2008/3/30

それでも、続いていく。  日常

酒の呑みすぎもあって集中力を欠き、もうひとつ調子が悪い。とくに精神的に。何もかもにあまり興味が向かわず、しかし来日中の友人を囲む会など催されている様子なのに声が掛からないのは、すでにお役御免とされてしまったということなのか、といった薄い被害妄想などもないではない。それはそれでまあしかたないことだとも思われるのだが。探しものが見つからなかったりもして、困る。一方で半ば無意識によかれと思って口走ったことで相手を傷つけてしまったりもして、激しい自己嫌悪にも陥る。やる気がない。ただただやる気がない。
いい音楽も聴いた。よくいくお店の店員さんがメンバーの、ノアルイズ・マーロン・タイツというバンドの『PLAYS』というアルバム。1曲を除いてすべてスタンダード・ジャズのカヴァーのインストだが、方向性として私がやりたいと思っていたことと非常に一致するところが大きい。つまりアレンジということをいかになすかだ。
できることなら腰を落ち着けて仕事がしたいし、エンタクシーの荷風特集など読むと、あらためて読書に精を出したい気もする。紀ノ国屋書店様からはストローブ=ユイレさんのdvd『アンティゴネ』などいただいて、それももちろん見直したい。青土社様からは佐々木敦さん著『LINERNOTES』をいただき、佐々木君の猛然とした仕事ぶりにただただ感心する。
日々、できることが見つかったり、逆にもう何もできない気がしたり、要するに上がったり下がったりしているということだ。
知人の結婚式の二次会に顔を出したが、やはり苦手というほかはない。初めて行った場所だったがとくに感想はない。土砂降りのなかにひとりで突っ立っていたようなひどい気持ちのまま眠って明け方に起きた。気持ちは変わっていない。他人の気持ちはわからないとも自分の気持ちが他人にはわかられないとも承知しているつもりだが、このごろそのことがこれまでになくとても虚しく思われるのだ。
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2008/3/25

あなたに会えてよかった。  日常

前向きである自分に継続的な自分が置き去りにされ、寒々しい空間でひとり凍える、という精神状態はそれほど珍しくない。日曜の夕方辺りからそのような状態に陥り、飲酒に逃避、またも生活時間が逆転した。この間、何をしていたかまるで思い出せない。ひとつ原稿が上がったから、たぶんそれを書いていたのだ。あとは、猫どもと固まっていた。自分が単身出かける際はそうはならないのだ。自宅にひとりだと三日で限界が来る。時刻にかかわりなく、起き抜けであっても目の前にある酒を呑みそうになる。

同僚の父君が逝去。親族以外の冠婚葬祭は極力遠慮させていただいているので、陰ながら心からのご冥福を祈る。

そんな本日、都内も桜が一分咲き、二分咲きのなか、調布まで用があって行って、とても幸福な気持ちになって帰ってきました。
本日の題はそんな気持ちから出てきた言葉です。
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2008/3/23

それ自体、象徴界であることだ。  日常

今朝の日記を読み返すに、要するに自分が次にやりたいことを見つけた、と。

だらだらしてるとジミヘンがらみの二枚のdvd、届く。
ひとつは『フィードバック』というもの。遠い関係者の証言とカヴァー曲の音源だけで構成された、なんだか適当にでっちあげた感の強いもの。それなりにやる気は見えるのだけど。インタビューがCDのほうに入っているらしく、その翻訳を読むと、ローランド・カークと共演した、という記述があって、カークの伝記にもそういう記述があったかどうか、記憶にないが、それは興奮した。これは音源ないのかな。
もう一枚は『メイキング・オブ・エレクトリック・レディ・ランド』。こっちはエディ・クレイマーが登場していい話を聞かせてくれるのだけど、なんか尻切れトンボというかもっと細かく全曲にわたって解説してほしい、という欲求不満の残るもの。とはいえノエル・レディングやチャス・チャンドラーとの確執が想像以上に深いものだったことがわかってジミの天才は必然的にそういう分裂を呼んでしまうものだったのだなあ、と考えこんでしまう。

さらに、人文書院様より藤井仁子さん編『入門・現代ハリウッド映画講義』が、boid様より中原昌也さん著『作業日誌 2004-2007』をお送りいただく。どちらも、マニアックすぎて「入門」とか「作業」とかという単語が白々しくね!?www。

あと、篤姫が薩摩を去った。もうずいぶん前から絶対このタイミングで、今泉の父君が倒れる、と思っていたら案の定そうなった。
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2008/3/23

