2008/7/13

ソウルだろう、それもこれも!  日常

忙しすぎて気づかなかったが、この日記もとっくに一年めを過ぎていた。特に感慨はないが、いまはこの日記をはじめた頃以来の休息が取れていることを考えると、だいたいこの時期はすこし余裕があるのだな、とわかる。本当はまったく余裕などないはずだったのだが。
深夜、サタン氏の教えどおり部屋の片付けを粛々と進めながら、BGMはいままで袋を開けるのがもったいなくて聴けてなかったヘア・スタイリスティックスさんの『AM5:00+』。いやはや捗る、捗る、片付けが。まったくもって労働意欲を促進させてくれる音楽だ。そのまま一気に月刊シリーズも聴こうと思っていたが、あまりに片付けに夢中になりすぎて入れたままにしていたアン・ピーブルズが流れ出すと、その繋がりのあまりの違和感のなさに吃驚。こんなこと、いまさら私などが指摘するまでもないことかもしれないが、ヘア・スタイリスティックスの音楽は厳密にはソウルに分類されるべきだし、かれはたとえばウィリー・ミッチェルと同じほどの体温で音楽を作っている。
起きたらもう昼を過ぎていた。ふらふらしながら飯を食い終わると突然の熱帯性スコール。なにかとんでもないことになるのではないか、などとあられもない想像をしていると、案の定。なにがあったかはヒミツだが、参った。
でもって、たかが酒癖が悪いとかセックスが好きとか程度のことでファシズムの嵐に晒される某女性キャスターに心から同情しつつ、昨夜からの片付け物を仕上げる。報道ってものが神聖でなければならん理由がわからない。糞みたいな現実にまみれてストレス発散しまくってるひとの話のほうがよっぽど信頼に足ると思うけど。
それはともかく、片付けでどっと疲れる。しかもそれでもまだ半分。外で飯食ってすぐ帰宅。新入りたちをシャンプーした。蚤がいて、それを妻が次々に駆逐していく様に感服。爪でつぶすたびにプチッと音がするのだ。
0

2008/7/11

命名行為と民主主義  日常

結婚記念日のせいで、というわけではないが家族が増えた。生後一ヶ月とちょっと。とはいえ、部屋じゅうを駆けずり回る連中を懸命に追いかけて撮った写真を日記にアップする、というような恥ずかしいまねはしない。だいいち、面が割れて誘拐でもされたらいけない。かれらは大変元気がよろしい。外出もそう遠くはないのだ。映画作家である私はあくまで映像に、ムービーにこだわってみたい。そういうプランがあるのだ。はじめ、チネとザックと命名した。通称チネキチくんとザッくん。ところが家族の評判が悪い。憶えられないというのだ。呼んでいるうちに習慣化されると思われるが。しかしそんなわけでより通俗的な名前を要求され、タラとボンに変更を余儀なくされた。といっても『ミスト』の監督とは関係ない(あれ、ダラだし)し、歴史的超大作とも西ドイツとも関係ない。たんなる見た目からの連想。
それにしても、民主主義とは凡庸さを容認することである。
矢作俊彦『傷だらけの天使・魔都に天使のハンマーを』読了。矢作作品としてはロング・シノプシス程度の完成度と断じざるをえないものの、アフリカ人やペルー人の描写に大いに共鳴しつつ、ラスト三十分間、というとまるで映画のようだが、とにかくたださめざめと涙する。これが日本の娯楽映画だ、と言いたくなるが小説なんだよなあ。しかも決して民主主義を見捨てられない男の書いた……。ともあれ、それはそれとして、映画はまたべつの話を考えるべきか。

