2009/9/30

昨夜から酒、やめてます。  労働

木曜に、二時間くらいしか眠らず、ある撮影のために小倉へ飛ぶ。一旦実家に荷物を置き、現場を下見。午後から日没後までじっくりと見る。居酒屋で失敗したり、挽回のために行った中華屋で食いすぎたりして、翌日の膨満感の凄まじかったこと。翌日は昼から実景など撮り溜めながら、別のイベントでライティングと音響の調子を見る。イベント終了後、終電ぎりぎりまでライティング打合せ。で、翌日の本番はいくつかのハプニングを巻き起こしつつ、非常に面白いものになったし、ハプニングそのものもパフォーマンスの一部なのだから問題はない。打ち上げでは久しぶりに某大物ミュージシャンと歓談、さらにかれと録音技師との興味深い異色対談を聞いた。

で、翌日昼出発で、新大阪経由で新宮へ。到着は十九時。荷物を置いて今年の反省や来年の抱負など語る。翌日は朝から雨。那智にある夜美の滝、陰陽の滝を見に行くが、どんどん雨がひどくなり、陰陽に着いた時点で引き返す。さらに古座川上流へ行き一枚岩と滝の拝を見る。一枚岩、さすがに凄い。車中、テル君が放火おばさんの話やモンスター野郎の話、ハンストおじさん一家の話、そして文豪とのなれそめなどを話してくれる。映画館と文化会館で話を聞いたあと十七時、さて帰ろうとすると尾鷲辺りで電車が運転見合わせ、という非常事態。そんなバカな。車でその先まで連れて行ってもらおうとしたが、なんと新鹿から先は道路まで通行止め。大災害にならねばよいが、と心配しつつ引き返す車内でさまざまな可能性を考えるが、最終的には新大阪で朝を待つしかない、ということが判明。それにしても戻った新宮駅でも滑り込みセーフだったのには参った。そして新大阪のビジネスホテルの侘しさに疲れがいや増したのだった。
翌朝五時十五分起床、六時の新幹線で帰京。十一時からのシナリオ会議になんとか間に合う。それから四時までみっちり。さすがに昨夜は動けなかったが、それでも月曜に届いたNAL8シナリオ第三弾をようやく読んだ。
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2009/9/24

こういうのを国辱というのだ!  テレビ

NHK『白洲次郎』第三部。ここへ来ていよいよ主演俳優がまったく使えないことが明白に。台詞ひとつまともに発せない。くずだ。加えて正子を語り手にする意味が全然見えない。中谷美紀が好演(特に晩年)すればするほどそこから遠のく。正子にはまったく興味がないし、そもそも日本現代史は青春物語ではないのだ。河上徹太郎があの程度のコミットでいいのか? とはいえ大筋として必ずしもシナリオは悪くないのだが、ホイットニー(「核の光を満喫」の場面の演出、最悪)やらケーディスやらあんなに軽率にしか描けないのであればやる意味はない。あれらをどう描くかが肝なのに。だからビル・マーレイやらエドワード・ノートンが必要だというのだ。マッカーサーはビアーズ・ブロスナンでよろしい。まさかクリントとまではいわない。けれどそこらへんを持ってこなければことの重要さは響かないのだ。最も重要なウイルビー(ヴィゴ・モーテンセンしかないだろう!)さえ出てこないではないか。そこらへんのキャスティング・描写を怠る編成・製作・演出は最悪に杜撰・僭越・傲慢というに尽きる。いや、それらはNHK自体の不遜だ。いったい一国の命運を決する場面で誰が真俯瞰にキャメラを設置する権利を有するだろうか。いったい近衛の息子がソ連で殺されたことへの私怨はどこへ行ったのだろうか。ラスプーチンなどと揶揄されながらそうした描写さえ奪われた次郎の遺志を思って、悔し涙が溢れた。本当にラスプーチンの写真を酒場にまで持ち歩く記者がいたのか。製作者の見識を疑う。勢いでこの際言うが、大友良英の音楽の使われ方も前代未聞にひどかった。大友さんは西岡さんの脚本のもの以外でのNHKの仕事をやめるべきだ。
ほとんど負け惜しみだが、私はこれこそを国辱だと信じて疑わない。
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2009/9/18