象徴界と決別するということ、か?  映画

スティーヴ・ザイリアン『オール・ザ・キングスメン』をdvdで。公開当時、あまりいい評判を聞かなかったのでなんとなく敬遠していたが、見るとそれはそれなりによい出来だと思われた。ただし、すでにもう古びて見えてしまっているのはどうしたことか。簡単に言えば、これはつまり『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』や『ダージリン急行』、あるいは『ゾディアック』のような作品の登場に原因がある。これらの作品の共通点は前提的な説明がないことだろう。もっと具体的にいえばナレーションや字幕がない。その代わりにそうしたものにつべこべ言わせない説明的スペクタクルとでも呼ぶべきなのか、ストーリーではなく視聴覚的に強引に見る者を作品世界にひきずりこむ力技(面白いことにポランスキーもそうした方法を採っている)がある。ショーン・ペンの類稀な(そして少々食傷気味の)名演技だけで持っていけばよかったものを『オール・ザ・キングスメン』はそれでは不安だったのか、ジュード・ロウのナレーションでぐずぐずとアメリカの言い訳をしでかしてしまう。ロッセン版といいこれといい、煮え切らなさだけで出来ているように見えるのは、アメリカの良心が往生際の悪さを露にしているということか。そしてそれを見ることは必ずしも不快なだけではなく、これはこれでアメリカ映画の持つひとつの魅力、腐敗すれすれのものを見る怖いもの見たさを満足させてくれるものではある。とはいえなんにせよ、もう古びてしまった。二つの血が重なり溢れるのを長々と見せる象徴主義なんていまさら必要ないだろう。
ところで、これからシナリオを書こうと思う人、あるいは演出をしようとする人は、本篇を見た後に特典映像の「未公開シーン」のなかにある「もうひとつのエンディング」を見てみよう。その最後にあるペンの用心棒の男とロウとの別れの場面の演技と台詞(そしてこれが採用されなかった理由)には、学ぶべきものが多くあるはずだ。……ただし、撮り方は間違っていると思うが。
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2008/3/20

桃が咲いている  日常

昼間はどうでもよいことに情熱を傾けて疲れ、しばし半睡状態になった。
夕方、雨の降りだす前に、と薄っぺらな現在をお茶漬けのように書いた掌篇のゲラを渡しに目黒へ。帰り着くとほぼ同時にどろどろと本降りになったな。その後、直前に届いた大人買いジミー・スミス、満を持して夜じゅう一括聴取。五〇年代、めっちゃスリリング。トリオで全員一斉に微分やったら結局がっちり一枚岩化することに気づかされた。もちろんそこまでのテクあってのことだが。晩飯はキムチにナムルにコロッケという一種異様な献立。必ずしも躯にはよろしくないが。躯、といえば先日まで自分が誰かさえあいまいだった母が夫の誕生日を思い出すまでに恢復した模様。いやはや、なんだかんだ言って医学の力は凄い。しかし何より悦ばしいのは父のハイパーテンションなのだった。
深夜、かねて見てコメントするように依頼を受けていた『桃まつり・真夜中の宴』をdvdで。どうやらマイナス1らしく、完全版ではないのだが、一応。監督がほぼみな知人、友人なのであまり褒めるのもどうかと思うが、よい。裏方を固めているスタッフ諸君の力量は自主映画の領域を遥かに超えているが、のみならずその技術に個々の作家の持ち寄る自主映画の最良の部分が絶妙に乗っかっていて、壮観である。なかで、監督脚本主演と一人三役をこなした笹田留美の怪演には本気で頭が下がった。で、これ、たった三人の空間でほぼ立ったり座ったりだけという本来なら鼻白みかねない材料だが、それを見事にカツゲキにしてしまう編集がまた素晴らしいので誰かと思ったら、葛生賢である。まあ、普通なら驚嘆するが葛生ならこれくらいできて当然、と万田さんに投げかけた同じ台詞を葛生に投げかけることになるほどの時間が流れたものだなあ、ともはや感慨深くさえある。また、佐藤有記は小説を書いて受賞しておくべきではないか。あとが楽になる気がする。この場合、佐藤有記だけでなくみんなのあとが楽になる、という意味でw。
それにしても映画美学校というところは、なんだかんだいってホントに優秀な人材が集った場所なのだった。これらに世間の金銭が集中すれば国立大学で過保護する必要などまるでないのだが。これほど映画技術が一極集中している場所も世界を探してもそうそうないのではないか。90年代のフランスを想起させる。どっか優秀な制作部が支えるプロダクションが丸抱えして撮影所状態で食わせてもおつりが来るだろう。
……でもなあ。。。こいつら丸ごといたら、マジ扱いづらいだろうなあwwwすぐさま労働運動とか起こりそうだよ。

