2008/6/30

アテネ経由新潟行き  映画

土曜、ふらふらと出てようやくアテネのファスビンダー特集『キュスタース小母さんの昇天』と『デスペア・光明への旅』。ファスビンダー真の代表作二本をついに見ることができたわけだが、やはりファスビンダーが本気になればなるほど非シネフィル的なIQの高さを発揮せずにおれなくなるのはどう考えても、レトロスペクティヴ的にはきわめて不幸と言わざるをえないだろう。当時のぐちゃぐちゃなドイツ政治状況を実地で知らないかぎり(私も詳しくはないが)理解できっこないのだ。それはストローヴ=ユイレだって同じことだが、かれらにはまだシネフィリーな魅惑が付与されていた。ファスビンダーの試みでは予算のなさをものともしない産業的工夫だけが優先される。それでも映画でなければならないという意志はシネフィルであればあるほど見えにくい。だがこの二作のセットはスタジオシステム崩壊以後の現代映画史上稀に見る計算し尽くされた予算ギリギリのデザインであり、またそれにあわせてどのレンズが使えるかという問題で美学はかなぐり捨てられ、その意味でそれを見習うかどうかはべつとして、ガレルが呟いたようにそれでも決して映画を諦めなかったファスビンダーを讃えるしかない。駄作とはわかっている『マリアブラウンの結婚』や『ヴェロニカフォスの憧れ』を、にもかかわらず何度も見直さずにいられない理由はその点に存ずる。映画こそすべてなのだ。同時に映画がすべてなんじゃないのだ。この矛盾を生きることをいつもファスビンダーだけが諭してくれる。
『デスペア』はクラウス・レーヴィッチの登場と、あのひとはなんという役者なのか、ジャン・ブイーズにそっくりなスイスのホテルの従業員で出てくる男が『パリの灯は遠く』との関連をすぐさま想起させて、そうかここでのファスビンダーはサークではなくロージーに向かっていたのか、と合点がいく。事実、まるで二年前に公開された『パリの灯は遠く』のリメイクにさえ見えるし、主演はロージー常連のダーク・ボガートだ。
観終わってすぐさま新幹線に乗り、新潟へ。『AA』の新潟凱旋上映だ。大里さんの演奏、はじめこそ冷静なノイズでうっとりとしていたが、途中でギターを抱えた辺りからソウルが迸り出て、思わず身を乗り出してしまった。トークの際に手持ち無沙汰に借りたギターがグレコのP90型のPU付きSGモデルで、これがかっちょよくて欲しくなった。
ところで新潟、いつのまにか驚くほど立派な映像専門学校ができている。長年の粘りが実ったと言うことか。あそこからなにかがでてくることを大いに期待したい。
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2008/6/28

ランボーVSミストが観たい!  映画

ちょっと外にでも出てみればなんかやる気も出るか、とユーロスペースへ行ったのは木曜の朝。

いくつかの用件をこなしたあと、シネマGAGAで『ランボー最後の戦場』。
いやぁ、笑った!泣いた!しかも唖然とするほどの短さ。ここまで来るとまだ足りないとか思うから人間の破壊欲というのはおそろしいよ。個人的には、とうとう本性を現したランボーが放った何本めかの矢が兵士の頭にぶっ刺さるところで、来ました。あと破裂させた爆弾のパワーの凄かったことね。クライマックスの銃撃戦がもうひとつ来なかったのは、ランボーがずっと鉄板の陰に隠れてたからなあ〜、肉弾っぽくなかったのがちょっぴり残念。もちろん人体破壊は堪能しましたがね。けどデザイン的には最初の地雷原徒競争の、ロングで血の袋が破裂する感じの絵が実は一番画期的だったかもしれないね。『プライベート・ライアン』以来、完全に戦闘シーンの定番と化したらしいシャッター開角度狭める撮影も実にうまくいっている。ヤヌス・カミンスキーさまさまだ。しかしランボー、結局宗教団体の坊ちゃまお嬢ちゃまの命を救ったおかげでかつてとんでもないことをしでかした故国にも戻ることができました、みたいなラストにはびっくりした。ありかよ、それ。次回作で世界中のテロリストが復讐しにランボー家を襲う、というのがぜひ見たいです。内田吐夢の『真剣勝負』みたいな映画になるのかね、ははは!