あの子は聞えなくても呼ばれていることがわかるんだ。  演劇

そんなわけでトム・ストッパード作・蜷川幸雄演出『ユートピアの岸へ』を三日に分けて鑑賞。
ふと気づいたのはこの戯曲、新作である。しかし新作でこれほど古典の風格とポストモダン風のけれんを併せ持つ見事な傑作が成立しえるのか、という恐るべき質の高さ。新作にほとんど興味を持てない私にも、この目論見の巨大さは大いに魅力的だった。

第一部『船出』を見るとこれがもろにヴィスコンティとベルトルッチ『1900年』の間を意識して貴族またはブルジョワの黄昏、そして革命の予感を端緒にして書き起こされていることが分る。それにしてもここでメインのひとり、不遇の批評家ベリンスキーを演じる池内博之の驚嘆すべき頑張りはどうだろう。あらゆる器官から体液を大洪水させながら獅子奮迅の活躍を見せている。阿部寛=ゲルツェン、勝村政信=バクーニン、別所哲也=ツルゲーネフら主演陣にいささかのひけもとらない。バクーニンとの丁々発止にこの劇の誕生が託されている。またバクーニン家四姉妹のコラボレーション、ときおりインサートされる麻実れいの余裕を漂わせる軽妙洒脱の妙味、そしてエンディングにおける瑳川哲朗の堂々たる夕陽の終焉。この第一部だけでこれが演劇史的な大きな一ページをこの年に刻むことになるであろうことが分る。

で、第二部『難破』ともなれば各演技者の技の繰り出しに興味は集中する。いよいよ本領発揮となる阿部寛のダイナミズムにただただ脱帽。第一部からの変身を見せる勝村政信と池内博之にも。そしてラスト、石丸幹二=オガリョーフの精妙なる発声がもたらす一陣の風のような抒情。また、これら男優陣に同等に相対する女優陣の熱量にも圧倒された。その意味で第二部では、これが「政治」の劇であると同時に「性事」の劇であることを理解する。たった1シーンしかないが、この戯曲全篇のちょうど真ん中に位置する場面での麻実れいの演技は尋常ではない。そこで語られる性の革命とでも指し示すべき制度からの切断こそ、本作の中心命題だと確信しえるだろう。結局ゲルツェンもオガリョーフもバクーニンも、欲望に盲目的な女たちに振り回される己の旧弊さに、言葉を持たぬ子供としての革命(それは終幕になってようやく、オガリョーフによって見出されるにすぎない)を見失い続けるのであり、その切断の苦痛を主要人物各人が徹底的に味わうのだ。蜷川演出もその点に向かって集中している。そうしてセックス・ウォーが一旦過ぎ去ったあとの荒波に素肌を晒すような孤独がゲルツェンを囲繞する。このような劇がいまもって新作として可能であることに再度感銘を受けた。

そして第三部『漂着』。さらに性も政治も混迷を深め、各人が崩壊の危機に晒されながらそれでも旧友たち(阿部ゲルツェン、石丸オガリョーフ)がそれでより強靭になりさらに結束し立ち直っていく様がひたすら麗しい。第二部からの谺としての手袋のモチーフがひどく痛ましいが、革命はかろうじて片方だけのこの手袋としてゲルツェンの手に残ったというわけだ。この巨大な劇には、一方で余裕としてのスラップスティックな笑いもふんだんに盛り込まれていて、第三部では勝村バクーニン(かれだけは第一部での切断の痛苦から隔たって解放されている)のデブ着ぐるみ芝居に大いに笑わされた。また、ワイト島で別所ツルゲーネフが出会う若者が池内二役だからベリンスキーの亡霊に見えてしかたない。あそこでいっそ「あなたを見ていると懐かしい旧友を思い出す。恩人でもある。あなたとかれはよく似ている。だがかれはニヒリストじゃなかった。その正反対だった。いつだって熱狂し苦悩していた」「そのひとはいまどこに?」「安らかに眠っている」とまで語ってもらえたら気持ちよく泣けただろうが、それはこちらの勝手なおねだりだ。二役で言えば第一部でスタンケービッチを演じた長谷川博巳が第三部でチェルヌイシェフスキーになるのだが、声音を変える芸達者ぶりに驚かされた。
そして大団円。生きている仲間と家族が老いたゲルツェンの周りに集まってくる。そしてあらし(最後の発見と描写、もうすこしゆっくりとなにげなく、でもよかったのではないか)も訪れる。だがそれにしてもユートピアはやはり存在しないユートピアに過ぎなかったのか。ゲルツェンの台詞「歴史はつねに千の門を叩いている、その門番の名は偶然だ」に惹きつけられた。その決着は、革命とその崩壊を経験した百数十年後の現在までついていない。ただゲルツェンの主張する暴力革命の否定だけは門番もその正当性を認めるだろう。折しも昨日、オバマは東欧でのミサイル計画の変更を発表した。

