2007/11/30

団塊ライダー  映画

朝から渋谷にて某女優と対談。元気そうで何より。
東急ハンズで工具の残(テスターやトリマーなど)、イシバシ楽器で部品とフェイザーを購入。よくよく考えてみると国産ギター一本買えるくらいの投資だが、やりたいんだからしかたない。税金を払い、生活費を振り込んであっという間に今月の稼ぎは蝋燭を吹き消すがごとく……。

夕方、六本木で『団塊ボーイズ』(原題=Wild Hogs)試写。今年見た唯一のおバカ映画。開巻直後、ノイズがひどくて一時中断したかと思ったら、止まった分だけ進んだところから再開したので、そこのところが欠けている。さすがにもう一回やってくれと言いに行こうとしたが、どうにもバカ(てゆうよりヘタ)な展開だったので、試写室だしまあいいやとほったらかしにした。しかし主演ジョン・トラボルタたちがハーレーに乗って西海岸に向けて旅に出たあたりから徐々にボルトが上がり、ああ、これなら初期のファレリー兄弟の劣化版程度には楽しめるか、と思っているとうなぎのぼりにおバカかつ痛快(この痛快さがファレリー兄弟とはちがう)な展開に拍車がかかり、そして、これは勘のいいひとならすでにおわかりかもしれない、というほどベタだが、クライマックスのある瞬間、これは泣くしかない(てゆうより反則だろう)という事態に。いや、最後までホントに演出も脚本もヘタ(てゆうかダメ)なのだがそれでも、たとえばひとが牛に弾き飛ばされるというだけで見ていられるアメリカン・マジック。ホント、ちょっと前までこんなん(もう少しマシだったように記憶しているが)見て笑ってサッと忘れとったなあ、と思う。でもいつのまにか見なくなった。そういう映画の見方を諦めたからだ。でもまた見たくなった。たぶんもう一度、欠けた冒頭場面を見に劇場に足を運ぶだろう。
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2007/11/29

電気的、衝動的。  日常

オメザ直後からずうっとギターの改造について研究していた。
で、結局通販にてセイモア・ダンカンの、その名も「サーファー」というピックアップを見つけて衝動買い。リットーミュージックからでている『ピックアップブック』にはシングルコイルだけで四十四種類ものピックアップを使って同じフレーズを試奏した音が入ったCDが付いていて、前夜にそれを何度も聴いてある程度目星をつけていたが、その「サーファー」の音はそこには入っていなかった。だからつまりいわゆる「不見転」ならぬ「不聴転」(……きずてん?w)で買ったわけだ。結局これがピックアップ買いの醍醐味なのだな。ほとんど大人買いだ。まあ、そう言うほど高くはなかったのだが。
買ってしまうととりあえず届くのを待つだけなので、午後は先日買ったキーボードをいじっていた。いじる、といったってこれは改造するわけではなく、内臓のリズムボックスから音を出させただけだが。あれこれ試してベース練習。これ、やはりそれなりの役に立つ。

夜、北千住で舞台『野鴨』。だが、申し訳ないことに、私はイプセンのどこが面白いのか昔からまったくわからないのだった。舞台ははじめてだが、映画でも何でもイプセンものを見るたびにシェイクスピアの偉大さを思い知らされる。一度もシェイクスピアを「古臭い」などと思ったことはない。が、イプセンなんてロージーの『人形の家』でさえ、ジェリー・フィッシャーのキャメラワークとデイヴィッド・ワーナーやエドワード・フォックスといった偉大なる男優陣の尽力がなければ見ちゃいられなかった。あと、溝口『女優須磨子の恋』の劇中劇がたしか『人形の家』だったと思うが、溝口がそれにほとんど興味を示していなかったように感じられ、そりゃそうだよな、とこちらも一笑に付した記憶がある。ともあれ、端からわかっているのだから行かなければいいのだが、イプセンのせいでまったく楽しめず、招待してくださった方に顔向けできなくて精神的にえらく疲れた。
帰りにそのしんどさを解消すべく西麻布の焼鳥屋へ。マッコリ中壜一本がすきっ腹に甚大な効果をもたらし、帰宅直後ダウン。明け方、電気カーペットの上で汗だくになって目覚めた。
それでもいいこともあった。劇場のある北千住マルイには東急ハンズがあり、ここでやはり衝動的に半田ゴテやらニッパーやらをぞろっと買い揃えたのだ。電気工作用具を買うなんて小学生の頃ラジオを作ったり分解したりしていたとき以来だ。ちょっとワクワクした。