で、なにげに朝まで呑んでしまったので昼過ぎまで寝て、夕方最終日の『ミスト』に駆けつける。
わが映画人生史上最悪というほどの後味でしたが、一晩呑んだら忘れることができました。でも本当に嫌なエンディングだったんで、友達に電話したほどだ。原作はおそらく「エルサレムズ・ロットの怪」と並んでスティーヴン・キング作品のベスト2(と言ってもその頃の作品しか読んでないが)と考えられる「霧」だが、少なくともクリーチャー関係は大学時代に読んだときに受けた感銘がそのまま映画になっていた。この監督の映画を面白いと思ったことはないし、今回もごく類型的なキャラクターを並べて小社会をつくっているに過ぎないとしか見えなかった。犠牲者はことごとく因果応報という言葉を想起させられるのでうんざりだし、車に乗ることに成功したメンバーはランダムに見えてちゃんと全員他人の擬似家族になっている予定調和にも呆れた。それだけ見てもこのひとには類型を極めて類型を超越するアルトマン以降の群像劇をつくる技術はないとわかる。だが、このひとの持つ悪意にはひどく悲しい側面があり、ちょっと気の毒にさえ思う。これがスピルバーグ『宇宙戦争』の結末が持つ不自然さへの心ある批判だということはわからないでもないが、やはり映画でここまでやる必要はないのではないか。というより、こうした絶望とか宗教観とか政治観などはあまりに複雑すぎて映画向きではない。『グリーンマイル』もやっぱりそうだったが、映画にすると結局類型を並べただけの、まるで『カラマーゾフの兄弟』のような通俗的なドラマになってしまう。さらにそれが論理の交錯に陥るとなんでもありになってしまう。こういう曖昧な結論を持つ余裕は映画にはない。だいいちこれじゃあ自殺したくてもできない世界中の難民が怒るぜ。映画はやはり『ダージリン急行』や『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のようにシンプルであるほうがはるかに高級だ。

というわけで酒を呑みつつテレビで舞台『越路吹雪物語』を見てギンギンに泣き、さらに『資金源強奪』を見て大いに笑い、あの嫌な気分を忘れたのだった。

それにしてもアメリカ映画はなんでこうも怪獣=でかいものに拘るのか、平和ボケのなかの平和ボケ批判もそろそろやめればどうかと思う。原爆落とされた国も『ゴジラ』作ったのはそれから九年後だったが、べつにお前ら原爆落とされたわけじゃないんだから。ちまちましたおしゃべりを見せられるのも閉口するが、いちいちでかい怪物がでてきて呆然、というのにももう飽きた。ランボーがあれら未知の怪物を倒していく血みどろの戦いのほうが絶対マシだ。
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2008/6/25

