2014/9/21  0:57 | 投稿者: min

最近の写真の一部をいつでもみられるようにここにちょっとコピー

最近といっても数か月前のものもあるけど。

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鳥専門店「せきとり」

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下町の電柱
今では珍しい木製の柱

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白根の大凧合戦裏方

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只見町のヒメサユリ

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西川水路橋(トラス橋)
下を流れる人工の川、新川と立体交差している。
昔はこの川が船運に使われていたとはねえ。
今の構造では考えられません。
それにしても、新川を西川の下に通した昔の人は偉い。


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護衛艦「はまぎり」艦上にて


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会津飯盛山の石碑

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飯盛山から鶴ヶ城を望む
ズームで撮ったから結構大きく見えるが、実際はかなり小さい。

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鶴ヶ城(会津若松城)

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会津天寧寺裏山にある近藤勇の墓
結構山の上にあって思ったより大変だった。

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西郷頼母邸の址

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中野竹子の奮戦の地にある像

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法界寺の中野竹子の墓

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中野竹子の辞世の句が刻まれた石碑
武士(もののふ)の猛き心にくらぶれば数にも入らぬ我が身ながらも


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長岡市摂田屋にて
実は摂田屋にはまともに行ったことがなかった。

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サフラン酒造の鏝(こて)絵
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「越のむらさき」の醤油樽

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三国街道に面する酒造会社吉乃川の瓢(ひさご)亭入り口
この案内表示には「殿様街道」と書いてある。
左が「至る江戸」なんて、いいねえ。

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酒蔵資料館「瓢(ひさご)亭」
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試飲用のお酒
全部飲ませてくれる。説明も丁寧にしてくれた。

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摂田屋内にある道標

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戊辰戦争時の長岡藩本陣「光福寺」入り口

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光福寺本堂


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新潟白山神社の地下道
知る人ぞ知る白山神社の地下道

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中川立庵碑の吉田松陰の漢詩

白山神社に吉田松陰ゆかりの碑があることは前から知っていて、過去に2、3回探したが見つからず、調べてみたら地下道があるとのこと。
地下道というのも見覚えがなかった。

社務所の人に聞いたら地下通路は鳥居のところにあるというので行ってみると、本殿、いや拝殿の隣に堂々と地下通路があるではないか。
人の目っていい加減なものだなあ。

その地下通路を抜けるといくつかの社があり、吉田松陰の漢詩が書かれた碑もあるのです。
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2014/9/3  21:52 | 投稿者: min

北越戊辰戦争の話の続き
(今回はだらだら長くなるのであしからず)

慶応4年(1868年)5月19日の長岡城落城のあと葎谷で体制を整えた長岡藩は、会津藩、米沢藩とともに5月21日加茂に陣をとり、長岡城奪還を狙っていた。
ちなみに、藩主牧野忠訓は5月19日の落城の時点で会津に落ちのびている。

その後、
5月22日、23日に加茂で同盟軍が軍議を行い作戦を決定
5月24日、同盟軍による反撃を開始。杉沢の戦い(見附市)
5月26日、小栗山の戦い(見附市)
6月1日、赤坂峠の戦い(三条市旧下田村)
6月2日、今町の戦い。(見附市)今町を占領された新政府軍は戦線を後退
6月4日、同盟軍は見附に入る。
6月8日、森立峠の戦い(長岡市)
6月14日、福井、大黒、亀崎の戦い(長岡市)
6月22日、福島の戦い(長岡市。この戦いでも八丁沖を渡る)
などの河井継之助総指揮のもと一進一退の戦い、にらみ合いを2か月以上にわたって行っている。

当時、長岡市の東「東山丘陵」から伸びた両陣営の戦線は八丁沖を囲むように引かれており、大黒(新政府軍前線)と福井(同盟軍前線)などは大きな声で叫べば十分に聞こえる距離だったと思う。
(新組村と八丁沖について・・・ここから・・・)
明治22年、町村制施行に伴い、今の長岡市の見附市との境に新組村という村が出来た。
新組村は福井、大黒、福島などを有し、今は長岡市に編入されている。
新組村の福井あたりからから長岡駅方面に向けては八町潟とも八丁沖(八町沖)ともいわれる東西南北数キロにわたる沼地があった。
今は八町潟排水機場の整備により、その一帯は美田と化している。
(・・・ここまで・・・)

長岡藩は1里近くにもわたる八丁沖の沼地を横断する奇襲作戦を決行する。

7月24日、長岡藩兵600人余りは秘かに福井の隣、百束付近から八丁沖を侵攻
7月25日未明、八丁沖を渡りきり富島に上陸。同盟軍の奇襲攻撃により、新政府軍は翻弄させられ、同盟軍はおおむね2手に分かれて進み長岡城を奪還。新政府軍は関原本陣などに撤退することとなる。