本日はいろいろあって疲れて眠りこけ、夕方ジタバタと来週の予定を立てただけ。
0

2008/7/9

ウィリー・ミッチェルとともにあれ  日常

朝六時過ぎに家を出て、新宿で中央線に乗り換え、さらに八王子で横浜線へ。相原というこんな機会でもなければ一生下りそうもない駅に着く。そこからシャトルバスで行ける某大学で、学生とのディスカッション。大変面白い場所である。なにしろ学長が面白いw
しかし俺には遠すぎたね。午後、家に帰り着いたらもうなにもやる気が起きない。とにかく眠い。
Hi時代のアル・グリーンをギターでコピーしながら、バックを担当しているホッジス兄弟の演奏のように映画を作ることができるかどうか、を日々自問している。あれはいったいなんだろう、一方で風にそよぐ麦の穂のように繊細をきわめ、一方で地に深く根ざして底を支える力強さは。
0

2008/7/6

プレカリアートとしての私  労働

作品が流れた映画監督の気持ちというのがどういうものか、はじめて実体験したので試しにその流れを説明してみると、茫然自失の後にスタッフ/キャストへの申し訳なさと自暴自棄の期間が訪れ、やがてそれも沈静化すると今度は自分がプレカリアートであることを思い知らされ打ちひしがれることになる、といった感じだ。いまその打ちひしがれのさなかにある。文芸誌「群像」の雨宮処凛氏と森達也氏の対談を読んで、やはりこのひとたちの言っていることにどうしても納得できないのは、ただ貧乏が救われるべきだというどこまでも真っ当な発想のゆえだ。私はいわゆるワーキング・プアを名乗れるほどお金がないわけではなく、むしろそういうひとたちと同じだと言えば殴られるかもしれないほど散財している。しかしだからといって私がプレカリアートでないとは誰にも言わせない。貧乏でない私はかれらの唱えている方法では救われないし、救われたくもない。しかし私はプレカリアートである以上、救われるべきだ。救われるべきは貧乏ではなく、労働意欲である。グッドウィルやらフルキャストやらという派遣会社が搾取していたのは金銭のみならず、いくら働いても楽にならないことで破壊される労働意欲そのものでもあったことが彼らの最大の罪なのではないか。私が仕事を失うことで同時に失ったのもつまりこの労働意欲というやつだ。雨宮氏の目的は至極単純明快で賛同も批判もする必要はないと思われたが、森氏の場合はちょっとあきれるほど古臭くてとても真面目に受け取る気になれない。この問題について語る際に右とか左とか革命とかはNGワード以外のなにものでもないだろうに。
というわけで、相変わらずやる気=労働意欲は殺がれたままなのだけれど、ようやくゴミの山と化した仕事場の掃除をちょっとずつはじめた。ほぼ一年に亘って見られた夢の痕といった感じの書類がほろほろとゴミ箱に吸い込まれていく。いつまでもゴミのなかで呆然としていてもなにもいいことなんかない、ゴミを片付けたっていいことなんかないかもしれないけど気分はちょっとだけましになった、と思うことにしよう。いつか取り戻せるかもしれない労働意欲のためにも。
1

2008/7/5

日の丸はSOSを伝えられない  映画

昼からコッポラ九年ぶりになる最新作『コッポラの胡蝶の夢』試写。堅い職人芸として感動させられた前作『レインメーカー』から一転、完璧に「作家の映画」となっている手腕にいまさらながら脱帽。というよりこの期に及んでコッポラにこれほどまでの映画性が残っていたことに驚嘆した。やはりルーカスなどとはそもそもの才能が違うのだ。たしかに誰もこれほどの美しさをコッポラに求めてはいなかっただろう。だがコッポラはやった。大器晩成とはこのことか。田壮壮が失敗したことを堂々と全面展開し成功している、といってもいい。ほとんどCGであることが気にならない世にも美しい雪も降る。スコリモフスキの新作に肩を並べる勢いだ、と言いたくもなる。つながりをまったく無視したカットつなぎを続けながら、ここぞという瞬間だけはきちんとアクションで繋ぐ。名人芸の域である。それにしてもとうとう、史上何人目になるのだろうか、タイトルに監督の名を冠した邦題(フェリーニの、ゴダールの……)を決定した配給会社の英断に拍手を送りたい。それでいいのだ。

