2008/9/27

ジャック・ブルースも夢じゃない。  ギター

雑誌「Pen」の取材で、ヴィトンが出版する東京ガイドブックのガイドという複雑な内容の取材兼モデルを受ける。こんなおっさん、どうやったら絵になるのか皆目見当もつかないが、ヴィトンの衣装はもちろん、ロケバスまで出動。かような事態の照れくささを解消すべく、事前にイシバシ新宿店でエピフォン製のSGベース(used)を衝動買い。格安かつロングスケールというだけの理由だが、試奏して改めてこのモデルのロングスケールが持つダイナミズムに興奮。
取材後、夕方から次代を担うキャメラマンお二人と痛飲。非常に刺激的な対話が展開された。
つういん、といえば血液検査の結果が上々。やはり節酒と運動こそが健康の源である。
んなわけで、またも過剰摂酒。喉元過ぎればなんとやら。
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2008/9/25

箱根  ツアー

箱根へ一泊二日の取材旅行。
ポーラ美術館で「佐伯祐三とヴラマンク、ユトリロ展」を。なかに林武の黒い「富士」があって惹かれた。写真を見ると日本人離れした顔をした佐伯祐三のものでは「ガス灯と広告」という表題だったか、巨大な作品に惹かれた。ヴラマンク、ユトリロにはさほど刺激を受けず。
芦ノ湖に移動し、箱根園で駒ケ岳ロープウェイに乗り、伊豆半島まで広がる風景を眺めた。富士山は雲に隠れていた。山頂に謎の廃墟発見。いい銃撃戦ができそうだ。また大室山に行ったときも考えたのだが、この規模の山の頂というのはヘリが浮上してくる場面にもちょうどいい高さではないか。下山して水族館へ。魚たちは総じてまったりしていた。アザラシたちはぬーんと泳いでいた。ワニガメだけは空腹らしく落ち着きがなかった。先日見た『ブロークン・イングリッシュ』でも水族館が出てきて、ペンギンを見ていると落着くと主人公が言っていたが、それは窓の向こうだからこそにちがいない。ここでも窓の向こうだったが、あれは小樽だったろうか、窓越しでないペンギンはひどく臭いので、とても落着いてなどいられないはずだ。
そんなところでおおよそ当初の目的を終えたので、夕方には御殿場プレミアム・アウトレットへ。今年後半分の衣装を購入。興味深い場所だが広すぎる。閉館近くまでうろうろし、帰宅して疲労がどっと出た。
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2008/9/23

ブロークン・イングリッシュ  映画

昨年パリでイジルド・ルベスコという新世代の監督と接することができたことはたいへん刺激的だったが、アメリカからはゾエ・カサヴェテスという、これまた刺激的な監督が現れた。デジタルで家族と自由闊達に映画するイジルドとは対照的に、きわめてオーソドックスな手法でフィルムを使用しているが、とはいえそう簡単な話ではなさそうだ。なぜあんな色調にしたのか、見当もつかないシーンがいくつかある。しかもそれが異化効果を狙ったとはとても思われないのだ。内容についても(宣伝部女史によれば)「アラサー的に超イタい」らしく、オーバー40のおじさんにもそれは察してあまりあるものの、ここまでやれるなら文句なかろう、と納得なのであった。女優陣の名演は言うまでもなく、メルヴィル・プポーが『コント・ドゥ・ノエル』に続いて、フランス男らしいフランス男を見事に演じていた。
ただ、ひとつ苦言、というか、ハッパを持ってきてくれるプエルトリカンのおじさん、あれはゲイという設定ではないか。日本語字幕は男言葉だったが。仮にそうでなくてもそこらへんの工夫はしてもよかったのでは、と懸念された。
ともあれ、総じてまるでヴェテランの手堅い仕事のようにも見える(といってももちろんそこまでではないが)非常に好感の持てる快作であった。
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2008/9/21