今回は三日間通って一部ずつ観たが、もう一度終わり近くに通し公演を観る予定。それはまた違った熱気を帯びているだろう。必ずしも問題がないわけではないいくつかの点(たとえば第三部の音楽。選曲の良し悪しではなく、段取りとしてそれでいいのかどうか気になった)がどうなるかにも興味が残った。
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2009/9/15

西部劇「のようなもの」二本立て  映画

気を取り直して、というか新宿ピカデリーでしかやってないと判明したので、やれやれ、と意地を張るのをやめて『3時10分、決断のとき』へ行き、さらにバルト9で『グッド・バッド・ウィアード』を。
マンゴールドのほうは、初めてクリスチャン・ベイルをいいと思ったが、ベイルを見るとどうしてもこれよりあとに作られたはずの『ダークナイト』を想起させられ、ほとんどホモでサイコなやつが登場するという点も『ダークナイト』と同じで、するとこれがいかにも、こないだ書いた「『スパイダーマン3』以後のアメリカ映画」に見えてしまうから、いささか中途半端な古典派と思えていたマンゴールドもついに白旗か、しかしむしろそのほうが気楽でよかろうとも思われた。始まり方や主人公の肉体的ハンディに自身の刻印を持ち込もうとしている作家主義的感性は認めるけれど、果たしてそれで先達を乗り越えられるだろうか。いや、乗り越えるとかそんなことはどうでもいいと思っているのではなかろうか。もはや、西部劇なんだからキメのロングショットぐらい見せろ、とか、抒情がしっとりと画面を濡らす瞬間を見せてくれないものか、なんてないものねだりをしてもはじまらないのだ。この「のようなもの」感や潔し、ということにしてあげたい。同世代のいまひとりのジェームズ、グレイの新作『Two Lovers』でも濡れ場を披露していたヴィネッサ・ショウがこちらでも麗しきケツを露にしており、個人的にはこちらのほうが好みだった。

それにしてもどうも前半、DLP上映だった気がしてしかたない。途中からどうでもよくなってしまったが。DLPだとしたら損した気分になるのは、ただこちらの貧乏根性に過ぎないのだろう。

『グッド・バッド・ウィアード』のほうは、western byなどと調子に乗った監督クレジットを入れているが、たとえばタランティーノは『イングロ』が「戦争映画」でさえなく、ただ「これは自分の映画である」という孤独な宣言とともにしか映画にはなってくれない、という状況に苛酷なまでに自覚的だったのに対して、そうした悪ふざけがあくまで映画史におもねったように見えて全然イケてない、ということをわかってない。その上、演歌な泣き節を入れてくれないレオーネもどきなどレオーネもどきでさえないからそこにも失敗している。こうした出来損ないとタランティーノを分けるポイントはそこに尽きる。役者陣の頑張りに対して、さして気の利いているわけでもないあれこれをおつまみに出すだけで気づいたらメインディッシュはなし、というか、あれがメインだったの? みたいな惨憺たる結果に終わるしかないのだった。カツゲキに手を出すのは百年早い、という感じ。メリハリのない長ったらしいアクションシーンで眠くなったのはいつ以来だろう。せっかくの機会だったのに残念だった。でも平日の昼間なのにお客さんはよく入っていて、いまだって金をかければこの程度の映画もちゃんとヒットするのだ、と教えられた。
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2009/9/13