うちの桃も、雨に濡れた枝の先に遅ればせな白い花をつけていた。
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2008/3/19

庭いじりが悪いわけじゃない  映画

ようやく春だ。一日じゅう眠い。
記憶困難な名前を持つ『シティ・オブ・ゴッド』の監督による『ナイロビの蜂』をdvdで。私には基本的にハンディキャメラによる生々しさの捏造に対する嫌悪というのが根強くあって、とはいってもハンディがすべてダメということでも生々しさを捏造しちゃダメということでもない、とこれを見ながら再確認した。結局話は元に戻るようだが、そこに意味付けが絡んだときに鼻白むのだ。で、被写体固有の運動がその意味(視点の能動性を含む)に阻まれて見えなくなる。ひたすら身体と運動を綿密に追うためのみにハンディが用いられる場合に問題は感じない。で、残念ながらこの作品は前者だ。それはそうと、最近のこの手の映画ってどうして悪い奴らが逮捕されるところとか処刑されるところとかぶち殺されるところとかをちゃんと見せないのだろうか。あるいは、メル・ギブソン『パッション』はやりすぎだとはいえ、犠牲者の壮絶な死とかぶち殺されるところとかをどうして描かないのだろうか。本作ほどいわゆる黙説法が過ぎるとさすがに訝しく思う。作者よ、お前もその悪い奴らと同じ論理に陥っているんじゃないのか、と。自分は手を汚さずにいられるところで言いたいことだけ言ってようってことじゃないか、と。そういう批判に対して、やらないよりましだとか、誰かが描かないといけないとかいう反論が、ブルジョワ的人間優先の論理とともに投げ返されそうな気がする。そんなもの、映画を利用しやがって、バカ!とか言い返せば済む話だが、あんまり問いつめると最後には自分の足元まで揺らいでくるから危険だ。ただ、記号化してはいけないものを記号化して抽斗にしまうことにならず、できるだけ多くのひとがこの映画を見て解決に乗り出す必要を感じ、直接行動に出ることを切に祈るばかりだ。せっかく利用されるならそういうことでもないと。
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2008/3/18

オリバー・ツイスト  映画

私は意図的に私の言うカツゲキの定義を避けているがそれは定義した瞬間に例外がいくらでも現れるからであり、またこの例外こそが待ち望んでいるカツゲキそのものだからだ。そうしてカツゲキは見るひとが不意を衝かれる瞬間に訪れるものなので、これがカツゲキあれはそうじゃないと他人がとやかく言えたものでもない、という側面もある。たとえば私には『グエムル』のあらゆる瞬間がどうしても予定調和にしか見えなかったが、見るひとによっては胸のすくカツゲキであるのかもしれず、そういうセンスを否定したいとは思わない。ひとによっては『ダージリン急行』で二度繰り返す列車に飛び乗る瞬間を「弛緩したスローモーション」と感じるかもしれないが、私には不意を衝かれるカツゲキ的高速度撮影だった。しかしその理由を口に出して説明する自信はない。説明したって退屈でしかないと思う。なにしろ、こないだもテレビで見ていてあれよあれよという間に涙が溢れて止まらなくなった小津『浮草』の、終わり間際の鴈治郎による若尾殴打場面、あれだって、というかあれこそじゅうぶんすぎるほどカツゲキだった。でもどこにも共通項など見いだせやしない。定義や発見は大学の講義などでやってくれればいい。それで理解できるならそれもいいだろう。で、例外がつぎつぎに現れてそこで行われた定義や発見がやがて忘れられていけばいい。たんにそのほうが楽しいと思う。

といったようなことを考えつつ、ポランスキー『オリバー・ツイスト』をdvdで。たとえばこれは私の言うカツゲキとはちがう。にもかかわらず私はこれを興味深く見た。的確で無理のない説明カットの積み重ね。どこといって審美的でもなければ大袈裟に視覚効果を狙ったところもない。ほんの少しのスペクタクル(しかもそれは『フランティック』ですでに使った手だ)とともにただ淀みなく物語が語られているにすぎない。だがそうした映画の美徳というものだってある。これだって予定調和だ。誰もが知っている物語だ。しかし誰もが知っている物語であるがゆえに映画になりえるということだってある。むしろそのほうが多いくらいだ。いくらあの手この手と繰り出してもそう簡単に映画になってはくれない。この手のもので字幕やナレーションを使って背景などの説明を施すようなことがよくあるが、そういう非映画的な失敗は犯さないのがポランスキーだ。これがヒューストンの『アニー』になりそびれたのには、美女の役がないこととあれほど辣腕なスタッフを揃えようもなかったことの二つしか理由が見当たらない。ポランスキーだっていまどき『アニー』のようにできるとは信じていなかっただろう。かれは妙な欲など出さずいまのかれのベストを尽くした。おそらくやがて記憶から消えていくにちがいないにしても、それでじゅうぶんだ。

