2008/7/30

そんなサークのひとりごと〜3  映画

「わたしがこの企画の話をしてまわったとき、みんなに「なんてタイトルだ、その『標識塔』っていうのは。まるで電気関係の用語みたいだ」って言われましたよ。プロデューサーのザグスミスは「空中セックス」って名づけたがってましたがね。脚本のザッカーマンが「錆びついた天使たち」にするって告げたとき、ザグスミスの開口一番の言は「ベッドは地上にあるんだ。天国にじゃない」というものでしたよ」「原作は完全に映画用に脚色されたが、登場人物のほうはフォークナーにかなり従っているはずです。ロジャー・シューマンは自分の正体をつきとめようとしている。この男は足が地についていない。足元の地面はまったく安心感を与えてくれない。で、彼は空中に確実さを求める。これは狂った考えだ。そして、すばらしい考えだと思う」「(デヴリン)は、空のインディアンのような飛行機乗りたちの狂った世界を映し出す小奇麗に磨かれた鏡なんです」「彼がまったく動じないってわけじゃないところも気に入ってます。彼は変わるんです。最初のうち、彼は驚きの目で見つめ、かなりウブで、出来事を映し出す鏡に過ぎない。エキセントリックで一見人間離れ人間たちと、そのアクションの反道徳的イメージを映し出す鏡にすぎない。はじめのうち彼は、飛行機曲芸をやっているシューマン一座に心を動かさない。でも、そのうち彼の自覚が高まっていく。生半可な好奇心が憧れへと高まっていく。それはセクシャルなものでもあるし、ブルジョワ世界の型に嵌った彼のお行儀よく梳かされた髪や、お行儀よく整頓された精神のなかに、もともとあったものでもある。で、けっきょく手堅い靴で地面を踏んでいる自分よりも、空のジプシーたちのほうがずっと足が地についていることを悟るんです」「この映画はかなり受けましたね。で、ザグはわたしと「征服されざる人々」(フォークナーの小説)をやりたがったんですが、実現しませんでしたね」

「これは変わった類のラヴ・ストーリー、状況に条件づけられた愛の物語なんです。ふたりは自分たちの愛を持つことが許されない。周囲の殺人的な吐息が彼らの愛を妨害するんです。ふたりは廃墟から廃墟へと駆りたてられる。愛する者には愛するための行き場所がないんです。昔ながらのレストランのシーンを覚えてますか? 愛するふたりは、失われた過去の人生の模倣をするんです。そこには幸せなときがある。そう見える。食べ物もある。くつろがせてくれるランプもある。光がある。ふたりの愛が世界をもとに戻す。ドカーン! それが破壊されてしまう。わたしがやりたかったのは、彼らの愛と廃墟の関係を描くことだったんです」「でも、わたしはそんなに悲観的じゃないんですよ。ときどきそう見えるかもしれませんがね。わたしは幸せを信じてます……。幸せは存在しなくちゃならない。じゃないと幸せを壊せないでしょ。完璧な幸せなんてへたっくそな詩みたいなもんですよ……。『愛する時と死する時』に「ハッピーエンド」がつけられていたら(中略)愛するふたりが幸せのわずかな時間に交わす痛々しいまでの優しさは伝わってこなかったでしょう。破滅を運命づけられたものだけが、ここまで痛々しい優しさを持つことができるんです。長続きするものにもそれなりの美しさはあるでしょう。でも、そこには束の間のものだけが発するあの不思議な力はないんです」「この映画には上出来の戦争の場面があるし、ハリウッドにありがちな嘘っぱちじゃないと思ってますよ。で、敵の姿が見えない。ここはとても気に入ってます」「ドイツ人は、亡命者が戦時中のドイツの生活を描くのを許しませんでしたからね。どんな描き方であってもね。五十年代後半のドイツでは、だれもかれも自分を憐れむことに徹してたんですよ。今でもそうですよ(中略)これが、わたしがドイツに住めなくなった理由のひとつです」「(グランドピアノのうえの焚き火の場面)はカットしたかったですね。(中略)あからさますぎちゃいけないんです。ナチスについての映画は、たぶんもっとあからさまなところを避ける必要がある」