「務めを果たさねば」……当たり前だけどさ!(涙  日常

そういえば未読だったことを思い出し、『里見トン伝』の前に、と、やはり小谷野敦『谷崎潤一郎伝 堂々たる人生』を耽読。やはり面白い。文豪も壮年まで働けど働けど金策に苦労したと知り、これまで以上に親近感が湧く。大学の先生とか会社員とか掛け持った巨匠にはどうもその辺で気持ちが乗らない、というのはこちらのケチな貧乏根性だけれど。筆者は嫌悪しているらしいが、この際ぜひ志賀評伝を手がけてほしい。

重い腰を上げてフィルムセンターへ赴いたのは9・11。ジャン・グレミヨンのサイレント『燈台守』。巨匠二十代の初々しい快活さに、思わず微笑。このころからすでに、海とその上の空を撮影することにかけては天才的。表題のカッコ内はそのクライマックスで画面上に載るタイトル。……いや、そうなのだ、務めを果たさねばならんのだ、いついかなる場合でも、ということで、プロデューサーにケツを叩かれに新宿へ。グレミヨン同様、シンプルであれ、を軸として、優しくケツを叩かれる。優しすぎたのでそのままひとり、G街へ。二人の先輩監督と邂逅。二人とも優しかった。明け方、電車で帰った。

朝、子猫が脚を痛めたというので病院へ連れて行ったが、無事。よかった。

「Nobody」31号、届く。いつのまにか土性骨の坐ったオトナの雑誌になっていて、気持ちいい。どうやら連中も30を過ぎて(号数も年齢も)ようやく本気になってくれたようだ。よかった。最後の稲川悪文に、ただもらい泣き。
蜷川『ユートピアの岸へ』初日。出演者全員、稀に見る高揚感とのこと。よかった。ひたすら羨ましい。
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2009/9/10

アラン・スミシーまでもう一歩  映画

前夜、けたたましい勢いでNAL8シナリオを直したせいで、起き抜けから脳貧血気味。それでも猫病院から猫飯屋へとまわる。帰ったら、論創社様より可能涼介著『圧縮批評宣言』、届けられている。なにをいまさら「宣言」などと大げさな、と野次のひとつも飛ばしたくはなるが、このなんとなくの「かつての同僚」感に相好を崩さずにはおれない劇作家初の(どんだけ牛歩だったのか)批評集をともあれ祝福しておきたい。

ところで、昨夜はNAL8に執筆上の禁止令を二つ出した。
1、台詞で終わるシーンを書くな。
1、台詞なしの「……」を書くな。

ひとつめは、台詞で終わるシーンなど映画で見たことがないからだ。誰かはなにかしているものだ。それを書くのがシナリオだ。ふたつめの「……」も同様。そのカッコに付された名前の主は、言葉を発さなくとも画面に登場している以上、なにかしていることはまちがいない。ならばそれをト書きに起こせばいい。かといって「誰々、沈黙。」とかいうト書きも言語道断である。それでは何も書いていないに等しい。他のひとのことは知らないがうちではやってくれるな、と。
ただ、いまの企画というのは、どんなに丁寧にシナリオを積み上げていっても、資本が集まっていないことにはGOサインが出ないということがしょっちゅうある。で、資本を集めるためにはシナリオが必要、であり、集まらなければへたすればただ働き、ということもある。驚くべきことだが、そんな本末転倒が平然とまかりとおるのがいまの殺伐とした業界の実態だ。自分のオリジナルならそりゃただ働きにも甘んじるが、持ち込まれた企画でもそういうことがありえる。がゆえに、私のようなお気の毒だが扱いづらそうなロートルではなく、つけいりやすい若者を捕まえては酒代込みの安いギャラで「勉強」させるのだ。これを「焼畑農業」とひとは陰で呼んでいるらしいが、土地は一向に肥沃にならない。もちろん、どこかの才能ゼロなフランス系ヴェトナム人に大作を監督させたりしているかぎり、日本映画の土地は痩せたまんまだ。一方で根岸吉太郎監督がモントリオールで監督賞を取ったりすると、それはそれで実に喜ばしいことではあるけれど、毎度おなじみマスコミの大政翼賛モードによってまるでここが肥沃な土地であるかのような勘違いがまかりとおってしまうのだ。根岸監督のためにもそういう業界内格差をジャーナリスティックに審らかにし、是正に向かうべきではないのか、諸君!!!

