今年の初め頃だったろうか。会社を退職した先輩から『それでいいのか蕎麦打ち男』なるメールが届いた。内容は、趣味に走るだけで、外に向けて活動しない同世代の人たちに対する激というか不満が書かれていた。
メールの宛先はぼーずだけでなく、会社の友人たち、OB達になっており、返事は全員に出すという、原始的MLシステムになっている。この先輩、人間味はあるのだがかなり直情型の方で、このML?内でも激論の元になっていた人でもあった。
いろんな事に挑戦したいと定年まで2〜3年を残し、早期退職制度を利用しNPO活動の掛け持ちをやっている。ぼーずもこの人の行動力には一目置いており、たまに酒を飲む良き仲間でもあった。メールを読んだ時は、特に異論は無いが『そこまで力んで生きなくてもえーやん、先輩も変わりませんなぁ』くらいの感覚であった。ただ趣味に走るだけの人間を蕎麦打ち男とは、上手いこと言うなと思っていた。
というのも、別の先輩にグルメ気取りが過ぎ、周りのヒンシュクを買っていた人がいたのだ。その人が蕎麦にうるさく、あまつさえ自分で蕎麦畑まで作りだし、自家製粉の蕎麦を打つと自慢するのを聞いて『凝るのはいいが、黙ってやれ。自慢の為の趣味か?』と常々思っていた。ということで、どちらかというとメールを肯定的に受け取っていたのだ。
その後、感心した言い回しは、先輩の造語ではなく、ベストセラーの題であることが判った。売れている本は積極的に買わないぼーずなので、まだこの本を読んでいない。但し、著者の残間 里江子氏という女性のインタビューらしきものを目にする機会があった。
この本は、著者の属する団塊の世代という所に目を付け、趣味にしか生きがいを持て無い人たちを皮肉るために、わざとけんかを売るような刺激的な題をつけたという。マーケティング上、それは悪いこととは思わない。ただ著者の経歴を見てあれっと思ったことは確かだ。女性週刊誌記者、アイドルの自叙伝プロデューサー・・それって蕎麦打ち側の仕事では?
実は、ぼーず、ドイツにいた時、それまでやったことも無かったのに、蕎麦を打ったことが何回かある。乾麺の味気なさに嫌気が差し、どうしても手打ちが食べたくなったのだ。蕎麦粉にヤム芋のすりおろし、強力粉とおぼしきもの(なんせドイツ語でかかれてるので、小麦粉がよー判らん。番数の大きいほどグルテン量が多いらしいと言われ、勝手にそれを強力粉と思い込む)を混ぜ、ボルビックを注いでこねあげた。
これをシステムキッチンの余り板の上でビール瓶とすりこ木で伸ばし、中華包丁で切る。茹でて冷水で洗うと蕎麦はブチブチと切れた。麺の太さは田舎蕎麦からきしめんまでバラエティに富み・・・見るも不思議な蕎麦(食いもん?)になった。作っておいた蕎麦ツユをかけすすりこむ。美味ぁーい。短か過ぎて蕎麦の喉越しこそないが、歯ごたえはしっかりしていて、ちゃんと蕎麦の味がしたのだ。
それから何度か蕎麦を打ったが、帰国してからはやったことが無いし、本式に蕎麦打ちを習う気にもなれなかった。なんせ関東には美味い蕎麦屋がいっぱいある。無理して自分で打つ必要が無いのだ。ただ、道具もなく、材料も乏しい中でも、その気になれば何とかなると判ったことは大きな収穫だったと思う。ひきこもり系オタク趣味もどうかと思うが、蕎麦打ちから何かが見えるようになれば、それはそれでいいと思うのだ。
先輩の言ったことが著者の意図通りかは判らないし、それ以上に著書を読まず四の五の言うのは申し訳ないが、尊敬する故スズタ師の教え『妙なバイアスがかかるから、ベストセラーと著者逝去直後は、時間を置いて著作を読め。』を守るぼーずとしては致し方の無いことだ。ここはバカボンのパパに成り代わり、著者に言っておきたい。
『それでいーのだ。』

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