負けるな!アサイヤス!  映画

数こなせばそのうちやる気も湧くだろう、と他力本願なDVD三昧。
昨日今日は『アイ・アム・レジェンド』『レディ・アサシン』『ヒルズ・ハブ・アイズ』。
『アイ・アム・レジェンド』は二つラストがあってその両方のヴァージョンが二枚組で入っていた。で、二つを見比べたり、メイキングを見たりして気づいたのだが、後半で女の子が「大聖堂」を見るシーンがあってそこが女の子を演じた女優にとっても製作陣にとっても見どころのように(この作品が非常に宗教的だから許可がおりたのだ、という自慢もあった)語られているが、肝心の「大聖堂」のシーンは両方のヴァージョンでカットされている。で、差し替えになったラストというのはどうやら自爆テロに賭けられたようにも見え、宗教的ではあっても不採用になったラストの共生(これまた中東的)を目指す感じと同様、あからさまに反キリスト教的なのだった。そもそもキリスト教って自殺禁止だしな。グラウンドゼロという言葉がしきりに使われていたのもそういうことかと。ラストにメリーランドの「約束の地」に至るので、えらく矛盾しているようにも見える。しかしまあいずれにしても頑張ってはいる。ミュータントの動きが『コンスタンティン』の地獄の悪鬼とあまり変わらないのにちょっと笑った。あと、暗闇で輪になって立って寝ているミュータントたちが、なんだか昔雨の日にリュクサンブール公園で見た馬たちを思い出させ、えらく不憫に思われた。
二つのヴァージョンといえば『ヒルズ・ハブ・アイズ』は、見始めるまで気づかなかったのだがウェス・クレイヴンの『サランドラ』のリメイクで、といったって昔見たきりまったく忘れているので共通点とかまったくわからないからオリジナルとして見るのとまったく違わないのだが、これがまた頑張っている。どうやらこの監督と脚本家はフランス人でゲイカップルらしい(これまたメイキングを見たんでそう感じた)が、フランスではなくアメリカで撮って正解……と思ったらこれ、モロッコで全篇撮影している。モロッコ行ったとき、あ、ここ絶対西部劇撮れる、と思ったからなあ。で、核実験だ。『インディ・ジョーンズ』にこれをやれ、とは言わないが、私は圧倒的にこちらに好感を持った。核実験場のマネキンの使い方も『インディ』より格段にいい。で、ここでもミュータントが出てくるわけだが、ド派手なアクションをやらかす大男がやたらめったら窓やら壁やらぶっ壊して入ってくるのには笑った。あの大活躍する姉の婿は当然『わらの犬』のダスティン・ホフマンなんだろうけど、アメリカ国旗首にぶっ刺すなんてしょぼいことせずにどうせなら熊バサミで思い切り行って欲しかったなあ。あとビリー・ドラゴが死体の心臓食うとかかなりパワフルな演技を見せているのだが、ひとりだけ畸形じゃないので、あれ、いいのかな、とちょっと心配した。もしかするとこいつは核とは関係ないホントの変態、という設定だったのかもしれない。ちなみにこの二作、両方ともシェパードが出てくる。ホラーといえば猫、という時代は消えてしまったのかなあ。
で、このフランスの子たちはあっさりアメリカ資本を受け入れて、まあアメリカ人にモロッコで撮らせたことは偉いと思うものの、とにかくアメリカ映画をこしらえてしまったわけだが、それはある意味簡単なことで、オリヴィエ・アサイヤスがアメリカ資本なしでアメリカの友人であることに踏みとどまりながらアメリカの友人としての映画を作ることの困難さとは比較にならない。初見と印象はほとんど変わらなかったが、不器用ながら自作の美術監督(会ったとき、こいつは映画栄えするな、と私も感じていた)まで動員してぎりぎりのところまでアメリカ映画と勝負しようとする執拗さに、負けるな!アサイヤス!とどこかで聞いたことのあるような台詞を心で呟いていた。
そうして私自身もまた、やはりこの茨の道を歩むしかない、とあらためて決意が固まったのだった。
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2008/6/24