……なんつって要はたんに企画が通らないんでひたすら焦ってるだけですけど(涙



それはそうと、ブラック・ジョー・ルイス&ザ・ハニー・ベアーズである。このオルガンとギターとベースとドラムスの関係こそ、私が夢に見つづけた理想郷だ。もうほとんど泣ける。なんてみみっちい、軽っちい音なんだ。久しぶりに、これがやりたかったんです、俺、と誰彼かまわず言ってまわりたい音。おまけにホーンまでトッピングしやがって軽薄な贅沢を満喫している。いま誰より羨ましい連中である。
あと、ジョー・ヘンリー『ブラッド・フロム・スターズ』も悪くなかった。
71

2009/9/8

「映画の現在」消滅のお知らせ  映画

同時代の同ジャンルの作品に接していちいちその様相に畏怖を覚えたり嫉妬したり、あるいは軽蔑したりすることこそが作り手の情動というものだろうと思っていたが、いま若い、といっても私より、という程度だけれど、誰も彼も自分のことにしか興味が向かないように見えるのは、自足に甘んじる作り手をもって自他に安心を提供する媒体の差し金なのか、そこはさだかではないものの、すくなくとも「ごっこ」という上目遣いな言葉だけは口にするな、という提言だけをもって全否定したくなるのは「文學界」十月号の特集〈映画の現在〉だ。若手作家を紹介するという趣旨(ウチ一名、ロートルが隙間を見計らって場違いなことを好き放題書いているが)のようだが「さっき見た映画」について誰一人なにも語ろうとしないのはどういうわけだ。この「体温低い感じ」が「いま」なのだろうか。十年古いと思うが、それにしても、だとしたら「映画」に「現在」もへったくれもない。そんなもの、さっさと消えて亡くなればいいのだ。……と編集部も考えていたのだろうか、インタビュアーたちも考えていたのだろうか。この水槽のなかで観察されている自足しきった珍獣たちはいかにもサンプル然としていて、むしろ哀れだ。
それにしても不思議なのだが、佐々木敦にしても大寺真輔にしてもどうして黒沢清より上の世代に出向いていかないのだろう。まさか二人とも本気でここに「現在」があるなどと思っているわけではなかろう。たとえばいまなら白土三平に手を染めた崔洋一監督にインタビューした方が断然歴史的意義を持つと思うが。その仕事をかれらにやってもらわなければ困るのだ。しかしまあ、ここでもまた媒体の不在を憂うばかり、ということか。それとも機を見て敏な「ユリイカ」あたりがやっているのだろうか。だといいのだが。「映芸」で世代間闘争抜きに馴れ合ったおしゃべりで流されても、また閉口する。

なんていううんざりなことを考えた日にいつもの鼎談の末席を濁し、ようやく(すくなくとも精神的には)元気を取り戻した、げんきんな私。
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2009/9/7

タナトスが止まらない  日常

予想外に強力な精神低気圧で、某シンポジウムが終わればフェイドアウトしてくれるかと思いきや、さらに重くなり、十時間近く寝てもなお壊れたまま。シンポジウムはまあそれなりに盛況だったのでよしとして、やはりこのところのジャームッシュ/タランティーノの1・2パンチが効きすぎたか。いま映画を作ることの困難をしたたか顔面に食らった感。あのような映画(たぶん『スパイダーマン3』あたりからはじまったように思われる、なんでもありなのに文句のつけようのない世界=構造)を作りたくないわけがないのだが、どうあがいたっていまの日本じゃ無理、というのが正直なところである。そのことが耐え難くて、だからたんに生きていくのに気が重い。まあどうにかなるだろ、なんて気にはとてもなれない。精神だけでなく体もくたくたで、日がな倒れこみたいだけ倒れこんだ。

寝ながら嵐山光三郎『桃仙人 小説深沢七郎』を読んだ。「モモクリ三年 アキ八年」と。八年つきあえばだいたい人間関係というのもあきがくるもんだ、ということ。ま、たしかにそういうことはあるかもしれない。ひとによるのだろうけれど。
14

