2009/5/28

社会主義!  映画

YOU TUBEでJLG新作「SOCIALISME」予告を見た。

見た!
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2009/5/25

偉大なる生と死の切り返しショット  日常

町内の掲示板に、近所で猫殺しがあったという主旨の警察による張り紙があった。うちは放し飼いなので気が気でない。放し飼いをする家に対して自粛を促すレトリックかと疑いたくなるほど信じ難い。

一昨日の朝、鳥の死骸がリビングに放置されており、それはうちの猫が殺したのではなく、たんに死骸を拾ってきただけだとなんとなく分るのは、死骸の破損がひどかったからで、これまで見てきた経験から言えば殺すときはあっさりやるから破損はそれほど深刻ではない。明け方、仕事場から戻る途中にその張り紙を見て、すぐ傍にどうやら猫らしい糞が落ちていた。あるいは小型犬かもしれないが、うちの連中のものでないことがたしかなのは色がまるきりちがっているからだ。毎日トイレ掃除しているので色はよく分っている。ゆえに、猫を擬人化することなど到底不可能で、そこではただ無数の点として拡がってゆく痕跡との「切り返しショット」が生産されるばかりなのだった。徹底して深さを欠いたこの「切り返しショット」は、同時にあらゆる生命の循環する世界と連続している。

放し飼いに話を戻すと、われわれは猫に本来知って当然のことを知る自由を与えるべく放し飼いにしているが、一旦与えた自由に責任を取る覚悟も出来ている。それは外敵、つまり異常者によってやつらが虐待を受ける可能性もその「知って当然のこと」に含まれることを分っている、ということだ。だがわれわれもそんな最悪の事態を不断に想像するために生きているわけではない。もしもそんな最悪の事態が起きたら、ただ嘆き悲しむだけしかない。それでも自由を奪うよりはましだ。生命の循環する世界には、たとえ殺されても守るべき権利というものがある。それを考えるのが不肖人間であり、猫を擬人化してそれを平等に分け合おうなどと虫のいいことを言えるはずがない。無論できるかぎりのことはするけれど、畢竟呆然と、漱石的離人症の視点でもって眺める、それがあるばかりだ。
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2009/5/24

頭と心臓の問題、ふたたび  演劇

三軒茶屋シアタートラムにて、清水邦夫・作、生瀬勝久・演出『楽屋』。演出は申し分なく、それに応える俳優陣も実に安定した力をみせている。力作である。ただ、これほどの才能を結集してもどこかのボタンが掛けちがっている気が私には残った。なんだろう。これは自分でも全く答えが出ない、きわめて厄介な話であり、現代において演劇をやるひとたちはそんな議論など飽きるほどなさっておられると思うので、後追いに過ぎない問題なのだろうが、私はこの戯曲を漱石ふうにいう「頭」の問題だと感じた。つまり「思考」とか「想念」とかそういうものである。しかし、演劇が飛び抜けるとき、それが「心臓」の問題、「存在」の問題になる、というようにここ最近見ていて、思う。この戯曲でも、ことによるとそれも可能だという気もしたが、ここでは最後まで飛び抜けることはなかった。なぜだろう。あるいは、このことはいくら考えても答えの出ない難問なのかもしれないし、答えはたった一回の公演によって突然生まれ落ちるのかもしれない。
たとえばその問題は小泉今日子氏と蒼井優氏の役をチェンジすることで解決しないだろうか、などとも考えた。実は小泉氏(「総括」という一語の決定的違和)は蒼井氏の役の芝居のほうが向いていて、蒼井氏は小泉氏の役に向いている、と。年齢などは無関係に。でもやはりわからない。困難な問題だ。いずれにせよ「頭」に留まっているかぎり、解決はしない。「心臓」に到らなければ表現が完成しない。同じ清水戯曲の『雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた』では「衝動」と呼んでいたそれ、そこをめぐって右往左往、七転八倒するしかない。
いずれにせよこれは私自身の問題だ。それがそうなっているかどうか、そこへ行けるかどうかはつねに私自身こそが晒されている場だ。それを前もって、ちゃっかり、用意することは決してできない。映画だろうと演劇だろうとひとがそこに立ち会うとき、その耳に心臓の鼓動が届いているかどうか、その目に関節のごきごき動く様が届いているかどうか、皮膚と衣裳が擦れあっている感触が届いているかどうか、そこだけが問題なのだ。そんなことを考えながら仕事なんかできないよ、と嗤われるかもしれない。だが、これは私の願いだ。目的と言ってもいい。
演技の優劣など、映画のみならず演劇においてもたいした問題じゃあないのだ、ということもよくわかった。そんなことも含めて、重く受け止めさせられた芝居だった。
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2009/5/21

