2009/12/31

分かれ道に立つ。  日常

もはやM−1を見ることも忘れ、ひたすらダラダラとしたリズムで原稿書きに向かう日々を過ごす師走後半。ようやく残すところあとひとつ、という感じでグダグダモードに突入してしまった。なにをする気も起こらない。しかしまだほんのちょっと猶予はある。こんなときは読書するしかない。ということでコーマック・マッカーシー『ブラッド・メリディアン』を読み始めた。某誌から書評執筆依頼があったため。
『パブリック・エネミーズ』は見た。銃器の扱いはさすがだし、かつてより描写の腕も上がっている。中心の恋愛がいささか子供っぽくて苦笑したが、まあいいんじゃないかこれだけ丁寧に描くのであれば、そういうことも。
飲み会やら打合せやらいろいろ忙しかったが、ひとに会えば会うほど外出嫌いになっていくことに気づかされた。このまま行くとなにかすべて遮断しそうでこわい。魔が差すということがある。こわいのだけれど、どうでもいい、というかたちで興味を失っていくばかりなのも止みそうにない。興味が向かうのは脚本と俳優の演技、それにカット構成ばかりだ。最近しばしばいろんなところでいろんなひとが呟く「物語の復権」という言葉を目にすることがあるが、「復権」とはいかなる意味だろう。まるでかつて物語が「権」を失ったことがあるとでもいうように聞える。物語批判とは、決して「権」を失うことのないその構造、つまり透明さに抗してその存在を暴きだす試みだったにすぎないはずだが。そうしてその「権」に誰もが無意識に染まったかのように同じ物語を語り始めることの自覚の不在を、顔をはたいて気づかせることだったはずだが。それは最近のテレビで、小沢に権力が集中している、と誰もが発言することにも似ている。いつだって権力を持っているのは他ならぬテレビそのものだろうに。そのときテレビは決して民意ではない。いわばただのいじめっ子だ。
だがもうそういうこともどうでもいい。私は脚本と俳優の演技とカット構成さえしっかり考えることができればそれでいい。議論など誰としたってしかたない。ただわが道を行くしかない。

などと言ってる間にすぐさま猶予もなくなり、今年中にどうにかできることなどなにもなくなった。あーあ。まあいいや。年が明けてから頑張ろう。
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2009/12/19

年末地獄めぐり  労働

赤坂→乃木坂(てっぺん越え)→新宿→目黒→羽田→石垣(泊)→与那国→那覇(泊)→小倉(泊)→小倉(泊)→小倉(泊)→帰京……という今年最後のダイハードは平均睡眠時間三時間で強行突破したが、まったく金もないのにひどい散財となった挙句、体はズタズタである。先ほど加圧へ行って首がとんでもないことになっているのに気づいた。まさに首が回らない、とはこのこと。いつまで続く、借金地獄(と飲酒地獄)。

しかし、とにかくねむい。

帰宅後は、リビングに新装備されたこたつ地獄からほぼ出られず、オコターと化していた。
やっぱいいよ、オコタは。命名オーガスティン。

それでも、ある原稿のために『秋日和』をDVDで。あるシーンでハッとして、これもしかしたら、と思ったらやはりそうだった、となんのことやらだが、詳しくは原稿で。そういえば原稿もえらく溜まっている。今日明日で決着をつけなければ。
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2009/12/7

ウェルマン・木下・黒沢  映画

土曜、シアターコクーンにて作/レジナルド・ローズ、演出/蜷川幸雄『十二人の怒れる男』を。子供のころ、テレビでルメットのあれを見て感動に震えて以来のことだが、やはりこの話はもっと小学生や中学生に見せるべきだ。今回は戯曲を正確にやることが目的と思われたのでそうした提案はお門違いだろうが、仕分けされた子供向けの劇団などはこの戯曲こそを巡回して見せてまわるべきだろう。時代が違うとか国籍が違うとかといって敬遠するのは間違っている。この普遍こそを子供は感じ取るのだ。
それにしても中井喜一さん、かっこよすぎだ。身のこなし、特に振り向き方は現代の俳優にはない。完全にお父上を超えたのではないか。

日曜、原稿を書くために木下恵介『お嬢さん乾杯!』とリチャード・C・サラフィアン『バニシング・ポイント』をDVDで。久しぶりに見たこの木下にはウィリアム・ウェルマンの演出を参照している箇所がある。また、木下という演出家はひどくモダンなギャグをちりばめる人で、そんなところも黒沢清に通じる何かを感じるのだが、ウェルマン〜木下〜黒沢という流れを考えるとなにやら奇妙に納得できるものがあり、唸った。デビューしたての佐田啓二がガットギターをつまびいて唄うのだが、それが失敗していてもそ知らぬ顔でOKしている。ここらへんも黒沢っぽい。バイクで二人乗りして東京じゅうを走り回るところなども、そういう場面は撮らないけれど妙に黒沢さんっぽい。
『バニシング・ポイント』は、相変わらず『バニシング・ポイント』だった。笑って流した。
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2009/12/3