新政府軍侵攻による長岡藩落城時には長岡藩自らが城に火を放ち、市中に火をつけ撤退したが、奪還時にも火を放ちながら進軍した。
人々は焼け出され、流れ弾に当たり負傷する人もいた。
これらが河井継之助を長岡の町民が恨む原因であろう。

それでも長岡城奪還時には長岡の町民は長岡城下が昔のように戻ると喜び、大手通りには酒樽を出しお祭り騒ぎだったという。
長岡城奪還の直後、新町口を視察した河井継之助は左膝に流れ弾を受け負傷する。これによって長岡藩は指揮官を失ってしまう。

そもそも、長岡藩は長期戦をにらんでいた。
この越後の戦いは、雪の降る冬まで持たせれば同盟軍に勝機がくると河井継之助は考えていた。しかし指揮官を失った長岡藩は、新政府軍の増援などによる兵力に持ちこたえられなかった。

この後、7月29日には、新政府軍の巻き返しにより再度落城し長岡藩士とその家族は会津に落ちのびることとなる。


【赤坂峠古戦場】
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赤坂峠は旧下田村(三条市)から見附市杉沢方面に続く峠である。
この峠の頂上付近の松の山峰で新政府軍と同盟軍(村松藩、米沢藩、会津藩など)の激戦が行われた。

【小栗山不動院】
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この先にある観音堂の裏山が小栗山の戦いの戦場だったのだそうで、ここには山縣有朋の歌碑が移設されているのだそうだが、この時はそこまで調べていなかったので確認できていない。

【大黒古戦場にある「北越戊辰戦争伝承館」】
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この付近は新政府軍の前線基地で幾度も同盟軍との戦いがあった。
当時、あちこちに鉄砲の弾が散乱し、農民が拾ったものを買い取って鋳造しなおすということが行われていた。
数十年前までは、畑仕事をしていると鉄砲の弾などが見つかることがあるというのを聞いていたので、この伝承館の方にそれを聞いてみたら、数十年どころか、最近も見つかっているとのことである。
自分でもこの周辺を探してみたが、当然そう簡単には見つからなかった。

(ちょっと伝承館の資料を紹介)
【袖章】
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長州藩士の袖章
当時、敵の首を切り落としていられないので、打ち取った相手の袖章を奪い取っていたとのことで、それが保管されていたもの。

【後の総理大臣、西園寺公望の書状】
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新政府軍の西園寺公望の書、7月25日の書簡で長岡城を奪還された後に支援を求める要請文書だろう。

【岩村精一郎の書状箱】
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【戊辰戦跡記念碑】
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山本五十六が揮毫した記念碑がこの大黒古戦場にある。
昭和12年に建てられたこの碑は、山本五十六が中将時代のものである。
これと同じ書体の戊辰戦跡記念碑が朝日山古戦場にもある。
字体からして、朝日山の碑の字はここのものの複製だろうという意見もあるようである。


【西照寺の加賀藩士の墓】
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大黒古戦場からほど近い長岡市福井町にある西照寺には、加賀藩士の墓がある。
もともとこの加賀藩士の墓は、近くの押切にあったのだが、最近この寺に移設されている。前述のとおり、大黒古戦場付近は新政府軍の前線、福井にあるこの寺は、同盟軍の前線陣地となっている。寺の住職とお話することが出来たので伺ってみると、ここは会津藩がいたとのことであった。しかし、そのほか米沢藩などもいたのではなかろうか。

米沢藩の士気は高かったが、兵力は旧式であった。それでも、上杉家祖先が越後を治めていたことから、懐かしき越後にあわよくば戻れるかもしれないという期待があったのだろう。

この西照寺も戊辰戦争の際に他の家と同様、焼き討ちされたそうだ。
御住職が、寺の中のコレクションを見せてくれるというので案内をしてもらった。先代の住職が集めたものだとおっしゃっており、たまに美術館などに貸し出すのだ。現物は気軽に写真を撮らせてくれたが、すべて私有物だと思うのでここに載せるのは止めておく。
見せてくれた品物は、
「火縄銃」、「長岡藩家紋(牧野柏(丸に三柏))の入った弾入れ」、「木に突き刺さった弾丸」(これは、「はさぎ」を薪にしようと割ったところ出てきたもの)、「長岡藩藩旗五間梯子の印の入った裃」、「長岡藩家紋の入った陣傘」、「陣羽織」、「弾薬所の焼印の押された長持位の大きさの木箱」
などなどであった。


【西照寺の明治戊辰戦遺蹟碑】
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この辺は台場もあり、そこにも小さな碑があるようだが、そこにはいかなかった。


