2009/10/27

すかいらーくがなくなる  日常

いまでこそほとんど出入りしないが、かつてはしばしばファミレスというもののお世話になった。しかしファミレスを字義通りに使ったことは一度たりとない。つまりファミレスにファミリーで入ったことはないということだ。友人やスタッフと入った場合を例外として、ファミレスにはつねにひとりで入った記憶しかない。だがファミレスのファミレスたる所以は、たぶん子供を連れたお母さんの友人たちとのランチにもっぱらそのニーズが偏っていたから、だと推察される。なにしろ子連れヤンママだらけだったから、私の知るかぎり。そして、そこでなにが話されていたかも、社会学的にひとつの文化史を形成するだろう。ファミレスの語る文化史というものは、きっとあるはずだ。
すかいらーくがガストに移行しはじめたのは私がまだ助監督のころだから、九〇年代前半のことだろう。ロケハンといえばファミレスだった時期のことだ。学生時代はファミレスでさえ懐具合によったが、卒業後の食事をもっぱらファミレスに頼っていたのは上野毛時代のジョナサンと大森時代のデニーズで、いま近所にあるロイヤルホストには一度か二度しか入ったことはない。桜上水時代や自由が丘時代は近所の定食屋がほとんどだったのでファミレスの記憶が薄い。大森時代は、やたらと独り者の率が多かったのが印象に残っている。二人掛けのテーブルに一人で座り、スイーツを嗜むヤンエグなどけっこう目撃したものだ。しかし当時の私がヤンエグでさえなかった、そのことが記憶の中核をなしている。
最近だとごくたまに、ダビング作業中、スタジオ食堂の日曜休みなど、麻布十番のジョナサンには入っていた。そういえば実際には、外食で食い物に頓着するということ(いわゆるグルメ)がほとんどないのだった。家にいたほうがうまいものを食える、という認識のほうがずっと強い。
それでもすかいらーくがなくなるのは、なぜかちと寂しい。

本日のDVDは『ミスター・ノーボディ』と『天保十二年のシェイクスピア』。いろいろと参考にはなったが、舞台だろうと映像だろうと、芝居というのは結果論でしかありえない、つまりメソッド化は無理、ということが実によく分った。つねにナマモノってことだ。その事実こそが私の確認したかったことなのだが。それにしても、すでに五年前になる『天保〜』の高橋洋と鞠谷友子のからみは驚嘆すべきではなかったか。演劇の批評というのは読んでもほとんどアホらしいし、無に等しいが、これはひとつの事件だろう。ここで騒がれなければおかしい。鈍感というだけでなければ、ナマモノを言葉にする危うさをサボタージュしているに過ぎないのだと痛感する。
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2009/10/24

続・TIFFどっきりマル秘報告  映画

今年もなかなか新作に足を運ぶ気になれず、結局唯一の新作はホン・サンス『よく知りもしないくせに』だった。が、これだけにしといて正解だった。いや〜、面白かった。これで三本目のホンさんのノリはだいたいわかってたし、れいによって勝ち抜き二の腕ギャル合戦と腕相撲大会にデレデレと流れていくばかりなのだが、まさかあの『浜辺の女』再びとは思ってもいず、こうなるとこれだけダラダラ・グズグズな代物さえ感動的に思えるから不思議だ。あの女優、ほとんど橋田スガコワールドにいても全然不思議じゃない演技なのに、結果韓国アート系の花であることがなんといっても楽しい。てゆうか、なんだあの尺取虫! とか、石投げるのかよ! とか、鎌はヤバいだろ、とか、お前も惚れてたのか! とか、もうつっこみどころ満載で、私はもはやホンさんワールドのとりこである。……いるよなぁ、ひとの部屋で呑み明かした挙句、片付けもしないで帰る奴ら。てゆうかひとの部屋でセックスすんなよ、とか。イケてる監督ゲットの脱ぎ系女優をママも応援、とか。まあ、でたらめかつ超リアルな展開が、たんにゆるゆる描かれるだけなのにこんだけ面白い、というのがいいよ、やっぱ。ホンさんみたいな映画作ってみたいとかはあんまり思わないけど、でも大好きです、ホンさん。