映画美学校試写室から歩いて数寄屋橋まで移動、ポール・ハギス『告発のとき』。こちらは逆に邦題がひどい。ほかになかったのだろうか。これでは軽く流されてしまう。「国旗はためく下で」とかだと古いのだろうが。トミー・リーとジョシュ・ブローリンが出て撮影がロジャー・ディーキンス(グレイがかったフィルターワークがここでも気に障るのだが)であるせいもあって『ノー・カントリー』とえらく被ってしまうところが損といえば損なのだろうが、映画としてはこちらのほうがずっと好感が持てた。こうした映画が才気走った若手とスピルバーグより上のヴェテランチームとの間で「良質」を形成する意味を決して侮ってはならないと思われた。なるほど、国旗を逆さに吊るすとSOS要請になるという、だとすると日本はいくらSOSを出してもどこにも気づかれないわけだ、ということに泣きながら気づかされた。死体発見現場が『クラッシュ』の冒頭のそれと見分けのつかないような夜の荒野で、こういう場所が選択肢にあるアメリカ映画の環境をあらためて羨んだ。イラクでなにがあったかをオンで描写する(短いフラッシュでじゅうぶんだ)必要はなかったと思うし、息子からの電話もさっさとオフ(眠っているスーザン・サランドンの隣室にいるトミー・リーをピント外で、とか)で明かしてしまえばよかったのに、とも思われる。加害者たちが犯した罪を隠して被害者の父親と煙草を吸ったり、犯人と思われたメキシカンが殴りあった後に酒を酌み交わしてすべて許したり、自供しつつもそのさなかにしかたないというように微笑んでしまったり、といった細部にじゅうぶんアメリカの闇が描かれていたのだから。トミー・リーの、軍人としての優秀さを日常的な描写で示せば示すほどその虚栄が浮き彫りになっていく積み重ねなども実に冴えている。このような描写はいま、たとえば『ミスト』のような映画にこそ必要なのだが、あそこにはそれがなかった。同時に、自分もそれができていないことを猛省した。あと、やはり映画はファスビンダーもそうだったように、問題そのものを描くのではなく問題だけを見ていては気づかないその裏に潜む見えない闇を直視するのだ、などいろいろなことを考えさせられた作品だった。
2

2008/7/3

バーバラ・スコヴァ讃  映画

昼間は半分眠りながらこつこつ作業して、夕方再びアテネへ。フィルムとばかり思っていたがDVD上映だった『ローラ』。でもこの際スクリーンならばフィルムでもDVDでもかまわない。何故にチミノが『シシリアン』の伯爵夫人にバーバラ・スコヴァをキャスティングし、なおかつあれほどに固執して撮影したかをついに知るときが来た。というか知ってしまった。バーバラ・スコヴァってその二本以外では『ベルリン・アレキサンダー広場』とLVTの『ヨーロッパ』しか知らないので、どうなのかなあ、と思っていたが、いやはや最強でしょう。トチ狂ってマルガレッタ・フォン・トロッタとかDVD探しちゃいそうだよ。さようならハンナ・シグラ。池玲子級の破壊力というか、訴求力というか、人間的深さというか、表層の美というか。作品そのものがきわめて形式的に通俗ドラマのパロディ(ピンボケのオーバーラップなど)になっているせいで、よけいにこのマネキン人形的な美が効を奏する。しかし最後の、ついに明かされた秘密に悲嘆のあまり髪を振り乱して暴れ狂うシーンのテンションの高さ、そしてにもかかわらず保たれる美しさはどうだろうか。ここまでやってくれるなら文句言いません。クローズアップだとさして美しいと思われないのに俗悪な衣装を着てフルサイズになると目が釘付けになる度数はニコール・キッドマン級。あと十本ほどRWFにバーバラ主演作を残してほしかった。普段からまったく好きじゃなくて『イースタン・プロミス』でさえべつにいいとは思えなかったアーミン・ミューラー・スタールまでもよく見えて、珍しく感情移入したりした。元ネタが元ネタだけに、というのもあるのでしょうが。でも元ネタよりずっとニヒリスティックだと思われた。あと、のちにヴェロニカ・フォスをやるローゼル・ツェヒがマリオ・アドルフのブルジョワ出の妻を好演している。ラスト近くのこの二人のやりとりがすばらしい。もうひとり、ようやく名前が同定できたのがジャン・ブイーズ似のハーク・ボーム。まだ生きていたら会ってみたい。できれば出てほしい。