No more Lucas, one more Jones  映画

公開もはじまり、大ヒットも記録するようだからそろそろ告白しようと思う。といってもそんな大袈裟な話ではなく、誰もが口にする『インディ・ジョーンズ』最新作の許せなさのことだ。最新作だけではなくスピルバーグの中でこのシリーズだけはどうしても好きになれなかったのだが、その原因は今回もまた誰の目にも明らかなとおり、スピルバーグが演出放棄していることに起因している。スピルバーグが大のハワード・ホークスファンであることは有名だが、あからさまにアイデアをパクった前科はない。冒頭でつまらない象徴主義気味のことをやっているインディのトレードマークである帽子、あれはエロール・フリンの引用であり、だからホークス(ボガート)とは関係ないことは有名だし、知らないうちに(「乱暴者」の)子供がいるなんてネタだっていかにも性豪エロール・フリンに相応しい。しかしここでは『ピラミッド』の、あの名高い砂を用いた装置が堂々とパクられており、その上それによってボブヘアー、つまりクレオパトラ的な髪形の女が消滅するのだから、これでは引用ではなく剽窃に他ならない。せめてアレクサンドル・トローネに大々的に謝辞を捧げるのが筋だろう。いわゆる縦のものが横になる(もしくはその逆)スピルバーグ的単純明快スペクタクルにしても、一見そのように見えるあのピラミッドを構成している塔が左右に倒れる画面、『ジェラシックパーク』のクライマックスを『赤ちゃん教育』のスラッシュなコピーで見事に締め括ったスピルバーグがあのような弛緩した運動としてそれを撮ることはないだろう。ましてやあの滝から車ごと落ちる、信じ難く凡庸な非スペクタクル。地中からUFOが現れる場面にしても、あれが『宇宙戦争』を作った男の仕事だろうか。まさか。では誰が? もちろんルーカスに決まっている。あれら弛緩した運動も『黒い絨毯』のパクリも『スター・ウォーズエピソード2・クローンの攻撃』を作った男ならではの演出だ。それを言うならそもそもの冒頭から、『アメグラ』よ、もう一度、といった風情ではないか。そうしてさらなる疑問。スピルバーグがDLP上映を許すだろうか。ルーカス自身が告白しているように、スピルバーグがHD撮影を認めなかったとしたら、その同じ男が安物の飴玉みたいな色彩のDLP上映を許すとは考えにくい。
だが、だからといってこの駄作に監督としての名前を貸したスピルバーグに罪がないとはいえない。やはりあの、きのこ雲のデザインの紋切型ぶりも含め、あれをあの距離で見てその後身体に異変を来たさないアイゼンハワーシンパの考古学者という悪しき御都合主義への加担を許すわけにはいかないだろう。たとえば、被爆したインディ・ジョーンズが改心して苦労惨憺した結果ついに大統領暗殺の計画を突き止めるもその日、すなわち1963年11月22日、阻止できぬままイエールの暗い研究室で白血病なり甲状腺ガンなりに苦しみつつ死んでいく、といった最悪の完結篇を来年以降撮って汚名回復するなら、この件は執行猶予にしてやってもいいけれど……まあありえないね。しかしその規模の「爆弾」が次回作で落ちることを期待してはいる。
あと、本作中ジョン・ハートとケイト・ブランシェットだけはいい仕事をしている、とことわっておきたい。
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2008/6/22

ラバ君とジミー君  映画

雨だし、引き籠ってDVD見るしかないでしょう。というわけで……。
たとえば『憎しみ』なんていう映画がかつてあって、なんだかえらくスタイリッシュで嘘くさいよなあ、といった感想で流した記憶しかないのだが、ラバ・アメール・ザイメッシュ監督はそれから五年も遅刻しつつ、処女作『ウェッシュウェッシュ』で自分の育ったパリ郊外の集合住宅にえらくぶっきらぼうなキャメラを置いて自ら主演し、さらにそれからまた五年をかけて故郷のアルジェリアをぶらぶらしながらそこで二作目『ブレッド・ナンバーワン』のやはりぶっきらぼうなキャメラを置き、するとようやく二年という短いスパンでどことも知れぬ郊外に砦を築きつつ、かといってその場所の所有権を主張するでもなく、あくまで仮にここにいるだけだが、という曖昧な顔で最新作『最後の抵抗』にも再び現れて浮遊したり殴られたりしているのを見るにつけ、たとえばペドロ・コスタがそうであるように、ああこの男は信じるに足る映画作家だなあ、と思えるのだった。そう、この男はつねに自作で主演している。イーストウッドのように、というべきかカサヴェテスのように、というべきか、いや、どちらともちがう無責任な素人としてキャメラの前に突っ立っているのだ。しかし実は、無責任な素人として自分を晒すことで監督としての責任を果たしているのだ。いや、そうか、面白いなあ、と思っているとなんだか次々に映画が見たくなって買っておいたジェームズ・グレイの前作『We own the night』も見てしまう。デビュー作『リトル・オデッサ』同様、超濃厚なロシア系家族の警官VSギャング抗争。思い出されるのは自分の最初の映画完成直後(96年前半ね)に『憎しみ』も『リトル・オデッサ』も見て、『憎しみ』のほうはべつにどうでもよかったけど『リトル・オデッサ』には呆然としたんだよなあ。出自ってことでその二本を比べると明らかに『リトル・オデッサ』には嘘がなかった。それで凄く共感したんだった。ラバ君への共感も同じところにある。要はキャメラを置く場所だ。で、いま見た『We own the night』はいつもながらホアキン・フェニックスが素晴らしいホアキン芝居を見せてくれて、またマーク・ウォルバーグも最良のウォルバーグ芝居を見せてくれるんで、いやだからスコシージなんか要らんって、とつくづく思われるのだった。スコシージ、こんなにうまくロバート・デュバル使いこなせないし。またホアキンの彼女役のエヴァ・メンデスてゆうねえちゃんがよくて、夜の奇襲だったり雨中だったり背丈ほどの高さの叢だったりする拳銃がらみのあれやこれやもすべて最高だし、文句なしですよ。いや、集中しすぎて疲れちゃったよ。なぜこれが日本では公開されないのかねえ。もったいない。