夜はその延長線上でダラダラ食事し、飲酒して、ギヨントークへ。一年ぶりに高橋さんと喋った。ア・ロウンという名前がマジでaloneであったことが可笑しくてしかたなかった。しかしア・ロウンははだしのゲンにそっくりだとあらためて思う。ギヨンワールドはどこか「はだしのゲン」に似ている気がする。それは楳図より似ているのではないか。

NAL8、高橋の四人であちこち梯子した結果、拙事務所へ。私は早々に寝たが、起きてみるとちらかしっぱなしで、ほら見ろ、ホンさんワールドはシュールリアルさ、と起き抜けから笑わされたのだった。

で、今年も映画祭シーズンは終わった。そして冬が始まる。
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2009/10/22

TIFFどっきりマル秘報告  映画

キム・ギヨン『玄界灘は知っている』。いや、もう、信じ難い映画。これ必見です。増村とギヨンの共通点は昨年かなり感じていましたが、本作のナレーション、『陸軍中野学校』そっくりですから! そんでもってまたしても、「世界よ、ありがとう」な感じです。開いた口が塞がらなかった。抗日・反日どうでもいい、てことです。そんなちいせえとこで映画撮ってないよ、ギヨンは! ラスト、ほとんど「音のあるソ連サイレント映画」みたいになるところなど、圧倒的! 明後日もっかい上映(21:10〜、シネマ2、トーク付)あるから、ぜひとも皆様に駆けつけていただきたい。
ちなみに本作は、はじめて「具合が悪く」ならないギヨン作品でした。

スコリモフスキ『身分証明書』。処女作にして、おそらくポーランド時代の最高傑作。というかこれと二本目『不戦勝』の間で迷うでしょう、普通。最初の暗闇のマッチだけで勝負あった! みたいな。徴兵検査の待合室で審査官の登場で歌が不意に中断する呼吸や、階段の上から灰皿みたいなのをガターン! と階下に落とすシークエンス、超秀逸。あと子供たちが縄跳びしていてパンすると不意に主人公が現れてトラックバックするところも、意味もなくいい。名高い路面電車飛び乗りは言うまでもなく。ラストはなぜかソクーロフ『アレクサンドラ』を思い出した。
それにつけても思うのは、こうした、ジャンルとも個人映画とも切り離された、宙ぶらりんの個を描くだけの映画というのはいつごろ発明されたのだろう。もしかするとスコリモフスキこそ、その発明者なのかもしれない。つまり本作こそがヴェンダース『サマー・イン・ザ・シティ』やジャームッシュ『パーマネント・ヴァケイション』などの先駆なのじゃないだろうか。

この二本(『不戦勝』を入れたら三本)を超える作品は今年の映画祭にはまちがいなく存在しないだろう、たぶん。

ホセ・ルイス・ゲリン『イニスフリー』。ゲリンのフォード愛は痛いほど分る。しかし『静かなる男』で厳密に「演出上」、ジョン・ウエインとモーリン・オハラが「最初に会う」のは教会ではない。森のなか、煙草を点けたウエインと羊を追うオハラの遠い視線の交わしあいが、たとえそれが予感だとしても「最初」である。その事実を忘れている点で、失格。そしてあまりに長すぎる。余計な寸劇は興を殺ぐばかりであった。殊に子供たちのはしゃぎっぷりなど、やけに鬱陶しかった。フォードと同じキャメラポジションに入ったショットだけ、合格。爺さんたちの顔も悪くない。どっかで見たような車の走りの主観ショットがあったが、忘れよう。
あ、終盤近く、ひねくれた子供が登校していく歩行を大ロングのパンで追っかけるうちに子供を置いてきぼりにして数頭の羊に被写体を移すショットはなぜだかよかった。あと、肥料用の海草をひきちぎってはぶん投げる場面も。でも、ウエインが黒い山高帽を投げる一瞬の抜粋にすべては雲散霧消してしまう。それを承知で挿入した度胸とその後の『シルヴィア』に通じるブレッソン的なアプローチを試みたショットの確かさに免じて、これ以上の悪態は胸にしまう。
11