2009/9/5

タナトスの金縛り  日常

起き抜けは爽快で、ああようやく疲れが取れたな、と安心したのも束の間、子猫の世話などしているうち突然にやってきた。……異様なタナトスが。どうにも行動ができなくなり椅子に縛りつけられた。どうしたことだろう。一年ぶりとかそんな久しぶりの感がある。かれこれ三週間、加圧ジムに通っていない反動だろうか。とはいえ理由なんて考えてもしかたないし、誰かに相談したってむだなので、こうして書きつけておく。なるべく自分のことや仕事のことを考えないように、深沢七郎についてネット検索などしているとあっというまに四時間過ぎた。いいかげんに出かけなければならない。しかし……

というわけで夕方にようやく事務所へ行き、少し山中シナリオを読んでから六本木へ。
タランティーノ『イングロリアス・バスターズ』試写だったのだが……
これについてはいずれまた。
8

2009/9/3

腕相撲、そして風に乗る綿  映画

二日連続で映画美学校へ行き、ホン・サンス『アバンチュールはパリで』を見る。この監督のことは前作『浜辺の女』からしか知らないが、実にアホらしく、かつのんびりしていていい。現代韓国映画ではいまのところ最も好みだ。このひとを紹介するのにしばしばロメールが引き合いに出されるが、あまりそんな気がしない。それを言うならトリュフォーに近いのではないか。あるいは、撮影があまりにいいかげん(褒め言葉)なのでそうは見えないものの、ブレッソン。なにしろこのひと、二の腕のひとだ。今回も妻が出てきたとき、なるほどこの二の腕だな、と笑った。そうして手が二の腕を掴み、手と手が結び合い、やがては腕相撲が始まる。さらにそれは南北腕相撲となって爆笑を誘う。いやあ、実にアホらしい。不意に小鳥が出てきたりなんかするのだが、かといっていささかも奇蹟など信じていない。奇蹟といっても侯孝賢のような奇蹟のことだ。その辺に、ジャームッシュ以降の同時代性を強く感じる。そういえば二日連続で太極拳の練習を見た。ブルース・リー世代の象徴だろうか。ただ、これは昨年の作品だからややずれがあるのかもしれないが、日付やナレーションはやはりすでに邪魔だろう。日付画面の代わりに夜景など差し挟んでおけば事足りるはずだ。
(ちなみに、ひとを国籍で判断したり感性のいささかお気の毒な方々のためにあえて申し添えておくと、私はホン・サンスを「韓国映画は嫌いだけどヨーロッパで評価されているから」という理由で顕揚しているのではない。信頼のおける友人、ドミニク・パイーニとジャン・マルク・ラランヌに、面白いからおまえ見ろ、と薦められ、たまたま都合が合ったので見て、かれらの意見に同意しつつ感銘を受けたからだ。まあそういうことであれこれ毒を吐くやつはそう言われてもなんのことやらわからんだろうが)

試写室を出て、原宿へ行き、機材撤収。

一昨夜、廣瀬純から送られた山中論(蓮實先生の論考を大胆に読み変えるところから出発する傑作論文)を読んで大いに刺激を受け、おれもそろそろなにか用意しなきゃ、と二十年間読まずに封印してきた山中監督作品のシナリオをついに読みはじめた。手始めに『抱寝の長脇差』と『口笛を吹く武士』。あっと驚く忠臣蔵物の『口笛を吹く武士』には、風来坊の主人公がどちらへ行こうと、手にした綿をふっと吹いて「風」に乗せる描写がある。え、これ、ひょっとして『用心棒』のあれか、黒澤、そのつもりだったのか、と思わされると、そこから読み進めれば進めるほどどう考えてもこの話が『赤い収穫』に思われてくるので、調べてみると『赤い収穫』発表が1929年、『口笛を吹く武士』が32年。おそるべき同時代性だ。あるいはこんな小説がアメリカで出版されて、と話題だけパッと掴んで使ったのかもしれない。しかし、綿を風に乗せるなんて描写はハメットにはないだろう(もしあっても翻訳されてないのだからそこまでは引っ張れないだろう)から明らかに山中の創作と思われるし、クライマックスなんてほとんど『ペイルライダー』だ。当時どういう評価だったか気になるので、今日はそこらへんを洗ってみよう。

山中へ行ってしまったので、小谷野敦著『里見トン伝「馬鹿正直の人生」』は中断。しかしやたら面白いので、山中が終わったら再開するつもり。
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