2008/10/31

宗方のノワールな謎  映画

思ったほどは忙しくはならず、書き仕事のほかはたんにDVDを見まくっている。そんなところへ作品社様より吉田広明氏著『B級ノワール論』なる大著をいただいた。著者は私と同世代、いわばこうしていなければ私もまたこのような書物を書いていたかもしれないという意味で他人とは思えないような存在であり、まだ読み始めたばかりだが、内容的にもおそらくほぼ同意見である予感がする。そんなうれしい書物を傍らにして思わず『宗方姉妹』を見てしまう。あの、背後を通る者の足音に(オフだからわからないがおそらく)振り向きもせず、誰だ、と問う刑事かギャングのような山村聡の、あちこちでの飲酒の退廃っぷりは実にB級ノワールだ。それはそうと熊野川の上流にダムを作る仕事に就いた、という山村の死後、上原謙に別れを告げた田中絹代は高峰秀子に「御所を通って帰りましょ」と誘い、そこで「どうして京都の山は紫なんでしょ」とまともに問うでもなく口にする、この南北朝な感じはなんだろう。まるで南朝の滅亡の責任を北朝が引き受けるような。いや、さらに異様なのはなんといっても葬式の読経のさなかでの笠智衆の戸外での散髪だろう。癌に冒された身でまさか出家ではあるまい。ロングショット一発のあれの謎。シナリオにはどう書いてあるのか。手元にある「作品集」には『宗方』は収録されていない。
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2008/10/27

猫事件多発  日常

東京国際の間、妻がずっと地方に出かけていたので、酒を呑みに出ないときは家でコンビニ弁当かヒルズのベンチでおにぎりかサンドイッチ、みたいな食生活だったせいか、体力ががくんと落ちている。月末から月明け中旬までは原稿と打合せに追われることになる。ここで体調を崩すとあとに響く。無駄な外出は控える。
しかし昼から老猫が一匹見当たらず半日心配で、というのも前夜、玄関で寂しそうにうろうろしてたのを、どしたの〜、と声をかけただけで放っておいたからだが、もしや世を儚んだ家出ではなかろうか、と夕方になっても帰らない彼奴を探して、暗くなった近所を名前を呼びながらうろうろ。しかし見つからず途方に暮れながらコンビニ弁当を買って帰ってきたら、玄関の隅にいた! よかったよかった、と撫でて食事を持って行ってやり、宥めすかして家に抱いて連れ戻し、自分が飯を食った後はずっと膝に乗せておいた。
そんでもって妻が帰ってきたら一時間後くらいに、おかえり〜つってそいつとはちがう猫がごちそうを咥えて帰ってきた。かなり久しぶりのことだったんで、キム・ギヨンの魂が乗り移ったかとさえ、一瞬。妻は何事もないというように、ありがと〜、と猫に微笑みかけながらすでに昇天されたそのネズミさんを処理。
昨日も一昨日もDVDを片っ端から見ているが、片っ端から忘れていく。忘れる程度のものというわけでもなく、いいものもあったが、まあここではあえて書かずにおく。いずれも旧作ばかりである。あ、新作が一本、これも中原のお薦めで見た『マーゴット・ウエディング』というのはなかなかよかった。特に珍しく少年の気持ちが我がことのようにわかった。これを感情移入とひとは言うのだろうな。隣の家のガキの、意味不明な凶暴さが印象的だった。でもああいう意味不明な凶暴さでぎらついてるガキって、子供の頃同級生にもいたな。みんなビビッてた。あいつ何するかわかんない、とか言って。実はどーっつーことはなかったりするんだけど。
ちなみにこれ、93分。90分台のノリをわかっている演出・編集だった。
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2008/10/26

