2007/12/29

年納め・その弐  音楽

今年最後のスタジオ練習。が、準備中にいきなりマイクのハウリングで耳がとび、その後自分のギターがまともにモニターされない。殊にその夜はテレキャスターのデビューだったが、テレキャスターの乾いた高音はとんだ耳からはかき消されるのだった。それにしても誰もが言うとおり、テレキャスターは調整が難しい。歌っている場合ではなかった。いつもながら歌は私にとって邪魔くさい。結局最後までアンプとの関係はこじれたまま。メサブギーを択んだのが失策だったか。
斉藤のピアノもメロディカも全部楽譜の丸写しに聞える。まったくグルーヴが来ない。そもそも斉藤という男にグルーヴがないのではないか、とさえ思われるwww。楽譜を読めない私と楽譜に頼る斉藤と、そしてひたすらプリミティヴに叩く今井、というのがもっといい感じにミックスされる日が来るのはいつのことか。その可能性はあるはずだ、というかやはりそれも練習によってしか音は自由にならないのだ。でも次の練習は一ヶ月先。我々が社会人バンドであることにイラつく。その一点についてだけは学生に戻りたい。
メカ音痴のはずの斉藤が持ってきたBIASのドラムシンセを今井がスネアに装着。それに鈴がプラスされて延々とあれこれ試し続け、ウチは完全にへんな宗教音楽楽団の様相を呈し始めた。こちらで攻めていくのもありかもしれないが。

ニューオリンズは遠くなりにけり。
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2007/12/28

年納め・その壱  日常

昨日は朝十時から、試写室で久しぶりに阿部・中原・ジムの三氏に会い、ある映画を見たあと四人で昼飯を食い、お茶した。阿部君、元気そうだった。中原のジャージが青に変わっていた。見た映画が何であるかはまだ書けないが、トッド・ヘインズの新作を忘れてしまう、いろんな意味での力作である。いずれ時が来たら言及することにする。
文春のN氏が中原を訪ねてくる。新刊の表紙の見本。例によって例のごとく唖然。昔の婦人公論とか中央公論みたいな感じなのにホラーである、といういかにも中原らしい表紙、といったら怒られるか。

三人と別れて、今年最後のイシバシ詣。MXRのBlue Box(中古)を購入。凄く不安定で強烈に面白い。家に帰って最初はレスポールで試した。リアだとやはり不安定なのがフロントだと意外に安定する。次にテレキャスター。フロントでもリアでもでたらめに不安定で、大変愉快。こないだのSurf Tremoloと並んで、使いがいのあるものを手に入れた。

夜は忘年会。目が覚めたら非常に疲れているし体のあちこちが痛んでいる自分に気づいたが、まずまず楽しい一夜であった。ウチの作品に出ると幸せになる、とかっていう噂を流すのはどうだろうか、という話。そうするとどんなビッグネームもこぞって出てくれる、とか(笑)。いや、私はわれわれスタッフと仕事がしたいと思ってくださる方だけで結構です。
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2007/12/27

俺はそこにいない  映画

トッド・ヘインズ『アイム・ノット・ゼア』@シネマート試写室。
IQの高そうなアメリカ映画の極み、といったところか。映画としてはここまでやれば文句のつけようもないし、タイポグラフィーやフィルターワークのかっこよさなどここ最近では最強、といっても過言ではない。各役者も過不足ないし、現代史をちょっと前、つまり近代史の反復として見る構成そのものがまさにディランを学習した成果であるといえるだろう。しかし……何だ、この既視感は。ここまではすでに『ボブ・ディランの頭のなか』で見たよ、と言いたくなるのはディラン好きだけだろうか。この先が知りたかったし、それを期待していたのだが、その意味では肩透かしを食らった感が否めない。隠遁先を出て行く、その先での『ボブ・ディランの頭のなか』とは異なるクライマックスを期待した俺がまちがっていたのか。いったいディランの「ネヴァー・エンディング・ツアー」をどう捉えるのか、それに言及することがすなわち作者が現代アメリカをどう捉えるかの答えになると思っていたのだが。それともこの〈アイム・ノット・ゼア〉という未発表曲のタイトルこそがその態度表明とでも言いたいのか。複数の存在によって演じられる「遍在」から文字通りの「非在」へ? だとしたらいまのディランの現実については議論の余地がある。そもそもいまのアメリカでディランはどのように受け取られているのか。ただの物語か。伝説か。だとしたらたんに、そうであってはならない、とのみ言っておく。

