺されるものということを十分に教えていないように思う。
何が正しいのか良くわからないが、テレビではおいしい肉料理についてはしょっちゅう放送しているが、その料理を食べている人に牛を殺せといっても当然ながらやれない。
人間が肉を食べて生きていくのなら、そういった経験を一度は体験させた方がいいのかもしれないなあ。


先日、「夢は牛のお医者さん」というローカルテレビ局が製作したドキュメンタリー映画を鑑賞した。
この映画のすばらしさは、いろいろなところで語られていると思うし、私ごときが評論するような立場でもないので、あまり細かいことは書かないでおくが、物語は廃校寸前の山間の小学校に3頭の牛が入学し、その牛を子供たちに飼育をさせるところから始まる。
その際に子供たちに「牛が成長したら出荷する」ことをあらかじめ約束した上で飼育をさせる。ここがすばらしいことだと思う。

それを承知して子供たちは飼育をするが、牛の成長とともに体重が増え、約束の体重にどんどん近付くと同時に別れも近づいてくる。
子供たちにとって当初から別れの日がくることは分かっていたことではあるが、別れはつらい。
その飼育にかかわった小学校3年生の女の子の主人公が獣医になる夢を持つ。取材した報道記者はその夢はいずれ変わると思っていたが、数年経って確認したところ変わっておらずまだ獣医を目指していたことに驚く。そして猛勉強の末ついに獣医になる。その努力には頭が下がる。

主人公はその成長過程で家畜の命の価値に向き合うこととなる。小学生のころ、かわいがって育てた牛が手元を離れた際に涙したが、その涙は単に牛との別れがつらいという一心だっただろう。

しかし、獣医を目指すという過程で彼女は自分自身が持つ家畜というものの命に対する価値観を変えざるを得ない。家畜は最終的にはペットと違い経済活動のために飼うのであり、最終的な価値というか、売値以上の治療費はかけられない。単に命を大切にするというだけでは、家畜経営は成り立たないのだ。
その現実を理解しながら獣医としての活動を行わなければならない。単に動物好きなだけでは家畜の獣医にはなれないのである。
子供のころの動物好きから獣医となって動物と経営者に向き合う様子の変化からは、彼女の成長が良く分かる。

私がいうのもおこがましいが、この映画を見る人の多くは、彼女の夢を追い続け、その夢を成し遂げる“心”に感動するだろう。
できればもっと若いときこの映画を見て、その夢を追いかける姿を見たかったものである。

この映画は、TeNY(テレビ新潟放送網)の報道記者時田美昭氏が結果として26年間主人公を追っかけることとなり、その結果完成した実在のドラマであり、その時田氏が監督を務めている。

地方の放送局が全国に電波を届けることはできない。東日本大震災をきっかけに多くの人を勇気付けたいという思いから、このドキュメンタリーの映画化という企画がスタ一トした。しかし、ここにも採算という壁があったようだ。
今、徐々に全国への上映の輪が広がっている。この夏の時期にもいくつかの市民映画館などで上映が行われるだろう。


この映画がより多くの若者に見られることを願う。
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