東京国際・大団円  映画

キムG詣も今日で終わり、というわけで約二十年ほど見ずに通してきたがとうとう『下女』を。昨日の『虫女』でかなり恢復したと思われた体調で臨んだわけだが、いや予想されはしたものの見ているうちに再びどんどん具合が悪くなり、冷や汗がじわじわと額を濡らす。やはりあの全然ぬるくないのに遅れていくような演技のリズムと台詞の発声にどうにも気圧されてしまうようだ。戦前の日本に医学生として留学しつつ世界じゅうの映画を見た、とゲストとして来日されたご子息が仰っていたことからしても、映画がいかなるものかはよくわかっている。本作もどこか同時期の東宝か新東宝作品のようにも見える。もっとも、繰り返すようだがこういうのは「うまい」とは言わない。ただ独特なのだ。
終映後のトークで高橋洋氏が言っていたように、どこかで人間を鶏小屋の鶏のように見ている、そういう視点がたしかにある。足萎えの娘(『シナのルーレット』!)にリスを買って来て歩行訓練を促すというひどく冷酷に思われることを平然と挿入するし、クライマックスで夫が妻のところに這ってくるとき、倒れた椅子の背凭れを夫を牢獄に閉ざす鉄格子のように見せていたが、あれなどもそんな視点から来る発想のひとつだろうし、もっと顕著なのは、というかこれはどう考えてもへんなのだが、階段を上がって左がピアノの部屋で右がお手伝いさんの部屋なのだからドアを出て向い側へ行けばいいのに、雨が降っていてもいちいちベランダを経由していく。そうしてキャメラは部屋の中と外両方から窓越しの人物たちを撮る。そのような視点の外部性(客観性というのとは若干違うと思う)というのは、実は映画の昆虫学的側面としてそもそも備わっているものだが、ひとはあまり実際にそこに手を出したがらない。科学的になることはどこか人間らしさを離れるように見えるからだ。だからブニュエルや増村、そしてキム・ギヨンはときとしてグロテスクに見える。またそうした手法は一方で詩学的にもなりうる。人間らしさ(それは言ってみれば「文学」だろう)を離れて世界の無意味で過剰な断片を提示するとき、映画は映画として独立する。そのことが映画の存立と直結する。私もそのようなことをこのキム・ギヨン特集を通じて再確認することができた。
というわけで、世界よ、ギヨンよ、ありがとう!

そして今年も終わりだ。当分はこれほど幸福に映画に出歩くこともないだろう。これから年末まで打合せの山が待っている。
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2008/10/26

補遺  映画

そうそう、書き忘れていたが、キム・ギヨンは世界でも有数の、つまりベッケルと並ぶビンタ映画作家である。音を足してはいるだろうがちゃんとヒットしていたし、かなり痛いはずだ。
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2008/10/25

東京国際・その五  映画

昨日までのぐだぐだの原因であるキム・ギヨンの毒気が篠崎誠氏によって「キムG」(重力のGね)と命名されたなか、さらにキムG二本。『自由処女』と、そして中原が「一番感動した」と語っていた『虫女』。朝早かったせいで残念ながら『自由処女』は半分以上夢うつつだったが、スペインに留学して来たという美しく有能な潮流研究者が生バンドで踊り狂うディスコダンスと、その女が妻子のいる大学教授(蝶の研究に没頭)が性的不能者(「我が家はツンドラで、妻はその大雪原に立つマンモスだ」という途方もない台詞あり)でそれを治すんだが、明らかに「蝶」と「潮」は駄洒落としか思われず、それらによっていちいち腰砕ける。そのうち田舎に療養に行った教授を追ってきた女が、必要以上に大きい捕虫網を持ってゴルフコースのようなところに現れるのは『悲愁物語』並みに呆然とさせられたし、女がいちいち蛾のように大きく広がった白いキュロットスカートのすそをはためかせるのにも呆れ返るしかなかった。西洋仕込で性に解放的という設定の女はしかし、ベッドを見ると女を男にいけにえに捧げる祭壇にしか見えない、とか、愛なんて隷属意識の言い訳にすぎない、とか、はあ、という感じのことしか言わないので、いったい彼女の目的はなんなのかは問いようがない。と思ったら、最後は木の言葉を聴くという教授の写真を撮って満足、てどうゆうことよ?
しかしそんなへんてこりんな『自由処女』も、『虫女』の凄まじさを前にしては、ほとんど記憶が薄れることになってしまう。これについてはあまり書く気がしない。まあ、そうですね、「青春とは既成世代に対する反逆」でしたっけ? といった宣言と、あと飴玉とシロネズミ食う赤ん坊とお母さんが愛人が遺伝するという異様な説を唱えつつ泣きながらお金を数えるのと、メインテーマが『火女82』で作る流行歌と同じメロディーだったことくらいはメモしておくか。あの地下溝の髑髏がなんで二つなのか、とか、夢でネズミに襲われるとき体が半透明のプラスティックで出来ていてその中にまでネズミがいたこととか、しかもこれ、こんなことがあった、ってゆう噂話(話を聞いてるのが浮気夫でその看護婦が愛人役をそれぞれ二役)で終わるわけで、などなど言い出すときりがない、途方もない映画なんで。あまりの凄さにもはや体調はキムGから解放され、むしろ健康に。
しかし、見ながらときどき、真面目に映画作るのがバカバカしくなりました。いや、ギヨン精舎は真面目、てゆうか物凄い本気でやっているわけだが。
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2008/10/24