……とはいえ、来年最も見られるべき映画の一本であることは間違いない。
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2007/12/26

なんとか問題。  日常

以前から不愉快ではあったが、今夜はちょっとあまりに反吐が出そうになるほどだったので、最も難解なやり方で糾弾する。
要は、日本テレビで自民党大臣にかみついて顔色失わせるなどということは、一見正義漢づらして実のところはそこでやつらに言い訳をさせているだけであり、いわゆる禊ぎみたいなものを大衆に向けてアピールさせるという卑劣きわまりない裏切りではないか。
そういう卑劣漢に向けてはやはりディランしかなかろう。

鉄の頭をした偶像が目を光らせて
水の上に立ってパンを投げているな
遠くの船が霧に消えて
ハリケーン吹き荒ぶなか、両の拳に蛇を掴んであんたは生れた
自由はいつもあんたの脇を掠める
でもこんなに真理が遠いのに、何の役に立つのかよ

ジョーカーマンが夜歌鳥に合せて踊る
鳥は月光を浴びて舞い上がる
なあ、ジョーカーマン

どすんと日が沈むと
あんたは立って誰にも別れを告げず
愚か者蛇におじず
誰だって未来が怖いのに、あんたは素振りも見せない
またぞろその皮を脱いで
内なる迫害者を出し抜くわけだ

あんたは自信満々、雲の上だって歩ける
群集を操り、夢さえ捻じ曲げる
あんたはソドムにもゴモラにも行くだろう、
けど心配ない、誰もあんたの妹とくっつこうとは思わない
殉教者の友、娼婦の友
あんたは真っ赤に燃える炉を覗く、そこには名前のない金持ちがいる

レビ記に申命記
それと密林と海の掟だけがあんたの先生
白馬の上の黄昏の靄の中で
ミケランジェロならあんたの姿を彫れるだろうね
野原でおねんね、喧騒の巷を遠く離れて
星々の近くでまどろむあんたの顔を仔犬がなめている

ライフルを持った男が病人や足なえをつけ狙っている
説教師も同じものを狙っている、どっちが先に追いつくか
警棒に放水砲、催涙弾、南京錠
火炎瓶と石つぶてがあらゆるカーテンの後ろに
不誠実な裁判官は自分でかけた網にかかって死んだ
夜が忍び込むのもいまや時間の問題

映像の世界じゃ空はすぐに灰色に変わる
今日ひとりの女が王子を産み、真紅の衣を着せた
やつは祭司をポケットに入れ、刃を焼くだろう
そしてみなしごたちを通りから連れ去り
娼婦の足元に置くだろう
よぉジョーカーマン、やつの望みを知ってるよな?
よぉジョーカーマン、あんた全然関心ないよな?
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2007/12/26

マイケル・キッド!!!  追悼

23日に亡くなられたそうですね。
もう相当にご高齢であったわけですから、さぞや大往生であったことでしょう。それだけは悦びとしなければなりません。
私があなたの名前を知ったのは大学時代の映画の授業においてでした。『バンドワゴン』の振付師として先生がふと口にされた名前でしたが、それをふとノートに書きとめて以降ずっと頭に宿って離れず、ことあるごとに思い出し、思い出すと同時にいつでもアステアのあの軽やかさとシド・チャリシーのあの肉感的なダンスの奇跡的な官能が、私の地肌に甦るのでした。
私が映画を好きになった理由のひとつは実にあなたにありました。
いや、私などものの数でなく、二十世紀の幸福の多くはあなたに負っていたと思います。
キッドさん、ありがとうございました!
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2007/12/24

山田さんとM−1とハゲタカ  日常

新雑誌「エクス・ポ」が届いていたので、見た。いやはや、この級数はおじさんの老眼にはちょっと厳しいかも(笑)。最近はCDのクレジットやライナーノーツを読むのも大変だったりする。私の場合、乱視と老眼が同時に入っているので、ややこしい。ちょっと暗いと漢字が判別できなくなる。