……『翼に賭ける命』の後半、飛行機のオーナーのところへ行こうとするドロシー・マローンをアパートの階段で引き留めるロック・ハドソンのジャケットの襟が立っているところがある。どうするのか、と思って見ていると、その襟を会話の終わりにマローンが直すのだ。これはどういう発想から出てくる演出か。女と男が親密になっていくための接触として「襟を直す」というのはかなり常套手段だとは思われるが。ちなみにその後もハドソンの襟が立っていることがあるが、そのときはいじらなかった気がする。飛行機修理の朝、ハドソンが目覚めるとたくさんのかもめが宙を舞っている。それを見上げ、つづいてまだ修理を続けているパイロットとメカニックを振り返る。かれらは自分よりかもめと同類(JLG……)なのだ、と考えるように。あと、本日の二作ともに街娼が出てくる。『翼』のほうは会話を聞かせずにそれと分からせる。それにしても『翼』は見直せば見直すほど、その異形なる頽廃に冷え冷え感が増す。逆に『愛する時』は見るたびに目から湧き出す濁流の量が増す。あからさまに対照的な、しかしどちらもサーク純度の最も高いもののうちの一本であることはたしか。『愛する時』でもプロポーズの直前に当然のごとく「着替え」があった。しかも男女双方で。あと「素肌の傷」というのも『アパッチの怒り』などと繋がりつつ、最終的に『悲しみは空の彼方に』の、スーザン・コーナーの褐色の肌へ結晶されることになる。クラウス・キンスキーの登場とともに後方のお客さんから「うむ」というような低い唸りが上がったのが可笑しかった。キンスキーはひとを徹底的に見下しながらへんに甲高い声で喋るキンスキーにしかできない変態芝居をすでにここでしていて、超素晴らしかった。同じゲシュタポでも、ピアノの上で焚き火する男の数倍、非人間的。このキンスキーと対照にあるのが、窓枠のパセリの鉢植えだ。究極のリリシズム。

……本日、つっこみどころ、なし。てゆうか日々、完膚なきまで魂抜かれてるぜ、ダグ。
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2008/7/30

そんなサークのひとりごと〜2  映画

「しなくちゃいけないことは、とことん嫌って愛することです。『心のともしび』の素材に対する私の最初の反応は、困惑と嫌悪でした。それでも、その非理性的なところに惹かれたんです。ある意味での狂気にね。オブセッションにね。こんなものがあっていいのかと思えるほど、おぞましく狂ったストーリーですからね」「狂気はとても重要で、それが『心のともしび』のような馬鹿馬鹿しい素材を救ってくれるんですよ。これが弁証法です。高尚な芸術と馬鹿馬鹿しさのあいだには、ほんのちょっとの距離しかない。狂気の要素を持っている馬鹿馬鹿しい話は、まさにそのために芸術に近づくんです」

「マクマレイもスタンウィックも見事だった。でも、もうひとりの女性の配役(たぶんジョーン・ベネット)と脚本に難点があったんだと思いますよ。それに、この映画には、もともと予定されていたカラーが必要だった」「要は子供はほんとうに純真なのか、ということです。わたしはそうは思いませんね。子供が持っている純真さは壊されてしまうんです。子供は純真さではなくメランコリーの象徴なんです。映画ではふつう、新しい世代が登場することを見せるために、最後に子供を出す。わたしが自分の映画で見せようとしたのは、まったく逆のことです。これは何度も繰り返される悲劇の幕開きだと思いますからね……」「明日は昨日で、フレッド・マクマレイは、いまだに自分の玩具で遊んでいる」