眼は脳の一部である……  映画

見ろ見ろと薦められてようやく『脳内ニューヨーク』を。
題名どおり、昔懐かしい「脳の映画」NY版、と呼んで差し支えあるまい。見ている間は気にも留めなかったが、原題のsynecdocheは「提喩・代喩」を意味する。「類で種を、また一部で全体を(またはその逆)表す比喩」なのだそうだ。冒頭の歌や途中で出てくるナプキンの「スケネクタディ」というNY州北部の田舎町(たぶん郷愁=歴史の「代喩」だ)の名前がひっかけてある。たしかにそのものずばりな意思は感じ取れる。ロケしながらわざわざCGで空に天蓋を描きこみ、サマンサ・モートンの役をエミリー・ワトソン(たしかにこの二人、ときどきどっちがどっちやら、と混乱する)が演じ、フィリップ・シーモア・ホフマンをトム・ヌーナンやダイアン・ウィーストが演じる、その部分に亀裂(ひとは「代喩」たりえない)を生じさせつつもそれをオブラートに包むように主題として前面に押し出さないのはチャーリー・カウフマンの公明正大な倫理というか良心にはちがいない。また、体験から追体験へ移行する編集の、既視感を援用した速度などは実に見事な手捌きである。撮影にフレデリック・エルムスを起用する辺り、ニューヨーク派を襲名せんとする意気込みも買おう。だがそうした「問題作」であることは認めつつ、どうしても支持したいと思わせない。好きになれない、というか。どこか1カットでも、おっ、というショットがあればそれで全面的に肯定したかもしれないが、一切そんなショットはないのだ。それを禁欲的と賛美することも不可能ではないが、いまさら禁欲などされたってなあ、という感じだ。というよりむしろそういうショットの撮り方を知らないのではないか、という懸念がある。これはスパイク・ジョーンズの映画を見ても同じことを感じる。それとちょっと長すぎる。これを80分〜90分でやってのけていたらそれだけで、お見事!と認めていただろうが。
どうやら週刊誌では「ひとりよがり」などという言葉で批判されているらしいが、それはとんでもない言いがかりであり、お門違いだ。これほど滅私奉公的な映画も最近珍しい。そもそも「脳の映画」は、作家個人の外部に設けた厳密にアカデミックな理論に基づく設定を構築した上でドライヴするしかつくりようのないもので、そこでは独善はそれこそ「禁欲」せねばならない。だからそこが麗しくもあり、同時に弱点でもある。魅力的な「ひとりよがり」=ショットがない、というのはそういう意味だ。「脳の映画」全般の限界も、だからそこにあったにちがいない。
現代において映画がもし弱くなったとしたら、誰もがそのような魅力的な「ひとりよがり」をなす術を忘れてしまったせいではないだろうか。ほとんどいわゆる自虐史観的に忘れさせられた、とでもいうか。自虐どころかあらゆる「史観」を欠如させた、ぶざまな「ひとりよがり」だけが『26世紀青年』ばりに(見てないけど)そこらじゅうに溢れている。
かといって、では「身体の映画」が勝利したかと言えば全然そんなことはなく、むしろこちらのほうが先にダメになっていった。日本でのカサヴェテス解釈の根本的な錯誤がその見本だろう。

なんにせよ、考えさせられた作品であることはまちがいない。

ちなみに主人公の名前ケイデン・コタードはあきらかにJLGにひっかけてある。ガッデム、ゴダール、といったところか。


北朝鮮でデノミ暴動の予感。うーむ。もしかするともしかする。
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2009/12/1

世にアル中の種はつきまじ  演劇

日曜、PARCO劇場にて『海をゆく者』。作/コリン・マクファーソン。演出/栗山民也。
『ブラック・バード』につづいて1セットものの海外新作の栗山演出だが、こちらは五人もの芸達者が揃い、見事におっさんたちの体臭を感じさせてくれて、その生々しさがよいほうに転んでいた。一番年下の吉田鋼太郎氏が最年長(小日向氏は年齢不詳だが)を演じるという変化球的キャスティングも効を奏していたが、なかで出色だったのがアイヴァンを演じた浅野和之氏である。これしかない、という芝居に徹して微動だにしなかった、というと皆さん、そうなのだが、特にアイヴァンは台詞の細かなニュアンスだけで壊れかねないかなりの難役と思われ、しかしそれが完璧だと思われたので非常に感銘を受けた。これまで氏のことをなにもしらなかった自分の無知を恥じる。学生時代、食わず嫌いで避けていた夢の遊民社など小劇場系と呼ばれたムーブメントのなかにも、瞠目すべき存在があったことを肝に銘じておかねばならない。音響、セット、ライティング、どれも素晴らしかった。私の中の幻影としての(ウイスキー臭にまみれた)アイルランドとぴったりマッチしていた。
作者は71年生まれというのにこんなおっさんらの生態をよくもうまく捉まえたものだ、と感心したが、ダブリンという設定のせいか、『ユリシーズ』の冒頭を換骨奪胎・引き延ばししたもの、という読みもできた。


夜、テレビでボクシングを見た。両陣営ともに番組宣伝などで「家族」やら「一家」やら担ぎ出して盛り上げようとしている。それはとってつけたようなものではあるが、そこに「戦う根拠」を押しつけている様は非常に見苦しい。試合のほうは、元々亀田が勝って当たり前だと思っていたが、あんな消極的な戦法ではただつまらなかっただけだ。それとレフェリーがでかすぎる。フライ級の試合にどうしてあんなでかい外人が必要なのか。考えるべきだ。

月曜、家事、銀行作業、ゲラ直しを終えて、深夜カサヴェテスBOXのメイキングを全部見た。結果、日本におけるカサヴェテス解釈はほとんど間違っている、と感じたがそのことは、先日行ったロウ・イエ監督との対談とも併せて次号の映画芸術でしっかり書かせていただくので、ここには書かずにおく。

河出書房新社様より宮沢章夫氏の『時間のかかる読書』いただく。こういうバカな連載をやりたいものだ、と「一冊の本」の間からあこがれていたが、しかしそうか十一年か。宮沢さん、ホントにおかしなひとだ。
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