東京国際・その四  映画

さらにぐだぐだで朝どうしても出て行く気がせず『ゴモラ』を休んでしまったが、ぐだぐだなのは、酒だけのせいではなく、どうやらキム・ギヨンの毒気に中てられるせいでもあることがわかってきた。昨日見た、ブレッソン『白夜』のけったいだけど爽やかなリメイク『シルヴィーのいた街で』(どうもHD撮影のようだったがはっきりせず)ではむしろ多少体力が恢復したのだが、本日の『水女』と『陽山道』の後ではほとんど発熱しかけているのではないか、と思われるほど疲れた。同じ回を見た高橋洋氏や市山尚三氏もそういうことはありうると笑っておられた。異常に中途半端なテンポと異常に高いテンション、そして異常な描写によって、無意識にストレスを溜めている気がする。今日も虎の壁掛けの前を上下する電球(しかもオーバーラップ)だとか、帰ってこない夫に苛立って破った枕カバーやら紐やらで自分の首を絞めようとする妻の行動だとかにひどくストレスを感じたのだった。その妻を犯そうと現れたトラック運転手は自死しようとする妻に「感激したぜ」などと言い、告白文で済ませようとするのだが、その文を布団の上で書こうとするから、そんなところで書いたら紙が破れるだろう、と気が気でなかったり、夫は夫で、お前が運転手の顔を見なかったから運がわからなかった、と無茶苦茶な論理で妻をなじったりするのにも、呆れ返って物凄くストレスを感じたのだった。しかしストレスは感じるのだけど、面白くて笑ってしまう。たしかに『サンライズ』だとか『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』だとかいろんな映画を思い出すのだけど、それらのどれにも似ていない。ひたすら、へん。なんだよ、世界よありがとう、って!
それに較べて『陽山道』の方はまだ普通といえば普通だし、すでに斜面(階段)の作家(というか韓国は岩山が多いから必然的に斜面は出てくることになるのかも)としての片鱗を見せているのだが、なんかいきなり大八車かなんかが転がってきてたし、なんでそんな斜面で寝るんだ、っていうような斜面で野宿中に寝込みを襲われたりするし、挙句岩山に落っこちてたりするし、やっぱへんといえばへんなのだった。雷で木が燃えるのだけど、あれ、ナイトシーンの光源として無理矢理やっただけかも。

そう言えば市山氏から、先日の日記で『ラスト・エンペラー』以来などと書いていたが自分の作品を出品しているではないか、と指摘され、のけぞった。たしかにそのとおりで、そのときはストローブ=ユイレやオリヴェイラ、パスカル・ボニッツェールなんかを見たのを思い出させられた。まったくこの記憶力、どこまで低下するのか。
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2008/10/22

東京国際・その参  映画

打合せと映画祭と酒でイッパイイッパイな日々。いまにも全身が粘土のようにぐにゃぐにゃへしゃげそうである。昨夜はイエジー・スコリモフスキ『アンナと過ごした四日間』。二度目だがこの「超」が付く傑作を前にして書く言葉が見つからない。上映後のQ&Aに登壇した監督の姿に、いままでずっとこの人のファンでいてよかった、という嬉しさに思わず涙を溢れさせてしまった。こないだ書きすぎて反省したが、司会の方は批評家ではないけれど非常にうまく進行しておられた。きっとかれもこの作品が大好きなのだろう。監督とも九年ぶりに再会し、少しだけお話しすることが出来た。相変わらず食えないおっさんだったが。

もう酒はいいかげんにしたい。ところがまだ呑まねばならない。ウコンの力と血圧の薬にお世話になりながら、酒を呑むなんてばかげている。
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2008/10/21