PS:『We own the night』、某社がお買い上げとのこと。某社さん、公開しましょう!それとエヴァ・メンデスはパリで見逃したレニー・ハーリンの新作『クリーナー』にも出演している。いまから楽しみだ。
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2008/6/21

残務処理がはじまった(らしい)  労働

そんなわけで失業者である。いままで映画監督なんて作ってないときは失業者だよと気楽に話してきたが、ここ数年企画を進行させていない時期というのはなかったので、実際に失業してみるとどうも心に風穴がぽっかり空いてスースーする。スケジュール表からすべての予定が消えて真っ白になった。ああホントに流れたんだなあと思う。けれど、まだちゃんと実感できているわけでもない。なにをする気も起きない。自分のせいだから仕方がないけれど、寂しい。仕事仲間とはつらくて会いづらい。会えばバカ呑みになるがこれ以上呑む気になれない。ひとに会うために家から出る気力そのものが失せている。こういうとき家族がいてくれるのが唯一の救いだ。あらためてありがたみを知る。原稿を書いて時をつぶした。仕事人間なのか、俺は。仕事がないと生きていけないのか。そういう人間ではないつもりだったが。とりあえずもうしばらくこのぼんやりとした状態でいよう。来月になったらつぎのことを考えよう。
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2008/6/20

貯金通帳とハーモニカの六八年  映画

二年がかりで準備してきた仕事がいよいよというところで座礁した。こうした経験は初めてなのでちょっと呆然としている。酔ってどこかに右半身をぶつけて怪我(顔面と腕)しているが、記憶にない。
それはそうと『兄弟仁義・逆縁の盃』である。北島三郎の貯金通帳と遠藤太津朗のハーモニカである。これらのあり方によって鈴木則文がサム・ペキンパーと同世代の作家であることが確認される。たとえば、冒頭の出入りで負った腕の怪我を川で洗う北島三郎がふと見る母子の花火を、マキノ雅弘ならばカットバックにせず同一フレームに収めるようにキャメラの流麗な移動を求めるだろう。加藤泰でもやはり同じようにすることが予測される。だが則文はきわめて端的なカットバックを選択した。こうした抒情の美学的な「無視」が則文なのではないか。この映画を見ると、その世代の違いがはっきりと刻印されているように思われる。則文初期はまさにその堕靡泥の星を己に刻みつける時期かもしれない。これほど期待される抒情に対してノンシャランとした態度を見せる映画も珍しい。加藤泰なら情がこちらの涙腺を煽りまくるにちがいないシーンも、則文はそう撮ろうとはしない。北島三郎は芝居がうますぎるので、則文的にはかなり頭をひねったにちがいない。その後、水を得た魚のようにド素人と芸達者を共演させていく則文はすでにこの段階でポストモダンを求めていたのだ。六八年にこれを撮った則文が大島や吉田を気にしなかったはずがない。あえて添え物におけるゲリラ戦を択んでいく則文が、神代のようにかれら同様、ときにはかれら以上に過激であるのはこれら初期の蓄積があるからかもしれない。
それにしても文太がいよいよ単独での殴り込みを宣言した直後、♪俺の目を見ろ、なんにも言うな〜、と来る主題歌「兄弟仁義」のあられもなさにはかなり絶句させられた。この精神が実に『大いなる助走』にまで脈々と継承されているのだ。
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2008/6/15

