2009/1/29

しばらく休みます。  日常

急になにもかもどうでもええわ、という気分になる。昨夜の過剰飲酒のせいだろうか。映画芸術の最新号を読んで、前々号がつまらなかったのは編集のせいのみならず、本格的に日本映画がつまらなくなったからだ、と気づいてしまったせいだろうか。寅さん特集と白坂依志夫氏の連載ぐらいしか読んで面白かったページがないのだ。しかしまあどうでもいい。また今日も酒を呑む。
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2009/1/28

政治と経済、脳と身体(復習篇)  映画

寒さのせいだろうか、左脚が痛くてまともに歩けない。加圧のコーチに整形外科を紹介してもらった。
月曜は加圧後、銀行作業など行って、ヴェーラへ。『藍より青く』と『高校さすらい派』。
両方ともかつて見ていたことを思い出した。が、それとはべつにどうも釈然とせず、帰ってから『こことよそ』と『うまくいってる?』をDVDで見て、ようやく落着いた。なんというかまあ、そういうことだ。ピント外からピント内へ入ってくる被写体を撮るとき、やはり大写しでないとしっくり来ない。
そんなわけで火曜は午前中爆睡してしまい、午後にあれこれと家の用事を済ませてから某試写に出かけたが、満員で門前払い。経済的な逼迫が、往復の時間はいいから運賃八百四十円だけ返してくれ、と俺に心で呟かせる。仕方がないから仕事場で『映画史(2)』を最後まで読みきる。なんだ、この既視感は。先日、DAと電話で話しているときに出たアルトーの話とそれに続く身体の話はえらく面白かった。
夜、忘れていた原稿の催促があり、慌てて書く。脳みそ疲れついでにあれこれやっつけた挙句、いろんな理由で『ファイト・クラブ』を見直したのだが、やっぱり「で?」という初回と同じ感想しか浮ばなかった。結局中途半端なのだ、「身体の映画」としても「脳の映画」としても。あ、乗ってる飛行機がぶっ壊れる妄想だけはよかった。
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2009/1/26

初雪のあったこの数日  日常

久しぶりに限界に達しつつあるが、それでもまだなにも片付かない。金銭的な問題だけはとりあえず解決したが、予断は許さない。今後も無駄遣いは禁物だ。四月辺りには景気回復できるだろうか。やれやれ。
それでも男は黙って見ていない森崎を見る。木曜は『生まれかわった為五郎』。これまで見たどの緑魔子より美しい。そして財津一郎がヒッジョーに素晴らしい。とことんやけくそのように作っているので涙ぐましい。夜の海とかラストショットとかほぼノーライトで真っ暗だ。そんなところに感動していいものかどうか知らないが。俗悪なキャバレーのセットにはかなりの金がかかっているはずだし。一方で北林谷江の家(ド迫力)のライティングは見事だし。どういう予算配分なのか、と泣き笑い。墓の傍に拳銃が埋まっている、というネタはここですでに使っていたのだな、と知る。
夜、今井が来て、少し呑んだ。
金曜は『スラムドッグミリオネア』。ネオリベ映画の旗手DBの面目躍如である。先日予習のためにDVDで見たシャブロル『マスク』の爪の垢を煎じて飲むべきだが、いまさらそんなこと言ってもはじまらない。金融恐慌とともに消えていってくれるといい。
夜はあるノンフィクションの著者と市谷の名店にて会食。やはり才能ある方は人格的にも素晴らしいのだった。帰りに西麻布に寄り、つい寝てしまう。
土曜は横浜。せっかくだから昼間早めに行ってセザンヌを見ようと計画していたのだが、今日こそやらねばと取りかかった原稿が終わらず、とうとう日が暮れた。芸大馬車道校舎にははじめて足を踏み入れた。美学校より全然立派。けど遠いよ。帰りに雨が降っていてげんなり。超腹が減ったので乗った急行が家の近所の駅に停まるとわかるなりそこで降りると、雪。駅前に見つけたカレー屋で侘しくカレーを食す。駅前カレーったって高くなったもんだ。一杯千円も取る。食い終わって11時。ギリギリセーフだが、それでも高カロリーだし金も使ったことだから、タクシーをやめて徒歩20分。雪もいつかやんでいた。
日曜。朝五時起床。六時集合出発。渋谷駅周辺実景撮影。予想どおり、快晴。中抜けしつつ十八時終了。これらがなにに使われるかは未定だが、いつかどれかの作品にインサートされる可能性のあるナイスショットが数点。いずれもいつか失われる風景である。
ところで、自分の感情生活、というか倫理観など他人にはまったく理解されていず、それは当然として、しかしそれを説明しなければならない相手が女房以外に存在するとは思っていなかったので、そうしなければならないときが来るとひどく動揺する、ということがある。そういうことはあまりしたくないものだ。寒さが身に沁みる。
ホン・サンス『浜辺の女』を見た。ひどいズームとかあるが、それも含めてシャブロルとはいわないまでも一種のポストモダンとして見ることのできる作品だろう。その上で、これを好きだというひとがいることになんの不思議もない、バカ正直なことが取り柄の現代的佳作。31歳離婚調停中の女が露にする二の腕の肉感と、砂浜にハマった車の脱出は、よかった。
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2009/1/22