キャメラ+身体+音  映画

打合せ→泥酔→加圧→トークイベント→泥酔→トークイベント→泥酔→加圧→打合せ→泥酔→徹夜→打合せ、という五日間を送れば、さすがにもう過労状態に陥る。しかしようやく連載が脱稿し、次のステップに入れるようになった。

というわけで『レイ』をDVDで参考に見た。語りの方法としてはあまり参考にならなかった。後半はアンチドラッグ教条話になっていき、ミュージシャンとして天才的に音楽が溢れ出て行く感じという高揚する場面がとうとう見られなかった。〈メス・アラウンド〉や〈ホワッドゥ・アイ・セイ〉や〈ヒット・ザ・ロード・ジャック〉が出来上がる部分はなかなかに感動的だが、なにか指先から、つまり身体から零れ落ちるようにして音が出てくる、という演出ではないのが残念だ。へんなところにあまり出来のよくないCGが使われているのも興を殺ぐ。母親役の女優、美しいのだが、死後の回想でなく組み込むことはできなかったのか。というのは自分たちに課した問題で、この映画の問題でもないのだけれど。やはりミュージシャンを描く映画って身体と音の関係の肯定を見たくなる気がする。その意味で決してアンソニー・マン作品としては必ずしもいいとはいえない『グレン・ミラー物語』がそれでも一歩勝っている気がするし、『アンナ・マグダレーナ・バッハ』や『トスカの接吻』のキャメラ+身体+音の融合というのはやはり凄まじいものがあった、と思い出された。そういうことを思い出させてくれた、という意味では参考になったな。
オリヴィエ・アサイヤス『NOISE』での、ソニック・ユースのメンバーたちの個々の演奏シーンに見られたのもやはりその身体性で、しかしこの場合はタイトルとも相俟って身体が音によって希薄化・曖昧化されていくという稀有な瞬間を見ることができる。『エリエリレマサバクタニ』でやろうとしたのもまさにこのことだった。
だが今度ははっきりと身体が音を発生させるところを描きたい。そのことに苦闘する身体の運動を描きたい。それってジミヘンの仕種だったり、あるいはスポーツ選手とも同じかもしれない。
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2009/5/17

切断は闇の中  議論

昨夜、言いそびれたこと。
1、廣瀬純『シネキャピタル』は『闘争のアサンブレア』の副読本として本年度必読書ナンバー2である。
2、「廣瀬純は何をやりたいのか」の本当の答えは「何もしたくない」である。永遠のサボタージュ、I prefer not to.が流行語大賞に向けて船出した「アサンブレアひとり」こと、代書人バートルビーが理想像である。
3、廣瀬純にいちばん似ているものは「湯浅湾」である。
4、70年代アルゼンチン軍事政権下でペロニスタ左派の「行方不明者」三万人。平成十一年以降日本の「自殺者」年間三万人超。平成十年までは二万四千あたりで推移していた。

ともあれ自民党と民主党のショット/切り返しショット化を推進すること、だな、当面のミッションとしては。しかるのちに三人に一人はブラジルの大統領の名前を言える社会にすること。役に立たない情報しか提出しないマスコミを無視すること。いまや誰もテレビなんか見ちゃいない。こんな大変なときに頭の腐ったようなやつらがつくるものなんて誰が暢気に見ていられるものか。廣瀬的に言えば、切断する気も起きないものに用はない。

また仕事の依頼が舞い込んだ。これもやはり断るべきではない、と思う。
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2009/5/15