旅がらすを人前で見てはいけない  日常

この期に及んでなにを血迷ったか、テレビでたまたま見てしまったメロディ・ガルドーさんのデビュー作『夜と朝の間で』(ピーターさんですか!?)を延々とヘビロテ。まあこんなの退嬰的擬態であることは百も承知だが、このセンスに嵌らないでは「アルコール依存症」を自己診断するわけにはいかないだろう。べつにしなくてもいいけど。まさに『ラッキー・オールド・サン』と双璧をなす、今後に遺恨を残すであろう名盤。
土曜、打合せついでに御茶ノ水に寄り、楽器屋めぐり。ネットでチェックしてあって気に入ったら買おうと狙っていたグレッチがタッチの差で売れていて、意気消沈。打合せを終えてひとり、兼八やらワインやら呑んでまわる。
日曜、なにを外しても今日の「時代劇専門チャンネル」は外せない、と心に留めていたにもかかわらず、ふと気づくと九時半。しまった!と慌ててテレビを点け、そこから見始めるや数分後には嗚咽開始。約一時間、声を上げて泣き続ける。ともあれ越路吹雪世界一かつ不世出をあらためて再確認。このまま来週末まで泣き疲れか。勘弁してほしい。
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2008/9/18

偉大なるアレクサンドラ  映画

月曜、加圧と打合せ。加圧後のスタバが定番になりつつある。
火曜、某誌のために某氏をめぐってべつの某氏と対談。もうちょっとがんばろう。帰りの電車のなかでリック・ライトが亡くなったことを知った。追悼で『原子心母』を聴いた。かつてはこの大袈裟っぷりに集中できなかったが、今回は実に偉大だと思われた。次なるプロジェクト(群)へのメモをちょこちょこと取り続ける傍ら、横山剣『夜のエアポケット増補改訂版』を一気読み。ィ横浜についての知識を深めた。

水曜、歯医者→皮膚科→ウエスティンで打合せ→帰宅。ごちゃごちゃと働いた後、松竹試写室へ。
アレクサンドル・ソクーロフ『チェチェンへ アレクサンドラの旅』。ソクーロフについてはその反米(アメリカ映画的スペクタクル)精神のゆえにとても手を結べないものを感じて久しい。日本で紹介され始めた頃にはなにかとヒントを得たが、最近はどうにも足が遠のいていた。ところで、今回の作品は驚くべきスペクタクルに満ちている。何しろ、とてつもない存在が動くのである。もうちょっと詳しく言うと、世界的ソプラノ歌手である(そうだ。私は知らない)老婦人を貨物列車と戦車でチェチェンに連れ出し、重装備の兵士の間を歩かせ、さらに敵陣の市場へ送り込むのである。プレスシートには相変わらずソクーロフがアメリカ映画的スペクタクル(の嘘っぽさ)への批判を口にしているのが紹介されていたが、これだってじゅうぶんに嘘っぽい。嘘っぽいけどめっちゃスペクタクルである。市場のあたりなど、ペキンパーかと思った。もちろん爆弾は爆発しないし発砲もないが、人々の居方と視線の交錯の仕方があまりに不穏で、そんなもの、ペキンパーやアルドリッチでしか見たことない、といった感じだった。おまけに老婦人が孫を訪ねて戦地へ赴くわけだから、これは『リオグランデの砦』の遥か数十年後、いや数百年後という設定が当然想起されてしかるべきだ。要するにソクーロフこそ爆弾の爆発に気を取られて、その直前までにアメリカ映画が行う演出の数々を無視しているのだ。そんなの、許してはいけないと思う。しかし無視してもできているのだから文句が言えない。
夜にキャンプに到着し、翌朝目覚めると隣のベッドに若い兵士が眠っている、じっとその寝姿を観察する祖母、やがて孫も目覚めて抱き合う、その流れの見事なこと。まるでずっと昔見た『マリア』の続きを見ているような錯覚に捉われる、ガリーナ・ビシネフスカヤというこのめっちゃ存在する老婦人が、ふらふらと漂いだし、疲れて座り、また歩き、市場へ行けばチェチェンの老婦人と語らい始め、友情を育む、そのひとつひとつの描写の見事なこと。人間の後頭部の無防備さが晒されるとき、官能とサスペンスが同時に訪れることをかつて合田典彦監督(あのタイトルはなんといったか……)に教わったが、ここではあそこにあった鋏もない。ただ孫が祖母の髪を器用に三つ編みに編んでいくだけだ。だがその描写の見事なこと。
かつてのような執拗さはない。代わりに蝶のように舞い蜂のように刺す、といった按配で的確すぎるほど的確に配置された、しかし瞬きをすればもう見逃してしまいかねないような短いひとつひとつのカットがある。その短さ、儚さ、弱さによって類稀な強さを得てしまう、このような映画の方法(いわゆるミニマリズムとはたぶん違っている。やっとこさ歩けるといった感じに弱った老婦人が、しかし孫の告発にはびくともしない精神的強さを持っている、ということとちょっと似ている)があることを私は知っているが、そろそろそれを実行に移すべきだろうと、おせっかいにもソクーロフに尻を叩かれた感じだ。そんなおせっかい、無視してしまいたいが、たぶんできない。実際、私たちはもうそれを試さないとあとがないところまで来てしまっているのだ、たぶん。
さて……どうする?
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2008/9/15