昨日の日記で「直枝」氏を「直江」と書き間違えていると樋口さんから指摘を受けた。訂正しつつお詫び申し上げます。失礼致しました。罰として「あえて名を秘」したアーティストを一人、恥を忍んで告白します。
ボビー・チャールズです。
……イヤ、素晴らしかった!
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2007/11/28

たましいの下着を脱いで。  音楽

boidさんより待望の新刊、直枝政広著『宇宙の柳、たましいの下着』が届いた。内容もさることながら、いきなり『幕末太陽傳』ではじまるのと表紙や中の鈴木淳哉君が撮っている写真にたまげた。たまげた、というのはたましいが転がり落ちた、というような語源なんだろうか、もしそうだとすると下着が剥げ落ちてしまっているから私はいまフルチンである。いや、そんなことはどうでもよろしい。『幕末〜』についてはこないだ書いた中篇で言及したばかりだし、また羽田に行くとき必ず観る海岸通りから357号線に合流するまでの一連の光景やどうやら著者が大学受験に失敗したときに行ったという三浦半島の先端、つまり城ヶ島の光景を私がずっと偏愛してきたことはまったくの偶然で、城ヶ島についても未完成の短篇が存在し、この偶然をもって著者と私の音楽遍歴に結びつけるまでもないだろうことは容易に想像がつくほどだ。もちろんこれほどの知識を私が持っているわけもないが、この本にはほろほろと拾い読みをすることを読者に許す寛大さもあって、本日は予定を取り止めにしてアンディ・パートリッジのダブアルバムを聴きながら数時間かけて拾ううちにいつしか、かねて気になっていたが聴きそびれていた作品(あえて名は秘すw)をアマゾンで五枚ほど注文していた。そんな勉強不足の私は直枝氏の歌を聴くのも本書にくっついているCDがはじめてで、日本人の男性ヴォーカルには数少ないと思われる、いくらか鼻にかかった声がボブ・マーリィっぽい、とか安易に言うと怒られそうだが、これまたとても気に入ってしまった。あと白いP90がダブルでついているギルドの225モデル(だろうか?)も、バッチリ同趣味である。

でもかつて樋口さんからも言われてショックだったのだが、直枝氏もロキシー、てゆうかブライアン・フェリーの声がキモい、なる記述が。
ちょっと哀しくも、こんなところに決定的ギャップが……
こうなると、フェリー好きの俺のほうがおかしいのか、と訝しい。

で、夜はずうっとギターの改造について研究していた。
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2007/11/27