2009/10/21

馬(と小鳥と蛇)とサイレント  映画

はっと気づくと数日経っている、というようなめまぐるしさ。そのうち仕事でない時間が否応なく多くなっているのだが、かといって景気がいいわけではもちろん、ない。

日曜、昼間は夫婦でさいたままで出張って蜷川『真田風雲録』。しょっぱなから涙腺直撃。戦災孤児のつっぱり、なんて泣くしかないだろう。ましてや若い俳優たちが全身で演じている様がこれほど美しいとは思わなかった。それだけで満点だ。加藤泰の記憶も久しぶりにあれこれと思い出され、目が腫れた。よこちんはまた表現の幅が膨らんでいた。
帰りに妻と代官山で中華を食べてから、日仏へ。フィリップ・アズーリらによるギィ・ドゥボールのシンポジウムを聞きに行く。フィリップが「呼吸」と言ったことが印象的だった。まさに「映画監督に著作権がある」としたらそれは作品に持続的に宿った「呼吸」のようなものに対して付帯するだろう、と考えていたから。断片化した瞬間にそれは「呼吸」を失い「情報」と化す。そしてそれは映画ではなく、ただの映像断片である。どれほど巧妙に再構成されようと、それは作家の「呼吸」を孕んだ作品とそれとは、なんら関係のないものである。ドゥボールも、ひとつながりの作品に宿る「呼吸」までは破壊できてはいない。

月曜、前夜の打ち上げゆえに遅い起床後、K社担当者氏が事務所にゲラを持参してくださってそれを受け取り、加圧に行って恵比寿神社の祭りでべったら漬けが売られていることの謎を考えた。が、まあよくわからない。夷様とべったら漬けの関係と言うのがあるらしいが。
で、六本木シネマートへ。三〇年代上海の中川信夫、馬徐維邦のサイレント『怪奇猿男』とトーキー『麻風女』。製作年九年の開きで人間こうも上達するものか、と訝るが、自分のことを考えてもそりゃそうか、と納得し、同時に後者にはサイレント経験者にしか不可能な演出がいくらでも見つけることが出来て、ひたすら興奮。なぜだかスタンバーグを見たくなったのは、中国だから、だけではないと思う。このひときっとどこかで見ているはず。同時に、歌謡シーンでイントロ部分の尺が足らず、カチンコマンが見切れている部分まで使っていたのは、中国ならではの大らかさか。継母に虐待を受け家出する場面でのメジロが鳥かごからふっと飛び立つ瞬間など溜息が出るくらいよかった。それにしても世界同時多発的な三〇年代の偉大さにあらためて驚愕した。基本的には素人並みの作りの『怪奇猿男』でさえ、馬の走りにはバルネットやフォードに通じるサイレント作家ならではの活劇性(このひとと中川の類似性は怪奇に留まらず、こうした場面――中川なら『高原の駅よさようなら』――にも現れている)が見られた。

火曜、朝は事務所でAERAさんの取材。午後はシナリオミーティング。といってもNAL8ではない、プサンがらみ。夜はDVDで蜷川『タイタス・アンドロニカス』。ムーア人エアロンを小栗旬が演じる再演ヴァージョン。再演のせいかどこか堅実な感じが否めないが、策略にかかった者が復讐すべく策略を練り、ギリシア悲劇タンタロスの呪いを下敷きにして、敵にその子の肉を食べさせるという残酷設定には大いに感じ入るものがあった。虐げられし者の悪の権化エアロンはイアーゴやミュッセ『ロレンザッチョ』の原型か、さらに遡るなら変形されたオレステスということになるか。但し辛いことを言うようだが、小栗の台詞回しに難(驚くべき身体の速度に比べてへんに鈍重なのだ)があり、やや不満が残った。道化でグレート義太夫が登場する場面、原作にない細部があって、そこが秀逸。
トリッパー『S・F』第八回着手。十二枚。