と思っていると、以前一緒に音楽を作っていた山田さんが遊びに来てくれる。ギター改造の相談にあれこれと乗ってくれ、おみやげに70年前のハンダをくれた。その他、いろいろ音楽の話をし、M−1をつけっぱなしにしてワインをガブガブ呑み、さらに下北沢まで行った。で、その山田さんも私より五つか六つ上だが、老眼が必要だと言っていた。

今日は(てゆうかなぜか最近毎日のように)一日じゅう下痢。それでも牡蠣(一応火は通ってるやつだけど)食ってる俺。昼にあまり気が進まなかったが、録画しておいた昨夜のM−1を見た。昨夜の段階で「今年は《敗者復活から優勝》という物語」を審査員が目指したことに気づいていたので、サンドウィッチマンには悪いが、それだけのことだと思われてモチベーション下がりっぱだったが、見たら見たで意外にサンドウィッチマン、健闘している。最終決勝は、俺はキングコングのほうが好きだったが、エンタなどで見られた投げやりな荒れ玉感が消え実に丁寧な配球で、ネタのひとつひとつをちゃんと思い出せる。キングコングのほうはもう忘れてしまったので、そういう結果と捉えていいと思う。

見終わったらNHKで話題になっていた『ハゲタカ』というドラマを再放送してたので見た。私にはこの話、ひどく保守的に思われてならなかった。へんに間の長い芝居も鼻につく。でも松田龍平さん、首の辺りに漂う無防備な弱さが魅力的。あまり狂気のほうへ向かわず、このギリギリの感じで留まっていてほしい。

その後も夜まで下痢しながらずっとテレビを見ていたが、これといって書くべきことはない。
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2007/12/23

テレキャスターGET!  ギター

二日連続で早起きして『呉清源 極みの棋譜』へ。ひたすらチャン・チェンという稀有な俳優の存在に戦慄し続けるために見るような映画。そして息を呑んで見守っているとさらに驚くべき雪が降る。それに痺れていると最後に麗しき老けメイク。映画としてこの三点のみで過不足なく満喫できる。それ以上のことがないのが寂しいといえば寂しいのだが。チャン・チェンも田壮壮も活劇的要素にはあまり気が乗らないらしく、交通事故シーンはちょっと残念な形にしかならなかった。しかし伊藤歩さんとはまた仕事がしたいと思った。

打合せに行く前にお茶の水の楽器店街をウロウロ。フェンダーのメキシコとジャパンのテレキャスターを五、六本試奏するが、メキシコのPUはいわゆるテキサススペシャルというやつで、テレキャスターらしからぬ可愛げのない太さがどうも馴染めない。といってジャパンのPUはなんだか食いつきが悪い気がしてならない……と、諦めていると、かつてエピフォン・オリンピック(現在改造中)と巡りあったシモクラセカンドハンズでジャパンの中古に出会う。ボディが何だかPUがどうだか正体不明だが、こいつがえらくスピードが速い。そこでもテキサススペシャルをマウントしたモデルと弾き較べるが、全然違う。一弦の最短のフレットの拾い方も他と遜色がない。しかも他より二万円安い。というわけで衝動、というわけでもないが出会い頭に御購入。
人生初の、普通のテレキャスターである。
おそらくもう当分、新しいギターを必要とすることはないだろう。

夜は雨が降ったので、会社に置き去りにしてきた。しかし昨夜の酒がいささか気分の乗らない酒だったのは、ギターのせいではない。
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2007/12/22

ハーディガーディな夜  日常

ぼやぼやとしていると時間はすぐに経ってしまう。ということで、早起きすると意外にインフルエンザの予防接種を受けたり、ふと恵比寿にイオセリアーニを観に行ったりするのだった。時差ボケ的に朝早かったこともあってかあまり体調がすぐれず、冒頭ちょっとうつらうつらした。しかし総体として『ここに幸あり』ではこれまでどこかにあったハッとするような魔術的驚きをとうとう見ることができず、なんだかイオセリアーニによく似た何かを見せられているような気がする作品だった。どうも酒量が足らないのではないか、と訝ってしまうが、でもまあそんなもんなんだろうな、と諦める。これがイオセリアーニの遺作となったらちと寂しい。
ウエスティンにて新潮編集長と打合せ。その後、西麻布に移動して食事。体調がしっくり来ず、早々に帰宅。ぽろぽろとドノヴァンをコピーしていた。年の瀬の緩んだ時間、ガウンをだらんと着て半分眠ったような状態にハーディガーディ・マンはよく似合う。
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2007/12/20