グレミヨン認識元年  映画

『刑事物語』は現在に至る汎地球的警察映画の作り方の先駆とも思われる。ただしそれが面白いかと問われると、いやべつにそうでもない、と答えざるをえない。それが『ダーティー・ハリー』のようではないことを特権視する必要なんてないだろう。私にとって警察映画、犯罪映画として『刑事物語』より『ダーティー・ハリー』のほうがはるかに貴重であることは相も変らぬ現実だ。あるいはここでのパリよりあそこでのシスコのほうが、といったほうがよいかもしれない。警察映画、犯罪映画を作るときに街の光景をどう見せるかは決定的であるはずだが、ピアラはそこに興味を持たない。尋問シーンも一見面白いが、ではこれの隣に『桜の代紋』のそれを置くとどう見えるだろうか。ただ、この映画の面白みは完全に内容を離れ、ドパルデューがバーのマダムに絡んだり、ラストに彷徨したりする場面にあったような気がする。それらはまるで作品のなかにべつの映画が現れたように見えた。それらのことに散漫という批判が当てはまらないところが現代性というやつなのかもしれない。

『曳き船』は、これまで自分のなかに封印してきたある決定的な事柄を吐露せずにおかない作品だった。つまりどれほど凡庸であろうと、自分はブレッソンよりグレミヨンを択んでしまうだろう、ということ。これは人生の選択だ。とても他人とは思えない。もっと早くそのことを覚悟すべきだった。そうすればこれまでずいぶん見逃してきた上映のあるたびにグレミヨンを見て、このとことんまでの居心地の悪さを堪能できたのに。ついこないだまで子供だったから自分の凡庸さを認めることが恐かったのだ。あの曳綱の切れる間際の、ヒュンヒュンいう音が耳から離れない。まるで自分と映画を繋ぐ綱が引きちぎれるかのようで背筋がゾッとする。一刻も早くどこかでグレミヨンのレトロスペクティヴをやってくれないだろうか。嵐の晩に残された妻二人を家の中から窓外まで1カットで見つめるキャメラが、ただそれだけのショットであり必ずしも作品に有意義な貢献をしているわけではない、ということは百も承知だがしかしあれをやりたい、というのが映画作家というものであり、それをやめるというマゾヒズムをひとり密かに享受するために映画監督という職業を懲りもせず続けているのが自分という存在なのかもしれない。あの、ギャバンとモルガンが見に行く海辺の家の場面だけでいいから繰り返し何度も見ていたい。あそこには私を心底陶然とさせるなにかが居心地の悪さと同じだけ、あった。自戒をこめて今年を「グレミヨン認識元年」と呼ぶことにしよう。

最後は『三重スパイ』を字幕つきでようやく。DVDで見たときから気になっていたが、色彩がたいへんなことになっている。ナイターの室内で白い壁が紫!とか。この回一緒に見た撮影監督の池内氏との帰り道に意見を伺うと、フィルターもけっこういろいろ手を変え品を変えやっているだろうけど、さらにコンピューター上のカラコレ(DI)でかなりいじっているであろう、とのことだった。それにしてもこれほど残酷な物語だったとは。しかもエピローグで平然とナチス将校とヴィシー政権刑事が真相をテキトーに推理する、といういかにもひとを食った終わりよう。しかしよく考えたら今回最年長監督作がこれなんで、演出も当然のように一番うまい。カットバックなんてほとんどホークスの域だし、時代劇であるにもかかわらずちゃんと風景を逃げずに勝負している。主人公の声がへんに甲高いのに興味を惹かれた。女性たちの衣装がどれもこれもあまりにも素晴らしくて、やはりこの時代の服が自分は無条件に好みだと再認識した。
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2008/9/13