……運動!運動!運動!ですべてを推進していく(いかずにはいられない)『心のともしび』の二年後に、あらゆる要素をフレーミングと反映(これはすでに『南の誘惑』の庭の池で半ば無意識に試されている)に還元してみせる『いつも明日がある』へ至る。それにしてもどうして雨のロサンジェルスの花売り娘からこの物語を始められるのか、その発想の源を理解できない。のちのちの、襟につける花の連鎖に繋がることはわかるとしても、プロデューサーをこれで納得させる(もしくはプロデューサーがこれを納得する)ことがありえるのがわからない。現在では望むべくもなく、可能性さえ棄ててしまっている発想だと思われた。これはもうほとんど野田・小津コンビの域に達しているというべきではないか。「脚本に難点」が? まさか。この脚本は完璧だ。あらゆる「よくできた脚本」が腑抜けにしか思えない。フレッド・マクマレイがリゾートに行く際に新しいスポーツ・ジャケットに「着替え」る。息子が「目撃」する際にスタンウィックは、寒いからとショールを取りに部屋へ戻る。息子の恋人が「密告」しようとするとジョーン・ベネット(おそるべきドS顔)がスタンウィックの見立てた服を「試着」して現れ、それを「妨害」する。息子と娘が押しかけたホテルの部屋で、スタンウィックはいそいそと口紅直しをするが、その果てに彼女の顔にかかるのはガラスの向こうを流れる雨の影である。それらがたとえ元のシナリオに書かれていなかったとしても、これらが完璧でないと誰に言えるだろう。盲目のワイマンが博士たちの声を聞き分ける時点ですでにロブ=ボブ・メリックと気づいていることがわかる『心のともしび』の百倍、洗練されている。もしあのロボットがテーブルから落ちていれば、それは露骨過ぎる表現で、洗練からはかけ離れていたことだろう。あのロボットが落下する、それを観客が想像するだけでよい。それが洗練ということだ。そのおかげで人類の凡庸さは救われる。
それにしても、サークの「顔を見せない」演出は卓抜すぎて、どうやって指示するのか知りたくてしかたない。あるいはラッセル・メティが「ここは影にして表情をわからなくしよう。そのほうが洗練されている」などと耳打ちするのか。いずれにせよ、凄い、の一言に尽きる。あの、スタンウィックが部屋に戻りカーテンを閉めたときに、さっと闇に消えるマクマレイの顔。残念だが成瀬も増村もこうしたことはやれなかった。やれたのは溝口だけだろう。しかも、あれらの物語にかろうじての信憑性を与えているのは、実のところ俳優たちの「顔」なのだ。

……とまあ、一晩経ったらあれこれ言えるのだが、見終わった直後はあまりに凄まじい人間描写のためにただ呆然とするしかなかった。これほど呆然としたのは『残菊物語』以来だ。あまりのことに言葉を奪われた口を呑むつもりのなかった酒で塞ぐしかなかった。

……でもダグラス、悪魔のようにドMな画家が「監視」する窓のあるあの手術室、いくらなんでも豪華すぎくね?www
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2008/7/29

そんなサークのひとりごと〜1  映画

「当時はスペイン内戦の真っ只中で、ひどい状況だった」「そのうえ事故も起こったんです」「闘牛シーンを入れたんですが」「闘牛士は、この薮睨みの牛の角にひっかけられて死んでしまった。この出来事は、わたしの良心を一生さいなんできましたよ」「これは反資本主義もので、当時のドイツでとても受けたんです」「(一緒に脚本を書いたメンツェル)は一時期ドイツ文学の一大ホープだったが、のちに一大ナチになってしまった」「彼はいつも「ぼくはナチじゃない、ナチじゃない」って答えていた」「(闘牛)はロマンチックを装ったアイロニーですよ」「舞台を、ちっぽけな闘牛場しかない小さな村に移したんです。もっと露骨にするためにね。こうしてヒーロー気取りのドン・ペドロの空疎さがもっと露になったんです。闘牛はそのあとつづく陰気なシーンの前触れです。で、それが見かけ倒しの状況をかなり明かしてるんですよ」「船に乗って去っていくツァラ・レアンダーの気持ちははっきりしない。レアンダーはあの島に十年間もいた。そこで人生最高の十年間を送った。彼女はそれを振り返り、自分が腐りきってしまう寸前に脱出したのに気がついた。でもどう考えても、そそられる環境だった。彼女の気持ちは矛盾に満ちてるんです」

「この映画はぜんぶロケで撮ったもので、その場の即興もやりましたよ。セットはちょっとだけ。それも、ぜんぶ現地に組んだもので、インディアンがつくったものもあるんです。この映画には本物のインディアンが出てくるんですが、彼らはまだジョン・フォードに飼い慣らされていなかった。映画の激戦で、彼らはほんとうに狂ったように戦いはじめたんですよ」「この戦闘は、わたしが撮ったなかでも最高にエキサイティングなもののひとつでしたね。撮影には一週間かけ、四台のキャメラで撮ったんです。このシーンは私が撮ったもののなかでも技術的に一番難しいものだったと思います」「なにしろ真夏で、地獄のように暑かったんですから」「(共同脚本のジョージ・ザッカーマン)は優れた書き手だと思いますよ。で、私たちはロック・ハドソンを、あの色合いのはっきりしない登場人物のひとりにしていったんです」「彼は、わたしのどっちつかずの登場人物のなかで一番シンボリックな男なんです」