【八丁沖】
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北越戊辰戦争伝承館の2階からは今は美田と化した八丁沖が見渡せる。
一見してまっ平らに見えるが低いところは1メートル位下がっているのだそうだ。
大雨が降ると昔の姿を見せるという。

八丁沖は八町潟ともいわれているが、江戸時代の地図には八町沼と書かれている。
伝承館の方にお聞きすると、大黒地域(新組地域)では「八町」、潟を越えた向こう側の人は「八丁」といっていたようだとのことである。
八丁沖は、よく魔物が棲むといわれ、底なし沼のようなこともいわれるが、実際には50センチ位のところが多かったようである。やはり、司馬遼太郎の影響が大きいようだ。しかし、天候によっては深さ広さは増しただろう。
道案内に抜擢された鬼頭熊次郎は普段この沼での漁を生活の糧としており、ここを同盟軍が渡るにあたって、数日前から借り出された農民とともに道を作ったようである。
しかし、戦後の生き残りの藩士は、戊辰戦争でなにが一番つらかったかを聞かれた際、八丁沖を死に物狂いで渡り、これが一番大変だったと語っている。

実際にこの沼地を渡るときは、月明かりが時折さして、そのたびに気付かれないよう身を伏せたようである。

八丁沖を渡るのは7月24日が最初ではなく、その前の福島の戦いでも八丁沖西側を渡って攻撃している。その時は総攻撃ではなく、新政府軍(薩摩藩?)の反撃に合い退却している。

そういえば、新政府軍もこの地でのこう着状態に決着をつけるべく、総攻撃を画策しており、今回は同盟軍に先を越された格好となる。(長岡城落城の際は新政府軍に先を越されている)このため、新政府軍の中には、八丁沖渡河を契機とした総攻撃の砲撃の音に自軍の総攻撃が始まったと勘違いした者もいたらしく、勇ましく戦いに挑んだが、勘違いに気付き、あわてて退却した者もいたらしい。

【10年前の7.13水害の際の八町潟】
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美田が水害により八町潟を再現している状況

【八町潟排水機場】
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この写真では非常に分かりにくいが、正面に見える建物が八町潟排水機場である。
草に隠れて見えないが、建物の手前には川が流れていて、そこに旧八町潟の水を排出している。この排水機場は、写真で言うと左側が旧八町潟のある地域で、川をまたいで排水機場が建てられている。このため、旧八町潟の排水はサイフォン式に川の下を流れ、対岸の排水機場から川に流しているのだそうだ。

【梯子橋と八丁沖橋】
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今は八丁沖を渡る農道が整備されている。この農道は八丁沖渡河作戦の道筋と近い。
その八丁沖の農道を渡るには「梯子橋」と「八丁沖橋」を渡る必要がある。
それぞれの橋には、長岡藩の河井継之助などの勇士の姿が刻まれている。

【栃尾城とその狼煙台詰郭】
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この栃尾城(鶴城山)の狼煙は長岡から見えたようだ

この古城栃尾城の狼煙台が長岡藩の八丁沖を起点とした長岡城奪還作戦決行の合図の打ち上げに使われた。
このほかに、榎峠も狼煙を上げる場所となった。
(ちなみに、この榎峠は小千谷で戦ったあの榎峠とは違い、長岡から旧栃尾に抜ける峠である。)

【八丁沖からの上陸地の富島にある日光社】
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【日光社にある鬼頭熊次郎の碑】
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鬼頭熊次郎は八丁沖から富島に上陸直後、新政府軍の銃撃を壮絶な死を遂げた。
ここ、日光社には彼の碑が建立されている。

【日光社にある中川文蔵の碑】
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長岡藩士中川文蔵もここで倒れたが、遺族が50回忌を記念して建立した碑


ちなみに、新発田藩も当初は、同盟軍に加盟しこの長岡城奪還のためも作戦にも参加していたが、この作戦のさなか新政府軍に寝返った新発田藩は新政府軍を新潟の大夫浜へ上陸させている。
しかし、長岡で戦った多くの新発田藩兵はそんなこととは知らず、新政府軍と戦っていた。長岡藩は八丁沖を渡河したあと、新発田藩兵が後を追って長岡に来ることを期待していた。なかなか、新発田藩兵は長岡に攻め入って来なかったため、長岡藩は新発田藩に半信半疑であった。
しかし、藩が寝返ったことを知らない新発田藩士は遅れはしたが長岡城下に入って当面の疑いを晴らした。

当時の藩は長き江戸時代の平穏にどっぷりつかっていたのかと思っていたが、長岡藩士を始めとした記録をみると、やはり武士なんだなあを思うことも多くある。
今の人に武士になれと言っても到底無理だろう。
武士の精神というか大和魂は、良くも悪くも先の大戦以降、私も含めて多くの人が持ち合わせていないのではないかなあ。
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