東京国際・その弐  映画

土曜に某編集者と呑み過ぎ、日曜に某シナリオライター宅で呑み過ぎ、月曜は呑まないと決めていたのに重要な人物との会合で結局お誘いを断れず、しかしなんとか深夜宅配便。その前の東京国際でとうとう(なにが「とうとう」なんだか……)キム・ギヨンに二本、触れた。『火女82』と『高麗葬』。これまで見なかったのに見たのは韓国行きが直接の引き金だが、韓国にどれほど技術の蓄積があったのか知らないままに見ているとただ呆れるばかりの強引さだ。現在の韓国の若い人たちが皆同じように持つ嘘のない優しさ、真剣さ、そして豊かさに触れた後では信じ難い、マッチョとエゴと貧しさの嵐。そうしてそれが独自性となっている。シネマートのロビーで篠崎誠氏と柳下毅一郎氏とともに石坂健治氏(氏の、長年の拘り、頑張りにはただただ頭が下がる)の話を聞いていると、キム・ギヨンはかなりメルヴィルに近いインディーズ作家だったらしいことがわかった。たしかに『高麗葬』(途中、前夜の呑み過ぎが祟って最悪のコンディションに襲われ、退席したことが悔やまれる。最近でもいちばんひどい下痢だった……)のセット撮影などは『ギャング』の冒頭のそれを想起させる。撮影所的な管理などまったく寄せ付けない、畸形的スペクタクル。あのクライマックスの姥捨て山のくだりのくどいこと。いったい何度息子を呼び戻せば気が済むのか。あそこは泣き所なのかそれとも笑う所なのか、もちろん前者なのだろうが、しかしほとんどドリフのコント(主演俳優がすわしんじに似すぎ)で、ひたすら困惑するしかなかった。
一方の『火女82』は、国策上濡れ場をはっきり描けない中期にっかつロマンポルノといったノリで、つい『堕靡泥の星』を思い出してしまったが、やはりもちろん技術的にはにっかつや東映の蓄積に遠く及ばない。そのことに苛立つほどキム・ギヨンが映画を知っていたかどうか定かではないが、まるでそれに対する憤怒のように強引さが画面上に噴出するのもたしかだ。いったいあの金粉ショーみたいな濡れ場はなんなんだろう。強引すぎる。しかしそれは私自身が現在、撮影の際に必要とする撮影所的な技術の乏しさに苛立つことと非常に近しいものだったりもする、という形で呑み込まれる。つまりポストモダン的にしか了解できないものなのかもしれないが、それが悪いとはちっとも思わない。但し、叩き割られるランプシェードのかけらが落下するカットはよろしくない。鈴木則文なら黒バック・ハイスピードで撮っただろう。だからそれが撮影所育ちの強みなのでもあり、それがないところではこのようになるのもまったくもって世界史的真実なのだった。
しかし『高麗葬』のクライマックスで、雷の表現に白コマが入るたびにフィルム劣化でコマがずれるように見えたのには参った。映画の唯物性そのものが露呈するようだった。
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2008/10/19

東京国際・その壱  映画

東京国際映画祭に出かけたのはいつ以来だろうか。べつに嫌悪があって近づかなかったわけではなく、たんに毎年同じ時期に忙しかったからだが、およそ記憶がない。へたをすると第一回の『ラスト・エンペラー』以来ではないか。あるいは、いつだったか記憶にない『シテール島への船出』か。ともあれ十年以上の歳月を経て久々の鑑賞はガリン・ヌグロホ監督の『アンダー・ザ・ツリー』。私の世代にとってガリンの名前は、いまのアビチャッポン(私は一本も見ていないが)に相当するのか、とにかく「東南アジアにこの人あり」といったものだが、今回も期待に違わぬ見事な「映画」だった。デジタルビデオが概ねのシーンで同時に二台回され、それぞれが即興を基本として演出されているのはドワイヨンと比較すべきであり、あっと驚くこともなければ爆笑することもないけれど、ただひたすら、ああ「映画」だな、と思える時間を過ごすことができた。主演の(上映後のQ&Aでは三人ということになっていたが明らかに)五人の女優それぞれが割り振られた役割を見事に演じ尽くしている。てゆうか、はっきり言って「超萌え」映画です。再上映を見逃すと「ゴマキ系美少女(と「女」の間にある)」の発見を失うことになりますぞ!
で、あとはこれがいかに「第三世界」というカテゴリーから自由になれるか、という問題を残すのみだが、五十年以上続くこの問題はもちろん、本作の国籍が「インドネシア」だからではない。ことは先進国「日本」であっても同じである。
ちなみに、久しぶりの東京国際について、朝日新聞のネット版で識者の意見がとりあえず語られていたのを読んだ上で一言付け加えておくと、これほど音のいい映画祭はどこを探してもないだろう。但し、上映をシネコンでやる映画祭もないにちがいない。どちらを択ぶかは誰にもなんとも言えないだろう。これはこれで認めてもいい気がするが、その上で言いたいのは、なんでQ&A(「ティーチ・イン」という呼称は観客をバカにしていやしないか?)の司会に映画プロパーが付かないのか、ということ。可愛らしい局アナ風の女の子が司会をしていて、彼女は実によく仕事をこなしていたが、かといって日本の批評家たちの怠慢がここで露呈することを見過ごすわけには行かない。もしもこれを世界に通用する映画祭にしたければ、というかそれだけの金があるのなら是非すべきだと思われるのだが、しかるべき批評家が率先して自分にQ&Aの司会をさせろ、と映画祭にねじこまなければならない。そこでまっとうな仕事をし、しかるべきギャラを要求しなければ、批評家などあってなきがごときものではないか。ブログでああだこうだ好き勝手に書いているだけが能ではないだろう……と書くのは、当の批評家に向けてではなく、あくまで映画祭関係者に向けてだが、問題はキャスティングをどう考えているかだ。ガリン・ヌグロホ作品なら司会は当然石坂健治氏、または荻野洋一というガリン支持者のどなたかが壇上で采配を振るうことではじめて映画作家に対する面目が立つのであり、それこそを映画祭の「顔」としなければならない。先日の京都映画祭の豪華な顔ぶれを見ても明らかなように、このような常識のなさ(これが常識でないことがどうかしている)がこの映画祭を二流以下にしている理由だと認識していただきたい。その面でのホスピタリティははるかに世界水準を下回っている。もはや蓮實、山田、山根、梅本といったお歴々まで動員せよとは言わないが、樋口泰人、安井豊、赤坂大輔、大寺真輔、廣瀬純、藤井仁子……といった世界レベルにあるそうそうたる名前が各作品(少なくともコンペティション)の紹介者として名前を連ね、上映館とは別場所で「記者会見」を行うことではじめて、この映画祭はいっちょまえになれるのだ、としか思われなかった。