徹夜明けの前向きな愚痴  労働

なにをしているかわからなくならないように一個一個丁寧にやるのが仕事というもので、わからなくなっても進むということを私はしたくない。かつて「量が質を生む」という言葉ももてはやされたかもしれないが、それは複数の人間が寄り集ってはじめて成立することで、個人経営ではそれは無理かと思われる。これからはせっぱつまることに倒錯した悦びを覚えたりせず、食い扶持に困ることはあっても安売りはしない、を信条として生きたい。世の中のことは気にせず、自分のできることをこつこつやる。
……などと考えていると連載がひとつ終わることになった。二年半くらいやってきたが、そろそろネタ探しも疲れたし、止めどきかと自分でも考えていたので、特に感慨なし。まあこういうことはどこまでいっても所詮向こうの都合を押しつけられるだけなので、やはりこつこつやったほうがすくなくともバカバカしさを感じなくて済む。
それはそうと、どうもここ最近、というのは『チェンジリング』と『グラントリノ』を見た後、という意味だが、映画を見ることへの欲望が失われていくばかりなのがつらい。作るほうの欲望は沸騰するばかりだが、劇場に足が向かない。事務所で仕事終わりに小津のDVD見るだけで満足。
一昨日も最初と最後が一巻ずつ欠けている『母を恋はずや』を久しぶりに見たが、生さぬ仲の兄弟が母親に父親の形見の帽子を被せる、へんにエロティックな場面だけでじゅうぶん満足できた。それにしてもこの頃の映画は、小津にしても誰にしても普通に暴力的だ。軽く小突くとか殴るとかは当たり前にやっている。もうだいぶ前になるが、あなたの映画はどうして暴力的か、とよく訊かれた。小津や溝口を見習いなさい、暴力など描かなくても映画は美しくあればいいんです、と。そのときは笑って無視した。小津にも溝口にも暴力的な箇所はいくらだってありますから、とは返さなかった。それは私の仕事ではなく批評家の仕事だからだが、そういうことをパシッと言ってくれるひとがいま何人いるか。誰も言ってくれなければ野蛮な作り手として、うるせえばか!と逆に暴力に訴える可能性が発生して、怖い。……まあ、自制しますけど。
人前に出るのも怖くなった。他人と酒を呑むのもさらに怖い。いや、もう、こつこつやっていくだけでいいのではないか、私は。

あ、でもオリヴィエ・アサイヤス『クリーン』は、これも久しぶりに見直したけど、DVDだったけど、よかった。理屈抜きに本当にいい映画。『チェンジリング』を頂点として『トウキョウソナタ』や『マーゴット・ウエディング』や『アレクサンドラの旅』なんかも含めて、傷ついてもタフに前を向く女たちの現代映画に先鞭をつけた一本だし。
そういえば、しばしば女性映画という言葉をなんの疑問もなく使うひとがいるけど、あれおかしいよ。男性映画なんて言わないもの。七〇年代くらいまではあったかもしれないけど。男性映画/女性映画なんて死語だと思う。
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2009/5/13

ラン!オートリ!ラン!  演劇

シアター・コクーンにて、作・清水邦夫、演出・蜷川幸雄による再演『雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた』。いや、鞠谷友子さんの歌は素晴らしかった、とか中川安奈さんの演技もりりしかった、とか横田栄司さんもダイナミックだった、とかいろいろある、いろいろあるのだが、しかしあらゆる意味で人間としての出来がちがっているひと、いやはたしてもはやあれはひとと呼べるのかどうかさえ自信が持てない存在、いや存在していたと確定していいのかどうかさえわからない、そういうものであるところの鳳蘭が出てきた途端すべては、その恒星の輝きによって一旦視界から消え、鳳蘭だけの世界となった。二時間四十分のうち、鳳蘭が登場する時間はものの四十分というところだろう。それでももういっぱいいっぱいである。あれ以上登場されたら周囲のひとは霞みすぎてやる気をなくすにちがいない。観客としての私も壊れる。きょうのところはこれくらいでかんべんしといてやるわ、的な。これほど反=民主主義的なことが許されていいのだろうか。……いいのだ。女性たちがなぜタカラヅカという場に魅了されるのか、この問いに対する答えは、そこにかつて鳳蘭がいたからだ、しかないのではないか。まあ私の場合男性ですけど、にもかかわらず鳳蘭が舞台のてっぺんに登場した瞬間、全身に震えが来て、涙が溢れましたよ。いやマジで。なんでしょうね、あれは。本当なら見ることのできないものを特別に見ることができた、みたいな感激。権力とも金銭とも性的魅力とも無縁な独自の価値領域を創りだし、その絶対的な美しさ、優しさ、気高さが発する輝きによって世界を一変せしめる。それが鳳蘭である。おそらくこのようなひとこそ、百年に一度、とか不世出、とかいう形容句に相応しいのだろう。私は奇蹟を視た、と言っておきたい。
……といったことを終演後、待ち合わせて明け方まで痛飲しながら某大俳優に語ったところ、大いに納得してくださった。このひとも負けず劣らずすごいんですけど、オーラ。

