▲小松菜屋敷(江戸川区中央)
「小松菜の命名は徳川吉宗」というのは、昨今はやりの“豆しば”の豆知識くらいなら面白いんですけど、地元ふぉーくろあ・うぉっちゃーとしては、もうちょっと掘り下げてみたいところ。
ではいったい「小松菜」の文献上の初出はどのあたりか?―と、調べてみました。以下、時系列で並べてみます。
『大和本草』(1709年・宝永7)
下総の葛西菘は長くして蘿蔔に似たり、江戸に多し。
『和漢三才図会』(1712年・正徳2)
總州葛西の産は水菜に非ぬ。而して味は洛の水菜に劣らず。
『続江戸砂子』(1735年・享保20)
葛西菜 かさいは浅草川より東の総名なり。前は下総の内なり、
近年武蔵に属す。江府より二里三里ひがしなり。此所の菘
いたってやはらかに天然と甘みあり。他国になき嘉品なり。
あるひと菜を好んで諸州の菘を食ふ。京東寺の水菜、大阪
天王寺菜、江州日野菜など食くらぶるに、葛西菜にまされるは
なしといへり。
『物類称呼』(1775年・安永4)
葛西菜また小松川本所牛島邊の冬菜におゐては京大阪にもなし、
風味よく、しかも一年のうち絶えることなし。まことに名産なり。
『成形図説』(1804・文化元年)
関東にて小松菜といふは、とりわけ下総国葛飾郡小松川に作る
ものは名高し。茎圓して微青く、味また美し。
『新編武蔵風土記稿』(1830・文政13)
あふらなと云、葛飾郡小松川邊の名産とす。小松菜と呼。
【和名抄】蔓菁(阿乎奈)、辛芥(多加奈)と註す。同じ類なり。
…というわけで、わたしが調べた範疇では、「小松菜」という名は1800年を過ぎてから出現していました。これらの書物が著された時代に在職していた徳川将軍は以下のとおりです。
5代 綱吉 在職 1680〜1709年
6代 家宜 〃 1709〜12年
7代 家継 〃 1713〜16年
8代 吉宗 〃 1716〜45年
9代 家重 〃 1745〜60年
10代 家治 〃 1760〜86年
11代 家斉 〃 1787〜1837年
こう眺めてみると、8代将軍吉宗が命名したとするには時期尚早(まして綱吉なんて)に思えてきます。それよりは11代の家斉の時代なんかがアヤシイかなと。寛政の改革(1787〜93年)で重農主義に立ち返るにあたって、江戸近郊の農産物が見直され(現・江戸川区はほとんどが幕府の直轄地でしたし)、ブランド化を図るために「小松菜」に改称されたのではないか…
な〜んて、もちろんこれも推論に過ぎませんが。
※引用文は句読点を入れたり、現代漢字に直したりしている個所があります。

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