もっとアレンジを!改訂版  音楽

アルフレッド・ニューマンがランディ・ニューマンの父親(ではなく伯父(叔父?)だとバンマスからクレームが来た)だからカバーしたい、とうちのバンマスが言ったので寝る前に『西部開拓史』の音楽を聴こうとdvdをかけたが、最初の空撮は揺れててかっちょいいけど結局シネラマのdvd化はちょっとダメでしょう、ということばかりが気になり、肝心の曲はコピーしないまま何度目かのフォード篇だけ観終わるといつしかすべてつけっぱなしで眠り込んでしまい、そのせいか、起きたらへんに風邪気味で、これはいかんと思いつつ、しかしうちがインストバンドであることを強化するためとはいえ何も『西部開拓史』でなくともいいではないか、そうだ、ジャック・ニッチェがある! と気づき、どうにも風邪のかったるさを抱えつつも懸命に《サーフ・フィンガー》の音を取っていると、これ、六弦ベースじゃなくてもギターのテンション高くして六〜四弦をそれぞれB・F#・Bと合わせてやると意外にいけるじゃん、てか超かっちょいいべ、でも裏通しでテンション上げてやらないとすぐチューニング弛んじゃうなぁ、というわけでいよいよテレキャスターの必要性を痛感しつつ、さらに何かないかと思っていると、ふと《ジャニー・ギター》をダブで、という案が浮び、そこでようやっと重い腰を上げ、スペース・エコーの実験に踏み切ったのであった。人生初ディレイつうかエコー。しかもベース繋いで。で、実験結果を述べると、いや〜とぶとぶ。快楽底なしなんで、こりゃたまらん、仕事にならん、ということで早々に切り上げる。
気づいたら風邪もとんでいた。
しかしいきなり二曲コピーせよ、などといふメールを受けたバンマス、さぞや甲高い悲鳴を上げていることであらう……とほくそ笑むと「時間くれ」と返信がw

久しぶりにNと痛飲。いまはアニソンを作っているらしい。非常識な私にいつも世間の常識をいろいろ教えてくれるNから昨夜は「セカイ系」なる言葉の意味を教わった。つまり知覚過敏みたいなことかと。そういえば最近、知覚過敏みたいなひと、ようけおるなあ。
非常識な私は、加えて鈍感でもある。ただし、アレンジは細かい。灰野さんの教えに忠実な私は、オリジン=セカイなどに振り回されずひたすら「動物的」に精査する者なり。
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2007/11/25

普通のもの。  議論

友人の廣瀬純から「映画における労働の拒否」と題された、日仏学院で行われたドゥルーズ『シネマ』についての彼の講演の原稿を送ってもらい、読んで心が洗われた。最近やたらと苛立たされたのは、批評的言説において「部分」を語ることによって「全体」への評価が可能であるかのように振舞う怠慢な姿勢であったが、そんなありもしない「部分」や「全体」の区別を廃棄し、ここでは「普通のものから特異なものが生れる」現象としての映画が見事に語られていた。つまり、ひとは言うことがないときに俳優の素晴らしさだとかショットの素晴らしさだとかに言及することによって「だからこの映画は素晴らしい」などと評価を定めがちだが、そうではなくて、仮にそれがどれほど素晴らしいとしてもその素晴らしさを構成しているものが実に「普通のもの」であることを踏まえて素晴らしいなどと口走ることを禁欲し、宇宙に解き放つように評価を留保するのが現在の批評的言説の持つべき倫理であろう、と私には思われてならなかったのだが、ここでは私には説明できなかったそのことの重要性を非常に丁寧かつ念入りに解説してくれている。
評価の留保こそがわれわれにとっての「労働の拒否」であり、そこにおいて「反‐実現」は可能となるのではないか。評価を留保し、反‐実現を目指すことで行われるのは、議論または延々と続くおしゃべりである。そしてそこから新たな映画が誕生してきたのだし、これからもそうなるはずだ。議論をやめたら映画は止まる。もうずいぶん長いこと誰とも議論していない。おしゃべりさえしていない。個別作品の話はしても、大枠の映画全体にかんする議論はない。
ゆえに私の映画は止まっている。

昨日はバンド練習。CDプレイヤーが壊れていたり、アンプのプラグが壊れていたり、といろいろトラブルがあって、いまいち集中力を欠いた。
ヴォーカルがめんどくさい。ヴォーカリストの必要を痛感。

ちなみに、おそらくいま新作映画で「普通のもの」を観ることはほとんどできないだろう。かつての小津作品に言えた「普通のもの」といま呼べるものはトニー・スコットやタランティーノのフィルムにしかないからだ。そしてそのことはほとんど理解されていないように思われる。
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2007/11/22