ちなみに。ラストにタイマーズ版〈デイ・ドリーム・ビリーヴァー〉が流れたので、訊いてみると稽古中にすでに決まっていたそうである。

小沢がついに辞任した。はあ。

それにしても昼から一日じゅう仕事して頭が重い。
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2009/5/12

驚愕の楽しい夕に  音楽

コッポラの新作のファーストシーンというのが見れる。
http://www.apple.com/trailers/independent/tetro/
いやはや、これだけでかなりどきどきするではないか。期待大。

ところで約三十年ぶりとかで『楽しい夕に』を聴いたのだけど、これ完全にいわゆるアシッド・フォークだったんですね。当時ろくでもない無知なパンク高校生だったから、ただへんなアルバム、てゆう印象しかなかったんですけど、なんですか、これ。〈あの娘の悪い噂〉とか〈ねむい〉とか〈ぼくの自転車に乗りなよ〉とかすげえよ。これほどまでの先見性があったとは。マジ吃驚。ひょっとしてひょっとすると最高傑作ですか、これ? 好事家の間では常識? でもそれは言い過ぎだよね? ともあれ、思わず続けてピーター・アイヴァースとメイヨを聴いて心を落着けましたよ。ふぅ〜。これと湯浅湾の『港』の間を埋めるアルバムって日本にあるんかね? あったら聴きたいものだ。いや、湯浅湾は全然アシッド・フォークじゃあないけどさ。
夜、あるお宅に強引にお邪魔してNHKの特番を見た(お邪魔しました!)のだが、〈きもちE〉の途中の歌詞が消されているのにとてもげんなりした。そんなことならはりきって特番なんかやるんじゃねーよ! ま、いまのNHKになんかなんの期待もしてねーけどな。ハタノさんがいなくなったNHKにロケンロールはないだろう、きっと。……という話をLJ亭主としたのはその二日ほど前のことだったな。
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2009/5/7

殿下近影  

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2009/5/7

小津とシナリオとジャンプカット  映画

昨日書き忘れたことがあって、それは『戸田家の兄妹』のことだが、シナリオでは佐分利は上の妹である綾子を呼びつけ、座らせると「いきなり頬を打」つことになっているが、そのアクションはフィルム上にはない。へんな詮索をするようで心苦しいけれど、あさましい私はそこの部分を何度か見直した。周囲のリアクションなどあるかと思ったのだが、そうではなく、引き画で座った瞬間にカットが横位置のミドルに入り、ちょっとジャンプカット気味に、綾子役の坪内美子がやや体を自分の右に倒しているところから起こしているのだ。つまりおそらく平手打ちは撮影では行われたのに、どういう事情でか本篇ではカットされているのだ。もっともシナリオからの改変はこれにとどまらず、カットもあれば足された場面、台詞も多くある。そういえば、終幕近くの例の結婚云々の場面に入るとき、佐分利の部屋にすでに高峰がやってきている箇所もジャンプっぽい。しっかり手続きを踏む小津では異例のあり方か。
どちらかといえば小津はシナリオどおりにやっていると思いこんでいたがそれは思いこみにすぎず、撮影中も編集でも進化を続けているのだ。あるいはもしかすると戦時下という事情がなんらか影響しているかもしれないが。この場合、池田忠雄単独のクレジットだが、野田高梧とのコンビ時代などはどうなのか、ちょっと検証してみたくなる。
というわけで『淑女は何を忘れたか』。平手打ちといえばこれ。再びシナリオ片手に通して見てみたが、これはほとんど改変なし。伏見晁とゼームス槇の共同脚本だからということもあるか。「殴る」はもちろん、驚くべきことに「新聞を指に立て、バランスを取りながら部屋に這入る」やラストのほとんどナンセンスな斎藤達雄の行ったり来たりさえシナリオにあって、笑える。
それにしても痛快な作品。こういう洒脱さというのは真似したくても簡単にできるもんじゃない。
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