ないものねだりをやめて、ゲームの不規則に興じること。  映画

まだ一月だというのにもう疲れはじめている。仕事はいつまでも終わらないどころか、雪ダルマ式に増え続ける。投げ出す気になることはないが、他のことはなにもできず、一日でいいから休みたい、などと思うほど。

それでもなんとかヴェーラに足を運び、見逃していた『喜劇・特出しヒモ天国』を見る。冒頭の殿山泰司の説教から強引に引きずり込まれ、さらにこの芹明香は凄すぎて、なにか「いい芝居」をしようとしているように見える池玲子が霞んでしまう。というかこの池玲子の使い方、間違っているような気さえする。山城・川谷は当然のごとく、藤原釜足も凄ければ中島葵も凄いし、芹が川流れしかけると火事で亡くなるという呼吸もなんだか大変なことになっている。その葬式でまた芹の「黒の舟歌」とストリップが……。警察を馘になった川谷の暴れる屋台に工藤・深作・名和などなど東映の錚々たるお歴々がカメオ出演していて、森崎監督がいかに歓迎されていたかよくわかった。それにしても、これだけ堂々たる群像劇が78分という事実にはひたすら呆然とするばかり。ちなみに、比較するわけではなくただ覚書的に書いておくと、これまた呆然とするしかない神代『特出し21人』77分はこの前年である。

まあそうしたプログラムピクチャーの栄光をないものねだりと諦めると、エリック・ロス脚本の『ラッキー・ユー』(ヴェーラへ行く途中、HMVで買ったのだ)はやはりなかなかの秀作だと思われた。スティーヴ・ザイリアンが『ボビー・フィッシャーを探して』で師弟関係を軸にしてチェスというゲームを描いたように、ロスとカーティス・ハンソンはポーカーを父子=師弟関係の相克を軸として描く。決してパッとしないむしろ地味な印象の映画だが、エリック・バナとロバート・デュヴァルがテーブルを挟んでカードを取り出すとその身のこなしだけでピリッとくるものがある。ここで描かれるゲーム/ギャンブルはポーカーだけでなく、ありとあらゆることがギャンブル化されうるのだが、それはフォレスト・ガンプの行動決定と同じだ。気まぐれなようでいてすべてはスキルに裏打ちされており、運命のようでいて偶然に左右される。『ミュンヘン』の素人暗殺集団が見舞われる危機的状況も同じだ。そんな「呪われた自由の国・アメリカの物語」ばかり書いているひと。どこか『荒馬と女』を想起させるのも、ラスヴェガスというよりポーカーのテーブルがロデオのアメリカによく似ているからだろう。予定調和の男フィンチャーによる『ベンジャミン・バトン』の出来が俄然楽しみになってきた。
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2009/1/19

エリック・ロスについての覚書  映画

とうとう金が底をつき、事務所に詰めて仕事をしながらギリギリの生活を送っている。まあ、今週中には何とかなるはずなのだが。
そんななか、エリック・ロスという脚本家について考えた。フィンチャーの新作『ベンジャミン・バトン−数奇な人生−』のことを知りたくてネット検索し、つとその名に行き当たったのだが、驚くべきことに『フォレスト・ガンプ』あたりから始まり、『アポロ13』『ポストマン』『インサイダー』『アリ』『ミュンヘン』『グッド・シェパード』と、ここ数年特に気にしていた映画ばかりが並んでおり、デヴィッド・コープや一時期のブライアン・ヘルゲランド並みに(傑作『ポストマン』は二人の共同脚本だ)作家性の濃い脚本家である。いままで気づかなかった自分の勉強不足を恥じる。ひとつ前はカーティス・ハンソンの『ラッキー・ユー』という作品だが、これはポーカーの話らしい。一種、運命論と複雑系が咀嚼され、絡み合って成り立っているような構成で、一見緻密に見えないようでいて実に緻密な「分散的シチュエーション」がこのひとにはある。一方、ひととひととは「ことさらに弱い結びつき」で関係しており、多かれ少なかれひとびとは「さすらい」、「クリシェ」が「意識化」されており、ときに「陰謀」が「告発」される……というドゥルーズが現代映画の条件として挙げた五項目をすべて含んでいる。未見の『ラッキー・ユー』が見たい。でもカードが止まっていて、アマゾンで買えない。……HMVへ行くか。
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2009/1/16