ちなみに、ここでいう「いっちょまえ」とは独自性のことである。
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2008/10/18

アメリカ映画学習、再開  映画

DVDでベン・アフレック処女作『ゴーン・ベイビー・ゴーン』。実はジョン・トールの律儀な切り取りフレーミングの積み重ねが昔から好みではなく、冒頭からいかにもすさんでますよ的なボストンの貧民街のリアルさも邪魔臭く感じるのだった。一方でケイシー・アフレックのジャージ姿には大いに共感を覚えたものの、やはり映画が立ち表れてくるのはいつもながらのエド・ハリスのエグいおっさんぶりが炸裂するあたりからである。アフレックが変態を射殺した後、病院の前で酒を瓶ごと差し出すタイミングなど、思わずグッと来た。全体のネタとしてはモーガン・フリーマンのそそくさとした退場あたりでまあそうなるでしょ、とラストカットまでなんとなく予想がついてしまったので、感心こそしないが、悪い気もしない。マキノの見過ぎのせいか、どこかでアフレックに豪快に泣いてほしかったが、それもないものねだりというものか。ただし問題は夜の池ダイビングで、よくやったと褒めてあげたい気がするものの、撮影方法としてはレイの『ジェシ・ジェイムス』なんかで、もちょっと勉強したほうがいいんじゃないか、なんて老婆心も。

続いてやはりDVDでマイケル・マン『インサイダー』。基本的に私はマイケル・マンを買わない。殊に銃撃戦は見ちゃいられない。例外は『コラテラル』におけるトム・クルーズの天才的とも思われたガン・アクションだが、ドラマそのものにはまったく気持ちが動かなかった。ところが、初めて見た本作はかなり、いい。拳銃がほとんど出てこないせいでもあるかもしれないが、男優も女優も硬質で抑えつつも広がりのある演技を見ることができ、それだけで158分という長さを帳消しにしてくれる。初めて演出うまいじゃん、と思われた。もしかするとスクリーンで見ていると頻繁にキャメラ前を通過する人影が鬱陶しかったりするのかもしれないが。アル・パチーノ(最高なのはクロウの自殺を心配して海辺でかけた電話を切った後の、海中のロングショットだったりするのだけど)もラッセル・クロウ(FBIにPCを奪われたとき、家の前の土手を転がり落ちる無様さ、気に入った)も珍しく普通に見えた。ラストのクリストファー・プラマーとパチーノの別れ際、無言の振り返りに到っては不覚にも涙腺が緩んだのだった。結論としては、ガン・アクションはトニー・スコットに任せて、マイケル・マンはこういう硬質で念入りなドラマに専念したほうがいい。

トニーといえば先日兄貴の『アメリカン・ギャングスター』もDVDで見たが、相変わらず粗雑な出来、という印象。ラッセル・クロウも『インサイダー』に比べたら杜撰だと思われ、いつもどおり及第点のデンゼル・ワシントン演じるギャングのお母さんが息子に食らわせる平手打ち以外、あまり記憶に残していない。
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