靖国、そしてあひる。  日常

李櫻(ホントはいとへん)監督『靖国』試写へ。靖国神社の8・15のお祭り騒ぎなんて日本人なら誰でも知っているしいまさらそんなもの見せられても、と思う反面、ひょっとして一般的には(というのはつまり私もそうだが)なんら関心を寄せていないとすると、実は邦人にもまったく知られていない可能性もあるな、と考え直し、やはり一応通過儀礼として「日本人なら見ておくべき」だと通告しておく。ここで靖国崇拝している人間のことごとくは昭和二十年三月の東京大空襲の地獄を知らない、と方言を聞いて察知できる。要するに、適当なのだ。そんなことを感じることのできない外国人にこれを見せるにはかなりの知恵、ルノワール並みの知恵が必要かと思われた。そんな黙説法が鬱陶しく感じられるのは間違いないし、何より音楽の入れ方が杜撰すぎる。
とはいえこれはいろんな意味で、ギリギリ映画になっている。いま、このギリギリ映画になる、というギリギリ感が実は映画の現在を支えている気がしてならない。イオセリアーニなどは別格としても、いま豊饒に「シネマ」しようとしているものをいくら讃美しても、それで映画が再「教育」されるとは思えない。その一方で『グエムル』のごときバカのひとつ覚え的(三谷某ばりの)どヘタクソな伏線ドラマトゥルギーで充足するよりは、こちらの方が少なくとも百倍貴重であることは言うまでもない。
それにしてもたんに観客として、善人ヅラした修正主義者ほど吐き気を催す無恥蒙昧な輩はないな、と重ね重ね吐き気を催した。
赤坂にて、かつて音楽を一緒に作った山田さんの新プロジェクト「天才あひる倶楽部」のライヴ。あまりの心地良さに半分眠りながら聴いていた。堪能。興奮冷めやらぬまま孤独に呑み歩き。が、行く先々で知人に遭遇。面食らう。
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2007/11/20

CDをいろいろ。  音楽

酔った勢いで注文したCDがどっと届いたので。
ソニック・ユース『デストロイド・ルーム』。近年のSYに対する判断停止状態を一気に氷解させる会心の一作。商業性を無視したアウトテイクにこそ真のSYがあるなどと言ってはならぬ(笑)が、少なくともジムが離脱した理由がこれを聴いてわかった。いくら親密に作業してもこれらが世に出ないのはさすがに辛かったにちがいない。
ロバート・ワイアット『コミックオペラ』。毎度おなじみのワイアット御大。今回はアコースティックギターが多めにフィーチャーされていて、フォーキーブームに遅れて乗っかってくるあたり、さすが大物の風格。
レッド・クレヨラ『サイズ・トラップト・バイ・ライアーズ』。今回は久しぶりにアート&ラングウィッジとの合流。「嘘つきどもの罠としての溜息」って、何てイカすタイトルなのかしら! メイヨ御大のストレンジヴォーカル+ストレンジギターはなし。しかし何と、いつのまにかジムがギターを弾いてミックスしている。いまや最大の環太平洋アーティストはジムかも。
ディヴェンドラ・バーンハート『スモーキー・ロールズ・ダウン・サンダー・キャニオン』。このひとを聴き続ける理由はたったひとつ、声がマーク・ボランに似ているせいだが、今回はモロボラン節が出てきて、そうなるとちょっと自堕落なんじゃないか、という厳しささえ突きつけたくなる。はなから自堕落な音楽を自堕落だと責めてもしかたないが。
スロッビング・グリッスル『パート2ザ・エンドレス・ノット』。こっちは「第二章終わりなき否定」だと。年寄りのほうがかっこいいのはしかたない。当然ながら往年の生き急ぎ感は薄れ、むしろレナード・コーエンのようでさえある。それはそれでグッとくるよ。でもやっぱこのバンドだって結局、ジェネシスの「肉声」ありきなのだなぁ、と思われた。
サーストン・ムーア『ツリーズ・アウトサイド・ジ・アカデミー』。歌詞カードの1ページめを開くとスージー・クワトロ!……というとつまりここにあるのはストレートに原風景への郷愁ということか。スージーがアイドルだった頃、僕は小学三年生だったけどサーストンはいくつだったんだろう。ほぼ全篇入っているヴァイオリンが最良の時期のディランを想起させて非常によく、またスティーヴ・シェリーのドラムがとてもいい。
レッド・クレヨラ『ソルジャー・トーク』。昔、岸野さんにダビングしてもらったカセットが壊れて以来聴いてなかったのでCD化されてホントにうれしい。すでに古典の風格さえ持った文句なしの大傑作であることは言うまでもない。
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2007/11/18