忘れていたが近日中にユーロスペースでカネフスキー三本のリバイバルがあることを、イメフォーの予告で知った。久しぶりに見てみたい。
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2009/10/18

ありえたかもしれないKK  映画

TIFFの審査委員長はスコリモフスキと聞いて、おやおやそりゃまたずいぶんハイカラになったこと、と感心していたらまったくのガセで、イニャリトゥなんていう何の陰謀で監督名乗っているのか怪しくて仕方ないやつだったと知り、あーあやっぱダメだな、としたくもないがっかりをしてしまったその日の、加藤和彦自死の報にも、なんとも釈然としない思いだけが残り、三日ぶりに酒を呑む。といっても蕎麦屋で常連氏やご主人との語らい、という実にホームタウンなムードの。

一昨日はDVD三昧。初見の『ア・ウォーク・オン・ザ・ムーン』と何度目かの『ヒストリー・オブ・ヴァイオレンス』というヴィゴ二本立て、そして『マイ・ボディガード』。『ア・ウォーク・オン・ザ・ムーン』は原題で、DVDは『オーバー・ザ・ムーン』になっているのだが意味が分らないので原題のまま書くが、だってこれ、ちょっと月面を歩きましたけどやっぱり地上に留まりますよ、って話でしょう? 出来は必ずしも悪くないのだけど、周囲の白眼視がないのが気になった。ヒッピーにあれだけ目くじら立てる連中が不倫妻に寛容なんて、なんかドラマとして片手落ちな気がする。サーク的な残酷さが欠けている。
クロネンバーグはやはりこれが最高傑作だと再認識。最初から最後まで構成・編集に隙がない。早朝、手前にポストが見えていてヴィゴがひとり店に歩いていくショット、素晴らしい。ひとつ、なぜジョーイの記録が警察にさえまったくないのか、気になるけれどそこはまあ。
トニスコも何度目かわからないが、死に場所を求めた兵士の末路としてはデンゼル・ワシントンにちょいと役不足は否めなかった、というのが今回の発見。やはりそれには晩年のバート・ランカスターやジョージ・C・スコットの貫禄が必要、なんて。でもまああそこまでやってくれたものにそれはないものねだりけど。
『ウォーク・オン・ザ・ムーン』のダイアン・レインがヴィゴのバスに拾われるときと『マイ・ボディガード』のデンゼルがウォーケンに庭で電話するときの雨は、悪くなかった。

で、昨日は『ボヴァリー夫人』を見てきた。デジタルの、実に爽快な使用法。カーセックスならぬ馬車ファックはノーカットで見たかったが、ないものねだりはよそう。製鉄所の謎の発炎筒と機械の動き出しに心底痺れた。あとラストの三重の棺のでかさ。近年のアンゲロプロスの「でかいもの趣味」より堂に入っていて、呆然とした。さすが本場である。ところで、こうして見ると、ソクーロフって「ありえたかもしれない黒沢清」じゃないか、と連想してしまうのは私だけか? なんか『ココロ、オドル』にそっくりではないか、これ。黒沢さんに全部アフレコで、と依頼したらきっとこんな感じになると思う。てゆうか棺含めて、ムルナウ系だよなあ、というのも黒沢さんっぽい。
ムルナウといえば、東北の方で著作権の話が紛糾していたようだけど、リミックスに著作権もくそもあるまい。使ってくれてうれしい、的な発言はメディア批判王であり、かつ「映画監督に著作権はない」の著者ラングもしている。かれら十九世紀人のほうが複製芸術のなんたるかをよおくわかっていたのではないか。