Nothing can stop it!  映画

加圧後、先日のロケハンで撮影したいくつかの映像断片をフィルムレコーディングしてみるべく、イマジカで打合せ。その後、今井と呑む。そのうち人数が増え、あと光石さんが揃ったらフルハウスじゃ!ということで、ひどいことに呼び出す。といってもまだ10時半ぐらいのことなので、光石さんも二つ返事で顔を出してくれる。笑った。ところがせっかく笑って帰宅したのに鍵束がない。なくなっている。家の前からあちこち転々と鍵を探してまわり、心当たりには電話するが、やはり見つからない。ミニストで仮眠。朝になるのを待って義母を起こし、とりあえず眠る。起床後、義母が「昨日出かけるとき、持ってた?」と訊くので、はっと思い当たり、着替えたパンツのポケットを探る。瞬間、腰砕け。あったよ。なんだったんだ、この一夜は。ぐったりした。夕方、朝日ホールに行くと中原がいた。中原も鍵をなくしたと言い、鍵を探して部屋掃除をしたら鼻水が止まらなくなったと言う。

その中原から、渡辺文樹監督が逮捕されたと聞いた。私の最寄り駅前にも貼ってあったステ看貼りで罪に問われたようだが、もちろん警察(てゆうか公安ね)としては『天皇伝説』に対して黙っているわけにはいかない、という思惑もあってのことなのだろう。上映を中止させることができないので腹いせに逮捕、ということか。『靖国』の件といい今回といい、国家による言論統制はますますひどくなりつつある。彼は『腹腹時計』のときも別件逮捕されていたのだな。私は日本映画を見ないと決めているからこれまで渡辺監督の映画を見たことがない。まだ同時代の日本映画を見ていた大学時代には彼の作品に興味を惹かれなかった。しかし、あらゆる映画に同等に見られる権利がある、との理念の当否は一旦置くとして、今回の作品は自分の抱えた企画とのリンクもあって興味を惹かれたので見ておきたいと考えている。明日、あのステ看が剥がされているかどうか見に行っておこう。だが剥がされていたとしても映画は上映されるはずだ。されなければならない。監督が逮捕されようが死のうが、上映されると公表された映画は上映されなければならない。でなければ、聖人ではなく神様に直接訴える意味がない。それは誰にも止めることはできないのだ。

有楽町はオフュルス『マイエルリンクからサラエヴォへ』とメルヴィル『海の沈黙』。オフュルス、忘れてるなあ、と思っていたら案外記憶していた。しかし暗殺シーンはパンだったか。移動だったと記憶していたのだ。オープニングでどこかルビッチを思い出させて、そもそもなにか陰惨なものに取り巻かれているはずのこの作品にさりげないヒューモアを与えるあたりに作者的余裕を感じないではないが、このときオフュルス、まだ37歳か。クーデターを起こしうる立場にありながらどうもやる気のない皇太子は『忘れじの面影』のルイ・ジュールダンに代表される優柔不断なオフュルス的男たちのひとりだった。やつの個室車両にはかなり嫉妬したけど。……撮影したい、個室車両で。
一方の「直接神様に訴える」先駆者メルヴィルは、初見。同席した中村哲也氏曰く「ATGかよ」と。私は「てゆうか初期ストローブ=ユイレかよ」と。主人公のドイツ将校、出だしから物凄い顔だった。まあ物凄く見えるように照明しているわけだが、まるで『ノスフェラトゥ』みたい。アンリ・ドカエ、当時から冴えている。で、物凄い顔は語り手の姪にも言えて、一言も台詞なしで、エンディング間際にその物凄い顔の将校が目を覆って「物凄い目だ」と呟くくらい、物凄かった。処女作にして『賭博師ボブ』『影の軍隊』『ギャング』などと並び称される、いやへたをするとそれ以上の作品といっていいかもしれない。最初の、神殿をデザインしたメルヴィル・プロの先付けにはちょっと苦笑したけど、でもまあ、直接神様に訴えかける、とはああいうことなんだ。

中原は例年通り、金沢へ行った。私は仕事の都合で今年は行けない。無念なり。
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2008/9/11