……とはいえ、クライマックスの、吠える犬のロングからロープにからまる悪人の後ろ姿のあとによろける足元の寄りが一瞬(ナイスショット!)入ってオリバーの寄り、その見た目的伏せめのぶら下がり、見上げる群集のロング、その見た目的に犬と悪人を捉えた仰角のロング、あとじさりするオリバー、そして溶暗……といった見事な画面連鎖をそうそう忘れられるものではないと思うけれど。
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2008/3/16

(紙製の)叢を揺らす(扇風機の)風のそよぎ  映画

ここ最近私事で面白かったのは、先日ロイホで酔っぱらったとき、話がだらだらとべつの企画に移行してやがてまた何事もなかったように元の話に戻っていったということ。今後やろうとしていることが自分の意識下ではすべて地続きになっているわけだ。そして自分自身はそのことをまったく記憶していないことは言うまでもない。私とほぼ同じ四十二歳でたばこをやめた萩原健一さんは五十五歳で酒もやめたそうだ。私はもうすこし早くなるだろうか。

dvdで『ラスベガスをやっつけろ』。いつもテリー・ギリアムというのは、金がかかった分工夫の足りないラウル・ルイズだなぁとしか思えないが、これは主演二人の涙ぐましいまでの努力に心を打たれないではなかった。特にデル・トロはオーソン・ウエルズさえ想起させた……というと褒めすぎか。その前に『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(久しぶりだが、えらく鈍重に感じられた)を部分的に見直していたせいかもしれない。ギリアムの長所とはむしろ役者をうまい具合に巻き込んで乗せて最良、とまではいかないが、それなりに頑張らせつつその頑張りがくさくならない程度に抑えるコツを知っている、といったところか。でもたとえばエレン・バーキンにはもっといいものがいくらでもあると思う。美術に凝っていると思わせがちかもしれないし実際拘りはあるのだろうが、アニメやCG使わずにボール紙の手作りで実在するものが動くことに執着するルイズのほうがずっと面白いのはまちがいない。グリフィス以来、というかメリエス以来、映画というのはたとえそれがボール紙であろうと実在するものの運動の記録のほうを向いているのであって、意味を還元させるために二次的に捏造されたものには無意味が足りないのだと言わざるをえない。しばしばひとは観念とか説明とか簡単に言うが、ついそういうものを追うあまりにそのカット内の実在するものの運動を見てはいないのだろう。あるいはカットとカットの繋がりにおいて発生するエネルギーを感じ取ってはいないのだろう。インテリのつもりでいる人々に特にそのような見方をする人が多いように思われる。そういうところから言説空間(どこだ、そこは?)においてコーエン兄弟が過大評価され、ウェス・アンダーソンやタランティーノの真に映画的な魅力が無視されるとしたらなんとも悲しいというかお寒い話ではある。そもそもいまさらアメリカの暴力批判などハンター・S・トンプソンの文明批判やドラッグ談義同様、行きがけの駄賃程度の話ではないか。しかし『ノー・カントリー』はあくまで老保安官と先輩の引退した保安官の場面によってエクスキューズされており、ゆえにT・L・ジョーンズが「主演」なのであって、たしかに銃撃戦が音響などでそれなりに盛り上げられてはいるが、それにしてもカツゲキとしては「だからどうした」程度のものでしかない。
私はあくまで、実在するものの無意味な運動に胸を抉られるカツゲキ的な瞬間を味わうために映画を見ているし、作っている。
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2008/3/15