……ところで、『南の誘惑』のブラジル人医師のキャラクターは素晴らしい。マルセル・ダリオっぽいとでもいうか。あと、二作とも「着替え」がキーポイントになっていた。しかもそのかなり無茶振りっぽい「着替え」によってなにかがはっきりするのではなく、その逆に曖昧さと混乱を呼び寄せるという異様さ。なお『アパッチの怒り』ではすでに「向かい合う二人が近づく瞬間のポン寄り」から主役の男女が抱き合う一連の流れを開始する、という王道のカット割がなされていた。ちなみにそれは『デス・プルーフ』評価の決定打でもあった。あそこでは女同士だったが。

……でもダグラス、捕らえた弟の見張りが矢で射られるとこ、ワイヤーバレてたよwww
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2008/7/27

年齢を超えることだ。  日常

結局呑んでしまった。えらく疲れた。昨日は一日じゅう音楽を聴いていた。ラスカルズ『ピースフル・ワールド』。二枚組の最初のほうはやっぱり乗れないが、二枚めは悪くない。でもその次の最後のアルバムは大していいとは思えなかった。ヤングのほうのファーストもまあそれなりに盛り上がるけどしかし、いまとなってはもういいかな、と思われるのはその他あれこれ聴いたサイケ関係とともに、アン・ピーブルズ一発で吹っ飛んでしまうからである。もうね、一生黒人音楽とノイズしか聴かないとか宣言したい気になる。なんでしょうか、この年齢を超越した感情の高まりは。聴く側と作る側の年齢や時代が関係なくなるものだけを信用できるのだなあ。
しかしそういう宣言をすぐに撤回しなければならないのは、その後レッド・クレイオラの最新作『フィンガーポインティング』を聴いたからだ。やあぁ……こういうものに出会えるからレコード屋まわりは続けるしかないのだなあ。面白すぎるとしか言えない。ジムもミックスとしては最高傑作のひとつと数えてよいのではなかろうか。しかし言うまでもなくメイヨも年齢を超えている。

CD棚がもう入りきらなくなったので、もう聴かないと思われるもの、二枚持っていたりするものを中古屋に売りに行くべく整理。なかなかすっきりした。本やDVDもやらなければならない。今年はそういう年ということにしよう。その一方で、HDカムを使用する企画も着々と考える、そういう年。
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2008/7/25

そろそろつぎのこと  日常

連日の呑みすぎでちょっと体がどうかなってしまった模様。限界を感じたのでしばらく控えようと真剣に考えている。が、考えるだけでひとと会わなければならない日々はまだまだ続くので、たぶん止められないだろう。最近は小さな怪我をやたらとしたり、二つも帽子をなくしたり大事な書類を散逸したり、集中力が著しく低下しているのもやはり酒のせいにちがいない。せめて明日から月曜まで止めることができたら少しはまともになるのではないか。だが明日、二十数年ぶりに人前でギターを弾くというのに呑まずにいられるだろうか。たぶん一口ぐらいは呑むだろう。でもどうせへたくそなんだから一生懸命弾くしかないからそれだけで疲れてしまい、さっさと帰ったほうがよさそうだ。だから節酒は成功するように思われる。仕事がなくならなかったらこんなことにはなっていないのだが、しかし演奏できることには素直に喜びを感じてもいる。
それより今日はHDキャメラを手に入れたのだった。三脚を買いに新宿へ行くと偶然スタッフの一人に出くわした。気になっていたひとの一人で、会って謝ることができてよかった。そうしてお互いに、残念なことだがしかたない、と苦笑しつつ別れ、私は新しい方法のためのキャメラへと向かった。新しい方法だとかれの技術を借りる部分はなくなるだろう。因果なことだ。三脚を担いでイマジカへ行き、キャメラマンの手で調整したHDキャメラをキャリングケースに入れ、それらをキャメラマンと二人で担いで帰った。えらく重くてくたくたになった。
そろそろ次のことへと現実的に動きはじめるときが来ている。

まったく関係ないしどうでもいいけど、ブランジェリーナの双子と私は誕生日が一緒。
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2008/7/24

酒のうまさというものはない。  

先日見た『トム・ダウド』で気になるひとが映っていたので「?」と思い、アレサのCDを数枚取り寄せてみると、やはり。きっとファンの間では常識なのでしょうがはじめて知りました、ボビー・ウーマックが『レディ・ソウル』でギター弾いているのを。楽曲自体がかっこよすぎてただぼんやり聞き流してしまったが。でも全体的には、やっぱ豪快なアトランティックより繊細なハイを選んでしまうなあ、私は。なんかバックの音が平べったく聞えるのだが、それは機材やら卓やらの問題ではないように思われた。