あなたと違ってね!  日常

玄関のわきに置き去りにされた郵便物群のなかから新潮社様より贈呈された小野正嗣氏『マイクロバス』が発見された。編集子曰く、おそらくお前は気に入るであろう、と。たしかに小野氏の文章は、なぜか同世代の日本男性作家のうちで例外的に私の心を打つもののひとつである。手に取る日を楽しみにしたい。だが私の机の周囲はまたしても読まねばならない本の山積が日々雪崩を起こしている。それら読まれ待ち書物らのことも多忙のさなかで手に取る機会を逸し続けているのだが。さて、いったいいつになることやら。
福田が辞任し石破まで次の首相に立候補するという惨事のなか、当の福田の最後っ屁「あなたと違ってね!」が流行語大賞になりそうな勢いでギャグになっていると知った。私も気にはなっていた。福田はキャラが立っていてそこを見抜けなかった自民になんか国を任せていいわけはなく、まだまだ続けてほしかったが、続けているとこういう開き直ったフレーズが連打されることもなかっただろう。難しいものだ。官房長官時代から期待はしていたのだが。
シナリオ作家協会にて座談会。批評家と脚本家に挟まれて交通整理でもするか、といった風体の監督を演じた。終了後、数人で乃木坂某所にて痛飲。
翌朝、歯医者へ向かうさなかに自分が眼鏡をかけていないことに気づく。全体がぼやけているのに気づかないとはどういうことだ。ともあれ、歯医者で眼鏡はいらないのでそのまま向かい、一旦帰宅してから日仏へ。ドワイヨン『ピューリタンの女』初見。昔からこのタイトルはいったい、と訝しく思ってきたが、その謎は見たあとも解けなかった。すげえへんな映画。気味の悪い映画。登場人物の誰かが幽霊であるような、しかし誰が幽霊だかは最後までわからないような。その点では『ラ・ピラート』に非常に近いと思われ、いま自分がやろうとしていることとも近いとも言える。廃墟のような、稽古中のような劇場を使って迷宮的な抽象空間を積み上げていく演出のスリリングなこと。最終的にあっと声を上げそうになるほど見事にひとが横たわるので、これだ、と思われた。肉親を求め、攻撃し、不意に和解へと至る一連のドワイヨン映画のなかでも最も抽象的な一本かもしれない。
カラフルグッピー他、数種類の金魚が先日洗った水槽に放たれた。実にかわいいものだが、どうしてもそいつらを食ってみたいらしくて、自分の十倍ほどの高さの水槽に跳びかかりつづけるタラボンの好奇の眼差しもまたかわいい。
で、今日も福田は「私がそういうこと答えると思う?」と憎まれ口を叩いたらしい。つくづく惜しいキャラである。

先週の疲れがまだ残っており、体のあちこちが痛い。如何ともし難い。
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2008/9/9

ラッキー・オールド・サン  音楽

最後の金魚が死んで以来、プレコが一匹隠棲しているだけとなった苔だらけの水槽を午後じゅうかけて掃除。かなりの重労働だったが、それでも夜には加圧へ。今日はかなりハードなメニューで、完全にへたばった。

ところが、である。深夜、さて寝る前に、と数日前に届いていたブライアンのニューアルバム『ラッキー・オールド・サン』を聴きはじめて、そんな疲れは吹き飛んでしまった。はっきり言って聴くのがやや恐かった。期待を裏切られても気にしないと心に決めるまで数日かかった。もうブライアン版『スマイル』ですべては終わったしそれでいいと心していたわけだ。ところが、である。これはもう『スマイル』さえ(すくなくともブライアン版)超えてしまっているのではないか。もうひとつの『スマイル』、もうひとつのロックンロール・シンフォニーである。ロサンジェルス、南カリフォルニアへの、ブライアンにしか作りえない賛歌である。表題は、私は知らなかったけどサッチモで有名な楽曲(あ、ピンク・フロイドの《ファット・オールド・サン》やキンクスの《レイジー・オールド・サン》もそこから来ているのかな?)なのらしい。それに着想を得てコンセプトを作り上げたようだ。ヴァン・ダイク・パークスが四曲で共作者になっているがそのうち三曲は演奏をバックにした詩の朗読になっていて、それらがミュージカルというかザッパのアルバムみたいに全曲が繋がっているなかで表題の《ラッキー・オールド・サン》のさまざまなヴァージョンとともにブリッジ的な役割を果たしている。もちろん現在のブライアンは66歳であり、その歌声の衰えを痛ましさと共に聴く覚悟が必要なのはブライアン版『スマイル』と同様であり、アレンジだってとくに新機軸が打ち出されているわけではなく、むしろ被っているネタも少なくない。ゆえに俗に言う名作だと吹聴するつもりはないし同時にイージーリスニングできる作品でもないが、しかしその痛ましさを乗り越えたところに感動があるのであり、「弟たちと一緒に歌う夢を見た」という歌詞ではじまる最後の《サウス・カリフォルニア》までに、ブライアンのことをまがりなりにも知る者にとってこれらは音楽以上のなにかになりかけてさえいるはずだ。歌声が消え、ピアノが軽やかに、あるいは管楽器がロングトーンであとを繋ぐとき、そこでなにかが起こっている。いままでも何度も感じてきたことだがそれが再び胸をいっぱいにする。