『パンツの穴』の偉大さ  映画

土曜は『パンツの穴』と『シルクハットの大親分・ちょび髭の熊』。見たつもりだった『パンツの穴』は記憶にないので初見のはず。というかこれを忘れてしまうようなら映画監督などやる資格はないだろう。しかし高校生との決闘場面のエンディングは某拙作とあまりに発想が同じで、実に肝を冷やしたが。それが武田鉄矢だというのにも参ったし、そもそも主人公が博多からの転校生というのも、さらには不良高校生を演じるのがT原K補氏だったというのも、あまりにもな偶然。ところでこの映画の凄いのは、一切則文的主題体系が現れないにもかかわらず、則文以外には撮れない映画になっている点にある。唯一、主人公の家が坂の上にあるという設定が「宙吊り」を喚起させる、ということはあるにしても。肥溜めに「落下」する、というありそうなことがないのは時代に由来するだろう。監督の子供時代まで遡れば、それこそ『パンツの穴』の原型が現れるにちがいない。だがそうしたノスタルジアをまったく禁じ手としてしまう則文の根無し草的態度に、惚れ直す。さらには菊池桃子の弟をやっている子役が固定画面の芝居の最後にシャボン玉を吹いて飛ばすのを忘れてアウトしそうになり、慌てて戻ってきてやるのだが失敗し、失敗しちゃったというように悪びれた顔をするのだが、主人公の山本陽一が「いいから」と追い返す一連を、監督はカットせずそのまま残した。このことも感動的だ。芝居という名のドキュメンタリーがそこにある。『伊賀野カバ丸』のストロング小林でもこの映画の上田馬之助でも、あちこちに登場する田中小実昌や団鬼六でも、芝居の上手下手を無視して存在として登場することが感動的なのだ。それが映画の感動なのだ。そのことがいま忘れられている。一方に芸達者がいて一方にはド素人がいる。それが映画だ。
『ちょび髭の熊』はちょっとすれすれの感じがある。すれすれというのはほとんど不敬罪として存在しているにもかかわらずそうと見えない仕組になっている、ということだ。それはよほどの戦略家でなければできない。これに成功したのは神代辰巳と則文だけではないか。藤村有弘の貴重なフランス語披露を見ることができて幸福。由利徹の医者が笑いを通り越して感動的。前作で死んだ伊吹吾郎が瓜二つの弟で登場するのも、竿師団平の再登場同様にでたらめなご愛嬌である。お竜との道行きでつとお竜を振り向いてしまう虎吉は、ひたすら同一の眼差しを寡黙に醸成していくことで決闘への意志を高めるマキノや加藤泰とはちがった、則文独自の道行きとなっていて、良し悪しは関係なくこれまた感動的。
トークで中原君が「ノスタルジーではなくなぜこのような映画がいま作られないのか疑問」と繰り返していて、同感。その片棒を担いでいるやつが言うな、と言われたらそれまでだが。中原が拙作にもっと出てくれたら文句ないのだよ。打上げの席で、監督が某拙作のなかで女優が主人公の腕をぐっと掴むところを褒めてくださった。このことを私は一生忘れないだろう。うれしかった。
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2008/6/14