火曜はboidにてVertigoの同人廣瀬純氏の取材を受けた後、目黒に戻って某友人とスタジオでリハーサル。三十分ほどノイズ実験を試み、さらに三十分ほどディスコハコバンみたいなことをして遊ぶ。おもろかった。それはそうと、うちのバンドはいつになったら活動再開できるのだろうか。いろいろあって空中分解のままである。
その後、新宿でいろんなひとと合流して朝まで。
水曜は夕方から某小説家と打合せ@銀座。美味な小料理屋で軽く食ったのち、久しぶりに銀座ってところで呑んだ。助監督時代取材として行って以来ではなかろうか。といって特殊な感慨があるわけでもないが。ただ、昔は意識されなかったことだけど、ホステスさんにクラスが存在することが明瞭すぎるほど感じられた。もちろん客にもクラスがある。それは顔を見ればわかる。私はそんな場所で呑むクラスの人間ではないので正確なことは言えないが、客のクラスとホステスさんのクラスは一致するように思われた。この客のテーブルにはこのホステス。こういう言い方はまたへんな誤解を招きそうだがあえて言えば、われわれのテーブルにいたホステスさんたちはつまるところ「インテリ」要員だという気がした。それがどのクラスとして遇されているかはわからない。ただ、ほかのテーブルにいるひとたちよりずっと清潔に見えたのはたしかだ。普通の意味でのセクシャルな要素を必要としていない客が、ただ会話を楽しむためだけに用意されたクラス。だがそれもまたセクシャルな要素と化すことだってあるにちがいない。みいだしえない場所に価値をみいだすことは人間にはよくあるものだ。
その後、赤坂のちょっとつまめる店に行った。これまた美味だった。
それにしてもうまい酒を呑むことは悪いことではない。この二日間、まるきりべつの意味でうまい酒を呑んだ。量が度を越しているので体には悪いに決まっているが、安かろうが高かろうがうまい酒はうまい酒だ。現在の私はそこにこそ価値をみいだす。酒は貨幣制度を超えている。その意味で、うまい酒を知ることは私にとっては経験値として非常に重要なことなのだった。酒のうまさというものはない。ただうまい酒があるだけだ。

しかしなんのことはない、連日呑みすぎて朝の約束をすっぽかしてしまったのだった。関係者の方々、申し訳ございませんでした。
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2008/7/22

申し訳ないですけど  告知

せっかくいろんな既知・未知の方といい形で意見のやりとりをできるかと思ってコメント欄を設けてきましたが、いったいなにが気に入らなかったのか、前回の日記からえらく心のねじれたひとたちによる書き込みが徐々に始まり、私自身は気にしない(私もねじれてますから)のですが、読んでくださる方々が気分を害されるのもどうかと思い、コメント欄廃止……じゃなくて制限することにしました。どうやって廃止すればいいかわかんないんですよ(笑)。なんか検閲とか嫌なんだけど、さすがにまともなひとが読んだらゲエとか思いそうなこととか、アッタマわりぃとかいちいち思わせてしまうのもいかがなものかと思うんで。
いままで書き込んでくださった良心的な方々、ありがとうございました。いつか再開する気になるときが来ればいいのですがね。
ちなみに、最後のコメントなんですが、なんで蓮實さんの言葉を引用したら「えらそう」なのか、理解に苦しみました。ピエロってのも違和感ありますね、道化と言いたければパンタルーンとか幇間のほうでしょうに。まあある程度意識してそれに近い立場を取っているので否定はしませんが。でもこの方、きっと日本語が不自由なのか、『胡蝶の夢』を見ていない(まだ公開されてないしね)か、コッポラといえば『ゴッドファーザー』と思い込んでいる保守的(無知?)な方なのでしょう。気の毒に。
あと、その前のコメントの「ある一派」という限定ですが、私が「一派」を組む人々のなかでジュノ監督作を面白いと思わないひとは、ちゃんと話し合ったことはないけれど私だけのような気がするので、これはとんだお門違いですね。K氏は『グエムル』をなにかのベストに挙げていましたし。