新・町工場より  告知

日々、仕事している。新しい仕事場は大変に仕事が捗って実にけっこうなことだ。目黒通りの騒々しさがかえって密室感をもたらしてくれている気がするのは性格だろうか。友人の某編集長が隠棲する三崎の家の静けさとは真逆だが、おかげでこれまでとは段違に細部に下りていける集中力を以って事にあたることができている。打合せにも最適だし。駅から遠いのが難点かもしれないけど、俺が出かけないための部屋だからね。無理にでも来てもらおう。コーヒーメーカーだって置いた。それにしてもちょっとこの季節、寒い。ドンキで買った毛布で下半身をくるんで作業している。でも静電気が凄くて痛かったりもする。性格はインダストリアルでも、やはり安物はダメだ。夏が待ち遠しい。
晩飯はここんとこ毎日、近所の蕎麦屋。家人が舞台稽古で夜遅いため。

イプセン『ちっちゃなエイヨルフ』(演出/タニノクロウ)を二月四日から十五日まで、池袋「あうるすぽっと」にて上演予定。出演は勝村政信さん、とよた真帆ほか。
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2009/1/15

移行せよと言われても  日常

AOLがダイアリー機能をやめるというので、おすすめされるままにべつのところへ移行しようとするのだが、やり方が面倒でうまくいくかどうか疑問だ。ちょっとうんざりする。あんまり手間がかかるようだと日記ごとやめてしまうかもしれない。

てゆうか、これがそうなんだけど。。。なんか、できたみたいだ。
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2009/1/13

(1)から(2)へ  書物

ジルさん『映画史(1)』、ニホンゴとしていかがなものか、な訳にもめげずようやく読了。ま、その訳のせいで半分以上、面白いところを楽しめきれずに読んだ気がするが、まあこういうものはそういうものだと思ってスルー。中で一箇所だけ実践に重要な部分があったので、これもへんなニホンゴだと了解しつつ、確認として肝に銘じるべく引用。

……多くの映画作家において準備作業がどれほど徹底していようと、映画というものは「直接的なものを通る迂回」を避けることができないということだ。予測不可能なものあるいは即興に出会う契機が、すなわち物語叙述(ナラシオン)の現在の下に潜む生ける現在の還元不可能性に出会う契機がつねに存在するのであって、キャメラは、障害であると同時に必要不可欠な手段であるようなおのれ自身の即興を生み出すことなしには、おのれの仕事を始めることすらできないのである。

(つまり、撮影ってのはつねに博打だってことだ)
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2009/1/12

まつりは終わり、探求はつづく  日常

金曜は『サンライズ』を見て(言うまでもなく最高傑作。ことあるごとに見直す必要を痛感した、古典であると同時に各ショットの目的=欲望がすこぶる現代的な作品である。映画はショットの欲望の軽重によって90分台だっていくらでも厚くなりえる、という最良のお手本)から呑みに出る。長い間行けずにいた店へとうとう。美味。その後、トラック〜LJ。

土曜は加圧後に打合せ、さらに呑みで新宿へ。いったいどういう移動(間にカラオケまで挟まっている)をしたのか、いつもながら記憶が曖昧になるほど狭い空間を複雑に動いた。何年ぶりかで始発(でもないか)電車で帰った。

日曜は『タブウ』を見る。なるほど、フォードが『ハリケーン』や『ドノヴァン珊瑚礁』を作ろうとする意志はここに源泉があると見てもいいのかもしれない。ほとんど布一枚しか身につけない男女の肉体がまとう「陰影」ということをやってしまうとムルナウ的にはあとは死ぬだけだったのだろうか。その後にはただ二番煎じ三番煎じが待っているだけ、という意味で。ムルナウほどの自信家がわざわざそんな反復に耐えるとも思われない。方法論的にはのちのロッセリーニへ通じるものがここで行き当たりばったりに芽吹いたように見えるのだがどうなのだろう。世界の(エロスの)探求としての映画。
それにしてもカール・フロイント〜チャック・ロシャー〜フロイド・クロスビー、とタイプのまったく異なるキャメラマンと組んでスタイルが変わることにまったく頓着しないあたりが個人的なムルナウへの敬意の源だ、と思い当たった。わかりにくいけどやはり対象にのみ向かうことが映画作家の本分かと。キャメラのことはキャメラマンに任せよう。
ともあれこれでまつりは終わり。今後はアテネのプドフキンに向けて、ソ連映画復習へ。
夜は風邪を治すべく、焼肉へ行き大量の大蒜を摂取。ノンアルコールの日々を再開。
あとの時間はヴェーラに行くのもすっかり忘れて、シノプシス書きに没頭していた。
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2009/1/9