則文まつりはつづく  映画

忙しい。だが則文まつりはつづく。
『現代ポルノ伝・先天性淫婦』は『聖獣学園』の雛形ともいうべき出だしから、成瀬と溝口がドラマ内部に折り畳まっていく、というかひたすら映画を生業とする者の意識されざる常識としての成瀬や溝口が泡沫のごとく現れては消え、さらにその後『大いなる助走』まで収斂されていく身を棄てての復讐譚へと怒涛のごとく展開する。だが則文的な運動というのは、京都に撮影所があり東京に自分の居場所があるというそれだけの理由で、京都と東京の往還に根差す、その単純さが感服のポイントだ。これはまるでヌーヴェルヴァーグを先取りした四〇年代活劇が忽然と七〇年代に現れたような畸形的な出来事だ。逆にいえばこれぞ鈴木則文の神出鬼没さの由縁かもしれない。サンドラ・ジュリアンの、世にも美しい登場に、はじめて池玲子がかすんだ。しかしその後にジュリアンを襲う淫夢の途方もなさ。重要人物(遠藤太津朗)をワンノブゼムとして紋切型のなかからさりげなく登場させるやり方や、宮内洋の行きつけのおでん屋台のある路地を決して切り返すことなくその上雨まで降らせて撮りきる勝負勘(これはそうとしか言えないイチかバチかの賭けだと思う)、さらには睡眠薬をもるというライフルマニアらしからぬ方法を二度用いる渡辺文雄が妻とその浮気相手を眠らせて出て行く後姿までの経済的な捌きなど、『すいばれ一家男になりたい』とともに中期則文の幕開けとして充実しきった演出を見ることができた。
『伊賀野カバ丸』もやはり京都と東京の往復である。しかし『華麗なる追跡』や『コータローまかりとおる!』を先に見てしまったせいで、志穂美悦子がいつ「変身」するか思わず待ち構えてしまった(「変身」はラストの千葉真一だった)ことも含めて、過渡期的な幸福がある。宙吊り、落下など主題も出揃っている。太秦の遊戯的な活用法もすべることなく真田広之の見せ場となる。しかしいくら食いしん坊だからといって主題歌が〈イート・ザ・青春〉というのは直球すぎて呆れるしかない。これではほとんどシブがき隊ではないか。八〇年代にも則文的なるものは徒花となって現れる。
『女番長ゲリラ』ではアクション部分の完成を感じた。まだ見ぬ『恐怖女子高校』シリーズがいまから楽しみだが、これはこれでまた独特なパワーがあるし、理由はよくわからないが、則文映画ではじめて泣いてしまった。まあ囚われた妹を逃がす組織内部の兄の密かな情にほだされたわけだが、つい先日ある俳優と妻と三人できょうだいを描くことについて語り合ったばかりだったから、その点ではおおいに参考になった。ところでここでは東京と京都の往復になぜか土肥が挟まっている。空撮も『温泉みみず芸者』の使い回しである。予算不足を補うこの徹底した御都合主義。しかしそこであらためて大泉晃(ホントはさんずいがある)を牧師に仕立てて、見えないもの=宗教と性病を混同させて感染させる則文ならではのエピソードを実現させている。救いはどこからも訪れない。自ら生き延びること、ただそれだけが救いなのだ、と則文は反宗教として戦後を語りつづけた。ここでも自らの身を棄てての復讐がなされるが、言うまでもなくそれは特攻精神などとは百八十度ちがった、ひたすら個人的な自己犠牲だ。時限爆弾(また「時計」だ)をつくる杉本美樹と「私は行かない」とはっきり宣告する池玲子の背景を彩るホリゾントの夕暮れの崇高な美しさ。だが運命は敵に自らの墓穴を掘らせる形で杉本を救う。それと同時に池玲子の愛した「故郷」は抽象的に失われるのだから、このシニシズムの裏返ったところに則文の磁場は形成されるのだ。アクションに必然的な距離がドラマを実現する『女番長』シリーズではその部分が純化されて現れるのではないか。杉本と成瀬正孝の間に交わされる恋愛を超えた動物的交感がすべての行動原理へと収束していくのもそのためだ。『牝蜂の挑戦』を見逃したことが悔やまれてならない。
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2008/6/10

山口冨士夫と345問題  ギター

日曜に再版されているのを見て入手した山口冨士夫『So What』読了。久しぶりにフジオちゃん節を満喫。ネットを検索すると病気で入院していたらしい。忌野清志郎さんといい山口さんといい、重要なミュージシャンが次々に病に倒れるとはどういうことだ。忌野さんは復帰したが、山口さんはまだ病院らしい。一日も早い恢復を祈る。
私は昨日から酒を止めている。
それはそうと、本書のステージ写真のなかで、村八分時代の山口さんがES345だか355だかわからないギターを使用しているものを発見した。これは前に書いたキースが映画のなかで使っていたものと同じく、ヘッドにレスポールカスタムそっくりのダイアモンド型のインレイが入っていて、ポジションマークもブロック型だ。で、キースのはアームがビグスビーだが山口さんのは板バネ式のやつ。でもロータリースイッチ付きで、だからどっちだかわからないのだが、ルシールであってもなくても345か355からセミアコのネックはレスポールカスタムそっくりだということだ……ということで、ひとつ勉強になった。
ちなみに、この写真のギターも山口さんも、超かっこいい。
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