なぜかジミヘン的日常  日常

昨夜からジミ・ヘンドリックスばかり聴いている。いや、正確には旅の間もジミ・ヘンばかり聴いていたが、なぜか最も気になる『アクシス』を持っていくのを忘れたので、帰ってからはこればかり、しかも《リトル・ウイング》ばかり繰り返し聴いている。改めて言う必要はないだろうが、このイントロがあまりに美しゅうてやがて哀しく、よきロックナンバーは世に数多あれど、ひとりの人間が一本のギターだけでやれることの限界状況はやはりこれに尽きる、と思われてならなかった。で、これを何度も聴いているうちに感じたのは、つまりジミ・ヘンの音というのはエレクトリック・ギターがコイルを巻いたマグネットという仕掛けで拾われることにどこまでも自覚的である、といえばよいか。ここまで磁石と一体化したギターの音というのは、同時代にはあまりないのではないか。そう、今度出る佐々木敦氏の新雑誌「エクス・ポ」で青山真治が普段あまり見せない情熱で書いているシド・バレットや、少しあとになるけどミック・ロンソンにも同様に磁石とかコイルとかを感じる。結局はあのクライベイビーに繋いだときのトレブリーな歪みのせい(あと、弦ノイズを切らずに残すことも)にすぎないのかもしれないが、しかし同様のエフェクターを使う他の有名ギタリストにそれを感じた記憶は、とりあえず、ない。そういう意味でジミ・ヘンと最初のピンク・フロイド、あとロンソンとコンビ時代のデイヴィッド・ボウイーだけは、同時代にワイアットのやっていたあのバンドとはまたべつの「ソフト・マシーン」という称号に相応しい気がするのだった。そうしてその後そういう音というのはサーストン・ムーアたちの登場までめったに聴けなくなる。
それと、どうもファーストと『エレクトリック・レディ・ランド』ばかりが持て囃される傾向はいつまでも消えないのだが、各楽曲の粒立ちといいギミックを抑えた抜けのよいシンプルさといい、97年まで発表されなかった未完の四作目『ファースト・レイズ・オブ・ザ・ニュー・ライジング・サン』の自由闊達さに最も近いのは『アクシス』だと思われ、ファンクを念頭に置いたものをすでにその段階でやっていたことが確認されつつ、一方でむしろ一枚目や三枚目のほうが白人社会への妥協を余儀なくして作られた、という疑いさえ生じさせはしないだろうか。もちろん一枚目や三枚目の出来が悪いとは思わないが、オクターバーによる多声性(のちのマーヴィン・ゲイを想起させる)などの試みを含めたバンド・オブ・ジプシーズという「ブラック・ムスリム」を経由したあとの「来たるべき音」のほうをどうしても信頼してしまう。

それにしても私のギター遍歴というのは、結局ジミ・ヘン・コンプレックスだな、と自分で考えてしまうのは、つまりストラトを決して持とうとしないことに顕れているのだが、不在の中心としてのストラトキャスター=子供の頃、自宅に兄によって導入された最初のエレクトリック・ギターの、あたかも天皇のごとき眩い威光への根源的な不信というか嫌悪は、先日の近畿大学でのトークセッションで指摘されたことにも繋がって、私という作り手の根源に関わる問題の一部を形成するのだった。
また、それ以上は神秘主義の領域だろう、ということでもある。
私がいま映画で行おうとしている《カツゲキ》ということは神秘主義の一歩手前で踏みとどまろうとすることでもあるという話は、間違っていないと思う。

そんなわけでやっぱり今日も試写に出かけられず家に閉じこもっていた。要するに全身から疲労が噴出しているのだった。
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2007/12/19

そして年の瀬が  日常

とうとう年内の大きな行事がすべて済み、残すはたらたらとした打合せ(なかにはちょっと固いのもあるが)をいくつかと忘年会のみ。銀行関係の大変な危機も乗り越え、気分的にはとても楽になった。ここで呑みすぎず、ギターの練習と改造になるべく多くの時間を費やすことができたらどんなにいいだろう。
いや、ぜひともそうしたいものだ。
だらだらと呑み歩くスケベ酒もいいかげんにすべきなのだ。
いいかげんにします。
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