What’s Next?  日常

特に忙しいというわけでもなく、むしろ非活動的な日々。
日曜。ベスター『虎よ、虎よ!』読了。超面白かったと同時にあまりのエネルギーにくたびれた。映画でも小説でも音楽でもそうだが、最近うまいものを食うとくたびれる。
月曜。久しぶりに宮沢さんと会ってテレビ番組のための対談。宮沢さんとの会話はいつでもいいツボに入ってくれる感じがある。文化村通りのブックファーストが無くなっているのをはじめて確認した。新しい店舗(といっても昔の旭屋書店)へ行き、ベスターの『分解された男』を見つけたので購入。その他何冊か。西麻布で飯を食って帰宅。
火曜。前日あまり眠っていなかったので昼まで寝た。するとまた生活が元のシフトに戻り始めている。それは躯には決してよくないのだが。S社編集氏とミーティング、食事。恵比寿の某店で久しぶりに。やはり美味。LJに寄り、某俳優と偶然の再会。朝まで笑う。
水曜。そんなわけでまた昼まで眠り、その後は食事もすべて出前、ほとんどテレビ前から動かず、自堕落に一日を過ごした。アナタハンこと根岸明美さんの逝去を知る。謹んで御冥福をお祈りします。
木曜。昼から東宝で打合せ。夕方、祖師谷へ飯に行き、さらにLJ。某俳優(二名)が途中参加。知人から五月にシネマヴェーラで鈴木則文特集があることを知らされる。すごくうれしい反面、俺は五月東京にいないよ、見れないよ、と切なくもなる。
金曜。昼、美学校試写室にてクローネンバーグ新作『イースタン・プロミス』。いいのだが途中でネタが割れてしまうのとある部分の矛盾によっていま一歩乗れず。難しいところだ。六本木で萩原健一さんの本『ショーケン』を購入、カフェで読む。ひとの大変な人生に対して不謹慎だとは思うが、面白すぎる。夕方から打合せ。かなりいろんなことが明確になってきた。夜も更けてから飯。その後、今週三度目のLJ。
土曜。うちを建ててくれた工務店の方がメンテナンスの打合せに来てくださった。その流れで(というより朝、猫がねずみを連れてきたからだ)家の掃除がはじまり、窓拭きを担当した。夕方、『ショーケン』読了。やはり神代監督のくだりでは涙が溢れた。
いま自分がなにかいろんなことを放り出している気がする。必要なことだと思われるのでそうしている。だがどこかに迷惑をかけていることは間違いない。一方、ここで迷惑をかけておいてのちのちになってそのほうがよかったということになるのではないか、という気もしないでもないが、さてどうなのだろうか。つぎにすべきことはそのときにはっきりするという予感だけがある。
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2008/3/9

あららぁ〜、死んじゃったりなんかしちゃったりして〜(涙  日常

で、「新潮」今月号に掲載された宮沢さんの小説を読んだ。『返却』という名前で、図書館に本を返しに行く話だ。これが非常に「平板でつまらないもの」に近づいており、というかそれそのもののようで大いに感動した。いわゆるレア・グルーヴとか呼ばれるようなある種の黒人音楽のように、それは「平板でつまらない」のだ。そしてここでもまた自分と宮沢さんが目指している場所がとてもよく似ている気がして、なるほどと思ったのだった。二人の亡霊らしき人影を見る瞬間など、まるで自分が書いたのではないかと一瞬見間違えるほど生理的に近かった。こんなにうまくは書けないけれど。
血液検査の結果は良好、四谷から成城へ行き、打合せ。夜は西麻布にて妻とともにある俳優さんと食事。愉快な一夜となった。
作品社様よりハミッド・ダバシさんの『イラン、背反する民の歴史』、INFASパブリケーションズ様より佐々木敦さんの『絶対安全文芸批評』、青土社様より前田塁さんの『小説の設計図』、河出書房新社様より山本精一さんの『ゆん』、以文社様より大谷能生さん門松宏明さん共著『大谷能生のフランス革命』……などが今週の到来物。嬉しい悲鳴である。こんなにたくさんいっぺんに読めんがな。しかしありがとうございます。復刻された『虎よ、虎よ!』を読み終えたら、読みます。
「文學界」でやっている大勢の座談会、まあ中原の発言以上の認識なんてここにはないだろうとは予想はついたが、あれを「私語」だというならブンガクは相変わらず「ぬるい」ということになる。ぬるくて結構、だが中原本人は全然ぬるくないからさらにしんどい。古井氏に「好きという通念にはちょっとつっこむべきものがある」と言ってもらったことで今回はよしとしよう、って俺は関係者か!(笑)

とかふざけていると、広川太一郎氏の訃報が。ああ、トニー・カーチス! ああ、モンティ・パイソン! 悲しすぎる。モンティ・パイソンの彼の新録音を聴くためだけにボックスを買わねばならない。その前にうちのどこかにあるはずの『ボストン絞殺魔』のテレビ放映版のビデオを引っぱり出して見ようと思う。
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