で、呑んだ後、いろいろ思い悩んだ末に再びシェイクスピアシリーズ。今夜は『ペリクリーズ』だったのだが、いやはや、あえて己の無知を晒すけれど、シェイクスピアって晩年のロマンス劇が最も秀逸だったんですね。参った。というか自分の最も弱いところをつつかれて大いに号泣してしまった。戦場の水飲み場(2003年の上演)を設えたセットを含めた蜷川の演出も冴えに冴えている。一人で何役もこなす俳優諸氏の底力にも脱帽。これは『マクベス』を超えている。ここには化け物はいないが、演出次第で民主主義でも凄くなる、という『ユートピアの岸へ』に繋がる意思の萌芽を見ることができた。なかで、どんどん輝きを増していく田中裕子が素晴らしい。
11

2009/10/16

玄界灘に抱かれて  労働

日曜にプサンへ出発した。プサン映画祭のPPP(企画マーケット)で島田雅彦原作、荒井晴彦脚本の企画『退廃姉妹』をプレゼンするためだ。荒井さんと共同脚本の井上さん、それに通訳兼デスクの汐巻さんとともに一日十人ぐらいのセールス・エージェントやプロデューサーに会って、こんなふうにしたい、と意見を述べたり、これはどういうことになるの、と質問を受けたりして、総じてずいぶん好感触を得た。その間に牛肉を食ったり、ふぐを食ったり、豚肉を食ったり、バクダンで泥酔したり、海鮮鍋を食べたり、鯨を食ったり、鮑粥を食べたり、刺身を食べたりなどして過ごした。結果、企画賞としてデヴェロプメント費代わりの賞金をいただいたのだった。
詳しくは、これ。
http://www.bunkatsushin.com/modules/bulletin/article.php?storyid=34616
そうして今朝、帰国。なにやらスターが来たり、いろいろ派手なことがあったりしたようだが、我々はまるで別世界にいるようにあくまで地味な活動に終始していた。とはいえ、映画祭が開催されているヘウンデのホテル・シークラウド28階から見晴るかす早朝の玄界灘の眺望は、格別にゴージャスだったけれど。

この間に荷風『おかめ笹』志賀『ある男、其姉の死』読了。『おかめ笹』の抑制の効いた感じがかなりいい。

帰国したらすぐに来年某社から出版予定の映画論集の原稿整理。ずいぶん見つからないものがある。自分の原稿の整理のついていない先達たちを嗤っている場合ではなかった。そして私はこの手の作業がえらく苦手と来ている。でもまあやるしかないのだが。
21

2009/10/11

四大悲劇、制覇。  演劇

電話すると言った相手が電話して来ず、一晩待ちぼうけを食わされた。

どうにも落着かないので再び蜷川『マクベス』をDVDで。どうもこの辺りで明らかに演出が変わった、としか思えない。これまで見たDVDのなかでは最高傑作だと思われた。唐沢寿明は映像の仕事より断然よくて、驚いた。当然だが剣戟シーンも非常に巧い。こういうひとを日本映画はそっちの方で使っていないのはひたすらもったいないとしか言えない。また、エンディングの勝村政信の演技、秀逸。マグダフはマクベスを倒したのち、新国王の前にその首を差し出して「国王、万歳」と叫んで倒れる。原作では「スコットランド、万歳」(*訂正。もう一度よく読んだら「スコットランド国王、万歳!」となっていた)となっており、マグダフが倒れるという記述はない。つまりここには冒頭からの音響同様、現代の戦争(太平洋戦争)が重ねられているのであり、悲しきマグダフは勝利者たりえない。そのことはマグダフをこの劇の重要人物にしている。一方で、マクベス夫人の狂気の描写は原作どおり医者と侍女の監視下で演じられるが、これ、この外部の視線なしで演じられた方が面白いのではないか。いや、視線はあるけれど、台詞なし、とか。たとえばヴィデオキャメラで監視していて、顔がスクリーンに映し出されるようなこととかだ。それでマクベス夫人は狂気と他者の監視という二重の拘束を受ける。マクベスが魔女の予言と妻の叱咤という二重の拘束を受けるように。

月曜に加圧ジム通いを再開して、土曜に二度目。
体をガチガチにした後、来年に映画論集を出す算段を立てる打合せ。かつて集めたなかで抜け落ちているものもいくつかあり、それを探し出さなくてはならない。面倒だが、やるしかない。