てことで、皆さんお元気で。
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2008/7/22

イタくもキモくもない日記て、意味あんの?  日常

先週は、家にいる間は連載原稿に集中し、しかも毎日出かけてその都度へヴィな用件があって酒量も久々に増え、くたびれ果てた。さらにその間、毎晩一時間のウォーキング。夜遅くなるときはサウナ状態の夕方三十分だけにしたし、さすがにレオス講義の司会で最もハードだった土曜は休んだけど。日曜はいまひとりの先輩M氏との対談で、これまた実に愉快だった。しかしこの忙しさは今週もまた続くのであった。

今朝は起きてすぐ『トム・ダウド いとしのレイラをミックスした男』をDVDで。その〈いとしのレイラ〉にはなんの思いいれもない(どころかむしろ嫌いだ)けれど、まあダウドというひとはとりあえずレコーディング・エンジニアとして一流なんだろうとは思われた。もちろん核兵器開発に携わった者を賞賛するなんて抵抗感じないわけではないし、音楽好きだったことでそれが免罪されるとも思わない。繰り返し威張るけど、8トラック作ったのがそんなに偉いのか、と反感を覚えもする。しかしこの作品の最大の魅力は、ブッカー・T&MG‘Sとオーティス、アレサのフッテージをほんのちょっとでも見ることができたことだ。そこんところだけは本当に至福を味わった。殊に若き日のドナルド・ダック・ダンとクロッパーの雄姿! あとは相変わらず〈レイラ〉は後半のピアノの入りとデュアン・オールマン以外はどうでもいいなあという印象が強まるばかりだった。

午後、久しぶりにイシバシへ。歪み系を探しに行った。で、見つけたやつとこれも買うつもりだったエレ・ハモのHoly Grailを繋いで実験したのだけれど、あれだね、外付けのReverbてやつはレベルがどんと下がるのだね。知らなかった。納得がいかなかったのでやはりアンプのスプリングで勝負、ということで凶悪系ディストーションだけ購入。今日が休日だということはなんとなく意識はしていたが、この暑いのに渋谷はおそろしいほどの人出だ。道を歩くだけで人中りしてへとへとになるし、秋葉原以来やはり人混みが恐くてきょろきょろしてしまう。やたら映画の看板が目につく。疎外感ばかり体にぬめりつく。
そして今夜も歩き、マッサージチェアでぐだぐだになり、仕事を思い出して泣きながらパソコンに向かう。やめたい。
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2008/7/16

メルド!  映画

さる先輩K氏と対談。といっても軽いジャブ程度のもの。なかで「淡々と」という言葉ほど映画をダメにする形容句はなく、あらゆる「面白い」映画は決して「淡々と」なんかしてない、という当たり前の結論(言うまでもなく小津を中心に)が出た。どんなにその「淡々と」とやらが世間でもてはやされようが、事実でないそれを受け容れることをわれわれはやらない、という少年探偵団の結束を固めるような話に。あと、最後になって氷解する「謎」ってやつもたんにつまらない、という話。これらをわれわれのドラマトゥルギーは排する、という、これもすでに織り込み済みの認識だが、あらためて確認しあった。
一緒に途中まで帰り、私はLJへ。敬愛する大友良英氏と再会、御著書『MUSICS』とCD新譜『コア・アノード』いただく。いつもすみません。本当は当夜行われたライヴを見たかったのだが、対談のために諦めたのだった。氏は翌朝出発でマルセイユへ行くため成田泊とのこと。ヴァイタリティという単語が脳裏に横溢する。

そんで昼間はラスカルズ。ヤングのついてた頃のアルバムはかつて愛聴していたが、取れたほうは実ははじめて。ブルー・アイド・ソウルという売り文句に惹かれて購入。しかしまだ三枚しか聴けてないが、これのどこがソウルなんだろうか。クリームとか初期ジェスロ・タルとかの延長線上にある、というかそれらへのアメリカからの解答的な、ただのいわゆる「アートロック」でしょう。抑制のないやりたい放題のオルガンの使い方とか、無駄なドラムソロとか、ソウルとまったく関係ないよ。まったくゾクゾクしない。ただ、だからといってダメだとは思いません。イギリス人よりやはりアメリカ人のほうが底抜けにバカで、笑える。
あとはアン・ピーブルズのHiコンプリートの二つめとO・V・ライト。まあ、だからつまり、これがソウルだってことで。