並みいる強豪を抑えて、本年度ベストワンアルバムに決定。
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2008/9/8

秘宝の週末その1  映画

金曜に「フランス映画の秘宝」開幕。オータン・ララ『パリ横断』、ロジェ・レーナルト『最後の休暇』と初見の二本からスタート。オータン・ララはドイツ兵に取り囲まれるあたりの処理がいかにも(所詮)フランス映画、ということで流したが、ロジェ・レーナルトは自分をグリフィスに近づける努力がはっきり見えていて感動的。殊に、貴族に嫁いだイカした叔母さんとシーツを畳む場面など、秀逸。ちなみにオリヴィエの『サマータイム』は完全にこれのリメイクである、とはじめて確認できた。二度目の『誰でもかまわない』、結局字幕があろうとなかろうと印象はこれっぽっちも変わらず、最初から最後まで延々と柔らかく盛り上がりっぱなし。強いて言えば男同士のやりとりの愉快さが字幕によってはっきりしたので、結局「ドワイヨン=女しか興味ない」という定説はプライベートのみ、ということを確認。なんでもできるのだ、やつは。ケンゾー氏、マツモト氏のシュヴァリエ受勲式に参加、その後呑みすぎる。そのため土曜、初回のメルヴィルを諦め初見のブリソー『野蛮な遊戯』から。処女作としては見事だが、やはりブリソーは最初の三本だけか、ということを確認するというのも悲しいけれど致し方なし。それもいま見るともはや「昔の恋」という感じで、悲しみはいや増す。続けてベッケル『最後の切り札』。これは三度目くらいか。相変わらずピエール・ルノワールの顔にやられる。ホントにこんな顔のフランス人が生まれ、俳優になったことにフランスは感謝すべきである。そしてそいつにシカゴギャングを演じさせる犯罪映画を作る監督がいたことにも。しかしまたオリヴィエの話になるが、すっかり忘れていたけどこれ、ピストルの訓練場からはじまっている。というと『レディ・アサシン』もそうだ。二人の男と二人の女がいて、女が一人死ぬ、というところは同じ流れだ。オリヴィエはいまのフランスにピエール・ルノワールがいないからマイケル・マドセンを起用したのかもしれない。帰宅して『次郎長三国志・第一部』をケーブルテレビで。田崎潤が一回転するたび、涙腺が壊れる。
日曜、サッシャ・ギトリ『あなたの目になりたい』。これ、タイトルを見ただけでどういう話か想像がつくので興味はどのように盲目を描写するかの一点に尽きるのだが、ギトリは主人公がひとりになるまで引っ張る。その直前、灯火管制のために足元に懐中電灯の光を当てて歩くところなどまるで『キャット・ピープル』のようだと感心しながらも、しかしこの作家の映画性は盲目の描写、つまりひとりで部屋をうろうろしながらさまざまな家具に接触し、ついに傷つけられた女の彫像に至るあたりに発揮される。そうして主人公は彫像を修復するのだ。これまでギトリにあまり興味がなかったが、この一連の演出を見て、もっと見たい、と思われた。終わったところで金井美恵子氏御姉妹にばったり。お元気そうで心から安心した。夕方、ブレッソン『罪の天使たち』。ここでのブレッソンの移動撮影のセンスには毎回ながら惚れ惚れとし、大画面で見ることができたのでさらにありがたみが増した。エロティシズムへのセンスは不動ではあるものの、演出はエンディングまではまるで違う作家(もしヒッチコックがいなかったらブレッソンが代わりをやっていたかもしれない)の映画のようだが、ラストのラストでいきなり『ラルジャン』へと繋がっていくのにあらためて驚愕。その意味でも、ブリソーとは比較にならない、世界で最も驚嘆すべき処女長篇。いやあ、つくづくむちゃくちゃな人なのだった。
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