しかしいまハッと気づいて調べたら、ウエイター役でウド・キアーとともにここにも出ていて『第三世代』ではパウルという殺し屋役で出ていたかれこそがラウル・ヒメネズ、つまりダニエル・シュミットの彼氏だったのだ。……呆然。思わず、はじめまして、と言いそうになった。もう二人とも宇宙に行っちゃったのに。
0

2008/7/2

満員のファスビンダーのブルース  映画

昼間、崩壊したパソコンを近所のPCデポへ持っていく。書きかけのデータだけでもなんとか復活させたいと一縷の望みを抱いていたが今日の段階では無理、ということで結果は月曜に持ち越し。とぼとぼと家に帰り、軽い腹ごしらえののち、二十数年間待っていたファスビンダー『第三世代』をようやく見るべくアテネへ。しかしこの至上のナンセンスを待望してきた俺たちの二十数年というのはなんだったのか。その無価値な心的徒労がただただブルースのように心地よい。ファスビンダー組オールスターキャストで、しかもキャメラはRWF自身が担当しているなんてもうデタラメな自主映画以外の何者でもなく、パロディアス・ユニティの諸氏がこれに嫉妬しても不思議ではない気さえする。実際にはしないのだけど、それはRWが日本であまり見られる機会がなかったせいもあるかもしれない。これを知らなければ、ヴェンダースの『アメリカの友人』をデタラメと呼ぶことも憚られるし、あのデタラメよりこのほうが安易だと揶揄も言えないだろう。だからこそこうしたことが日本に起こってもよかったはずだ。現に『神田川淫乱戦争』や『ドレミファ娘の血は騒ぐ』なんかは実のところ『アメリカの友人』より『第三世代』に似ている瞬間がないわけではない。それは同時にJLG的なものの亜変種として似ていると限定をつけざるを得ないのだが。本作を境にRWは本格的に大作志向へと向かうことになるが、さよならパーティの打ち上げ花火的祝祭ムードもあったのだろうか。連日の大入りにも隔世の感を覚えつつ、この時代の予期せぬ帳尻合せにただ戸惑うばかり。
帰りに中原と水道橋の昭和な居酒屋へ。周囲は悲惨な話ばかりだし、期待もしていないがなにを読んでもただただひどいものばかりだと吐露しあう。私は、これまでかすかに手を染めたうしろめたさの残る妥協とはもう縁を切ろうと思う、と呟く。かといって現状打開の策などどこをつついても出てくるはずもない。ただRWとジャンクフードを肴に安酒でケラケラと空笑いを上げるばかりだった。
0

2008/7/1

友人知人の皆様  告知

長年連れ添ったパソコン君が壊れました。
2001年から七年間、数多くのシナリオ、批評、小説を書いてきましたが、
とうとうこときれてしまったようです。
データもすべて消えてしまったかもしれません。
とりあえずあとでパソコン屋さんに出かけてなんとかしようと画策したいと
思っていますが、とりあえずいまのところは皆様のメアドもわかりません。
この日記に気づかれた友人知人の皆様、とりあえず私宛にメールをお送りください。
急ぎご連絡したいことのある方もいらっしゃいますので後ほどご返事差し上げます。
どうぞよろしくお願いいたします。

……と、その後代替機にてプロバイダとの交信を復活させましたところ、
皆様のメアドだけは復活しました。ご心配おかけしました。
0



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