夜、日仏にて『TOKYO!』試写。オムニバスというのは罪な形式で、レオス以外の二作にまるで興味なくても必ず一本は見なければならないようにレオスの『メルド』は二本目、つまりまんなかに入っている。だから、積極的に見たくないゴンドリーを見ざるをえないのだが、伊藤歩さんがいつものように微妙な表情の推移を見せてスリリングな他は映画と呼べる代物ではなく、なぜこんなひどいセットのなかに加瀬くんが出ているのか不思議でならない、もったいない話だと呆れるばかりの数十分をそ知らぬ顔でやり過ごす。で、レオスである。こういう天才大爆発みたいな作品を見ると、映画を撮る苦労がみじめったらしく滲み出しているようなあれやこれやがいかに貧しいものであるか思い知らされる。あらゆる画面がただ「映画」として「活劇」として、しかしこれ以上なく輝いている以外の価値を決して求めようとしない潔さ。これ以上の美徳があるだろうか。ところでふと思ったのだが、いついかなる場合でもレオスの目的はゴダールを粉砕することであるように見えた。もちろん、そこにもゴダールからの引用(嶋田久作さんの帽子、エンディング)はある。だが、レオスにとってはそれもどこにでもあるただのかけらに過ぎない。言ってみればヴィトンやエルメスと同じだ。自分が捻り出したわけでもない借り物の概念をガキのようにただの憧れでふりかざしたりすることは決してない。まして「東京」や「日本」についてなんらかの社会学的見地を披瀝するといった下卑たまねもしない。そんなもの、映画と何の関係もないからね。映画を作るならどこだっていい、東京?……日本?……ああ、ゴジラと大島だな、で終わり。あとは「映画」を作るだけである。セットのひどさも気にしない。暗部にして見えにくくすれば済む話だからね。しかしそれは、ゴダールが巻き起こす周辺のあれやこれや付加価値をゴダール自身の問題として直接批判することでもあるのではないか。タランティーノがようやく至ったかに見える境地ですでに自在に泳いでいるレオス。心から、つねにこうありたいものだ、とひたすら感心させられ、終わった瞬間に席を立った。最後のものを見なくて済むように一番後ろに座っていたから、どなたにもご迷惑をかけずに。
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2008/7/14

微熱アリ  音楽

昨夜からなぜか発熱している。といってもごく微熱だが、疲労がそのようなかたちで出てしまったのかもしれない。まあエアコンつけっぱで寝たせいで風邪ひいただけと思われるが。微熱といえど昔から本当に発熱に弱く、ひたすらぐったりしてしまう。できることといえばこうやって無駄な言葉を書きつけることとCDを聴くくらい。なんとかギターを弾くことはできるか。本とDVDはまるでダメである。創作なんてとんでもない。イーノがアンビエントということを考えついたときもたしか交通事故かなんかで入院してたときだったように思うが、こちらはイーノのごとき能力は皆無なので、ただ海月のようにふらふらするばかり。
片付けは三分の二まで進んだ。しかしここからが難関なのだ。2001年以降開けたことない段ボール箱とか、あるし。気味の悪いものが出てくる予感がする。事故死とかする前に一刻も早く処分しておきたい、昔のシノプシスとかね……。

そんな今日の収穫はシル・ジョンソン。Hi時代の四枚のアルバムを二枚組に収めたやつだが、どれも素晴らしかった。殊に最後の『UPTOWN SHAKEDOWN』というアルバムの冒頭は感動的なほどCKBにそっくりだ。横山剣さんもこれが好きだといいなあ、と思った。あとトニー・ジョー・ホワイトとジミー・ウェッブを追いかけてみたのだが、結局ホワイトがファーストアルバム(このアルバム自体も悪くない)でカヴァーした〈ウィチタ・ラインマン〉と、どうやら娘さんらしき人物が代表曲をリミックスした、というかセルフカヴァーした『DEEP CUTS』というアルバムがいまのところ、最高。ホワイトのワウの下品な使い方にはかなりグッと来るものがある。ジミー・ウェッブが自作曲をピアノの弾き語りでカヴァーした『TEN EASY PIECES』も悪くはないが、さすがにランディ・ニューマンには敵わない。てことで、ホワイトのセカンドを待っている。でもやはり、どこまでいってもウィリー・ミッチェルは偉大だ、という思いが募るばかりなのだった。

今日から夜の一時間をウォーキングに費やす習慣を復活させることにした。発熱のなか、ふらふらしながら首にタオルとストップウォッチをかけて近所を徘徊したのだった。
……いつまで続くことやら。
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