さらに蜷川『ハムレット』をDVDで。縦糸に赤い横糸を這わせていく場面をはじめとして舞台の組み方が効を奏しているのだが、その多面性も仇となって、DVDだと台詞が満足に拾えていず、いったいどういう録音・ダビングをしたのか、と首を傾げる。しかしDVDのためにあの装置を作っているわけではないので、それはあくまで技術部の問題だ。やはり多面舞台の『グリークス』でもほとんど聞き取れない台詞があった。しかしそれはどうでもいい。市村正親はたぶん喜劇的センスに優れた俳優であり、たとえばオフィーリアの墓穴の場面のような悲劇を演じても胸をかきむしられるようなことはなく、ちょっとした軽妙な芝居の部分の方が印象に残る。ここではだから、むしろ活劇的な場面での活躍を望まれたのかもしれない、という気がする。というくらい、クライマックスのレアティーズとの剣戟場面が秀逸だった。れいによってこちらは戯曲が読めない人間なので今回初めて気づかされたのだが、オフィーリアは父親やクローディアス、ガートルードに説得されてハムレットと面会し、挙句、尼寺へ行けと言われるのか。となると、そのことに先んじて気づくハムレットという描写が強調される必要があるはずだが、DVDでは確認できなかった(この場面の演出じたいは秀逸)。結果、尼寺へ行けと突き放される様を見てもなお、クローディアスのハムレットへの疑念が晴れない、という流れは晦渋に過ぎる。蜷川演出ではハムレットにとってのオフィーリアはそれほど大事ではなく、というかそもそもシェークスピア自身があまり大事にしていないのかもしれない。この劇は仕掛けがあまりに複雑で非常に難しいけれど、ごく通俗的にオフィーリアの犠牲を増幅させれば悲劇性が増すと思うのだがどうか。復讐という大義に赴くだけでは語りきれない気がした。フォーティンブラスのバイクでの登場はさすがにちょっとやりすぎかも。

てなわけで四大悲劇をすべて見たところで、今日からプサン。
11

2009/10/9

NINAGAWAに目が眩んで  演劇

NAL8シナリオ第三弾、提出。今度こそ形になってもらいたいもの。

ところで、ここのところNINAGAWAに目が眩んでいる。面白いのかどうか、まだ見極めがつかないのだ、舞台というものが。そんなわけで手当たり次第に注文したDVDで立て続けに見てみることにした。『十二夜』『リチャード三世』『グリークス』、これらはだいたい十数年前の演出だ。あるいは『メディア』、これは五年くらい前だろうか。で、気づいたのだが、私はある種の演技さえあれば途端にスイッチが入るみたいに感動できる仕組みになっている。これらのなかで感動させられたのは『グリークス』のアンドロニケを演じた麻美れいである。とにかくめちゃくちゃいい。完璧な表現力。少なくとも私にとって彼女の芝居と蜷川の魅力は不可分だ。それは『ユートピアの岸へ』第二部のオガリョーフの妻マリアの芝居の素晴らしさへと繋がっている。さらに、これは苦言を呈することにも繋がるが、それ以外の演技には心が動かなかった。どうも雑駁にしか思えないのだ。あ、もちろん平幹二郎は別格だけど。『リチャード三世』でバッキンガム公を演じた瑳川哲郎も。あと、『メディア』の横田栄司はよかった。ということで、十年前から現在もなお継続して組んでいる面々がやはりいい、ということなのだろうか。あと、『グリークス』のコロスの方法は慧眼だと思った。中上健次のコロス解釈にも通じるものがある。