at last I am free  労働

川越に行くのは初めてで、行きは東京駅から乗った新幹線で駅弁を食べ、大宮で埼京線に乗り換えた。小島信夫を読んでいた。三千数百円とお弁当代。映画館を運営している船橋さんが助手の方と車で迎えに来てくれていた。川越スカラ座はレトロチックに作り直した町並みの奥にある、本当にレトロな映画館。近所のとても心地良い喫茶店でとても美味しい珈琲をごちそうになった。お客さんは約二十人。朝早くから来てくれていてうれしい。少ないから観客席の前に車座になって親密な質疑応答をした。こういうほうが自分としては大勢の観客を前にするよりずっとやりやすい。ロビーでサインをしてお土産をたくさんもらって謝礼ももらって映画館の前で写真を撮って、駅までまた車で送ってもらった。皆さん川越スカラ座にどんどん行って映画を見ましょう。リクエストしたりしましょう。帰りは東武東上線に乗った。池袋で山手線に乗り換えて目黒まで。六百四十円。またずっと小島信夫を読んでいた。かなりわかってきた。帰りに目黒でカレーを食べた。家に着いてから作業しながらずっとゆらゆら帝国を聴いていた。ゆらゆら帝国を聴くのは久しぶり。フルアルバム四枚聴いてなかった計算になる。夜は近所の郵便局に寄った後、揚州商人にて黒酢ラーメンなるものを食した。悪くない。帰っていねむりして、またゆらゆら帝国を聴いている。最新作はなかなか凄いことになっているな。でも全部抜き取って肉体だけあるのが音楽だと考えていたダウザーと真逆。まあこれくらい呑気になるのもいいかもしれない。

というわけでついにキャンペーンが全日程終了♪
いろいろ皆さん、遅刻してご迷惑かけたりつまらない話を聞かせたり申し訳ありませんでした。

とはいえ作業はまだまだ続くのだった。。。
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2007/11/17

「比較」の下劣さについて  議論

ここ最近、作品または作家Aを讃美するときにB、C、Dとべつの作品または作家を列挙し「B、C、DよりもAが素晴らしい」と「比較」することの、批評としての甚だしい幼児性・下劣さにあらためて気づかされることが増えた。というより、そうした「比較」はただの小狡い「後出しジャンケン」であって批評とは呼ばないし、批評家を名乗る者のすることではない。もし「比較」が批評として(ヴァイオレントに)機能するとしたら「最悪のAのほうが最良のBより上」というはっきりレベルが違っている場合の最後通告的用法に限られる、という気がする。
星取表とかベストテン(点数式)などにそこはかとなくおしめの匂い(田舎議員のハメをはずした赤ちゃんプレイみたいな)が漂うのもそのせいだろう。
しかし、そうした批評の倫理の何たるかを学んでいく方法というのはただ先行する文献を「読む」しかないのだろうが、そういう書き方をするひとはきっと読んではいてもおそらく気づいていない。それなりにまともなことを書くひとでさえそんなことがある。いったいいつ気づくのか。こうやって誰が見ているか考えもせず、ブツクサ書きたくもない嫌味をひたすら書き募るしかないのか。ことはネットにかぎったことではないのだろうが。
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2007/11/16

中篇、脱稿。  労働

とりあえず自分と向き合わないためには仕事が一番だ、ということで、順調なペースを守り、書き上げ、編集長にお送りした。
例によってスローな、古めかしい小説だが、それが私に相応しい。
今回は動物との切り返しショットになる。
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