ホントっぽさより嘘から出たまことちゃん  映画

疲れた。五日間酒を呑まなかったのはまあ上出来として、そうすると必要以上に仕事をしてしまうので体がネを上げてしまう。毎朝飯を作って夫婦で食い、食器を洗い、仕事場に出かけた。そこから加圧に行ったり、映画に行ったり。で、だいたい十二時まで仕事場であれこれやってから家に帰る。そういう生活だ。これが意外とリズミカルだ。宇宙の原理に則っているというか。
……まあ、大げさに言ってみただけだが。

昨日は銀行で外国送金とかしたあと、劇場初の『アンダーカヴァー』に行ってきた。面白くないわけがないのだが、なにかどっかで乗り切れない。これは同じロシアン・マフィアの世界を扱った『イースタン・プロミス』でも感じたことだが、どうしてナオミ・ワッツもエヴァ・メンデスも殺されないのか。いや、殺されるところが見たいわけではなく、どうも「本当っぽさ」が片手落ちの気がしてしまうのだ。それは雨中のカーチェイス&銃撃戦でも感じられ、というのもスクリーンで見るとはっきり感じるのだが、あの距離でデュヴァルがライフルで撃たれているのにかなり先まで走った後に車を降りてようやく死ぬというのはリアリティを欠いている気がしてしまう。またマーク・ウォルバーグが顔面を撃たれて死なないというのも、事実そういうケースがあるのは知っているが、にしてもなんだか必要以上にやばい存在として描かれているロシアン・マフィアがあの距離で撃ち損じ、しかも車に火炎瓶まで投げこんでいるのに、と見ていて思うのが人情というものだろう。殊に『復讐は俺に任せろ』好きなひとなら、車は爆発するのが当然だし、その場にいる人間は死んで当たり前、というのが映画の鉄則だと信じてきたはずだ。だがデュヴァルもウォルバーグも簡単には死なないし、エヴァ・メンデスも殺されたという話は出てこない。あまりにいかにもなプエルトリカンのメンデスだが、ああいう段階で出て行くのは、いかんせん説得力が希薄。その辺は、大して好きでもない『グッド・フェローズ』のほうが少なくとも説得される。もちろん、あそこで出て行ったメンデスが捕らえられたらたんに射殺だけでは済まないだろう。この世のありとあらゆる汚辱を受けた上で殺されるはずだ。そんなもの、誰も見たくはない。それはそのとおりだ。であれば、あんなところで出て行かせてはいけないのではないか。作り手の都合で動いている、と批判されても反論できないような感じなのだ。自分と世界の対立においては世界に加担せよ、というか。何事も匙加減ひとつ、というか。あと、あの葦野原に火をつけて燻りだす戦法だが、どんどん入っていくのはいいが煙が目にしみたり咳込んだりしないのか、みたいな重箱の隅的に気になってしまいもする。あるいは、オヤジの拳銃を、もう必要ない、なんつってオヤジのかつての同僚に渡しておいて、警察学校卒業で幕、というのも腑に落ちない。どちらかをやめるべきではなかったか。……などなど、小言親父かお前は、と自分につっこみたくなるほどグレイ君(ホアキンをグリーンていう姓に設定するあたりからして、自意識過剰気味)には期待かけてるんで、あえて。
帰ってから、まつりの続き。昨夜は『最後の人』を。ひたすらカール・フロイント、天才!と舌鼓打ちまくり。いまさら言うまでもなく大傑作である。あれらの移動ショットをすべてファインダー覗かずに撮ったなんて信じられない。自分がトリック撮影(見破り)狂であることを思い知りもした。いやあ、トリック撮影ってホントにいいもんですね〜。全部大嘘なのにめちゃくちゃ説得力あるんだよな、これが。でもそれが映画ってもんですよ。姪の姑がお弁当作って仕事場に来るときはピーカンなのに、出て行くときロングの俯瞰に入るせいか路面が濡れてるのも、いいんだよ。そのあと側溝に水が溜まってて路面は乾いてるのも、いいんだよ。そう、あれが説得力というものだ。で、あれだけ目いっぱい語って90分以下。そこへ行くと『アンダーカヴァー』、さすがにちょっと長過ぎる。
なお表題は、言うまでもなくエミール・ヤニングスの造型が某赤ボーダーの漫画家先生に多大なる影響を与えていると毎度ながら確信した、の意。

本日は事務所で打合せして、二本めのシノプシスを書き始めたので、まつりはお休み。近所にある行きつけのイタ飯屋が二月いっぱいで閉店と知り、ショックを受けた。
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