そんななか、長らく中断していた小谷野敦『里見トン伝』ようやく読了。やはり面白かった。映画(小津)のことになるべく口を挟まなかったのが効を奏している。どうやら著者は映画のことはからきしわからないひとのようだから。里見の小説は徐々に講談社文芸文庫などで再認識されてきているようだが、小谷野も書いている全集からさえ洩れた短篇群をぜひ読んでみたい。戦後文学ブームに埋もれた戦前作家の至芸たる仕事は数多くある。里見はその最たる一人だろう。それにしても立原が里見を尊敬していたことは知らずに立原を読んでいたが、たしかになにか通ずるものは感じる。私は先鋭的な現在を書くことにあまり触手が伸びない。それらは本職の作家に任せるとして、私は私の目に映る現在のなかの普遍を探り出してみたいと考えているが、それには里見や谷崎、志賀、そしてもちろん荷風や漱石の方法に繰り返し温ねる必要があると考える。文豪ということではない、ただ独自な仕方で編み出された普遍についての叡智を、かれらの作品からは嗅ぎ取ることができる。

15

2009/10/4

COU通し!  演劇

シアター・コクーン『ユートピアの岸へ』二回目は12時から22時までの通し。
前回の三日連続の一部ずつの鑑賞と違い、今回は異様な緊張と迫力が漲った。さらには全員の息がぴたりと合って、ほとんど奇蹟のようにうまく行っていたように思えてならなかった。殊に前回からの長谷川博己さんと松尾敏伸さんの成長ぶりには目を見張るものがあった。こういう言い方はいかがなものかと百も承知であえて書くが、とよた真帆さんの演技も押しも押されぬ確固たるものに昇華していた。さらに水野美紀さん、栗山千明さん、紺野まひるさん、美波さん、高橋真唯さんら若手女優の達成も著しい。
ヴェテラン勢の堂々たる至芸については言うまでもなく、前回やや懸念を残した音響設計も実に絶妙のタイミングを獲得していた。欲を言えばラスト、嵐が来る!というタイミングをさらにもう数拍、そして雷鳴の轟をさらにもう数拍、遅らせてみてはどうだろう、しかもはじめは小さな、そしてやがて大きな雷鳴にとフェイドインする、とか。でもいまでもじゅうぶんだけど。

さて、明日は千秋楽である。おまけに聞けば作家トム・ストッパードが見るとのこと。
各人の緊張もやぶさかではなかろうが、ひたすら大成功を祈念したい。

それにしてもこうした巨大な仕事を見ていると、自分が仕事をしていないことが心底不甲斐ない。私自身だけでどうにかなるわけでないことはわかってはいるが、それにしてもひたすら呆然とする。
20

2009/10/3

ケツ触られても笑って見過ごしてやってくれ。  映画

まあ誰も本気にはしていなかったとは思うが、2016年五輪は東京ではなくリオに決まった。わけわかんない工事とか始まらないことがわかって、ホッとする。
DVD三昧は続く。ジョルジュ・P・コスマトス『カサンドラ・クロス』。ちゃちな愚作だが、リチャード・ハリス&ソフィア・ローレンの夫婦とリー・ストラスバーグの描写(演技、ではない)は悪くなかった。メルヴィル『賭博師ボブ』。ノワールの鉄則である因果応報(ファム・ファタル、アホな若者、手練手管のヒモ、油断するベテラン)の最も秀逸な例。あの、悪魔のような美女はその後何かに出ているのだろうか、と思って調べたらマウロ・ボロニーニの六〇年代の映画に出続けて、ロッセリーニ『ヴァニナ・ヴァニーニ』でキャリアを閉じている。見直してみよう。テテなし子である自分を吐露するボブの台詞、秀逸。レオーネ『ウエスタン』。たぶん六回目。ここでのジェイソン・ロバーズの芝居は超微妙。ほとんどダメなのだが、結局泣かされるのはいつもクラウディア・カルディナーレと彼のくだりだ。一度大声でダメ出ししながらそれでも擁護するということをしたい。ま、カルディナーレみたいな女優なんていまひとりもいやしないが。
某誌編集者と痛飲。ある小説からある小説へと繋がった「因果応報」が新しい展開を見せた、という、あまりに愚かしい情報に嬉々とする。それを受けて新企画が浮上。タイトルだけは決まった。『ワン・ツー・3里塚 パート4』である。ひとつ穏便に、と懇願する編集子のMっぷりに応えて。
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